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 彼が動かなくなってしまった。食事をしなかったから。多分、そうだと思う。

 時々彼がそうしていたように、私は彼の腕に油を差した。けれども、少しも動き出す気配を感じられない。

 こういうときに名前を呼べば返事をしてくれるのかもしれない。けれども、私は彼の名前を知らない。

 動かなくなった彼は、ただのガラクタのように見える。

 いや、ガラクタだ。

 今までもこうやって何度も。何度も?

 どうしたのだろう。私の、記憶が戻ってきているのだろうか。でも、何故。何故、今、記憶が?

 彼を失った悲しみのせいで、記憶が混乱しているだけだ。きっと。

 いや、違う。

 私は玄関の扉を開き、外の世界を確認することにした。彼がいつも出掛けていた世界。私の知らない彼だけの世界を、この目で確認する。

 玄関の扉は重く、力を込めて押してもびくともしない。彼は力持ちだったのだと、初めて知った。私は何も知らない。知らないことが多過ぎる。

 扉に体当たりするようにぶつかり、どうにか玄関の扉を開いた。この重さでは、一度開けたら閉めることは適わないだろう。私にはもう、動かせそうにない。

 首だけを外に出し、辺りをきょろきょろと窺った。ただ広く、何もない空間。細い廊下に、扉が無数に付いている。

 けれども、それだけだ。それ以上は何もない。

 どこまでも続く廊下の先に、出口は見えない。扉はあるのに窓はなく、外の世界を見ることは叶わない。

 ここは、どこだろう。

 私は、何故、こんなところにいるのだろう。

 彼は、何故、動かなくなってしまったのだろう。

 ふと扉の近くの壁を見ると、小さな窓が付いているのが見えた。蓋のようなもので隠されているが、間違いなく窓だろう。小さな、私の手のひらよりも小さな窓。

 手を伸ばせば届きそう。私は目一杯腕を伸ばし、その窓の蓋を開いた。

 蓋の下に隠されていたのは窓ではなく、小さな穴。二つ並んだ小さな穴は、始めて見るようで、見覚えがあるようなものだった。

 ガラクタのようになってしまった彼の身体を、ゆっくりと引き摺るように玄関へと運んでくる。彼の手についている突起と、先ほどの穴はよく似た形状をしている。彼の手をはめ込めば、ひょっとしたら。

 そんなに都合よく上手くいくわけがない。絵本に出てくるお姫様のように、私が王子様になって彼を目覚めさせることなんて出来るわけがない。

 けれども、ひょっとしたら。

 彼の身体を廊下に押し出し、重い腕を手に取る。先ほど見付けた穴に、彼の手を添える。二つ並んだ穴に、彼の手の先についている突起を押し付けた。

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