界
今朝も彼は、いつも通りの時間に家を出て行った。
七時四十五分。
早くなることも遅くなることもない、いつもの時間。
私は玄関まで見送りにいき、けれども決して外を見ることはない。見てはいけない。彼が、そう言っているから。
本当は何があるのかは知っている。彼が何故毎日外に出るのかも知っている。
けれども、私は知らないふりを続ける。知らないふりを続けていれば、そのうち、私は本当に忘れてしまうだろう。
今まで何度も忘れていた。今まで、何度も思い出してきた。
彼の固体名は判らない。私の名前も判らない。
彼は、私を生かすためだけに作られた存在で。私は、彼に生かされ続けるための存在。
文字という伝達手段を忘れた私には、彼が時折持って帰ってくる手紙の内容は判らない。絵本以外に興味を示さない私には、食事がどこから調達されてきているものなのかを知る手段はない。
前に一度だけ、手紙の内容を彼に読んでもらったことがある。けれども難しすぎて、私には理解できなかった。
――生存者諸君、食料の残りが尽きてきた。我々はもう滅びるしか術はないだろう。
生存者って何? 彼が言うには、私のこと。
滅びるって何? 彼が言うには、居なくなること。
私はまだ知らないことが多過ぎる。知る必要はないのかもしれないけれども。
彼がいつも通り戻ってきてくれれば、私は生きていける。最近、たまに、食事がない日があるけれども、彼がいるから大丈夫。私は、彼がいれば生きていける。
食べ物がなくなって、動けなくなったら、きっと。
彼が何とかしてくれる。優しい彼が、私をどうにかしてくれる。
私は何も知らない。何も、知らないほうが良い。
彼がいれば大丈夫。
私にとって、世界のすべては彼で成り立っている。彼にとってもきっと、世界の全ては私で成り立っているはずだ。
その証拠に、最近、私と彼は少しだけ似てきた。私の髪の色が、彼と似た灰色に変化してきている。白が混ざった黒の束。
もう少し経てば、きっと。
私の身体も彼に似てくる。彼と同じ、つるりとした灰色の肌が手に入るだろう。
そのときは、私も彼と一緒に外の世界に出掛けてみよう。彼と一緒に、今より少しだけ広い世界を見てみよう。
私には、それが、とても楽しみです。




