ルールと巻き添え
一瞬だけ静寂に包まれた。
扉が勢いよく閉まる音が鳴るとそうなっていた。音はほとんど響かず、一滴の水がスポンジに吸収されるように消えた。
ガキが歩きだした。コイツ誰だよ。どこに向かってんだよ。とか思いつつもオレも重たい足で歩きだした。
さっきの若さが戻ったみたいな力は自分でも全く感じられねぇな……火事場の馬鹿力ってやつか。
まあいっか。そんなことよりアイツはどこだ。殴らせろよ。出てこいや。
思いは届かなかった、と思ったとき、突然何かが視界に現れた。突然だ、マジで、前触れもなく。
ソイツはオレら三人の三角形の丁度真ん中にいてコッチを向いている。季節外れのデカくて黒いマントで全身を覆っている。ていうかどっかの宗教団体の集会でもない限りこの格好は浮くだろうな。
更に顔の右半分にどっかで見たことあるような白一色の気色悪ぃ半面の仮面をつけている。顔の右側はそれで隠されていて分からないが、左は隠されていないから顔は楽勝に予想できるな。アホだなコイツ。仮面の意味ねーよ。こんなの世界のどこにいても浮くよ。笑っちまうな。
でも実際に笑ってはいない。オレだって空気くらいは読める。
ただ、暑そうだなー、とは思う。
あと、左半分の顔がオレに見せているものは悔しいものだった。
なかなかのイケメンじゃねぇか、おっさん。
ソイツは四十代くらいか。顔は三十代だがなんとなくオレの役に立たないカンがそんな気にさせる。色は黒く、顔の下の方には黒いヒゲが生やされている。
ダンディじゃねぇか。
背は百八十弱ってとこか。
心底うらやましいぜ。そのファッションセンスを除いては。
「おはよう諸君。気分はどうだ」
その無表情な声を聞いた瞬間、さっきまでの気球のような軽くて暖かい感情が消えて水に入れられたドライアイスのような冷たい殺意のようなものに変化し、逆に昔のオレの血が熱く騒ぎ出した。
「よし、殴らせろ」オレは拳を鳴らしながらその変態にガニ股で近寄った。
すると、ガキの方じゃない方、眼鏡サラリーが「ヒィ」という弱々しい声をノドの奥から小さく出した。臆病か。嫌いなタイプだ。絶滅すればいいのに。
もうひとりはその光景を見下した目で見た。コッチは割と嫌いじゃねぇな、と思ったとき、ソイツと目が合った。
その目は明らかに年上のやんちゃなお兄さんを見る目じゃない。冷たい、見下した目。心臓を掴まれたような、何かを感じた。
なんだ……コイツ……。
暑さの汗の中に冷たいものが混じった。
その冷たい何かがオレの敵はソイツじゃないと知らせた。そうだ、オレの敵はこのふざけた悪趣味仮面野郎だ。
左手を右手で包み、自分の正義に満ちた懐かしい音を鳴らした、瞬間、……オレの体が止まった。そのままの楽じゃない姿勢で、固まった。何も動かない、と思いきや、口だけは動いた。「なんだよこれは!」
「お前は少々うるさすぎるからしばらく黙ってもらおう」
「黙る? じゃあなんで口だけ動くんだよ。逆じゃねえか」
「じゃあ口も開かないようにしてやろうか?」
「……」なんでもありじゃねえか。
オレが黙るのを見て仮面野郎はガキの方を向いた。
二人はオレのことをしばらく無視したまま無表情で見つめあった。
なんだコイツら。デキてんのか?
先に口を開けたのはガキの方だった。「こいつらは誰だ。聞いてないぞ」
「オレだって聞いちゃいねぇよ」
「そらそうだ。言ってないからな」仮面野郎はあくびでもするような響きで言った。
言えよ。
ムカつく野郎だ。
「貴様に指図される気はない」仮面野郎はこっちを再び見た。
そう言えばコイツは心が読めるんだったな。
ガキともうひとりは少し驚いたような顔を見せた。コイツの味方ではないことはよく分かった。
どうだ。驚いたか、お二人さん。コイツは心が読めるんだ、と間違った形で心の中でさっきのお返しをしてやった。
「このおっさんが余計なことを思ったってことか」ガキは面倒そうにため息を吐いた。
なんだ。知ってんのか。ちょっと恥ずかしいじゃねぇか。……ってことはこの仮面にも……。
「醜態だな」仮面野郎は小さく嘲け笑った。
顔から火が出そうになった。
視界に影が薄いやつがかすかに入った。え? え? と、きょどっている。コイツは知らなかったようだな。
意味が分からない。コイツが心を読めることを知っているやつと知っていないやつがいる。
いや、待てよ……。
オレとこいつら二人はほぼ同時にあの扉を開けたようにオレには見えた。なのにこの仮面の声を全員が知っているように見える。つまり、全員がオレと同じような経緯でここに扉を開けたならオレと同じようにコイツと外で話をしたはずだ。多分オレみたいに反抗もしたんだろう。そして説得されすぐにここに入った。
おかしいじゃねえか。本当にそうだったら、この仮面野郎は三人いることになる。あれはどう考えてもテープで録音されたものとは思えねぇ。
どうなってやがる。
そう思ったとき突然体が動くようになった。硬直が解けたみたいだ。
「余計なことはするなよ」
何故かオレは自然と後退していた。自分よりも大きい野生動物の威嚇を食らったように。「……」
「試練ってなんだ」ガキは仮面野郎の顔から目を離さなかった。
よく笑わずにいれるな。オレには無理だわ。
耳を澄ますと、試練? ともうひとりは首をかしげてきょろきょろした。
コイツなんにも知らねぇんだな。
「あんた、何も知らないのか」ガキは逆に驚いた顔をした。
え? とサラリーマンらしき男は目を泳がせた。
嫌いなタイプだ。
「そらそうだ。こいつには何も言ってないんだから。話が早くて助かった。貴様ら、……馬鹿二人と違って」
ん?
なんか変な気がした。
なんか、ためらいというか、なんというか……。
「お前、抵抗しなかったのか」ガキの方はサラリーマンの方を冷たい哀れみの目で見た。
オレも同じように目を向けた。
「……え? ……うん」コイツは複雑そうな目配せをした。
「あんちゃん。素直なのはいいことだが」
「お前は黙ってろ。おっさん」
「あぁ?」オレはこのクソガキに久々に喧嘩腰を向けた。「ふざけてんのか?」
「はいはい。それよりそこのマント。この馬鹿どもはなんだ。何をしろってんだ。殺し合いか?」
「無視すんなよ!」オレは生意気なクソガキに声を外して叫んだ。
「試練のルールを説明する」
無視かよ……。
「そこの何も知らないお前のために言っておく」いちいちオレのカンに障るマント仮面野郎は何も知らない臆病眼鏡男を見下すように、指を差した。「お前らには三人で試練を受けてもらう。これはあの扉に入った限り強制だ。この勝負に勝たない限りお前らは元の世界に戻ることはできない」
「元の……世界……?」彼は不思議そうに首をかしげた。
「そうだ。お前らの住む世界のことだ」
「ちょっと待て」話の最中にガキが首を突っ込んだ。「ここはどこだ。その俺らが住む世界じゃないのか」
オレははっとした。確かにそうだ。コイツの説明ではそういうことになっちまうじゃねぇか。
「そうだ。ここは貴様らの住む世界、空間とは全く違う空間だ。したがって自力で戻ることはできない」
「じゃあどこだここは」
「そうだな」わけの分からないことを言いぬかしている仮面男は少し間をおいた。「ここは私の創造した空想世界、と言ったところか」
空想世界……? なんだ、その現実的じゃねぇ言葉は。空想が具現化すんのかよ。するわけがない。
「現実的じゃない、か」またオレの心を読んだのだろう、マント野郎は呟いた。
オレは心臓に血まみれの包丁を突き付けられたような気分の悪さに襲われた。
残りの二人は不思議そうにマント野郎を見た。
そんなオレたちを見てマントの男は力強く発した。「だが、現実だ」
「ところで、その試練ってやつの説明は」ガキは投げやりにも聞こえるような口調で言った。
「そうだな。試練のルールを説明する」
一瞬の沈黙が四人を包んだ。
「ルールは簡単だ。貴様らは今から洞窟に入る。そこから脱出する。そして元の世界に戻る。以上」
また防音ルームのような沈黙がオレらを包んだ。
「いやいや、ちょっと待て」
「なんだ? 今の簡単な説明も分からないくらい貴様は馬鹿なのか。箸の持ち方から教えてやった方がいいか?」
「そうじゃねぇよ」とっさに否定してから自分がバカだということを否定するのを忘れたことに気付いた。……あ……あぁもういいや。オレはバカですよ、はいはい。
オレは間なんかなかったかのように主張を続けた。「そんだけ? 意味分かんないんですけど」
「もう一度言わないと駄目か?」
「そうじゃない。オレはそこまでバカじゃない。試練の内容がいまいち伝わらないんだよ」
「伝わる必要なんてない。重要なのは自分で考える事だ」
「は? ちょっと落ち着けってお前!」言ってから一番落ち着いてないのが自分だと気付く。
「その言葉そっくりそのまま返してやる」
やっぱり言われた。
「いいか。おっさん」今度は何故かガキが面白そうに話し始めた。「洞窟から脱出することが試練なんだ」
「……そんくらいは分かってるよ」
「それ以上もなければそれ以下のないってことだよ、おっさん」
……。
「それと」ガキは少し傷付いているオレを蚊帳の外にしたようにコロッと仮面野郎の方を向いた。「洞窟と言ったな」
「そうだ」
「そんなのどこにある? どう見てもここには何もないが」
言われてみれば確かにそうだった。ここには三つの扉と四人の人間、周囲の森しかねぇ。まさかあの森の中に入るなんて面倒な事……。
「安心しろ。あの森に貴様らが入る必要はない」
心が読まれることの便利さが今初めて分かった。そう使えばいいんだな。
「ここは私の空想世界だ。私が連れていく」
そう使えばいいんだな、の返事はなかった。都合のいいやつだな、コイツ。
そういえばオレが思ったことをアイツが答えるってパターン、オレの時しかねぇな。てことは、この生意気なガキはオレみたいに無駄なこと考えないで全部口に出してんのだろうな。バカなのか? いや、逆だ。どうせ同じだと分かっているから全部口に出してるんだ。
あの臆病台風が吹いている眼鏡サラリーは震えて何も考えることすらできねぇってところだろうな。
「私が連れていく、か。なんでもありだなオイ」これはオレだ。
その通り、と言ってコイツはこっちを向いた。
そしてこの男は初めてマントから腕を出した。鎖かたびらみたいなのが付けてある。暑そうだ。
そんな変な心配よりオレはやつの腕の太さを見た。三、四十代のやせ衰えた腕じゃない。しっかり筋肉もあってたくましい腕だ。オレと同じくらい、いや、オレより少し細いな。細マッチョってやつか。
体は相変わらず隠されていて分からないが、この腕だ。どうせいい体してんだろうな。うらやましいぜ……。
そしてコイツはそのさらけ出したようなしてないような右腕を頭上に挙げた。
パチン。
右手に何か重さを感じた。
冷たい汗をかいている自分に気づく。
恐る恐る見ると、そこには懐中電灯があった。
なんで? 「なんでもあり、だな。一周回って笑えてくる」
残りの二人を見ても、それぞれの手には懐中電灯があった。「え?」ときょどるやつもいる。やっぱりコイツは一番嫌いな人種だ。
「さあ、そろそろ試練に入ろうか」
心臓の鼓動がはっきりと耳に届いた。
懐中電灯があるってことはその洞窟ってのは暗いんだろうな。
オレは反射的に、また、少し挑戦的に笑った。
オレの血がうずき踊っているのが分かる。
「その前に話しておかないとならないことがあるな」
まだあんのか、と思わずつぶやく。
「何故私はこんなことをしていると思う?」
「知らねぇよ!」オレは反射的に吐き捨てた。
他の二人は対照的だった。
ガキは「さあ?」と言わんばかりに首をかしげもうひとりは何かを言った。声小っせーんだよ。やっぱり気に入らない。ガキもそれなりに気に入らねぇがコイツは格段に気に入らないな。ひとりじゃ何もできねぇクズだ。
「私は嘘をつかない。信じろ」
やなこった。
「私は貴様ら全員に興味があるわけじゃない。全員を試しているわけじゃない。私は貴様らの中の誰かひとりを試すためにこんなことをしている。残り二人はその一人のためにこの私の世界に来ている。つまり、巻き添えだ」
長くて短い沈黙が起こった。
……どういうことだ。
コイツは何を言っている。
「貴様ら三人の中で二人は単なる時間の無駄で、二人が一人の為に命を賭けた茶番に付き合わされている、ということだ」
「その巻き添えにしているのは誰だ」ガキは表情を変えずこわばった声を出した。
「さあ? 誰だろうな」コイツは誰もいないところを向いて楽しむように言った。「巻き添えをしているのは。ただ何の心当たりもないとは言えてもそんなことはない。意識の問題だ。自分から見た自分と他人から見た自分が違うのと同じだ」
オレの脳裏に走馬灯のように昔の記憶が素早くしっかりよみがえった。
親不幸だった暗い不良時代。楽しかったが一種の暗黒時代のような時代。ガキだった時代。
たくさんの人を殴った。たくさんの人を傷つけた。たくさんの人に迷惑をかけた。少しの人を満足させた。
無力だと分からず強いふりして現実の恐怖から逃げていた。そのせいで……。
自分が無力だって分かってオレは現実と戦うことにした。あの苦い罪は今償っている。
これはその償いの一種……違う! オレは誰にも迷惑なんかかけちゃいねぇ!
オレにはそう信じるしかない。もう誰にも迷惑なんかかけたくねぇ。
「オレはこいつらに迷惑かけることなんかしちゃいねぇ!」気が付けばこんなことが閉じているはずの口から出ていた。
響かない声と視界に入る三人の目線が独特な静けさを呼び起こしていた。
その三人の中央にいる仮面野郎だけが口を開いた。「誰が貴様だと言った」
酔っているときにタライの水を浴びたように我に返った。何を感情的になっているんだ。オレのはずはないんだから。
「オイおっさん」ガキが冷酷で冷たい、酔いも覚めるような侮辱といぶかりの眼で俺をにらんだ。「そんな感情的になるってことは心当たりがあるのか? 喋り方からしてどうせ腐った人生送ってきたんだろ?」
たらいの水をかぶせられた人が逆ギレするようにそのセリフがオレの逆鱗に触れた。
「アンだとゴルアアァ!」
「黙れ」
オレの中で何かが重くなった。
クソガキの言葉はツララのように冷たく鋭かった。そして早かった。そしてその目。全く温度がない。
こんな落ち付いたガキ、初めて見た。
そしてあんなあからさまにびびっている大人も初めて見た。あんな漫画みたいにビクッとする事あるんだな。
まあ、こんな気色悪い仮面付けて真剣な顔で入れるおっさんも始めて見たけどな。
――どうせ腐った人生送ってきたんだろ?
図星に近いガキの言葉がオレの中で反復する。
確かにオレは不良だった。他人から見れば腐った人生かもしれねぇ。でもオレからしたらそれも大事な経験で、今の親孝行しようとする自分に繋がっている。その経験がなかったらその大切な感謝の心もなかったかもしれねぇ。
どうしようもなくバカだったオレにも親はいる。悪いことをしたら叱ってくれて、いいことをしたら誉めてくれるかけがえのない親だ。
オレの知らないところで俺を優しく包んでくれたお袋に、オレを容赦なく殴ってくれる親父。
二人はオレが家を出るときに言っってくれた。「苦しくなったら、いつでも帰って来るんだよ」
オレはハッとした。いくらどうしようもなくバカで親不幸で単調なオレにでも帰る場所があるんだと。
オレは心に誓った。「あんたたちに心配はかけさせねぇ」
ただな、こんな仮面変態無表情野郎になんか言われる筋合いはねぇし、コイツらに迷惑かけた気もねぇ。大体コイツら誰なんだよ。
俺の過去になんて触れず、仮面変態無表情マント野郎は更に話を続けた。