私
今朝も彼は、いつも通りの時間に家を出て行った。
七時四十五分。
早くなることも遅くなることもない、いつもの時間。
私は玄関まで見送りにいき、けれども決して外を見ることはない。見てはいけない。彼が、そう言っているから。
部屋の壁にかけられた時計は、私と外界を繋ぐ唯一の存在。刻々と刻まれる時間を目視出来ていなかったら、私は時間という概念までをも失っていた気がする。
私が失ったのは、自由と記憶。彼が誰なのか、思い出すことは出来そうにない。この部屋から外に出ることは叶いそうにない。
しかしそれを別段不幸なこととは思っていない。私は、この小さな世界で生きている。空腹に喘ぐこともなく、体調を崩すこともなく。身に降り注ぐ不幸を考えなくてもいい生活。
彼が何者で、どこに出かけているのかは知らない。知る必要もない。
彼が私のためを思って部屋から出ないように言っているのは明白だったから。
いつも通り、私は部屋の中央で横になる。彼が時折買ってきてくれる土産物が、私の唯一の暇つぶし。
絵本。文字の読めない私にも内容が判る。仲の良い仔豚の兄弟の話だと、前に彼が言っていた。確か、三匹の仔豚、という題名。
静かな空間で、時計の音が耳に付く。規則的に刻まれる音が、私の意識を引き剥がす。絵本に集中できない。
時計を壊したい衝動に駆られたが、止めた。
壊してしまっては、時間すらも失うことになる。私はこれ以上、何も失いたくはない。
再び絵本に目を落とした。
絵本は、実に興味深い。扉というものが外界に繋がっていると知ったのも絵本からだし、他の家には窓という外界を取り込む装置があることを知ったのも絵本からだ。
けれども狼という敵がいて、仔豚たちは食べられてしまう。私も、食べられてしまうのだろうか。
食べ物は全て缶詰の中に入っているものとばかり思っていたので、これが一番の衝撃だった。そう彼に話すと、昔はそうだったんだよ、と言っていたけれども。
狼が頑張って食べようとするくらい、仔豚は美味しいのだろうか。そもそも仔豚って、狼って、何だろう。
私は、自分と彼しか生物を知らない。
しかし、知らないことを不幸だとは思わない。必要のないことかどうかは彼が教えてくれる。彼は絶対に正しくて、私は彼に従っていれば安心して暮らせるのだから。
出来ればずっと家にいて欲しい。ひとりで過ごすのは退屈で、つまらない。彼と一緒なら楽しいと思う。
彼が帰ってきたら提案してみようか。彼は、何て答えるだろう。何をしに出掛けているのかが判らないので、私には想像が出来ない。
もしも了承してくれたならば、私はどんなに嬉しいだろう。それこそ、想像が付かない。




