00 序の前
女性が夜道を走っていた。
住宅街である。だからこそと言うべきか、夜更けと言うにはまだ早い午後九時を回ったばかりだというのに、人通りはまったくない。
女性は二〇代前後、大学生風――というか、大学生である。
彼女は今追われていた。
いつもは通らない道を今日にかぎって通った。
たいして時間的特のないほんの少しの近道だった。
失敗だった。
もうしない。
絶対にしない――と、彼女はこの夜誓った。
そこは街灯がほとんどない薄暗い細い道だった。本道からは外れ、道の隣は水量のほとんどない小川が流れていて、その先には小さな森があった。
日が高い内は、何てことのない木漏れ日の優しい、むしろ平和な道だ。だが、日が沈むと、不気味な道へとその表情を一八〇度変えていた。
何となく嫌な思いを抱きながら、でも引き返すほどの引っかかりを覚えずに彼女は少し速足となってその道を歩いていた。
正面に人影があるのに気づいたのは、道の半分を過ぎた辺りだった。
細い道だ。普通の人なら、すれ違う以前から脇へと寄る。だが、その影は道の中央に陣取ったまま、まったく避けようとしない。
こちらに気づいていないわけではない。
彼女は、その影から強い視線を感じていた。何だか頭が大きかったが、身長は、一七〇を優に超えている。たぶん、男だろう。
――嫌だな。
そう彼女が思った時、影が小さく動いた。ズボンのポケットから何かを取り出したようだった。
「ラッキー」
笑いながら言ったのか、震えたような口調が、彼女の耳に届く。「ラッキー?」影の喋った内容は彼女にとって意味不明だった。
影がポケットから取り出した物を、自身の顔の前でメトロノームのようにゆらゆらと揺らした。
一瞬何かが反射した。
刃物だろうか?
サバイバルナイフ?
わからない。とにかくそれは刃物のように彼女には見えた。
人影が突然動いた。
彼女に向かってくる。
とっさに逃げることができたのは上出来だった。大げさだが奇蹟だと言えるかもしれない。刃物を見せられただけで身体が動かなくなる者も多いのだから。
彼女は夜道を走った。バッグが邪魔だったが、そのまま走った。
後ろは振り向かない。見たい気持ちはあったが、そんなことをする余裕はなかった。
女と男の足だ。簡単に追いつかれる――はずだった。
だが、その道を抜けても彼女の背中に刃物の衝撃が走ることはなかった。
道から抜け出して安心したわけではない。
だが、結果的に彼女は大きく体勢を崩すことになる。
踏みしめた右足の裏に異物――それは小石だった――を感じた。そのまま彼女は足を踏み外し、身体を前方へと投げ出す。
こける――彼女は反射的に目をつぶった。ぶつかる感覚は思った以上に早く訪れた。なぜだか、固さは感じず、痛みも感じなかった。
彼女は恐る恐る目を開ける。
彼女の身体は地面に水平になっておらず、まだきちんと立っていた。
目の前には壁がある。
視線を上へと上げた。
――男の顔。
反射的に悲鳴を上げた。
今さらだが、この時彼女はようやく他者に対して助けを求めたのである。
「うるさいな。近所迷惑だろ」
目の前の男から冷静なというか、冷たすぎる声が発せられた。
何もしてこない。
たぶん……追いかけてきていた男ではないのだろう。
恐怖に混乱していた彼女だが、目の前の男に対して唐突に猛烈な怒りが湧いた。
理不尽な目にあっている自分に対して、どうしてそんな突き放した言葉を吐けるのか。
相手の顔を睨みつけるようにしてよく見た。
「――坂棟君」
街灯から届くわずかな光でも、その顔は確認できた。特に整っているわけでも、バランスが悪いというわけでもない、普通の特徴のない顔立ち。中にはこの控え目な平凡さを好む女性もいるかもしれない。そういった人なら七五点。普通の採点なら六七点くらいの容貌だ。
「あ、ああ――大学で一緒の……」
坂棟が中途半端な言葉を返したことで、彼女はこの男が自分の名前を知らないことを悟った。一方的にこちらだけが名前を知っていることに、気恥ずかしさと八つ当たり的な怒りを彼女は覚える。
この短時間でなぜだかよく怒っているのは、彼女の精神が恐怖から逃れようとしているためかもしれない。
「で、夜道で何をしていたんだ。二十歳を迎える女の人が、凄い形相で本気走りをしているというのは、ちょっとしたホラーだったけど」
「――え、あの……」
急に恥ずかしさを覚えた。そんな日常的な感情が生まれたのは、知人に会えたことで安心したからだろう。
「違う。そんなことじゃない。後ろから変な人が来ているの!」
坂棟の服を掴んで、彼女は熱弁した。
「ふーん」
坂棟の答えは素っ気ない。彼の視線は彼女の背後、遠くに向けられていた。
「あれだな。悲鳴を上げても、人は助けにこないというのは本当だな。明確に助けてという意思を示さないとダメみたいだ。もしくは、○○さん助けて、と名指ししなくてはいけないのかな?」
住宅街である。この時間多くの人が家にいるだろうに、坂棟の言うとおり確かに誰も出てこない。
「火事とか叫べばいいと聞いたことがあるけど」
何となく言葉を繋いだ。呼吸と鼓動も収まり、彼女は少し落ち着きを取り戻していた。
「ああ、来たぞ。走ってない。あのままでも逃げきれたかもな」
不審者を発見したというのに、坂棟の声には余裕がある。
「そんなこと言っている場合じゃないよ。あいつ、ナイフを持っている」
「ナイフね。たぶん、法律違反にはならないやつだろうな」
「そんなことどでもいいでしょ」
彼女が振り返ると、男が速足で歩いてきていた。
男は頭部を完全におおうヘルメットをかぶっていて、顔の形と表情はまったくわからない。
先程までは、恐怖そのものだった男だが、落ち着いた今は、ヘルメットをして速足で歩く姿が何となく滑稽に見えた。本来ならまだ落ち着いてよい状況ではない。おそらく、坂棟の持つ泰然とした雰囲気が彼女にも影響を与えたのだ。
だが、やはり今は落ち着いて良い状況ではなかった。
男が急に走り出した。腹の辺りにナイフを構えて突っこんでくる。
ちょうど彼女の正面である。彼女は硬直し、まったく動けなかった。二度目の奇蹟は起きない――そう思われた時、彼女の前に彼女をかばうようにして人影が立つ。
坂棟だ。
坂棟が前へ動いた。彼が少しずれたことで、彼女の視界はひらけた。
何らかの意図を持った坂棟の行動――だが、それはあまりに遅かった。少なくとも彼女にはそう見えた。
男のナイフが坂棟の身体に埋まる。
彼女は先程とは比べものにならないほど大きな悲鳴を上げた。
悲鳴を上げながら、彼女の見開いた瞳は、未だその光景を追っていた。
坂棟を刺したと思われたナイフは、実は空を切っていた。
坂棟は男に立ち向かいながら、身体を最小限にずらすことでナイフを躱していたのだ。しかも、そのままの勢いをかってすれ違いざまにヘルメットをつかむと、男を地面へと叩きつけた。
彼女は見落としていたが、坂棟はこの時大外狩りの要領で相手の足も刈っていた。
ヘルメットをかぶった男は背中から地面に叩きつけられると、マンガのように跳ねてわずかに宙へと浮いた。それほどの衝撃を男は受けたのである。
「へ?」
と、間のぬけた声を上げたのは、悲鳴を途切らせた、唯一の目撃者である女子大学生の彼女だ。
坂棟はまったく落ち着いたものだった。刃物に対してまるで恐怖を抱いていないような素振りで、余裕を持って対処している。
技術と言うよりは、その神経の有り様が普通ではない。
彼女自身は、突然生じた暴力にただただ圧倒されるだけだった。
「気絶しているようだ。まあ、警察を呼んだほうが良いだろうな」
ヘルメットを覗いていた坂棟が立ち上がる。
「へ、うん」
彼女は慌てて腕に抱えていたバッグ――逃げている時によく落とさなかったものだ――からスマートフォンを取り出そうとした。
いつもなら簡単に取り出せるのに、焦っているためになかなかうまくいかない。
「じゃあ、俺は行くから。野次馬が来て人も増えそうだし、後は大丈夫だろ」
つい今しがた発した彼女の悲鳴は、さすがに無視できないほど大きかったらしく、各一軒家から人の動く気配が生じている。
「え、ここにいてくれないの?」
「ああ」
「なんで? 警察が嫌いなの?」
「俺は別に嫌いじゃないんだけど、向こうが俺を嫌っているみたいでね。倦怠期には会わない方がお互いのためだろ」
冗談めかして坂棟が言う。
「でも」
「面倒くさいんだ……助けた相手は、あなたの思い描く理想のイケメン像にすればいい。警察にはそう証言して」
「え、それ嘘じゃん」
「失礼な」坂棟が苦笑する。「今はともかく、助けた時はそんなふうに見えたというか、感じたんじゃないか? イメージを元にして拡大解釈すれば、まあ、嘘ではなくなる。事実ではないけど。恩を感じたなら、そうしてくれ」
坂棟は背中を見せて、片手で軽く手を振った。
周囲の家から住民が出てきていた。
「あ、待って」
坂棟が振り向いた。
「私の名前は――」
彼女は名のった。
坂棟はまたもや苦笑したようだ。
「じゃあ、また明日。――さん」
きちんと彼女の名を発音した坂棟が夜の闇に消えていくのを、彼女は見送った。
家から次々と出てきた住民が、気を失って転がっている男を見て騒ぎだし、すぐ側に刃物が発見されたことで、さらに声を上げた。近くのアパートから彼女と同じ大学生も出てきていた。
「おい、お嬢ちゃん、何があった。大丈夫か」
「ホント、大丈夫?」
「警察呼んだ方がいいな」
「あ、あの警察は自分で電話しました」
さまざまな声が彼女にかけられる。
彼女は、周囲に集まった人々に簡単に事情を説明した。支離滅裂な部分があったのは、彼女が動転していたこともあるが、坂棟のことを話してはいけないという思いが強くあったからだ。矛盾が生まれないようにしなければ、という思いがストーリをぎこちなくしてしまった。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
最近評判を落としてはいるが、日本の警察が優秀だというのは本当のようで、数分でパトカーが現れた。
彼女は警察にも事情を説明した。
先程周りにいた人たちに行った説明が予行演習の意味を持ったようで、思った以上にうまく警察に今回の事情を説明することができた。
結局、彼女は警察に坂棟の事を報告しなかった。
明日と坂棟は言っていたが、翌日彼女は坂棟に会うことができなかった。それどころか、それ以降ずっと坂棟に会うことはなかった。
控え目と言うか、目立たないわりに存在感のあった坂棟が見当たらないことは、大学の一部で評判になったが、どうやら留学したらしいという噂がまことしやかにひろまると、彼の話が話題に上ることはなくなった。
数日後、彼女はとある夢を見た。
それは坂棟がとんでもない迫力を持った竜と戦う夢だった。
この後、彼女はこの夢を元にした小説を書くことになる――実は誰にも明かさずこっそりと小説を書く生活を彼女は送っていたのだ。といっても、書いたり書かなかったりと自由気ままな殴り書きスタイルではあったのだが。
彼女の小説の内容は、ファンタジーで、それは彼女と同じ年頃の女性が異世界へと渡り、同じ場所に同じ日本人の年上の美男子が偶然居合わせ、女性が男に守られながら、竜やら精霊やらを仲間にして旅をすると言う内容であった。
という話はさておき、坂棟克臣である。
彼の平凡な人生は――平凡と言うには彼の心身のスペックはなかなかのものであるし、また彼の人生も山あり谷ありと言うやつでとても平凡とは称しえないのだが、それはともかくとして――あの日を境に終えることになる。
これまで経験したこともないような非日常が、翌日の朝、坂棟克臣に襲いかかったからだ。