上りと下り
「どっちに行く?」俺はわけの分からないおっさん二人に呆れながら訊いた。
片方のデカブツの誰が見てもおっさんの方は「おっさん」言われて「誰がおっさんだ」なんてくだらない否定をした。鏡を見たことがないのだろうか。とりあえず「ゴリラ」とでも呼んでおこうか。
もう一人の眼鏡はおっさんと言われるような年齢じゃないだろうに否定しないし。いちいち「おっさんとそうじゃない方」とか言うのも面倒だから省略しただけなのに。こっちはそのまま「サラリーマン」とでも呼んでおこう。
何が嫌でなんでこんなやつらと洞窟探検なんか。
「どっちって?」ゴリラは馬鹿丸出しなことを口にした。
呆れた。「馬鹿にも限度があるだろ」
「あぁ? 誰に言ってんだ」
「お前以外誰かいるのか。霊でも見えているのか。それは凄いな、おめでとう」
「なめてるのか」
「なめてるに決まってるだろ」
ゴリラはまずい餌を吐くように舌打ちした。
はあ、と俺は溜息をこぼす。「道が二つあるだろ。どっちに行くかと訊いてるんだ」
「道?」
道は俺から見て正面と左の二本。双方とも階段となっている。正面は下り、左は上り。
今俺らがいるところも階段になっている。上から見ると正方形で、その対角線に段差がある、という説明で分かるだろうか。その正方形の大きさは一メートル四方くらいで狭くてたまらない。本当に早く行きたい。
ただ、俺のいる三角形がもう一つの三角形より上段にあることでは大人を見下してる風で気分が悪くはないかもしれない。
この洞窟は階段スタートでしかもいきなり分岐点だ。疲れる上りと歳寄りがひざを痛める下りのどちらを行くかの心理戦か、それともただの迷路か?
その階段は段差が低く、奥行きも足二つ分くらいと特別広くはない。
それに嫌なのがこの道は幅一メートルくらいでその幅を超えると待っているのは「死」ということ。崖になっている。崖は崖でも斜面はく、完全な直角だ。その崖の向こう一メートル半くらいには一面岩壁が広がっている。ちなみに地面は固い。かなり固まった土で出来ているのか。
まあ、心配することはない。一応へそくらいの高さの柵があるようだ。この服を着たゴリラが暴れない限りは大丈夫だろう。
その柵を越えると当然御陀仏だろう。
しかも一メートル半ほど先にある岩壁のせいでこの洞窟の閉塞感が増す。閉所恐怖症の人がここに来たら「殺される前に死んでやる」の原理できっと崖に飛びこむことだろう。出口なんかないようにすら思えてくる。
なんといってもここの暗さだ。このクソ明るい懐中電灯なしでは何ひとつ見えない。ここには光が全くないということだ。
そして奇妙なのが上。この明るい懐中電灯で照らしても光がぶつからない。黒のままだ。左右の幅はないのに縦にはやたらとあるということか。
ただの洞窟ではないことは確かだ。この形もそうだが、動物、虫、それどころが微生物の気配すらしない。あるのは土煙くらいだ。
「なるほど、階段か」理解力のないゴリラはやっと階段が目の前に二つあることを理解してくれた。
「どっちに行きたい?」
「男なら上りだろ」
「このおっさんはひざを痛める年齢だから上に行きたいらしい。あんたは?」
「僕?」気の弱そうなサラリーマンはやっぱり気が弱いようだ。分かりやすく目が泳いだ。
すると、「おいおい、そんなこと言ってねえだろ。そもそも俺の肉体はまだまだ若い」とゴリラが乱入してきた。
「黙れゴリラ。動物園に戻って胸でも叩いてろ」
「誰がゴリラだてめえ」
「誉め言葉じゃないか。あいつかなり握力強いぞ」
「覚えてろ。その自慢の握力いつか握りつぶしてやる」
「そんなことよりどっちがいい? サラリーマン」俺はゴリラを放置して質問を続けた。
そんなことよりってなんだよ、とゴリラがほざく。無視だ。
「どっちがいい?」
ゴリラが舌打ちしたのが聞こえた。
まあ、無視だ。
「男なら上だよなぁ」
ゴリラが下らない理屈を付けて入ってきた。檻があったらぶち込んでるところだ。呆れる。冬眠にでも入ればいいのに。「お前は黙れ」
「オレはお前より年上だぞ。そんな口のきき方していいのか?」
「敬語ってのは「敬う語」と書いて敬語なんだ。つまり尊敬している相手に使う言葉だ。どうして俺が力の強いだけの服を着たゴリラを尊敬しなければならない?」
「さっきからゴリラゴリラって、俺はゴリラじゃねえんだよ。人間だよ人間」
「四捨五入したらゴリラだろ」
「人間だよ。四捨五入でも一捨九入でも人間だよ」
「つまらない冗談だ。そんなことよりサラリーマン、どっちがいい」
「冗談ってなんだよ」
「黙ってくれ。俺はこのサラリーマンと会話しているんだ」
「……」ゴリラは不服そうにまた舌打ちした。舌打ちしか能がないのだろうか。
しばらく沈黙が流れた。コインを投げれば一瞬で済むような話をどうして悩むことがあるのか分からないが一通り考えたのだろう。「下り……」と聞こえづらい声で答えた。
「下りだな。よし、行こう」
「おい、俺の意見は」ゴリラがまた喋りはじめた。
「ひざを痛める年齢じゃないと言ったのはお前だろゴリラ」
「だからゴリラって呼ぶな」
「じゃあ、名前教えろ」
「あ? なんでてめえなんかに。お前から名乗れ」
「サラリーマン、名前を教えてくれ。あんた、流石にあのゴリラより頭いいだろうから名前は分かっている方が便利だってことくらい分かるだろ」
「無視かよ」
サラリーマンは「う、うん」と蚊のような声で頷いた。「えっと……キタヤマジシュウ」
「どんな字?」ゴリラは老いてきたのか柵に右半身をもたれさせて必要のないことを間抜け面で訊ねた。
「方角の北に山に寺に……修復の修の右下の三本線を月に変えた字」
「修復のシュウってどんな字だ?」ゴリラだ。
「そんな簡単な字も分からないからお前は自他共に認めるゴリラなんだよ」
「自分で認めた覚えはないけどな」
「そんなことより、であんたは?」
「お前みたいなクソガキに名乗る必要なんかないね」ゴリラはしてやったりな顔で汚い口を開いた。
「じゃあお前は今日からゴリ田ゴリ男だ。文句はないな?」
「……マキガイヒウンだ」
「巻貝? 名前まで馬鹿じゃないか。笑わせるなよ」と言うが俺は一切笑っていない。
「うっせーよ」
ガツッ。
俺は脳天に拳骨された。
一瞬ふらついたが大したダメージはない。手を抜いたんだろうな。
こういうすぐ殴って来るタイプは厄介だ。死ねばいいのに。
「マキガイは巻貝だがヒウンは飛ぶに雲だ。覚えとけ」
「訊いてもないのに答えるところがいかにも馬鹿だな、ゴリ田ゴリ男」
「巻貝飛雲だ」
「坊さんみたいな名前だな。まるで破戒僧だ」
「黙れ。キレるぞ」その言い方はキレていたが面倒なので指摘しなかった。早く進みたい。
「じゃあキレる前に行け。巻貝さんが行かないと行けないんだが」
流石に敬語を使う気にはなれなかったが、こういう単細胞は「さん」さえ付けていたら大丈夫だろう。
「はいはい、行ったらいいんだろ行ったら」
ほら。
「そうだ。行けばいいんだよ行けば」
下り階段に一番近いのは巻貝で、道が狭くて一列に並ぶしかないので巻貝が先頭、次に俺で後ろに北山寺という順番で歩き始めた。
巻貝は二段ほど下りたところで足を止めた。
「なんだ。もう疲れたのか」
「違う」巻貝は嫌そうに振り返った。「お前の名前聞いてなかったと思って」
「お前は歩きながら喋ることも出来ないのか、ゴリ田ゴリ男」
「巻貝だ。殺すぞお前」
「殺したら出られなくなるらしいけど、いいのか?」
――二人は巻き添えだが、ここで巻き添えがあってはならない。三人の内一人でも逸れたり死に値することになれば残り二人も元の世界には戻れない。犠牲なんて論外だ。全員で出ることに意味がある。
あの仮面の男は確かにそう言っていた。
流石の巻貝でもすぐさっきのことくらいは覚えているらしい。ストレスを発散するように一度舌打ちをして前を向き、歩きだした。「名前は?」
「俺の名は蜩秋刀斗。馬鹿のあんたには漢字は分からないだろう。絶対にかすりすらしないだろうな。絶対に」
ヒグラシサント? 彼は首をかしげた。足を進めながら。「どんな字だ」
「どうでもいいだろそんなの」
「まあいいじゃねぇか、教えろや」
「……」うっとうしいなこの馬鹿は。「蝉の種類の蜩に季節の秋に刀に北斗七星の斗」
「ヒグラシ……そう言えばそんなセミいたなぁ。で、秋に刀に斗でなんでサントなんだ?」
舌打ちが隠せなかった。これだから馬鹿は嫌いなんだ。今すぐ巻貝をここから落としたい。
「サンマの要素?」北山寺は少し恥ずかしむように訊いた。
「そうだ」
「サンマ?」
「サンマは漢字で秋、刀、魚って書くんだよ。覚えとけ、ゴリ田ゴリ男」
「巻貝だ。いい加減覚えろ」
「覚えてるよ。俺は馬鹿にしてるだけだ」
「……お前、友達いないだろ」
「いるよ。たくさん」
「いや、嘘だな」
「俺は演技がうまいんだ」
「……最低の野郎だ」
「あ、曲がりだ」列の最後尾の北山寺は懐中電灯を前に向けて「思わず」といった感じで呟いた。
わざわざ言わなくても分かってる、と俺は思った。最初の地点からすでにこの壁は見えていた。
あ、ホントだ、と先頭の巻貝は今更ながら気付いた。
あと何段かの所には行き止まりがあり、そこから左に降りることができるようだ。
「もう?」先頭の巻貝は驚いた顔をした。「早くね?」
「別に。十段ぐらいは歩いたぞ。学校の階段よりは長いと思うが、どっかの城でも想像したか?」
「そうじゃねぇけど、なんかがっかりだな」
「勝手に落ち込まないでくれ」
その角を曲がり、あのクソ明るい懐中電灯を足元ではなく前に、少し下に照らしてみると、岩壁が見えた。その左にはやはり降り階段。「とことん降りて行くんだな」
そこを曲がろうとしたら、また岩壁が前方に現れた。
「近っ」最初に気付いたのは巻貝だった。
今までの二つ直線は、十二段くらいの階段だったが、ここは明らかに五段も無い。数えてみればたったの三段だ。「なんだこれ」
その角を曲がればまたすぐに角が見えた。次は六段だ。
とりあえずそこまで行って足を止めることにした。ただ単にここを下りるだけでは駄目な気がしたからだ。
俺らは全て左に曲がってきた。つまり段数が同じだったら今俺たちは最初の場所の真下に来ていることになるが、段数が違うのでいくらかずれているのだろう。でも、妙だ。
上に懐中電灯を向けても、何も見えない。最初と同じ景色だ。
これはどう考えてもおかしかった。
「あ~めんどくせ~な。いつまで下りりゃいいんだよ」無能な巻貝はまた柵にもたれて貧乏ゆすりをし始め、思い立ったように柵から離れて振り返った。「あ~イライラしてきた! 北山寺」
「な、何?」
「殴らせろ」
「え?」
巻貝は柵にもたれるのをやめ、俺の横に立って北山寺の前に立って拳で骨を鳴らした。
「オレは今イライラしてるんだよ。殴らせてくれ」
「え? 嫌だよ……」北山寺は本気で拒絶の顔を見せた。「痛いし」
それ以前の問題だろう。
「ハハハー!」巻貝は気が狂ったように笑いだした。いや、完全に気が狂っている。「ごめんごめん、イライラしてきたら昔の血がよ~」
「昔の……血?」北山寺は首を傾げた。
俺も巻貝の横顔を覗き込んだ。生まれてこの方一度も顔を洗ったことがないと言われれば迷いなく「だと思った」と答えてしまうような汚い顔だ。
「オレ、元ヤクザの組長だから」
ひ~! と言わんばかりに北山寺は後ろへ仰け反り、尻もちをついた。
驚きすぎだ。
それを見て巻貝は顎が外れたように大笑いしだした。何なんだこの低レベルな馬鹿共は。
「たくさん人殴ったなぁ。あの頃が懐かしいぜ……」こっちの馬鹿は夕日を見て懐かしむように目を擦りだした。
「あっそ、感慨に浸って泣いとけ、じゃあ」俺は溜息をついた。
すると馬鹿は「なんだとゴルアァ!」とわけも分からずキレだした。
まるで動物園から脱走して興奮しているゴリラだ。
横目に北山寺が見えた。びくびく震えながら耳を押さえている。
「巻貝さん、あんたキレるタイミングおかしいよ。それに北山寺さん。オーバーリアクションだ。元ヤクザの組長が何だか知らないがこんな過去の栄光に浸って廃れている奴を怖がる必要ないだろ。あくまで“元”だ。実力がなくて組長の座から降ろされたやつなんか」
「あんだとゴルアアァ!」巻貝は今までで最も大きな声で叫んだ。
思わず内臓が全て破裂するように体が一瞬ビクついた。
そのまま俺はTシャツの襟を掴まれた。「……あ?」
「もう一度言ってみろ! 次は半殺しだぞ! 分かったか!」
「殺す」が「半殺しする」に変わった。馬鹿な巻貝でも学習くらいはできるらしい。
暗くてよく見えないが、巻貝の目はこの世のものと思えないほど充血し、大きく開いていた。その表情は血走っている。正に鬼の形相だ。
パンドラの箱を開けたのかもしれないな。まあ、知ったこっちゃない。
コイツの空気の読めない狂った言動のせいだし。自業自得だ。
巻貝はそのまま黙って手を離した。「行くぞ。動かねぇとなんにもなれねぇしよ」
「言われなくても」俺は歩く巻貝の背に付いた。
誰か忘れてるようなと思い後ろを見てみるとこの懐中電灯で照らしても影の薄い北山寺がだらしない顔をしていた。「行くぞ」
「う、うん」
「何してんだお前」次の角で何事もなかったかのように先頭の巻貝が突然振り向いて訝しんだ。
「上を見てるんだ」俺はライトを上に向けて歩きながら答えた。「見て分からないか?」
「そうじゃなくて、なんのために?」気の抜けた馬鹿みたいな言い方だった。
あまりの気配のなさに心配になって後ろを振り向くと同じように北山寺が気の抜けた顔をしていた。コイツもやっぱり馬鹿なのか、それとも恐怖で頭が思考を忘れているのか。
再び巻貝を見て答えた。「まあ、黙ってろ。ついでに考えろ」
そして北山寺の方を向き、単純に目で合図をした。
これはひとつのあまりよくない可能性を確かめるための行動だ。決定的な証拠になるかは分からないがただ歩くだけでは気付かないかもしれない可能性。
そのうち結果が出る。まあ、もうほとんど出ているも当然だが。「行くぞ」
そのまま三回左に曲がった。段数は同じように最後の二つの直線が何故か短かった。
俺が照らし出そうとしていたものはそこにはなかった。
「何にもないね」北山寺は柵にもたれてなえた。
「いつまで下りりゃいいんだよ。何なんだよここは」巻貝はいらつきで随分喘いでいた。「あの仮面変態無表情マント野郎が!」
巻貝は叫び、靴で思いっきり地面を擦り、砂煙を巻き上げた。
地面には靴跡が付いていた。ムンクの「叫び」のような面長な変質者のようにも見えた。
俺の考えを打ち明けようか、とも思ったがまだ決定的な証拠がない。そんな不確かなことをまだ言いたくはない。でも後々打ち明けて無駄働きさせるなとキレられても面倒だしな。
「そう言えばなんで上向けてたんだ?」巻貝からそんなこと言われた瞬間決断した。「懐中電灯」
言わないでおこう。「自分で考えろ」
「考えたけど分からなかったからさあ」
「もっと考えろ。北山寺さんと協力してでも考えろ」
その時北山寺が、え、と嫌そうに呟いた。
協力して力を合わせなければ出れないらしいから頑張れ。俺は他人事のように思った。
そこから再び短い階段を下り始めた。三回曲がったところ(つまり短いところを二回曲がった後)で俺は足を止めた。
後ろの北山寺は俺の背中に胸をぶつけ、巻貝は一段降りたところで俺が止まっていることに気付いた。
「なんで三回曲がった後に止まる流れになってんだよ」
「流れとかそんなのじゃなくて理由があるからだ」
理由と言ってもただの仮定の証明。
そしてそれはあった。
それともうひとつ、ある物があった。
決定だな。こいつらに言おうか。いや、やめとこう。
こいつらにも考えさせとかなきゃいけないな。
お手並み拝見、といこうか。
「並び替えだ。北山寺さん、俺の前に行け」俺は二人の肩にぶつかりながら無理やり後ろに付いた。
「え、なんで?」
「二人で考えろ」
巻貝は何故か舌打ちした。そして何かを提案したかのように手を叩いた。「そうだ。北山寺が先頭行け」
「え?」北山寺の声と表情には「本気で嫌」というのと「藪から棒に何?」というのが込められているようだった。
巻貝の倫理と道理がおかしいので北山寺が言いたそうにしていることを言ってやった。「お前、怖いのか、先頭が」
「違げーよ」
「一番年上のうせに。都合いい時だけその地位使うんだな」
「違うっつってんだろ」
「はいはい戯言はいいから早く行け」
巻貝は面倒そうに溜息を吐いて先頭を歩きだした。