北山寺脩と時計三重奏
いつもと少し違う朝日を浴びながら左手の腕時計をチラッと見た。
まだ余裕がある。ありすぎる。
自然と欠伸が出て、皮肉な涙が眼球を濡らす。
黒ぶちの四角い眼鏡を外し、目を擦る。
今日は本当に災難な日だ。
目覚ましに使っているデジタル時計が切れかかって、狂い、一月一日零時零分零秒、目覚ましが鳴る時刻も零時零分になったのだろう。目覚ましのピッピッという音が僕の耳をつんざく様は、視覚無き深い眠りについていた僕へと殴りかかるようだった。なんて荒々しい朝だろう。
手を布団から伸ばし、その悪魔を持ち、見ると、僕の内臓という内臓が全て青ざめた。
次の瞬間、パニックだ。
部屋の壁にもうひとつ掛けていることも忘れている僕の内心は、薬物中毒者並みに危険な状態だった。
どうしよう。今何時? ここはどこ?
とりあえず眼鏡をかけたそんな時、視界にようやく時計が入った。やっと落ち着けたかと思えば、その時刻だ。いつものバスに乗る時刻の八分前。今から速攻着替え、ダッシュしたらギリギリ間に合う時間。つまり中途半端な時間だ。遅刻するならなら確実に無理だという時間で遅刻したい。「遅刻もできる」という選択肢はますます僕を追い込んだ。更に、眠気が菩薩のような顔で僕を見ているのだから、欲望に飲まれそうになる。
ギリギリアウトなら急げば間に合っただろ、と呆れられ怒られる。選択肢は「間に合わせること」しかなかった。
僕は大急ぎで焦りながら着替えた。つまり、欲望には勝った。でも、焦っているから手が震え、スムーズに着替えられない。眠気のせいだろうか、ワイシャツを着る前に一度ネクタイを締めてしまったりもした。ただの変態じゃないか。
その事と迫りくる時間が更に僕を狂わせ、手が震え、相乗効果という言葉の偉大さが身に染みて伝わってきた。
何とかクールビズスーツに着替え終わり、財布などを入れたカバンを持って、テーブルに置いた腕時計と家の鍵を弱い力で強く掴み、玄関への僅かな距離を走り、ドアに頭をぶつけ、革靴の踵を踏みながらドアを開け、外に出、鍵を足元に落とし、拾い、鍵穴に素早く突っ込んだ。鍵が一発でスポっとはまったことと財布や定期を鞄に入れたままにしていたことを歓喜しながら片足ずつ革靴をしっかり履いて、ダッシュした。
こんな本気のダッシュなんていつぶりだろう。大体どうしてここのバスは三十分に一本しか来ないんだ。田舎だからしょうがないだろうけど、そんな意味のないクレームをつけてしまうくらい、時間は刻々と迫っていた。
眼鏡が上下にずれるけど、取れてないから気にしない。気にはなるけど気にしない。取れてしまったら拾えばいい。
大体中間地点辺りでハアハアと激しく息が切れてきた。体力落ちたなぁ。昔からなかったけど。でも今は止まる事を許されない。僕の脳内ではさっきの眠気菩薩がチアを踊っているんだから、尚更だ。
僕は運動神経が子供の頃からずっと悪い。現在完了形の継続だ。ずっと悪い。
更に中学生にもなると目も悪くなってきた。こういうタイプは大抵気が小さくて弱い。僕も勿論そのタイプだ。なんならその中のトップクラスかもしれない。エリート中のエリートだ。僕の臆病症はエリート中のエリートだ。消極的で友達も少ないくせに一人で生きていく力なんか到底ない。僕は弱い。とてつもなく弱い。自分自身に「お前まじかよ」と疑ってしまうくらいの貧弱さだし、蚊を手で叩き殺すのにも躊躇してしまうほどのチキンでもある。
僕の長所はややプラス思考な事と勉強ができる事だ。絵画にもある程度詳しい。M.C.エッシャーの騙し絵に至っては完全にマニアだったりする。大学も結構いい所を出ている。それだけでこの二十五年生きてきたみたいなものだ。
こうして久々に走ってみると意外と気持ちがよかった。靴がコンクリートにぶつかる、カスタネットのような高い打撃音。青春を感じさせる流れる汗。今は夏だから走ると汗をかいてしまうけど、そのくさいものも何故か気持ちよく感じてしまっている。それどころか逆にいつもより涼しいような気さえもする。遅刻するかもしれないというのに。
三十メートルくらい先にバス停が見えた。そこにはクールビズの四十代前半くらいの男性がいる。
良かった、間にあった、と僕は減速し、笑った。遅刻せずに済む。
汗と息切れが強く感じられた。落ち着いてきたせいかな。苦しさと暑さが突然僕に降りかかったけど、それでも晴れ渡った朝の涼しさと爽快さがあった。
その時、まだ距離があるというのにバスが急に現れて止まった。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
「なんでやねん」生まれてこの方千葉にいるのに関西弁が口に出た。
素晴らしく疲れている僕は、きっと、変な顔になりながら走っているのだろう。脳内眠気菩薩だって明らかに笑いを堪えている。
悪魔の箱におじさんが飲み込まれ、きっちりドアが閉まった。
おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。
「なん、でや、ねん!」僕の血筋に関西人でもいるのかな。
すると、悪魔の箱が再び開いた。運転手さんが気づいてくれたみたいだ。
ありがとうございます! 天使よ!
こうして何とかバスに乗ると物凄く気分が晴々しかった。一番後ろの広い所を占領できたし。汗を流せた上にこの勝利の優越感。堪らない。バス内は冷房が掛かってい涼しいから汗もすぐに乾いた。心なしか、いつもより人が少ない気がする。そのせいか、いつもより強めに冷房がかかっている気もした。僕は人込みを嫌う習性があるから大歓迎だ。
外を改めて見るといつもより少し暗い気がした。天の邪鬼だ、こんなに気分がいいのに。小説とかで登場人物の気分によって天候が左右されることも多いけど、あれは嘘だね。好きな人に告白されてどんなに浮かれていようとも雨が降るときは降るし、その逆で落ち込んでいても晴れるときは晴れる。所詮は作り話だ。
そんな事を考えているとバスがアイドリングストップして車内の轟音が消えた。そして僕は何故か驚いた。理由が分かる気がしたけど分からなかった。
この沈黙の中で、悪魔の囁きが聞こえた。というよりは僕自身が悪魔で、僕は独り言をしたのかもしれない。
「今の時間は」
僕は左手に付けたアナログの腕時計に目を向けた。これは「彼女いない歴=年齢」の僕が去年、自分の誕生日にちょっと贅沢して仕事のご褒美として買ったもの。これを見ると落ち着きと寂しさが湧き上がる。生活の裕福を犠牲にしたけど、生活の充実を手に入れたんだから、後悔はない。これからもきっと……。
ん?
さりげなく文字盤を見て、すぐ目を離したけど……ちょっ……と、待てよ……。
俗にいう『嫌な予感』だ。
僕は古くて潤滑でないロボットのように首だけをゆっくり動かした。時計のほうへ、ゆっくりと。二度見する……そして締まりがなくなったように素早く首を戻した。俗にいう二度見というやつだ。
ゾッと、さっきと違う汗が噴き出てきた。悪魔の高らかな笑い声が聞こえる。いや、本性を現した眠気菩薩だ。
念のためもう一度見た。
自分から出ている汚い液体が冷や汗だと気付いた。
なんでやねん。
そして昨日の記憶の糸がフォークに巻き取られるパスタのようにぐるぐると回った。
それは昨日、電池にまだまだ余裕があったと思われていた時計がいつも通りピッピッと鳴り、僕は起きた。
僕はその音を止め、その時計を見た。その後恐怖の捻くれ時計を見た。その電池が切れているのを発見した。
ズームイン。
いつものバスの時間のちょっと前で止まっていた。それはアナログだから、一周前の十二時間前に止まったんだろうな、と思った。今日帰りにでも電池買うか、と考え、朝食を用意した。仕事が終わるころには、さっぱり頭から消えていた。
で、今に至る。
いつもより暗く感じられたのもいつより涼しい気がしたのも時間が早かったから。人が少ない気がして冷房が強く感じられたのも時間が早くて実際に人が少なかったから。バスがアイドリングストップして驚いたのは僕が普段乗っているのはアイドリングストップをしないから。冷静に考えれば分かるものを……。
大体、目覚まし時計が電池の残量不足で一ばかりになって鳴ったんだ。その時に僕が起きていないなら時間は早いはずだろ。何故なら、もし本当に僕がいつも起きるより遅くバグったのなら僕は既に正しい時間のビープ音を聞いて起きているはずだ。
ああ、僕はなんて馬鹿野郎なんだ……。
駅でバスを降りたけど、いつもより三十分も早い。喫茶店でも行って何か食べようかと思ったけど、こんな時に限って何も食べる気にはなれないものだ。本当に皮肉だ。空は晴れている。ああ、皮肉だ。これが現実だ。
僕の高校の時の友人が言っていた。
――行き詰った時、考えても考えても答えが出ないなら、一旦ゼロになれ。次の問題に移るんだ。その次がないのなら見直し、それも終わったならその迷った問題をゼロから解くんだ。今まで立てた式とかを全部消して違う視点から考える。数学や推理の解き方だ。
確か、それは苦手な数学のテストで力尽きた僕に彼が行った言葉だ。
なんでこんなことが今頭に浮かんだかは分からないけど、とりあえずゼロになって後悔はやめようか。
そう心変わりすると、何故か食欲の代わりに尿意がワープしてきた。「トイレにでも行くか」
僕は普段そこを使うことはあまりない。でも、人が平然と入っていくのはよく見かける。二、三回くらいなら行ったことはあるけれど、駅のトイレというものはやっぱり気が引ける。汚いんだ。アンモニア臭でくさい。きっと入っていく人も「嫌々」とか「しょうがなく」なんだろうな、とその哀しげな光景を見る度思う。今行こうとしているのも勿論「嫌々のしょうがなく」だ。
でも、いざ入ってみるとそこには予想外な光景があった。
あまりくさくない。
少しは匂うけど気にはならないほどだ。ここなら深呼吸できる。ごめん、言い過ぎました、嘘です。
いつもと違う理由はすぐに分かった。僕は深く反省してるんだ。さっきまでの僕とは違う。
朝早いからだ。人が多く来るのはこれからの時間。まだそう多くの人は来ていないはずだ。
地面のタイルが水気を帯びて室内を明るくさせている。王室に来たみたいに気分がいい。
僕が便器の前に立った時、二つ左の一番奥の所におじさんが一人いた。四十歳くらいかな。少し禿げた頭と真剣に自分の尿の出を見ているせいか、何だかフワッとした哀愁が漂っている。
僕の尿の出が悪くなってきたくらいのところでおじさんは「ふぅ~」と満足そうな顔をした。何か可愛い。
僕の尿が止まったまさにその瞬間に水が出る音がした。おじさんが蛇口を捻ったみたいだ。
そして僕がその水の元に着いたその時におじさんは水を止め、歩き始め、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、足を止めて、念入りに手を拭き始めた。
僕がさっさと水を止めた時におじさんはハンカチを仕舞い、再び歩き始めた。
なんだか面白いな。こんな普段見逃がしているような小さいことでも、こうして注目して見てみれば意外と面白かったりする。昔、僕の友達……だった人が言ってた言葉だ。
その人は、他の人とは考え方の違う明るい人だった。見方によっては天才にもおかしな人にも見えた。彼は、「天才というのは何かが抜けている代わりに何かに特化している生き物、つまり天才とは一種の馬鹿だ」と言っていたが、その定義に彼自身ピッタリ当てはまっていた。
トイレの出口へとおじさんが颯爽と歩き始めた。僕はその後方二メートルくらいで彼を追う形になっている。
おじさんはトイレの出口から出て右に曲がった。僕もそのつもりだ。
僕もトイレを出た。扉が目の前に現れた。
……え?
いや、っていうか、え? ここどこ?
辺りを見回す。駅もおじさんもいない。僕は山のようなところにいる。
突然な熱気がぶわっと頬をかすめた。
え? なに?
僕の足元はペンキを塗ったような黄色い砂が五十メートルくらい先まで円形に広がっている。その先には生い茂る森が広がって揺れている。陽炎だ。空には雲ひとつない。コンクリートなんかどこにもない。でも、穹窿が広がっているのに何か狭さを感じる。そして目の前の扉。
「その扉には入れ」
その男の声に、僕の心臓はショック死しかけた。
全く何が何だか分からない。「誰? ここはどこ?」
「その扉には入れ。北山寺脩」
ただ、静けさと汗だけが流れた。
どうして、僕の名前を……。
「入れ」
足が震えているのが脳まで伝わった。暑いのに、汗が流れるのに、震えている。
足が、震えていて、動かない。
止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ。
止まった。急に止まった。疑問を持ってしまうほど突然止まった。
「入れ」
「……はい」
僕は木製の扉の所までスムーズにゆっくり歩いた。
そしてその扉に右手を添えて力を入れた。結構固い。
両手で押すと、意外と簡単に開いた。
その先を見て僕はひどく驚いた。そこはさっきの所と全く同じ風景の山のようなところだった。砂の色、砂の感触、森の色、森との距離感、雲ひとつない空の色、何となく感じる狭さ。皆同じ。違うところと言えばこれと同じ扉が他に二つあること。この三つを結べば一辺三十メートルくらいの正三角形になりそうな感じだ。
そしてそれぞれの扉の前には人が立っている。
どうして?
ひとりは僕より年上の、怖めで怒りの表情をしている大柄な人。もうひとりは僕よりもいくつか若く見える、不思議な雰囲気が出ている無表情の人。学生、かな。
その二人が僕の知り合いでないことを確認した時、足が再びぶるぶる震えだした。
どうして?
でも、さっきより幾分マシな気がする。いや、マシだ。動く。
僕の背後の大きな扉が突然、ドン! とそれらしい大きな音を立てて閉じ、僕の背中はみっともなく架空の衝撃波に押された。こけるかと思ったけど、なんとかこけずに済んだ。
冷たい汗が砂の上に滴り落ち、小さな水溜りができた。