蜩秋刀斗と観察
「何だ?」
ここはどこだ。何が起こった。
俺はいつも通り一人で大学へ登校していた。
今日はオーストラリアの夏至みたいな暑さだった。いくら俺が暑がりではないとは言っても、さすがに今日は少し汗をかいた。駅から学校まではほんの十分くらいしかないのに。それ位の暑さだ。涼しい顔したやつの気がしれない。といっても他人が「暑いな」程度に思っていても、こっちからはその人が涼しく見えるものだ。皆同じことを思っているのかもしれない。
とりあえず俺はいつも通りに学校へ着き、門をくぐった。そこは二十歳を超えたやつがいるとは思えないほどうるさい。正直億劫だ。
俺は人一倍汚らしい群衆が嫌いで、そのガヤガヤしている音が何より嫌いだ。うっとうしくて我慢ならない。黒板を爪でひっかく音の方がまだましだと思う。
殺意までは流石にないが喋れない程度に半殺しにはしたくなる。したことは当然ない。そんなに俺の体は強く出来てはいない。かといって弱くはない。平均よりは確実に上だ。
それは何も凄いことではない。周りがカスばかりなだけだ。
そんなある種悲しい性格の俺だが、友達は少なくないし、ある程度学生生活を楽しんでいるつもりだ。人混みは大嫌いだが、人と喋るのは嫌いじゃない。それに、そういう本音を学校では一切口にした事がない。俺はちゃんと演技をしている。社会という場所では顔の広さが物を言う事くらい知っているからだ。
別に演技して嫌々周囲の人間と付き合っているという事がばれているわけではないが、俺はよく珍しいタイプだと言われる。授業が好きだからだろう。今まで授業中に眠ったことはない。
だが、決して勉強が好きなわけじゃない。むしろ嫌いなくらいだ。
俺は執拗な程うるさいのが嫌いなだけ。
体温が上昇しているのを感じながら一時間目の講義室に入ったその時だった。突然視界が変わり、目の前に扉が現れたのは。
「何だ?」
ここはどこだ。何が起こった。
周りは木製の扉の他には何もない。遠くに森が続いている。俺が立っている砂地はコンパスで書いたような綺麗な円形に広がっている。森と砂の境界は陽炎で揺れてはっきりしないが、少々急になっているように見える。日本刀で切ったように綺麗に分かれていて、どこか人工的だ。
森はどこまでも続いているような気もする。上空からここを見たら十円禿のようになっているのかもしれない。
そして空。どこか狭さを感じる。
木製の扉に近づいてみた。近づいて見上げると、結構大きい。二メートル半はある。横に回って扉の側面を見てみると十センチ程度もあった。
「古風だな」呟いてみた。音は不自然なほど響かない。
それにしても静かだ。足を止めて黙ってみると何も聞こえない。風もない。虫の声もない。ただ熱がある。
静かなのはいいが、ここはどこか気分が悪かった。
扉の裏は表と全く同じ柄をしている。蝶番の向きからして俺が立っていた方から押すようにして開けるようだ。そして、よく見るとこいつは木のくせに年輪が少なく、雑だ。本当にこれは木なのかと疑いたくなる。だが、感触と温かさは間違いなく木だった。
疑いたくなると言えばこの砂。何か変だと思っていたら色に統一感がありすぎる気がする。絵の具で塗ったような黄土色だ。パソコンでワンクリックして塗った、というほどではないが、安い絵の具くらい自然的ではない。
やはり気分が悪い。
それにしても暑いな、とジーンズの右ポケットからハンカチを取り出そうと手を入れる。
が、何もなかった。
「ん?」
そういえば鞄はどこに行った。ショルダーバッグは。
俺としたことが不甲斐ない。こんな事にも今の今まで気付かなかったとは。
鞄はどこに落ちているのだろうか。俺が消えた教室の前にでも落ちているのか、はたまたこの場所のどこかにあるのか。教室の前なら誰かが盗んでいるのかもしれない。
定期、財布、携帯。全てない。
どうなってる。何故ない。
俺は怪訝の表情で怪訝するしかなかった。
雑然としすぎて何が何だか分からない。
落ち着け。状況を読むんだ。
俺は何故か学校からここに瞬間移動した……という事でいいのだろうか。現実的じゃない気がするが、まだ俺は現実を語れるほど生きた記憶はないから別にいい。
何よりここは不可解な空間だ。九十年代のゲームのような不自然で人工的なにおいがぷんぷん漂っている。
そして目の前に扉がある。そこには入るべきか否か。もちろん、遭難した時なんかは動かずにいろと言われる。だが、これは遭難とは少し違う。俺は勉強の弊害をされただけだと言ってもいい。いや、言うべきだ。
おそらく、この扉には入ることが俺の唯一の選択肢なのだろう。だが、それでは俺のプライドに傷がつく。選択肢がひとつしかないなんて、この世にあってはならない。考えろ。
「残念ながら選択肢はひとつしかない。何故ならこの空間は貴様の言う『この世』ではないからだ」
男の声がした。男らしい声だが決して低い声ではない。よく通る、輪郭のはっきりした声だ。だが、その声に表情は感じられない。
心理戦には強そうだ。そのせいか並みの生温い人間ではないような気もする。
「その扉には入れ」
「誰だ」
「相手にすぐに名を名乗るなんて馬鹿げていると思わないか」
「確かにそうだな。皮肉なことにお前とは気が合いそうだ。故に、俺も名乗らない。それでいいな」
俺はそう言いながら音の元を探していた。モーションはしない。耳だけを集中させる。だが、声がどこから鳴っているのかは全く掴めない。
何故だ。
「それは無理だよ。私の声だけで私の居場所を探しだそうなど」
「ほう」こいつ、心でも読めるのか。
「あまり驚かないのか」
「リアクションが薄い、と俺は評判らしい」
「なるほど、話が早くて助かる。心が読める、か。でも少し違う。私は貴様の考えていることが分かるんだよ。蜩秋刀斗」
ほう。名前までお見通しか。「よく分からないが、どうやらそうらしいな。お前は俺の心中が手に取るように分かる」
「その通り」
信じがたいが、現実だ。誠に受け止めるしかない。
それに、こいつの言うとおり声の場所が見つからない。声の方向が分からない。まるで脳内で音が鳴っているかのようだった。
気味が悪い。
「その扉には入れ」
「この先には何があるんだ」
「質問返しか」
「質問返しだ。答えろ」
「お前には試練を受けてもらう」
「試練?」
ここに来てから初めて眉が歪んだ。「何のファンタジー映画だ」
「これは映画でもなんでもない。お前に降りかかっている、試練だ。お前に選択の余地なんてひとつもない事くらいもう分かっているだろう」
「大体は。で、試練とやらは一体なんだ。何をする」
「入れば分かる」
「……くだらないな」小さく溜息を吐く。「試練なんて。いい大人が何を言っている。まさかその声で中学生とか言うんじゃないだろうな」
「安心しろ。言わない。俺は大人だ。だからこそガキの貴様にこんなことをしているんだ。つべこべ言わず入れ。秋刀斗」
「じゃあ、受けない、と言ったら?」
「簡単だ。貴様は永遠にこの何もない世界に居続けることになる。そんなの、くだらないだろう。だからその扉に中に入れと言っている」
「死ぬか殺されるか選べ、って二択くらい理不尽だな」
「私は理不尽で評判らしい」
「お互い様だな。まあいいだろう、その試験とやら受けてやるよ」
この選択を選ぶのはそう悩むような問題ではなかった。認めたくはないが、選択肢が元からひとつだった上に、どうせこいつは訪問販売や取り調べのようにこっちが認めない限り延々と言い続けるだけだろう。選択肢で迷う時間はその選択肢の猶予を消していく。悩むだけ無駄。いたちごっこは手を引いた方が勝ちだ。
「それにしても俺の鞄と貴重品はどうなった?」扉へ歩きながら声を張って尋ねてみた。正直この扉の先よりも気になる。
俺は扉に手を添えた。やっぱりこれは木だ。
男からの返事はない。「心配不要、という事でいいのか」
返事が返ってくることを望んだが、やはり返事は返ってこなかった。
ゆっくりと扉に力をかける。扉は見た目通り重く、木の扉らしい古く汚い音が鳴り、俺は舌打ちをした。
開けると、そこには同じような空間が広がっていた。からかってんのか、とも一瞬思ったが、少し違った。扉がもう二つ遠く離れて設置されており、その前には一人ずつ男が立っていた。
こいつら誰だ。
ひとりは夏場のサラリーマンぽい格好をしている。多分そうなのだろう。二十代っぽい。眼鏡を掛けていて、かなり真面目そうには見えるが、怯えて震えているのがここからでも分かる。
もうひとりはTシャツに青のジーンズとラフな格好をしたでかいおっさん。こいつは多分三十代だ。身長は百八十くらいだろう。大柄で筋肉があり、逞しい体をしている。まるでゴリラだ。ルックス的に、恐らく脳味噌は少ないだろう。
そこまで観察を終えた時、扉が突然音を立てて閉じた。
どこの誰かも分からない正反対の二人に目を向けてみると、デカブツのほうは全く動じなかった。逞しい。だが、嫌いなタイプだ。
もうひとりのサラリーマンの方は大袈裟に前に飛び出し、こけかけた。こければいいのに。
さあ、アイツはどこだ、と俺が歩き始めると残りの二人も歩きだした。
出てこい臆病者。