悪辣な妻に三千万円を持ち逃げされ、衆人の面前で床を舐めろと強要された件
悪辣な妻に三千万円を持ち逃げされ、衆人の面前で床を舐めろと強要された件
1.母の還暦祝いの日、妻が消えた
東京・台東区の下町にある、三代受け継いできた古い戸建てが、妻にこっそり民泊サイトへ登録された翌日、火事になった。
俺は近所の家を一軒ずつ回って頭を下げ、修繕費の支払いまで済ませたところだった。するとスマホに、賃貸サイトから通知が届いた。
【鎌倉海沿いの一戸建て別荘、半年分の家賃三百万円が支払い済みです。すぐにご入居いただけます】
画面を見つめながら、俺は一瞬、三沢綾香が新しい環境を用意してくれたのかもしれないと思った。今回の騒ぎを埋め合わせるために、俺を驚かせようとしたのだと。だが次の瞬間、相馬蓮司のSNS投稿に、その別荘が写っているのを見つけた。
写真の中で、相馬蓮司は海を見下ろす窓辺に座り、茶を飲んでいた。窓の外には、曇った鎌倉の海が広がっている。
添えられた文章には、こう書かれていた。
「大難を逃れたあとは福が来る。昔の同級生に感謝。新しい家をありがとう」
そして窓ガラスの反射の中には、俺の妻、三沢綾香が立っていた。
俺は指先に力を込め、すぐに賃貸サイトと仲介会社へ電話をかけ、その契約を解除した。三十分後、相馬蓮司の引っ越し祝いの集まりはまだ途中だったが、彼は管理会社と大家により、荷物ごと別荘から追い出された。
その夜、綾香は泣きながら家に戻ってきた。昔の同級生がかわいそうだっただけだと、何度も誓った。相馬蓮司は仕事を失い、精神的に不安定で、東京で頼れる人もいなかったから、少し助けたかっただけなのだと言った。
「隼人、本当に他意はなかったの」
「もう二度と、あなたに隠れて彼と連絡したりしない」
そのとき、俺は泣き腫らした彼女の目を見て、結局それ以上責めることができなかった。
それから一か月後。母の六十歳の還暦祝いの日が来た。
母は赤い肩掛けをまとい、東京湾瑞嵐ホテルの宴会場で、三時間も待ち続けていた。けれど、嫁である綾香は、祝いの挨拶に現れなかった。舞台の両側には紅白の花が飾られ、主卓には鯛料理、赤飯、祝い菓子が並んでいる。本来なら、今日は母にとって人生で最も晴れがましい日になるはずだった。
司会者が必死に場をつなごうとしていると、宴会場の宮沢マネージャーが、数人の警備員を連れて俺の前にやって来た。彼は不渡り通知を手にしており、その営業用の笑顔は、丁寧な刃物のように冷たかった。
「久我様。奥様が残された小切手ですが、銀行で決済できませんでした」
「本日の宴席、会場、酒水、サービス料を含めまして、合計一千八百万円でございます。こちらは、どのようにお支払いいただけますか」
その言葉が落ちた直後、宴会場のメインスクリーンが突然明るくなった。
映し出されたのは、母のために用意した祝いの映像ではなかった。パリのエッフェル塔の下で、綾香が相馬蓮司とコーヒーを飲んでいる映像だった。彼女は高価なイブニングドレスを身にまとい、相馬蓮司の肩にもたれかかり、今日の宴会場に飾られたどんな紅白の花よりも眩しく笑っていた。
「久我隼人。あなたはこの前、鎌倉の別荘で蓮司に恥をかかせたわよね」
「だから今日は、あなたにも味わわせてあげる。あなたが一番大切にしている親戚や友人たちの前で、顔を潰される気分をね」
俺は何度も綾香に電話をかけたが、つながらなかった。
宮沢マネージャーが俺の行く手を塞ぐ。声は大きくなかったが、近くの数卓にははっきり聞こえる程度だった。
「久我様、もうお電話は結構です。奥様がこの映像を送ってこられた以上、電話に出るつもりがないということでしょう」
俺は宴会場の中央に立っていた。背後には親戚、近所の人、母の昔の同僚たちがずらりと座っている。紅白の飾りはまだ外されておらず、卓上の祝い菓子も未開封のままだというのに、全員の視線は祝福から見世物を見る目へと変わっていた。
「宮沢マネージャー。この件は俺が処理します」
「ホテルの代金を踏み倒すつもりはありません」
宮沢マネージャーは不渡り通知を広げ、俺の目の前でひらつかせた。
「奥様の小切手は不渡りです。さらに困ったことに、先ほど確認したところ、久我様名義のご家庭用口座の残高は、すべて引き出されていました」
「宴席代は一千八百万円。主催者は久我様ですので、当然このお支払いは久我様にお願いいたします」
客席が一気にざわついた。
「どういうこと? こんな大きな還暦祝いを開いておいて、不渡りの小切手?」
「奥さん、ほかの男と逃げたんじゃないの?」
「東京湾のホテルで貸し切りなら、そりゃ高いでしょう。お金もないのに見栄を張るから」
「お母さん、六十歳の誕生日にこんな笑いものにされるなんて、かわいそう」
その声が、細い針のように耳へ刺さった。俺は目を閉じ、胸の奥から湧き上がる怒りを押し殺してから、母のほうを振り返った。
母は主卓に座り、赤い肩掛けをきちんと羽織ったままだった。何も言わず、ただ両手で湯のみを握りしめ、指の関節を白くしていた。
スクリーンの映像は続いていた。
パリの夜景はきらびやかに輝き、綾香は赤ワインのグラスを持っていた。その声は宴会場の音響を通じ、会場全体に鮮明に響き渡った。
「蓮司は、あなたに別荘から追い出されたせいで、ひどく傷ついたの」
「心理カウンセラーにも、環境を変えて休むべきだと言われたわ。パリはロマンの都よ。私が一緒に来て何が悪いの?」
「家のお金は先に持ってきたわ。こっちの治療費と滞在費は高いの」
「お義母さんにもよろしく伝えて。忘れられない誕生日になるといいわね」
相馬蓮司がカメラに顔を寄せ、わざと綾香の頬に口づけた。声には、隠しきれない得意げな響きがあった。
「綾香。君の旦那さん、ひとりであっちに残されて困っていないかな」
綾香は甘やかすように彼の頬をつねった。
「あの人、顔の皮が厚いから。きっと耐えられるわ」
映像はそこで終わった。
宴会場は一瞬、死んだように静まり返った。だがすぐに、抑えきれない嘲笑が広がった。若い客が何人もスマホを構え、撮影を始める。中にはSNSでライブ配信を始め、興奮した声で画面に向かって解説している者までいた。
「東京湾の五つ星ホテルで大事件! 妻が金を持って昔の同級生とパリへ逃亡、夫の母親の還暦祝いが現場で崩壊!」
「フォローしておけば続きが見られますよ。これは絶対にまだ何かあります」
俺は一瞬で会場中の見世物になった。母が何か月もかけて準備してきた還暦祝いは、他人のスマホの中で笑い話になっていた。
宮沢マネージャーはメインスクリーンを消し、再び俺を見た。
「久我様、映像は皆様ご覧になりました。では、お支払いをお願いいたします」
「言ったはずです。俺が処理します」
「どのようにですか」
彼の営業用の笑顔が少しずつ消え、声が刺々しくなった。
「ここは下町の食堂ではございません。次に払います、で済む場所ではないのです。奥様は、久我様が支払いを渋ると分かっていたからこそ、あの映像を送ってこられたのでしょう」
彼は不快な目つきで、主卓のそばに積まれた祝いの品々を見た。そこには母の古い友人たちが贈ってくれた紅白の菓子、漆器、母の好きな陶器の茶器、そして俺が前もって選んでおいた赤珊瑚のブローチがあった。
「これらの贈答品は、多少は価値がありそうですね」
「すぐにお支払いいただけないのであれば、ひとまずこちらでお預かりして、代金に充てさせていただきます」
母がついに立ち上がった。声が震えていた。
「だめです。それは昔の友人たちが私のために贈ってくれた祝いの品です。食事代の代わりになんてできません」
「もう少し待ってください。息子が必ず何とかします」
俺はすぐに一歩前へ出て、主卓の前に立ちはだかった。
「誰も、母のものに触るな」
宮沢マネージャーが冷笑した。
「久我様。食事をしておきながら代金を払わない方が、道理を語るのですか」
「本日中にお支払いが確認できない場合、規定に従い、会場内の物品をお預かりします。ご不満なら、どうぞ警察をお呼びください」
そう言うと、彼は背後の警備員に目配せした。
ひとりの警備員が、卓上でもっとも美しい礼盒へ手を伸ばした。包装紙が裂かれる音が、混乱した会場の中で異様にはっきり響いた。箱が開き、中から俺が母のために選んだ赤珊瑚のブローチが現れた。
母の息が止まり、顔色が一瞬で白くなった。
俺は宮沢マネージャーを見据えた。声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「母の祝いの品に触るな」
「このホテルは綾香が予約した。彼女は、あなた方のオーナーと知り合いだと言っていた」
宮沢マネージャーは一瞬固まり、それから吹き出した。
「私どものオーナーですか?」
「久我様、本当に何もご存じないのですね。今日、あなたに恥をかかせたいのは、奥様だけではございません」
彼は一歩近づき、声を低くした。目には露骨な悪意が浮かんでいた。
「私どものオーナーから、直々に指示を受けています。本日は必ず、あなたが親戚や友人の前で顔を上げられないようにしろ、と」
「奥様は宴席代こそ払っていませんが、私には事前に百万円のチップをくださいました。この芝居を十分に盛り上げれば、その金は私のものだそうです」
そのとき、メインスクリーンが再び点灯した。
今度は録画ではなかった。リアルタイムの通話だった。
綾香の、見たくもない顔がまた映し出された。背景はパリではない。このホテルの最上階スイートの寝室だった。相馬蓮司はゆったりした部屋着を着て、彼女の肩を抱いている。
あいつらは、パリになど行っていなかった。
このホテルの上階で、俺と母がさらし者にされる様子を見ていたのだ。
「久我隼人、もう強がらないで」
綾香は画面越しに俺を見て、不機嫌そうに言った。
「蓮司は私のために一生独身でいたのよ。彼こそ本当に情の深い人だわ。あなたはどう? 少しのこと、少しのお金で、彼の別荘を取り上げて、道路に追い出したじゃない」
「今日の還暦祝いは、あなたがどうしても開きたいと言ったものでしょう。孝行息子を演じたいなら、自分で場を保ちなさいよ」
相馬蓮司がカメラに顔を寄せ、わざとらしくため息をついた。
「久我兄さん、すみません。僕が帰国しなければ、おふたりの夫婦関係を壊すこともなかったのに」
「でも綾香は優しすぎるんです。僕が苦しんでいるのを見ていられなかった。責めるなら、僕を責めてください」
謝罪の言葉を口にしながら、その目には挑発しかなかった。
俺はスクリーンを見据え、極限まで冷えた声で言った。
「三沢綾香。十年の結婚生活で、俺は一体どこでお前を裏切った」
綾香は眉をひそめた。まるでつまらない話を聞かされたような顔だった。
「そんな話はどうでもいいの」
「今あなたにできることは二つだけ。カメラの前で、自分には能力がなく、私の十年を無駄にしたと認めること。それが嫌なら、自分でお金を用意することよ」
相馬蓮司がすぐに口を挟んだ。
「久我兄さん。今ここで跪いて綾香に謝り、自分は彼女にふさわしくない男だったと認めれば、僕から彼女に頼んで、この一千八百万円を払ってもらいますよ」
客席のざわめきがさらに大きくなった。
「跪くだけで一千八百万円が浮くなら、悪くないだろう」
「ここまで来たら、意地を張っても仕方ないんじゃない?」
「お母さんもいるんだし、本当に孝行息子なら頭くらい下げればいいのに」
俺が動かないのを見て、宮沢マネージャーは警備員たちに合図した。何人かが俺の腕をつかみ、肩を押さえつけ、無理やり床へ押し倒そうとした。
「聞こえませんでしたか。三沢様に謝罪してください」
「跪けば、この場はまだ収まるかもしれませんよ」
膝に鋭い痛みが走った。だが俺の背筋は、少しも曲がらなかった。
次の瞬間、宮沢マネージャーが卓上の祝い菓子をつかみ、俺の顔に叩きつけた。甘い餡と菓子の破片が顎を伝って落ちる。宴会場にどよめきが走り、そのあとさらに大きな笑い声が爆発した。
母が椅子から立ち上がり、目を赤くして俺の名を呼んだ。
「隼人!」
巨大な屈辱が理性を洗い流していった。同時に、綾香に残していた最後の情も、そこで完全に切れた。
この瞬間から、結婚のために身を引いた久我隼人は死んだ。
代わりに目を覚ましたのは、十年前、新宿の裏金融界で誰もが恐れた隼兄貴だった。
2.目を覚ました隼兄貴
俺はそばにいた警備員を振りほどき、反射的に宮沢マネージャーの手首をつかんだ。
彼は悲鳴を上げた。腕は一瞬で力を失い、だらりと垂れた。数人の警備員が顔色を変えて飛びかかろうとしたが、俺の目を見た途端、その場で足を止めた。
「お、お前……よくも手を出したな」
宮沢マネージャーは手首を押さえ、冷や汗を流していた。
俺は乱れた襟を整え、ナプキンを手に取って、顔についた餡をゆっくり拭った。宴会場に響いていた笑い声は少しずつ消えていった。誰もが、空気の匂いが変わったことに気づいていた。
俺は顔を上げ、スクリーンの中の綾香を見た。
「お前は本気で、たかが一千八百万円で俺を追い詰められると思っているのか」
綾香は一瞬固まったあと、声を上げて笑った。
「久我隼人。いつまで強がるつもり?」
「あなたの家庭用口座は、もう私が空にしたわ。通帳も、印鑑も、権利書も、持っていけるものは全部持ってきた。今のあなたには、コンビニのおにぎりを買うお金さえないんじゃない?」
相馬蓮司もテーブルを叩いて笑った。
「久我兄さん。まさか今さら、自分は隠れた大富豪だなんて言うつもりですか?」
「五分以内に一千八百万円の現金を用意できたら、僕はこのホテルの屋上から飛び降りてやりますよ」
彼は少し間を置き、悪意に満ちた笑みを浮かべた。
「用意できなければ、あなたはこの宴会場の床を、みんなの前で舐めてください」
綾香もそれに続けた。
「お金が出せないなら、それでもいいわ。これからお義母さんには、私の家で家政婦をしてもらうから。私と蓮司にお茶を出してもらいましょう」
母の体が揺れ、倒れそうになった。
俺は母を支え、肩の赤い布を直してから、ゆっくりとうなずいた。
「いいだろう」
「ここにいる全員と、配信中のアカウントたちに証人になってもらう」
宴会場は一気に沸き立った。こんな賭けは、どんなドラマよりも刺激的だったのだろう。無数のスマホが、いっせいに俺へ向けられた。
俺はその視線を無視し、十年間こちらからかけたことのなかった番号を呼び出した。
電話は一コール目でつながった。
向こうから、低く抑えられた、しかし震えるほど恭しい声が聞こえた。
「隼兄貴?」
「やっと、この電話をくださったんですね」
俺はスクリーンの中で得意げに笑う綾香と相馬蓮司を見ながら、静かに言った。
「堂島。現金で二千万円必要だ」
「東京湾瑞嵐ホテル。五分で頼む」
電話の向こうが一瞬、静まり返った。
次の瞬間、堂島玄一の声が沈んだ。
「承知しました」
「近くの者を先に向かわせます。残りは私が直接届けます」
俺は電話を切り、スマホを卓上に戻した。
宮沢マネージャーは顔を青白くしながらも、無理に嘲笑を浮かべた。
「五分ですか。久我様、ここで手品でも披露なさるおつもりですか」
「一番近い銀行からでも五分では来られませんよ。そんな芝居をしても、余計に惨めになるだけです」
相馬蓮司はスクリーンの中で腹を抱えて笑っていた。
「いいですね。待ちましょう」
「五分後、あなたがお金を出せなかったら、床を舐める姿を全世界に見せてあげますよ」
俺は椅子を一脚引き寄せ、母の隣に座った。
母は俺の手を握っていた。掌は冷たかった。俺はそっとその手の甲を叩いた。説明も慰めもしなかった。母は、俺がかつて何者だったかを知っている。
十年前、俺は綾香のために裏金融界から退いた。表に出せない関係をすべて断ち、資産は信託と弁護士チームに預けた。綾香は、自分が持ち去った家庭用口座こそ俺のすべてだと思っていたのだろう。だが、あの金は普通の家庭として体面を保つためだけのものだった。
本当に俺のものは、彼女が触れられる場所には置いていない。
カウントダウンが始まると、宮沢マネージャーはスマホを掲げ、興奮で声を震わせた。
「残り一分です」
「残り十秒」
スクリーンの中で、相馬蓮司は綾香を抱き寄せ、俺が恥をかく瞬間を待っていた。
「久我兄さん。どこから舐めるか、決めましたか?」
「安心してください。きれいに録画して差し上げますから」
最後の三秒。
宮沢マネージャーは手を振り上げ、目に凶悪な光を宿した。
「時間です」
「あの老婆の祝いの品から回収しろ。金もないのに還暦祝いなど開くからだ」
数人の警備員が再び近づいてきた。
そのうちのひとりの手が、母の肩掛けに触れようとした瞬間、ホテルの正面から急ブレーキの音が響いた。
数台の黒いワンボックスカーが入口に止まり、同時にドアが開いた。黒いスーツを着た男たちが何十人も、素早く宴会場へ入ってくる。彼らは無駄に怒鳴らず、動きだけで警備員と配信中の客を制圧した。
さっきまで威張っていた警備員たちは、ほんの数秒で床に押さえつけられた。スマホを構えていた若者たちも、画面を遮られ、撮影停止を求められた。
宮沢マネージャーの顔色が変わった。
「お前たちは誰だ。ここには監視カメラがあるんだぞ。勝手なことをするな」
宴会場の扉が再び開いた。
黒く痩せた男が、濃い色のスーツで入ってきた。体格は大きくない。だが、その男が現れた瞬間、さっきまで騒がしかった宴会場が静まり返った。
誰かが彼の顔を見て、震える声を漏らした。
「堂島玄一……」
「新宿の裏金融界の堂島か?」
「どうして、あの人がここに……」
綾香と相馬蓮司も、その姿を見ていた。相馬蓮司の笑みは少しずつ固まり、綾香はまだ強がっていた。
「久我隼人。あなた、追い詰められて闇金に手を出したの?」
俺は答えなかった。
堂島はまっすぐ俺の前まで歩いてくると、三歩手前で止まり、深く頭を下げた。
「隼兄貴。参りました」
その声は大きくなかった。けれど、宴会場の温度が数度下がったように感じられた。
宮沢マネージャーは床から這い上がり、堂島の顔を見た瞬間、足を震わせた。
「ど、堂島さん?どうしてあなたが……」
堂島は彼を一瞥もしなかった。ただ後ろの男たちに手を振った。
二つの巨大な黒いスーツケースが卓上に置かれた。留め具が開いた瞬間、整然と積まれた円札が、そこにいる全員の視界を埋め尽くした。
宴会場のあちこちで、息を呑む音が重なった。
スクリーンの向こうで、綾香と相馬蓮司の表情は完全に凍りついていた。ふたりとも口を開けたまま、一言も発せなかった。
俺は立ち上がり、スーツケースから札束を一つ取り出して、宮沢マネージャーの前に投げた。
「一千八百万円。宴席代だ」
続けて、もう二束の札を彼の足元へ投げた。
「この二百万円は、お前にやる」
宮沢マネージャーは呆然とし、反射的にそれを拾おうとした。
俺は彼の手を踏みつけた。
「まだ礼を言うな」
「この二百万円は、お前が今日以降、次の仕事を見つけるまでの生活費だ」
宮沢マネージャーが顔を上げた。恐怖がはっきり浮かんでいた。
「久我様、それはどういう意味で……」
俺は堂島を見た。
「瑞嵐ホテルの本当の持ち株構造を調べろ」
「今日中に、このホテルを運営する会社の株を洗い出せ。買えるものは買い、買えないものは値を崩して買え。誰がここから出ていくべきか、分からせてやる」
堂島は口角を上げた。
「承知しました、隼兄貴」
俺は再び宮沢マネージャーを見た。声は静かだった。
「さっき言ったな。お前たちのオーナーが、俺を辱めろと命じたと」
「なら、そのオーナーごと替えてやる」
宮沢マネージャーは床にへたり込み、灰のような顔になった。
宴会場では、もう誰も笑っていなかった。さっきまでスマホを構えていた者たちは、ひとり残らず目を伏せ、息をひそめていた。
俺はスクリーンの前に立ち、青ざめた相馬蓮司を見た。
「お前、さっき何と言った」
「俺が一千八百万円を用意できたら、ホテルの屋上から飛び降りると言ったな」
相馬蓮司は喉を鳴らし、引きつった笑みを浮かべながら後ずさった。
「久我兄さん、あれは冗談ですよ」
「大人なんですから、本気にしないでください」
俺は彼を見据え、一語ずつ問いかけた。
「お前は、自分が男だと言ったな」
「なら、約束を果たす覚悟はできているのか」
相馬蓮司は膝から崩れ、ソファから滑り落ちた。
綾香もようやく慌て始めた。ビデオ通話を切ろうとしたが、指が震え、何度押しても画面を閉じられなかった。
そのとき、宮沢マネージャーが何かを思い出したように、俺の足元へ這ってきた。
「隼兄貴、あの二人はパリにいません」
「このホテルの上です。最上階のスイート、千八百八号室です。映像は事前に編集したもので、背景も偽物です」
「全部、あの二人に頼まれてやりました。全部話しました。どうかお許しください」
俺は彼を見下ろした。
「最初から言えばよかったんだ」
堂島が俺の背後へ来た。
「隼兄貴、上へ行きますか」
俺は母を見た。
母はすでに落ち着いていた。赤い肩掛けを整え、小さくうなずいた。
「行きなさい」
「でも、あんな人たちのために、自分の手を汚してはいけないよ」
俺は母の手を握った。
「分かっている」
3.最上階スイートの真実
エレベーターは静かに上昇していった。
鏡に映る俺の顔は、感情を失ったように平静だった。だが自分だけは分かっている。胸の奥の火は、もう抑えきれないところまで燃え上がっていた。
十年前、俺は綾香のために裏金融界を退き、彼女を怖がらせるような人脈をすべて断った。平凡な日々こそが、いちばん幸せな結末だと信じていた。だが俺が刃物を置いたその手は、最後には彼女に踏みにじられた。
エレベーターの扉が開くと、最上階の廊下は異様なほど静かだった。
千八百八号室の前には、ホテルの警備員が二人立っていた。堂島の部下たちを見ると、顔色を変えて止めようとしたが、すぐに無線機を取り上げられ、壁に押さえつけられた。
「ここはプライベートエリアです。入ることはできません」
堂島の部下が冷たく言った。
「中では詐欺、恐喝、商業上の名誉毀損に関わる証拠が保全されています。すでに弁護士と警察にも共有済みです。止めるなら、あなた方も記録に残ります」
二人の警備員は、すぐに動けなくなった。
俺はドアの前に立ち、三度ノックした。
中から返事はなかった。ただ、慌ただしい足音だけが聞こえた。俺が半歩下がると、堂島の部下が予備のカードキーでドアを開けた。
扉が開いた瞬間、部屋の中の光景があらわになった。
綾香と相馬蓮司は、慌てて荷物をまとめている最中だった。床にはいくつもの高級ブランドのスーツケースが広げられ、中にはブランド服、バッグ、宝石箱、そして我が家の金庫から持ち出された書類袋まで詰め込まれていた。
俺が部屋に入ると、綾香の顔が一瞬で青ざめた。
「久我隼人、何をするつもり?」
「不法侵入よ」
相馬蓮司は彼女の背後に隠れ、声を裏返らせた。
「そうだ。勝手なことはできないぞ。ここはホテルだ。監視カメラもある」
俺は一歩ずつ部屋の奥へ進んだ。背後で扉が閉まる。
その瞬間、この部屋は密閉された檻になった。
「法律?」
「俺の家庭用口座から三千二百七十万円を持ち去り、上の階で母が侮辱されるのを見物していたとき、お前たちは法律を考えたか」
「不渡りの小切手で宴会を予約し、ホテルのマネージャーに俺を人前で跪かせようとしたとき、法律を考えたか」
「自分たちが怖くなった途端、法律を口にするのか」
綾香の唇が震えた。それでも彼女は、必死に声を張った。
「夫婦の共有財産でしょう。私に使う権利があるわ」
「そもそも、あなたに力がないからこんなことになったのよ。本当にお金があるなら、どうして最初から出さなかったの?」
俺は低く笑った。
「お前がどこまで醜くなれるのか、見たかったからだ」
俺がすぐに手を出さないと分かったのか、相馬蓮司は少しだけ強気を取り戻した。
「久我兄さん。僕たちは大人なんですから、そこまで事を荒立てる必要はないでしょう」
「綾香は心が優しいだけです。僕を助けようとしただけなんですよ。男なら、そんな小さなことで怒らないでください」
俺は彼の前に立った。
相馬蓮司は反射的に後ずさったが、ソファに足を取られ、みっともなく床へ座り込んだ。俺は彼を見下ろした。スクリーン越しに得意げに笑っていた彼の顔を思い出すと、心の底が冷えきっていった。
「お前、屋上から飛び降りると言ったな」
相馬蓮司の顔から血の気が引いた。
「あ、あれは冗談です」
「久我隼人、僕を脅すな。もし僕に何かあれば、あなたも無事では済まないぞ」
俺は彼に触れず、堂島を振り返った。
「バルコニーの扉を開けろ」
堂島の部下が厚いカーテンを引き、ガラス扉を開けた。東京湾からの夜風が、スイートルームへ一気に流れ込む。遠くの街明かりが連なり、足元の高さは、見るだけで膝が震えるほどだった。
相馬蓮司は悲鳴を上げ、床を這うように後ずさった。
「嫌だ。行きたくない。僕が悪かった。本当に悪かった」
「全部、綾香なんです。彼女から僕に近づいてきたんです。あなたのことを情けない男だと言っていました。ずっと我慢してきた、と。お金も彼女が勝手に振り込んだんです。僕は関係ありません」
綾香は信じられないものを見るように彼を見た。
「相馬蓮司。今、何て言ったの」
相馬蓮司はもう彼女を気にする余裕などなかった。床に跪き、何度も頭を下げた。
「久我兄さん、許してください」
「綾香は、あなたがただの普通の男で、下町の古い家しか持っていないと言っていたんです。あなたを追い詰めれば必ず取り乱す。その瞬間を利用して、あなたを終わらせる人間がいると聞かされました」
俺の目がわずかに動いた。
「人間?」
相馬蓮司の体がこわばった。言い過ぎたと気づいたのだ。
堂島が一歩前へ出た。声が冷えきっていた。
「続けろ」
相馬蓮司は震えながら口を開いた。
「獅堂ホールディングスの人間です」
「獅堂貴臣が、僕に綾香へ近づけと言ったんです。彼女をうまくだまして、あなたの金を動かさせ、あなたを公の場で逆上させれば、報酬を払う。獅堂ホールディングスの顧問にもしてやる、と」
綾香はその場で固まった。顔の血の気が完全に消えていた。
「嘘……」
「蓮司。あなた、私のことをずっと愛しているって言ったじゃない。私のために一生独身でいたって言ったじゃない」
相馬蓮司は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「あんなもの、だましただけだ」
「君があまりにも簡単だったんだよ。学生時代の思い出を少し持ち出しただけで、自分が特別な女だと思い込んだ。久我の金が手に入らないなら、僕がどうして君に付き合う必要があるんだ」
綾香は頭を殴られたように、よろめいた。
俺はスマホを取り出し、堂島が復元させた映像を再生した。そこには、相馬蓮司が六本木のバーで派手な女を抱きながら、友人たちに自慢している姿が映っていた。
「三沢綾香って女、本当にだましやすいんだ」
「一生独身で君を待っていたと言っただけで、涙ぐんで感動していたよ。あの女の旦那の金を搾り取ったら、すぐに捨てるつもりだ」
「旦那?ただの腑抜けだろ。寝取られていることにも気づかない。むしろ僕がゴミを処理してやったと感謝するんじゃないか」
俺はスマホの画面を綾香へ向けた。
「よく見ろ」
「これが、お前が家庭を裏切り、俺の母を辱めてまで選んだ男だ」
綾香は呆然と映像を見つめていた。やがて、崩壊していた目に狂気が宿り始めた。彼女は突然振り返り、相馬蓮司に飛びかかって、襟元をつかみ、叩き、罵った。
「私をだましたのね」
「相馬蓮司、あなた、私をだましたのね」
「私だけを愛しているって言ったじゃない。久我隼人なんか私にふさわしくないって言ったじゃない」
相馬蓮司はみっともなく逃げようとした。
「触るな。君が勝手に馬鹿だっただけだ。僕のせいにするな」
二人はすぐにもみ合いになった。
俺はソファに腰を下ろし、その犬同士の噛み合いのような醜い芝居を冷ややかに眺めた。テーブルには、二人が祝杯を上げるために用意したらしい赤ワインが残っていた。飲みかけのグラスは、勝ちを確信していた二人の人生そのもののように滑稽だった。
二人が疲れ果て、絨毯の上で息を荒げるまで待ってから、俺は静かに口を開いた。
「気は済んだか」
部屋の中が一瞬で静かになった。
俺は綾香を見た。
「そろそろ、俺たちの勘定を始めよう」
綾香が顔を上げた。その目に、ようやく本当の恐怖が浮かんでいた。
「隼人……私たちは夫婦でしょう」
「十年も一緒にいたのよ。こんなこと、できるはずないわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は笑いそうになった。
「夫婦?」
「母の還暦祝いで、お前がこの男と最上階のスイートに隠れ、母が辱められるのを見ていたとき、俺たちが夫婦だと思ったか」
「家庭用口座から三千二百七十万円を持ち去り、ホテルのマネージャーに俺を跪かせようとしたとき、俺たちが夫婦だと思ったか」
「この男に映像の中で俺を侮辱させ、俺に謝罪を強要したとき、俺たちが夫婦だと思ったか」
綾香は膝をついたまま俺の足元へ這い寄り、ズボンの裾をつかもうとした。
「私が悪かった。本当に分かったの」
「今すぐ彼とは縁を切る。お金も返す。もう一度やり直しましょう」
俺は一歩下がり、その手を避けた。
「遅い」
「俺が欲しいのは、金を返すことじゃない」
彼女は顔を上げた。涙が頬に残り、スクリーンの中で高慢に笑っていた姿はもうどこにもなかった。
「じゃあ、何が欲しいの」
俺は一語ずつ告げた。
「離婚だ」
「身一つで出ていけ」
「それに、今日母が受けた損害のすべてを賠償してもらう。名誉毀損と精神的損害も含め、総額一億円だ」
綾香の目が見開かれた。
「一億円? あなた、正気なの?」
「私を死ぬまで追い詰めるつもり?」
俺は彼女を見下ろした。
「金が好きなんだろう。なら、金がない味を知ればいい」
「体面が好きなんだろう。なら、全員に本性を知られる味を知ればいい」
俺は弁護士へ電話をかけた。
「真壁先生。資料を準備してください」
「離婚訴訟を起こします。相手には婚姻中の悪意ある財産移転、名誉毀損、精神的損害賠償を請求します。証拠はすぐ送ります」
電話の向こうで、真壁弁護士が落ち着いて答えた。
「承知しました、久我様」
綾香は床に崩れ落ち、完全に壊れたように泣き出した。
「久我隼人、あなたはひどい人ね」
「十年の夫婦の情も、少しもないの?」
俺は彼女を見た。胸の奥に残っていた最後の温度も、そこで消えた。
「俺が一番後悔しているのは、十年前、目が曇ってお前を妻にしたことだ」
そう言って、俺は部屋を出た。
背後からは、綾香の怨毒に満ちた罵声、相馬蓮司の情けない泣き声、そして堂島が証拠を整理する低い声が聞こえていた。
この夜は、まだ終わっていない。
本当の清算は、ここから始まる。
4.彼女は俺をただの普通の男だと思っていた
翌朝早く、真壁弁護士が分厚い書類の束を持って俺の家に来た。
台東区下町の古い家は、火事で半分ほど壁が黒く煤けており、庭にはまだ修繕用の資材が積まれていた。母は部屋の中で静かに茶を飲んでいた。昨夜の騒ぎなど、もう遠い出来事のように見えた。
真壁弁護士は書類を俺の前に置いた。
「久我様。こちらが、久我様名義の信託資産、国内企業、海外投資、不動産の一覧です」
「三沢様が触れられる家庭用口座は、久我様の実資産のごく一部にすぎません。彼女が移した三千二百七十万円については、法的に回収可能です」
俺は書類をめくり、十年間眠らせていた名前を見つめた。
隼誠キャピタル。
久我連合グループ。
玄武セキュリティ。
それらはすべて、俺が身を引く前に残していたものだった。綾香が望む普通の生活を送らせるため、俺は自分を小さな会社を経営するだけの夫に見せかけた。彼女と買い物へ行き、母と屋根を修理し、彼女が語る未来の計画に何度も付き合った。
それなのに、彼女はたかが数千万円のために俺を裏切った。
滑稽だった。
そのとき、知らない番号から電話がかかってきた。
俺は通話に出た。
「もしもし、久我さんですか?」
向こうから聞こえたのは、遠慮がちな女の声だった。綾香の友人、小倉美紗だった。
「何の用だ」
「綾香が……今、とてもひどい状態なんです」
小倉美紗の声には、わずかな哀願が混じっていた。
「仕事も失い、家にも戻れず、弁護士からの通知にも怯えています。昨夜、私のところに来て、一晩中泣いていました。本当に反省していると言っています」
「一度だけ会って、直接謝りたいそうです」
俺の心は少しも動かなかった。
「必要ない」
「俺と彼女はもう関係ない。これからは、彼女のことで俺に電話をしてくるな」
電話を切ろうとしたとき、小倉美紗が慌てて声を上げた。
「待ってください」
「彼女、あなたの秘密を握っていると言っていました。会ってくれないなら、その秘密を世間にばらして、あなたを破滅させると」
俺はわずかに眉をひそめた。
秘密。
俺と綾香の間に、あの失敗した結婚以外、彼女が俺を脅せるような秘密があっただろうか。
「好きにさせろ」
俺は電話を切り、スマホを卓上へ伏せた。
真壁弁護士が俺を見た。
「事前に対応なさいますか」
俺は首を振った。
「今の彼女が出せるものなど、せいぜい俺が若い頃、裏金融界の人間と一緒に写っている写真くらいだ」
「世論で遊びたいなら、遊ばせておけばいい」
俺は、綾香の最後の足掻きだと思っていた。
だが一週間後、突然の世論の嵐が俺を渦中へ押し上げた。
各SNSや週刊誌系サイトで、『隠れ富豪・久我隼人の黒い成り上がりを暴く』という記事が拡散された。記事は綾香の口調で書かれており、俺を偽善者、DV男だと涙ながらに告発していた。俺の白手起家など嘘で、本当は裏金融界の灰色の商売で元手を作ったのだと書かれていた。
記事には、若い頃の俺が堂島たちと並んで写った写真が数枚添付されていた。
さらに、俺が険しい顔で綾香を殴ろうとしているように見える偽造写真まであった。出来の粗い合成写真だったが、感情で燃え上がったネット上では、真偽など誰も気にしなかった。
コメント欄は、あっという間に怒りで埋まった。
「こんな人間が企業家を名乗るのか」
「妻が逃げた理由が分かった。DVされていたんだろう」
「金持ちは自分をきれいに見せるのがうまい。裏では何をしているか分からない」
「久我連合グループを警察が調べるべきだ」
つい先日、電撃的に商界へ復帰したばかりの久我連合グループ会長は、一夜にして「反社会的勢力」「DV男」「灰色資本」というレッテルを貼られた。
俺はオフィスで、見るに堪えないコメントを読みながら、少しずつ顔を冷やしていった。
俺はまだ、綾香の恥知らずさを見誤っていた。
復讐のためなら、彼女は平気で白を黒に変え、自分を被害者に仕立てる。
ほどなく堂島から電話が入った。声には怒りが押し殺されていた。
「隼兄貴。あの女を連れてこさせましょうか」
「必要ない」
俺は遮った。
「あいつは世論戦が好きなんだろう」
「なら、付き合ってやる」
俺はすぐに弁護士を通じて声明を発表し、すべての虚偽の告発を否定した。同時に、名誉毀損および虚偽情報の拡散に対して法的責任を追及すると明言した。そして堂島には、この騒動の裏にいる金の流れと仕掛け人を調べさせた。
「綾香ひとりで、あの記事を全域に押し上げられるとは思えない」
「誰が裏で金を出しているか調べろ」
堂島は長く待たせなかった。
その夜、彼は調査結果を持って俺のオフィスへ来た。
「隼兄貴、分かりました」
「今回の世論工作の背後にいるのは、獅堂ホールディングスです」
「それと、相馬蓮司は獅堂貴臣の親戚筋にあたります。単なる昔の同級生ではありません。獅堂が三沢綾香のそばに送り込んだ駒です」
獅堂貴臣。
その名を聞いた瞬間、俺はすべてを理解した。
これは単なる不倫や裏切りではなかった。ひとつの罠だった。
獅堂貴臣は、十年前に俺に敗れた男だ。当時、彼は新宿の裏金融界で俺に抑え込まれ、顔を上げられなかった。その後、表向きは身ぎれいにして獅堂ホールディングスを立ち上げ、投資家を名乗るようになったが、裏ではずっと俺の資産を狙っていた。
彼は、俺が家庭のために身を引いたことも、この十年あまり表に出ていないことも知っていた。
だから相馬蓮司を綾香に近づけた。彼女の虚栄心と昔の思い出を刺激し、俺の金を持ち出させ、母の還暦祝いの席で俺を追い詰める。俺が人前で手を出すか、惨めな姿をさらせば、その瞬間を使って世論で俺を潰せる。
見事な一石二鳥だった。
俺は椅子にもたれ、指で机を軽く叩いた。
「堂島」
「はい」
「全員に伝えろ。隼誠キャピタルを再稼働させる」
堂島の目が光った。
「隼兄貴、戻られるのですね」
俺は窓の外の東京の夜景を見ながら、静かに言った。
「十年も体を動かしていない」
「そろそろ、東京という盤面は誰でも触れるものではないと、思い知らせてやる」
獅堂貴臣が遊びたいというなら、最後まで付き合ってやる。
最後に破滅するのが誰なのか、見せてやる。
5.資本戦の始まり
翌朝九時。獅堂ホールディングスの株価は、取引開始から十分も経たないうちに異常な上昇を見せた。
市場に出ている流通株が、見えない巨大な資金によって次々と吸い込まれていった。獅堂貴臣は最初、好材料による短期的な買いだと思っていた。だが財務責任者が青ざめて執務室へ駆け込んできたとき、彼は事態の異常さに気づいた。
「会長。誰かが大規模に買い集めています」
「相手の資金量は非常に大きく、しかもコストをまったく気にしていません」
獅堂貴臣はすぐに会議を開き、株価を安定させ、資金を集めて反撃しようとした。だがすぐに思い知らされた。獅堂ホールディングスがどれだけ株を放出しても、相手はそれを瞬時に飲み込む。
彼は、自分が一本の手と向き合っていると思っていた。
しかし実際に彼を押し潰していたのは、海そのものだった。
同じ頃、俺は久我連合グループの臨時記者会見に姿を現した。
押し寄せる非難を前に、俺は逃げなかった。ただ真壁弁護士に、一本の完全な映像を流させた。その映像には、綾香と相馬蓮司がホテル最上階のスイートで、還暦祝いの場で俺を辱める計画、家庭資金の移動、そして相馬蓮司が獅堂ホールディングスの指示で綾香に近づいた
事実を認める様子が、はっきり記録されていた。
続けて、弁護士はホテルの監視映像、小切手の記録、賃貸サイトの記録、資金移動の証拠、そしていわゆるDV写真の鑑定報告を示した。
「写真は合成です」
「投稿内容には多数の虚偽が含まれており、名誉毀損、信用毀損、ならびに商業上の悪質な競争妨害に該当する可能性があります」
記者席が騒然となった。
俺を罵っていたアカウントは沈黙し始めた。最も積極的に拡散していた週刊誌系サイトのいくつかは、その夜のうちに記事を削除した。世論の風向きは、わずか数時間で完全にひっくり返った。
「妻のほうが不倫して金を持ち逃げしたのか」
「母親の還暦祝いでここまで辱められたら、誰だって耐えられないだろう」
「獅堂ホールディングスの手口が汚すぎる。夫婦のスキャンダルを使って商業攻撃か」
「相馬蓮司が気持ち悪すぎる。女をだまして金を取って、深情けの同級生を演じていたなんて」
綾香は「被害者の妻」から、全ネットが唾棄する裏切り者へ変わった。
相馬蓮司はさらに悲惨だった。バーで女をだまして金を取ると自慢していた映像が公開されたあと、彼が作り上げていた深情けの人物像は完全に崩壊した。以前彼を擁護していた人間まで、今度は彼をヒモ、詐欺師、最低の男と罵った。
だが、本当の戦場はネットではなかった。
獅堂ホールディングスの株価は、一日で三十パーセント以上も強引に吊り上げられた。獅堂貴臣は支配権を守るため、必死に資金をかき集めたが、動かせる金があまりにも足りないとすぐに悟った。
彼の融資は銀行から再審査を受け始めた。
取引先は様子見に回った。
彼名義の不動産はいくつも担保に入れられた。
彼がようやく息をつけると思った瞬間ごとに、俺は隼誠キャピタルに追加資金を投じさせ、彼がかき集めた金を粉々に踏み潰した。
一週間後、獅堂ホールディングスの株価は二倍になった。
俺は複数の機関を通じ、獅堂ホールディングスの大量の流通株を押さえていた。獅堂貴臣に次ぐ、最大の株主になっていた。
獅堂の資金繰りは、完全に切れた。
そのとき、綾香から電話がかかってきた。
彼女の声には、以前のような怨毒はなかった。ただ、恐怖と絶望だけがあった。
「隼人、もうやめて。お願い」
「獅堂貴臣がもう正気じゃないの。獅堂ホールディングスが倒れたら、私に責任を取らせるって言っているの」
「私がうまくやらなかったせいで、自分が暴かれたんだって」
「死にたくない。私、本当に死にたくない」
俺は彼女の泣き声を聞きながら、少しも憐れまなかった。
「今さら怖くなったのか」
「お前があいつと組んで俺に泥を塗っていたとき、今日が来るとは考えなかったのか」
綾香は電話の向こうで、言葉にならないほど泣いていた。
「私が悪かった。本当に悪かったの」
「相馬蓮司を信じるべきじゃなかった。あなたを裏切るべきじゃなかった。助けて。十年も夫婦だったでしょう。お願い、助けて」
俺は少し黙り、それから冷たく言った。
「お前は死なない」
電話の向こうの泣き声が一瞬止まった。
「獅堂貴臣が手を出す前に、俺がお前を警察へ送るからだ」
綾香は完全に崩れた。
「久我隼人。そんなこと、私にできるわけないでしょう」
「私はもう、何も持っていないのよ」
俺は机の上に置かれた、母の赤珊瑚のブローチを見た。包装紙は、あの日に破られたままだった。
声には一切の揺れがなかった。
「それが、お前にふさわしい結末だ」
俺は電話を切った。
最後の決戦が来た。
6.臨時株主総会
獅堂ホールディングスの臨時株主総会が開かれた日、東京には雨が降っていた。
獅堂貴臣が会場へ入ってきたとき、その顔は陰鬱だった。高価な黒いスーツを着て、背後には弁護士や幹部を従えていた。表面上はまだ落ち着いていたが、目の奥の焦りは隠せていなかった。
彼は株主席の最前列に座る俺を見つけ、足を止めた。
「久我隼人」
「十年ぶりだというのに、相変わらず物事を徹底的にやる男だな」
俺は彼を見上げた。
「獅堂貴臣。十年前に負けたことがよほど悔しかったらしいな。十年経っても、使う手は相変わらず下品だ」
獅堂は冷笑した。
「商売は結果がすべてだ」
「少し流通株を集めたくらいで、私を揺さぶれると思うな」
俺は答えなかった。
会議が始まると、真壁弁護士は主要株主代理人として、分厚い資料を提出した。その中には、獅堂貴臣による会社資金の流用、関連会社を使った粉飾、競合への世論操作、インサイダー取引、そして相馬蓮司に綾香へ接近させた証拠が含まれていた。
ページの一枚一枚が、刃物のようだった。
獅堂貴臣の顔色は、陰鬱から青白くなり、やがて鉄のように硬くなった。彼は何度も真壁弁護士の発言を遮ろうとしたが、ほかの株主たちに厳しく制止された。
かつて彼に従っていた株主たちは、今では誰よりも早く彼との関係を切ろうとしていた。
「獅堂会長、これらの証拠は事実なのですか」
「会社資金を私的な買収に流用したのなら、説明していただきたい」
「この件がさらに広がれば、獅堂ホールディングスは終わりです」
獅堂貴臣は机を叩いた。
「黙れ」
「お前たちは、久我隼人が何者か知らないのか。あの男が昔、新宿の裏金融界で何をしていたか、本当に知らないのか」
俺は静かに彼を見た。
「俺が昔何をしていたかは、法律と帳簿が判断する」
「だが、お前が今何をしたかについては、すでに警察が扉の向こうで待っている」
会議室の扉が開いた。
数人の警察官が入ってきて、逮捕状を示した。獅堂貴臣の表情がついに崩れた。彼は俺を見た。目には怨毒が満ちていた。
「久我隼人。お前は勝ったつもりか」
「お前のような人間も、いつか必ず引きずり下ろされる」
俺は警察に押さえられる彼を見ながら、淡々と言った。
「少なくとも今日、引きずり下ろされるのはお前だ」
獅堂貴臣が連行されたあと、獅堂ホールディングスは正式に支配権を失った。
同じ日、綾香と相馬蓮司も警察の事情聴取を受けた。相馬蓮司は詐欺、恐喝、商業上の名誉毀損への関与を疑われ、綾香は夫婦共有財産の悪意ある移転、名誉毀損、信用毀損の疑いをかけられた。
綾香は連れて行かれる直前、警戒線の向こうに俺を見つけた。
彼女は突然こちらへ駆け寄ろうとしたが、警察官に強く押さえられた。
「隼人」
「私が悪かった。本当に悪かったの」
「もう一度だけ、私にチャンスをちょうだい。刑務所になんて入りたくない。みんなに罵られるのも嫌なの」
雨水が彼女の髪を伝って落ちていた。高価なコートはしわだらけになり、化粧は崩れていた。スクリーンの中でワイングラスを持ち、高慢に笑っていた女はもういない。そこにいたのは、自分の欲に食い尽くされた敗者だけだった。
俺は近づかなかった。ただ階段の上に立ち、彼女を見下ろした。
「綾香」
彼女は最後の救いにすがるように、何度も頷いた。
「聞いているわ。ちゃんと聞いている」
俺は彼女を見て、一語ずつ告げた。
「さよならだ」
彼女の表情が凍った。
次の瞬間、狂ったように叫び出した。
「久我隼人。死んでもあなたを許さない」
俺は振り返らなかった。
背後に降る雨音は、この馬鹿げた結婚に最後の句点を打つ音のようだった。
7.遅すぎた結末
三か月後、裁判が開かれた。
獅堂貴臣は複数の罪に問われ、長期の実刑判決を受けた。獅堂ホールディングスは社名を変えて再編され、久我連合グループ傘下へ正式に組み込まれた。経営は、外部から招いた専門チームが引き継いだ。
相馬蓮司は詐欺、恐喝、商業上の名誉毀損への関与により、服役することになった。彼がこれまで作り上げてきた深情け、体面、優しさはすべて、法廷資料の中で最も滑稽な注釈になった。
綾香には、懲役十年の判決が下された。
判決の日、彼女は被告席に立っていた。ひどく痩せ、見る影もなかった。最初は怨毒に満ちていた目が、やがて空虚になり、最後に俺を見つけた瞬間だけ、卑しいほどの哀願を浮かべた。
俺は傍聴席に座り、何の表情も浮かべなかった。
彼女は口を開き、声にならないまま俺の名前を呼んだ。
俺は応えなかった。
その瞬間、ふと十年前の彼女を思い出した。
あの頃、彼女は白いワンピースを着て、大学の銀杏並木の下に立っていた。危険な男は好きではない、ただ穏やかな家庭が欲しいのだと、俺に言った。俺はそれを信じた。本当に刃をしまい、過去を引き出しの奥へ閉じ込め、彼女と十年、普通の生活を送った。
けれど彼女は、一度もそれを大切にしなかった。
彼女は、俺の譲歩を弱さだと思った。俺の沈黙を無能だと思った。家庭用口座の金を持ち去れば、俺を絶望へ追い込めると思った。
彼女は知らなかったのだ。
人間が本当に恐ろしいのは、手元にどれだけ金を持っているかではない。
もう一度立ち上がる覚悟があるかどうかだ。
裁判が終わったあと、俺は母を連れて下町の古い家へ戻った。
家はすでに修繕されていた。火事で黒く煤けていた外壁は塗り直され、庭の小さな石灯籠もきれいに拭かれていた。母はあの赤珊瑚のブローチを木箱にしまい、還暦祝いの日のことを二度と口にしなかった。
夜、母は俺に茶を淹れてくれた。
「隼人」
「何だ」
「これからは、価値のない人のために、自分を閉じ込めてはいけないよ」
俺は湯のみを握り、窓の外の細い雨を見た。
「もうしない」
母は静かにうなずいた。
「それならいい」
俺は畳の上に座り、軒先を打つ雨音を聞いていた。心は、今までにないほど静かだった。
綾香。
相馬蓮司。
獅堂貴臣。
あいつらは、俺を絶望へ追い込めば、俺の笑いものにできると思っていた。
だが、間違っていた。
あいつらは、自分たちの手で、十年ものあいだ俺が葬っていた久我隼人を目覚めさせただけだった。
これから先、俺は二度と、裏切り者のために頭を下げない。
そして二度と、誰にも母の尊厳を踏みにじらせない。
東京の雨は、まだ降り続いていた。
俺の人生は、ようやくもう一度始まった。




