チートの回復魔法で治せない病が流行ったので、前世が小児科医だったから普通の診察で子供たちを救うことにした
一 凡人枠、孤児院に立つ
死んだのは、帰り道だった。
四十二歳。交通事故。
——正確に言えば、過労死だ。地域の休日夜間急患センターの徹夜当直を終え、そのまま休まず自分のクリニックの午前診療をこなし、夜までレセプト作業。三十六時間の連続勤務の果てに、深夜にクリニックを出て、自転車で帰る途中。信号を見落とした。トラックのヘッドライトが目に入った瞬間に、ああ、と思った。
最後に考えたのは、患者のことだった。
(明日の午前、三歳児健診が八人入ってるんだった……)
馬鹿な死に方だ。
四十二歳。地方の小児科クリニック院長。小児科医としてのキャリア十五年。大学病院のポストを断って三十五歳で開業し、七年間で「先生のところに行けば大丈夫」と言ってもらえる町医者になった。
論文ゼロ。学会発表ゼロ。肩書きは「町の先生」だけ。
——でも、三歳児健診で「先生、うちの子、ちゃんと大きくなってますか?」と聞いてくるお母さんに「大丈夫ですよ。順調です」と答える瞬間が、俺にとっての医学のすべてだった。
そのすべてを、三十六時間連続勤務で壊した。再検査に行く暇もなく、休みを取る余裕もなく、信号を見落として死んだ。
医者の不養生。笑えない。
——気がつくと、真っ白な空間にいた。
……は?
死後の世界? 臨死体験? 意識がぼんやりしている。病院の集中治療室で機械に繋がれているのか、それとも——
「はいはい、ご愁傷様でした」
カウンターの向こうに、とんがり帽子に星柄マントの青年が座っていた。杖には「MAGIC★PREMIUM」の刺繍。妙に生地が良い。趣味は壊滅的だが、素材だけは上等だ。
——これ、ラノベで読んだことがある。
待機当番の合間にアプリで読む小説が、三十代の開業医の少ない娯楽だった。異世界転生もの。死んで、神様みたいな存在に会って、チートをもらって異世界へ。小児科の同期にもソシャゲー好きは多かったし、医療業界は意外とゲーマーが多い。当直明けの休憩室でスマホをいじる中年男の姿は、制服姿の高校生と大差ない。
まさか自分がその「お約束」の当事者になるとは思わなかったが。
「転生窓口の担当、ツクヨです。——マントの生地が気になりました? 最近ちょっと成績が良くて、ランクアップしたんです。ウール混紡デラックスです」
「……あの、すみません、状況が飲み込めていないんですが。ここはどこで、何が起きているんでしょうか」
「あ、すみません。前置きなしでいきなり本題に入るのは良くないですよね。——死因、拝見しました」
ツクヨが書類をめくり、顔をしかめた。
「交通事故、ですが……三十六時間連続勤務の後ですよね。これ、実質過労死です」
「……否定できません」
「医者の不養生って、前世の世界では慣用句だと聞きましたが、ここまでリアルに体現する方は珍しいですよ」
「すみません」
「謝らなくていいです。怒ってるわけじゃないので。——さて、本題です」
ツクヨが宙に光る文字を浮かべた。
『高橋瑞希 前世:小児科クリニック院長(十五年) 付与チート:なし 補助スキル:言語理解(標準装備のみ)』
「……チートなしですか」
「凡人枠なので。以前の案件が好成績だったおかげでマントの生地代は出ましたが、チート付与の予算にはまだまだ足りません」
「マントに使ったんですか」
「上層部の判断です。個人的には、せめて聴診器くらい付けてあげたかったんですが」
「聴診器があったところで、使い手がいなければ意味ないですよ」
「使い手ならここに一人いますよね」
「……まあ」
「で、案件なんですが。チートの回復魔法があるのに、子供が治らないんです」
俺は目を細めた。
——回復魔法。ブリーフィング資料にも記載があった。この世界の医療の根幹だ。怪我をすれば治す。骨が折れれば接ぐ。やけどは一瞬で消える。万能だ。
——と、みんなが思い込んでいる。
「回復魔法は外傷特化でしょう? 『壊れたもの』を『元の状態に戻す』魔法であって、体内で増殖する感染症や、栄養失調に起因する発達の遅れには効かない」
ツクヨが目を丸くした。
「……はい。その通りなんですが、なぜ説明前に分かるんですか」
「小児科医十五年やってれば、『魔法の治療で治らない症状』と聞いた瞬間に鑑別診断が始まります。——回復魔法が治せないものリストは、だいたい想像がつきますよ。感染症、栄養失調、先天性疾患、発達の遅れ。全部、外傷じゃないから」
「話が早すぎて逆に不安です」
「医者は問診が命なので。情報は早く出していただいたほうが助かります。——で、具体的には?」
「魔王軍との戦争で親を失った子供たちが孤児院に集められています。回復魔法をかけても効かない、原因不明の熱と衰弱が続いていて。このまま放置すれば——」
「子供が死にます」
「……ええ」
「行きます」
「え、もう? もうちょっと説明を——」
「説明は現地で聞きます。子供の病状は一分一秒で変わるので。——ただ、予算不足でチートがないのは構いませんが、清潔な水と、布と、火を起こす手段と、塩があれば、とりあえず戦えます」
「予防医学にチートは要らないと?」
「必要なのは清潔な水と、バランスのとれた食事と、手洗いの習慣です。——前世でも、異世界でも、それは変わりません」
ツクヨが何かメモを取っていた。
「すみません、今のいい台詞だったので記録しました。上層部への報告書に使います。『凡人枠第五号、チート不要と即答。予算申請の必要なし』と」
「もう少しマシな書き方をしてください。——あと、身体調整はどうなりますか」
「はい。享年四十二歳なので、十五歳分若返らせて二十七歳でお届けします。——前回の案件で予算が増えたおかげで、若返り幅が大きくなりました」
「二十七歳か。……前世だと、後期研修に入ったばかりの一年目の年齢ですよ。ベテランの知識が新人の身体に入るのは、違和感がすごいですね」
「あと——身体の件なんですが」
「はい?」
「女性になります」
「…………は?」
——TS転生。ラノベでもよくあるやつだ。まさか自分の身に降りかかるとは。
「子供は若い女性のほうが警戒しません。孤児院での信頼構築を考慮した最適配置です。——あと、率直に申し上げると、男性の身体が在庫切れでして」
「在庫切れ?」
「男性の転生者はほぼ全員が男性の身体を希望されます。当然ですよね。でも、女性の転生者の中には『次は男がいい』と希望される方もいらっしゃるので、男性の身体は常に不足気味なんです」
「……需要と供給の問題ですか」
「はい。行政みたいですみません。——でも大丈夫です、子供を診る能力に性別は関係ないでしょう?」
「それはそうですが……。四十二年間おっさんでしたからね、いろいろと、その」
「ちなみに以前の凡人枠の方々も、見た目と中身のギャップには最初戸惑ってましたが、三日で慣れたそうです」
「三日で慣れるものなんですか」
「知りません。私は性別変えたことないので。——あ、それと」
「まだあるんですか」
「今度は車に気をつけてくださいね」
「異世界に車があるんですか」
「ありません。……馬車はありますが」
光が溢れた。
◇ ◇ ◇
目を開けると——声がした。
子供の泣き声だ。
一つではない。二つ、三つ。重なり合うように、か細く、弱々しい泣き声が聞こえる。
石造りの建物の中。窓から差し込む光は明るいが、空気が重い。消毒されていない空気の匂い。汗と、微かな腐敗と、乾いた土の匂い。
——前世のクリニックとは違う。でも、「病気の子供がいる場所の空気」は、どの世界でも同じだ。鼻が覚えている。
最初に確認したのは自分の身体だった。
手を見る。白い。細い。爪がきれいだ。四十二年間のおっさんの手ではない。
——二十七歳の、女性の身体。
(慣れるのに三日かかるそうだが、今はそれどころではない)
「——あなたが、神託で伝えられた……」
白い法衣の老女が、廊下の奥から歩いてきた。六十代。顔には深い皺が刻まれ、目の下にはクマがある。善意はあるが、疲弊しきっている——そういう顔だ。前世で何度も見た。一人で子育てを抱え込んだ母親の顔。一人で患者を抱え込んだ看護師長の顔。
人手が足りない現場の顔だ。
——神託。ツクヨが事前に「転生者が行く」と現地に通告してくれたらしい。チートも魔法もないが、神託という信用があるおかげで、少なくとも話は聞いてもらえる。これは、ありがたい。
「はい。タカハシ・ミズキです。——子供の病気を専門に診る医者です」
「シスター・エルマと申します。この孤児院の院長を務めております。……子供専門のお医者様。そんな方がいらっしゃるのですか」
エルマの顔に、一瞬だけ光が差した。
そしてすぐに消えた。
「……回復魔法はお使いになれますか?」
「使えません。——小児科医というのは、前世での職業です。魔法の代わりに、前世の知識と経験だけを持って送り込まれた『凡人枠』という枠の転生者です。特殊能力は一切ありません」
「特殊能力がない……では——失礼ですが、何ができるのですか?」
「診察ができます。子供が何の病気か、なぜ治らないか、それを調べることができます。——まずは、一番症状の重い子を見せてください」
エルマが俺を奥の部屋に案内した。
木のベッドが六つ並んだ部屋。薄い毛布。窓は開いているが、風は入ってこない。
一番奥のベッドに、小さな女の子が横たわっていた。
七歳くらい。痩せすぎている。頬骨が浮き出て、腕は前世の感覚でいえば「三歳児の太さ」しかない。額に手を当てなくても、離れたところから見て分かる。高熱だ。呼吸が浅い。
目を閉じているが、時折うなされるように手足を動かしている。
——重症だ。
「この子は?」
「リリ。七歳です。三週間前から熱が下がりません。食事もほとんど取れなくて……」
俺はベッドの脇にしゃがんだ。
自然と、前世で何千回もやった所作が出てくる。
「リリちゃん。先生だよ。ちょっとお話聞かせてね」
目を開けた。茶色の瞳。焦点が合うのに少し時間がかかった。
「……だれ?」
「お医者さんだよ。——お腹、痛い?」
「……ん」
頷いた。声が小さい。脱水が進んでいる。
「いつから痛くなった?」
「……ずっとまえ」
「ずっと前」。子供の時間感覚で「ずっと」は、一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれない。ここから情報を引き出すのが、問診の技術だ。
「ごはん食べたら痛くなる? それとも、食べなくても痛い?」
「……たべたら」
「お水は飲んでる?」
「……いどの」
井戸の水。
——一つ、引っかかった。
「エルマさん。ここの井戸水は、沸かしてから飲ませていますか?」
「いいえ。井戸水はそのまま……。以前は広場のルーン噴水が浄水してくれていましたが、戦後に止まってしまって。今は井戸が唯一の水源です」
「最近、何か変わったことは? 雨の量とか、水の色とか」
「……言われてみれば、ここひと月ほど雨が降らなくて、井戸の水位がずいぶん下がりました。底のほうの泥が混ざるようになったと、子供たちが言っていて……」
「水位が下がると、底に沈殿していた汚染物質が攪拌される。普段なら薄まっていた菌の濃度が、一気に上がったんでしょう」
頭の中で、鑑別診断のリストが回り始めた。
二 回復魔法では治せない病
リリの診察を続けた。
顕微鏡はない。聴診器もない。血液検査も、尿検査もできない。
——でも、俺には手がある。
小児科医の手だ。前世で何千人の子供を触診してきた手だ。
腹部を触る。右下腹部に軽い圧痛。腸が張っている。
手の甲の皮膚をつまむ。戻りが遅い。——ツルゴール低下。重度の脱水だ。
指の爪を強く押して離す。赤みが戻るまでの時間を数える。遅い。——毛細血管再充満時間の延長。末梢の血流まで悪くなっている。
舌を見せてもらう。白苔がかかっている。口腔内も乾燥している。
手のひらを見る。爪床が白い。——貧血。
問診、視診、触診。器具がなくてもできる三つの武器。前世の救急外来でも、画像を撮る前にまずこれをやれと研修医に教えた。機械に頼る前に、五感で患者を診ろ。
(——聴診器だけだ。聴診器だけがあれば、腸蠕動音が聞ける。あとは全部、手と目と耳でできる)
「所見をまとめます」
エルマに向き直った。
「リリちゃんの症状は、高熱、腹痛、下痢、重度の脱水、貧血。これは外傷ではありません。体の中で悪いものが増えている。——水を介した感染症です」
「感染症……?」
「目に見えないほど小さな悪い虫——菌が、水と一緒に体の中に入って、お腹の中で増えている。増えるたびに毒を出すので、熱が出る。体が戦おうとしてリンパが腫れる。栄養を奪われて貧血が進む」
「でも、回復魔法を何度もかけているんです。教会の治癒士さんに来ていただいて——」
「回復魔法は、効かないはずです」
エルマの顔がこわばった。
「回復魔法は『壊れたもの』を『元に戻す』魔法です。切り傷を塞ぐ。骨を接ぐ。やけどを治す。——でも、体の中で増えている菌は『壊れたもの』ではありません。生きています。生きているものを『元に戻す』とは、どういう意味ですか?」
「……」
「回復魔法で一時的に熱は下がったでしょう? でも数時間で戻ったはずです。症状をリセットしているだけで、原因は消えていないからです。——前世の世界にも似たものがありました。消臭剤を撒いても、排水溝の詰まりを直さなければ臭いは戻る」
「解毒魔法なら……」
「解毒魔法ですか。たしかに、菌が出す毒は消せるかもしれません。でも、菌そのもの——毒を出し続ける『生き物』は殺せない。毒を一瞬消しても、菌が生きていればまた毒を出します。——いたちごっこです」
——この世界の回復魔法も解毒魔法も、「壊れたものを直す」「毒を消す」ことはできる。だが、「生きている微生物を殺す」ことはできない。抗生物質に相当するものがないのだ。
「じゃあ、どうすれば……」
「まず、原因を確かめます。——井戸を見せてください」
孤児院の裏庭に、石組みの井戸があった。
水を汲み上げる。肉眼では澄んだ水に見える。匂いもない。
——だが、見た目が澄んでいても安全とは限らない。前世でも、透明な水から病原性大腸菌が検出されたことは何度もある。
「布をください。できるだけ目の細かいもの」
エルマが古いリネンを持ってきた。
四つ折りにして、さらに半分に折って八重にする。その上から井戸水を注ぐ。
——布濾過試験。前世でバングラデシュのコレラ対策に使われた「サリ濾過法」の応用だ。高度な器具がなくても、布を使って水中の微細な浮遊物を可視化できる。
水が布を通過した後、布を広げた。
微かに、茶色い汚れが残っている。
「見てください。これが布に残った汚れです。肉眼では見えなかった微細な浮遊物——菌の塊を運ぶ『運び屋』です」
エルマが息を呑んだ。
「でも本当に怖いのは、この布を通り抜けてしまうほど小さな、目に見えない病の種です。だから布で濾すだけでは不十分で、必ず沸かして熱で殺さなければなりません」
「沸かす……? お水を?」
「はい。火にかけて、ぐらぐらと煮立たせる。それだけで、水の中の悪い虫はほとんど死にます。——これだけのことで、子供が病気になる確率は劇的に下がります」
「そんな……簡単なことで?」
「簡単です。簡単だからこそ、誰もやってこなかった。——チートの回復魔法があれば病気は治ると思い込んでいたから、そもそも『病気にならないようにする』という発想がなかった」
感染経路の仮説を組み立てる。
この地域は魔王軍との戦場だった。地下には残留魔力がある。その残留魔力そのものは毒ではない。だが——
ツクヨから渡されたブリーフィング資料を思い出す。『戦後の残留魔力は、地下水脈を通じて周辺の生態系に影響を与えることがある』——あの一文だ。
「エルマさん。この井戸はいつ頃から使っていますか?」
「戦後すぐ……五年くらい前からです。噴水が止まったので、井戸を掘るしかなかったのです」
五年前から。戦場の跡地に掘った井戸。
資料の記述と符合する。残留魔力が地下水脈に溶け出し、それを養分にして、魔力すら持たないただの自然界の菌が異常繁殖している。
魔力を持たない生き物だから、魔法のセンサーには引っかからない。感知魔法は「魔力を持つ存在」を検知するものであり、魔力を持たない微生物は対象外だ。
勇者が倒したのは地上の魔物だ。魔力すら持たないただの菌は、そもそも討伐対象ですらない。勇者の剣で斬れないどころか、敵とすら認識されない。
——だが、煮沸すれば死ぬ。手洗いで洗い流せる。
「チートの勇者は地上の魔物は全部倒しました。でも、目に見えないほど小さな、魔力すら持たないただの虫は、勇者にとって敵ですらなかった。剣で斬れない。魔法で検知できない。でも——」
「でも?」
「煮沸と手洗いで殺せます」
エルマは黙って俺の顔を見ていた。
その目に浮かんでいたのは——驚きではなく、「こんな簡単なことだったのか」という感情だった。
五年間。
子供たちは五年間、汚染された水を飲んでいた。
「——まず、今すぐ飲料水の煮沸を始めてください。井戸水を大きな鍋で沸かして、冷ましてから飲ませる。生水は一切禁止です。次に、手洗い場を作ります。食事の前と排泄の後は必ず手を洗うこと」
「……はい」
「それから、子供たちに手洗いを教えます。——ちょっと集めてもらえますか? 動ける子だけでいいです」
孤児院の広間に、十五人ほどの子供が集まった。
五歳から十二歳。痩せた子が多い。目にくまのある子も。でも、新しい大人が来たことに、好奇心の目を向けている。
——子供は、正しいことを正しく教えれば聞く。怒鳴る必要はない。脅す必要もない。分かるように説明すれば、子供は自分で判断できる。
十五年間、ずっとそう信じて診療してきた。
「みんな、こんにちは。先生です。今日はね、みんなに一つだけ覚えてほしいことがあります」
子供たちが俺を見上げた。
「手を洗いましょう。ごはんの前と、おトイレの後。——手にはね、目に見えないくらい小さな悪い虫がいるの。水を沸かすと死ぬけど、手についたまま食べ物を触ると、お腹の中に入っちゃうんだよ」
「悪い虫? 見えないの?」
「見えないよ。すっごく小さいから。でも、いるの。だからね——」
バケツに汲んだ煮沸済みの水を使って、手の洗い方を見せた。
「ほら、指の間もしっかりごしごし。爪の中にもかくれてるからね」
「こう?」
「上手だね。——すごいね、一回で覚えた」
子供が笑った。
前世でも、新しいことを覚えた子供はこういう顔をする。世界のどこでも同じだ。
三 チートの聖女、登場
煮沸と手洗いを始めて三日目のことだった。
馬車が孤児院の前に止まり、一人の女性が降りてきた。
金色の髪に、白銀の法衣。背が高く、姿勢が美しい。二十代前半に見えるが、存在そのものに威圧感がある。
——周囲の空気が変わった。子供たちが手洗いの手を止めて駆け寄る。エルマが慌てて法衣の裾を直す。
「聖女セラフィナ様!」
「みんな、元気? ——って言いたいところだけど、元気じゃないわよね」
聖女セラフィナ。A級チート転生者。回復魔法特化。
各地を巡回して怪我人を一瞬で治す「奇跡の聖女」として知られている。骨折も切り傷もやけども、彼女が手をかざせば数秒で消える。
セラフィナはまず、広場にいた子供たちの擦り傷や打撲を片っ端から治した。光を纏った手をかざすと、傷が消える。子供たちが歓声を上げる。
——治療ではない。外傷の修復だ。子供にとっては同じに見えるが。
俺は少し離れた場所から見ていた。
彼女の回復魔法は確かに見事だ。精度も速度も申し分ない。外傷に関しては、前世の先端医療を超えている。
だが——俺が知りたいのは、一つだけだ。
セラフィナが奥の部屋に入り、リリのベッドの前に立った。
「この子は?」
「三週間、高熱が下がりません。回復魔法を何度かけても——」
「分かってる」
セラフィナが手をかざした。光が灯り、リリの身体を包む。
——五秒。十秒。十五秒。
セラフィナの顔に、微かな焦りが浮かんだ。
「……駄目ね。くっつかない。壊れてる場所が見つからない」
「壊れてないからです」
俺が声をかけた。セラフィナが振り向いた。
「あなたは?」
「この孤児院に派遣された凡人枠です。小児科医をやっています」
「小児科医。——子供専門のお医者さん?」
そうだ。セラフィナも転生者だ。前世の記憶がある以上、「小児科」という言葉は知っているはずだ。
セラフィナが俺を見た。上から下まで。
若い女の身体だ。セラフィナから見れば、同世代か少し年下に見えるだろう。
「凡人枠の……お医者さん? 回復魔法は?」
「使えません」
「じゃあ、何ができるの?」
「この子が何の病気か、すでに分かっています。——そして、あなたの回復魔法では治らない理由も」
セラフィナの目が鋭くなった。
「回復魔法は『壊れたもの』を『元に戻す』魔法です。この子の体は壊れていません。体の中で菌が増殖しています。菌は生き物です。生き物を戻す先はない。——だから回復魔法が空振りする」
「……それは知ってるわ。回復魔法の限界くらい、私だって分かっている」
「ですよね。——ではなぜ、他の対処をしなかったんですか?」
沈黙が落ちた。
「回復魔法で治らないなら、手洗いと煮沸で感染を防げばいい。原因不明の病じゃない。水系感染症です。五年間、汚染された井戸水を飲ませていたから子供が倒れている。対処法は——」
「抗生物質がこの世界にないことくらい知ってるわよ」
——来た。
セラフィナの声が、一段低くなった。
「前世で看護学校に通っていたんでしょう」
セラフィナの目が見開かれた。
「なぜ——」
「回復魔法の限界を『分かっている』のに、感染症への対処を『しなかった』。この矛盾が成り立つのは、前世で医療知識を持っていた人間だけです。知識があるのに使わない。——それは、知識がないのとは違う」
「……私は二年で中退したわ。看護学生を二年やっただけ。抗生物質がない世界で感染症をどうしろっていうのよ。手洗いと煮沸? そんな原始的な方法で——」
「——君、基礎看護学を忘れたのか?」
自分でも驚いた。
声が変わった。つい数秒前まで、二十七歳の女性として穏やかに話していたのに。
今出てきたのは——四十二歳のベテラン医師の声だった。大学病院で研修医を指導してきた声。命に関わる場面で手を抜いた後輩を叱る、あの声。
TSFで見た目は変わっても、俺の中に染みついた十五年分の「指導医の威圧」は消えていなかった。
セラフィナが息を呑んだ。
目の前にいるのは、見た目はただの若い女性だ。自分と同世代か年下に見える。
なのに——得体の知れない重圧を感じた。研修時代の、いや、看護学校の実習で担当教員に叱られた時の——あの感覚。
「——っ、はいッ!」
反射だった。
A級チートの聖女が、反射的に背筋を伸ばし、直立不動になっていた。
——俺自身が一番驚いた。中身のおっさんが漏れた。
(いかんいかん。女性の身体で男の口調が出ると怖いんだった)
一拍置いて、声を戻した。
「……失礼。——セラフィナさん。ナイチンゲールを知っていますか」
「……ナイチンゲール。看護の母ですよね。もちろん習いました」
「ナイチンゲールの時代にも抗生物質はありませんでした。ペニシリンの発見は彼女の死後です。でも、彼女は手洗いと衛生管理だけで、クリミア戦争の野戦病院の死亡率を劇的に下げた」
「……」
「煮沸消毒、手洗い、隔離——ナイチンゲールが証明した基礎的な衛生管理と、現代の経口補水の知識。抗生物質がなくても戦える武器は、あなたの中にあったはずです。前世で習わなかったとは言わせませんよ」
「……習いました。全部、一年生の教科書に書いてあった」
セラフィナの声が、小さくなった。
「でも——チートの魔法があるのに、そんな原始的な方法を取る必要があると、思えなかった。回復魔法で何でも一瞬で治せるのに、わざわざ手を洗って、水を沸かして、一人一人の体温を測る? 非効率じゃない?」
「非効率です。でも、効率の問題じゃない。——あの子は今、あなたの効率的な回復魔法では治らない。治らないと分かった上で放置した。それは、非効率どころか——」
「……怠慢だって、言いたいのね」
「はい。怠慢です。——二年間とはいえ看護を学んだ人間が、目の前で子供が衰弱していくのを見ながら『チートで治せないから仕方ない』と放置した。それは怠慢以外の何ですか」
セラフィナの顔が真っ赤になった。怒りではない。——羞恥だ。自分でも分かっていた核心を、他人の口から突きつけられた痛み。
「……っ、あなたに何が分かるのよ」
セラフィナの声が、震えた。
「私が看護学校を辞めた理由も知らないくせに。——母が死んだの。入院してから三ヶ月。私が一年生の冬。面会に行くたびに痩せていって、管が増えていって。最後は意識もなくて、ただ機械の音だけが鳴っていた」
「……」
「医学なんて無力だって思った。あれだけの設備があって、あれだけの専門家がいて、母一人救えない。——二年目に入って、実習で病棟に出たら、同じような患者が何人もいた。治らない人。良くならない人。ただ苦しみが長引くだけの人。耐えられなかった」
セラフィナの目から、涙がこぼれた。
「だからこの世界に来て、万能の回復魔法をもらえた時——これだって思った。もう誰も死なせなくていい。目の前の怪我は全部治せる。前世でできなかったことが、全部できる。——それが嬉しくて、誇らしくて」
「……だから、回復魔法で治せないものに出会った時、認めたくなかった」
「……はい。また、あの無力感に戻るのが嫌だった。前世の——母を看取った時の、あの感覚に。だから目をそらした。『チートでも治せないなら仕方ない』って——前世と同じ言い訳で」
俺は黙っていた。
——分かる。痛いほど分かる。
医療とは無力感との戦いだ。十五年間、小児科医をやっていれば、救えなかった子供の顔は全部覚えている。大学病院時代、三歳で白血病と診断されて、半年で亡くなった男の子。先天性の疾患で生まれてすぐNICUに入って、一度も退院できなかった赤ちゃん。
——医学は万能ではない。どの世界でも。
でも。
「セラフィナさん」
「……なに」
「医学は——確かに万能じゃない。前世でも、この世界でも。救えない命はある。あなたのお母さんを救えなかったのは、医学の限界であって、あなたのせいではない」
「……」
「でもね。——あなたのお母さんの病室で、管を一本一本確認して、バイタルを記録して、体位を変えて、口腔ケアをして。意識がなくても毎日声をかけて、清拭をして、褥瘡ができないように見回っていた人がいたはずです」
セラフィナが目を見開いた。
「看護師です。——あなたのお母さんのそばにいて、治せなくても、最期までケアを続けた人たちがいた。あなたが看護学校に入ったのは、その姿を見たからでしょう?」
「……っ」
セラフィナが手で顔を覆った。
「医学は万能じゃない。この世界のも、前世のも。——でも、医療従事者がすごいのは、万能じゃないと分かった上で、それでも患者のそばに立ち続けることです。諦めない。目をそらさない。治せなくても、できることを探し続ける」
俺はセラフィナの目を見た。
「あなたはこの世界で、毎日何十人もの怪我人を治してきた。骨折も、切り傷も、やけども。——誰に頼まれなくても、各地を回って、回復魔法をかけ続けた。それは怠慢ですか? それは逃げですか?」
「……」
「違うでしょう。——あなたは前世で母を失った痛みを知っているから、目の前の患者を一人でも多く救おうとした。看護学校は中退したかもしれないけど、あなたの中の『患者のそばにいたい』という想いは、ずっと生きていた」
セラフィナが崩れるように泣いた。
声を殺さなかった。A級チートの聖女が、子供のように泣いた。
「ただ——目の前の外傷だけじゃなく、目に見えない病気にも、向き合ってほしい。治すだけが医療じゃない。予防して、記録して、一人一人を見守る。それも立派な医療です。——前世の教科書に書いてあったことを、もう一度思い出してください。あなたはそれを学ぶだけの力を持っている人だから」
「……はい」
「チートの万能感に溺れたのは、反省してください。それは事実です。でも——あなたが医療を捨てていないことも、事実です」
俺はリリのベッドに向き直った。
「今からでも遅くない。——一緒にやりましょう。先輩として言いますが、チーム医療は一人じゃできない。俺には、あなたの力が必要です」
セラフィナが一瞬、目を丸くした。
(俺……?)
——でも、その目は真剣だった。取り繕う余裕もないほどの、本気の目。見た目は若い女性なのに、声に十五年分の重みが滲んでいる。
セラフィナは何も言わずに、姿勢を正した。
「……私に、何ができるの?」
「煮沸した水を冷ます間に、塩と、甘い果実と、蜂蜜を集めてください」
「蜂蜜?」
「経口補水液を作ります。水一リットルに対して、塩を小さじ半分、糖分を大さじ二杯。精製砂糖はこの世界にはないから、森で採れる甘い果実の絞り汁と、村の養蜂家から譲ってもらう蜂蜜で代用します」
「蜂蜜……? 待ってください、小さな子には毒じゃないですか!?」
セラフィナが声を上げた。
——ボツリヌス菌。一歳未満の乳児に蜂蜜を与えてはいけない。看護学校の一年生で習う基本中の基本だ。
「……よく覚えているね。でも安心して、ここの孤児は一番下でも五歳だ。消化器官が発達している年齢なら問題ない」
「あ……そっか。よかった」
「それで……治るの?」
「脱水が改善すれば、身体が菌と戦う力を取り戻す。抗生物質がなくても、人間の免疫はそれだけで強い。——あとは衛生管理で新たな菌の侵入を防ぎ、栄養をつけて免疫を支える。地味な処置を積み重ねるだけです。魔法のような一発逆転はありません」
「……分かりました」
セラフィナは法衣の裾をたくし上げ、厨房に走った。
A級チートの聖女が、蜂蜜を探して走り回っている。——前世の看護学生が、先輩医師に叱られた後に病棟を走る姿と、まったく同じだった。
俺はリリのそばに座り、額に手を当てた。まだ熱い。
「リリちゃん。先生がお水を作るからね。ちょっと変な味がするけど、頑張って飲んでね」
「……せんせい」
「なに?」
「……おなか、いたい」
「うん。知ってるよ。だいじょうぶ。治るからね」
——この子は、助かる。
根拠は、十五年分の経験と、煮沸した水と、蜂蜜だけだ。
チートはない。聖剣もない。万能の魔法もない。
でも——十分だ。
四 予防という名のチート
五日後。
朝、奥の部屋に入ると、リリが起き上がっていた。
ベッドの上で、両手を膝に置いて、きょろきょろと部屋を見回している。顔色はまだ青白いが、目に光が戻っている。
額に手を当てる。——熱は下がっている。三十七度台前半。峠を越えた。
「先生……」
「おはよう、リリちゃん。——調子はどう?」
「……おなかすいた」
——その一言で、涙が出そうになった。
「おなかすいた」。
子供がお腹が空いたと言える。それは、身体が回復し始めた証だ。食欲が戻ったということは、腸の炎症が引いて、栄養を吸収できる状態になったということだ。
医学的には「経口摂取の再開が可能」と記録する。でも、俺にとっては——小児科医十五年をやってきた俺にとっては——子供の「おなかすいた」は、この世界で一番嬉しい言葉だ。
「よし。おかゆ作ってもらおうね。——エルマさん!」
エルマが飛んできた。リリの顔を見て、両手で口を押さえた。
「リリ……!」
「えるまさま、おなかすいた」
エルマが泣いた。声を殺して泣いた。五年間、一人で子供たちを守り、回復魔法に頼り、それでも治らない子供を見守り続けた六十代のシスターが、七歳の女の子の「おなかすいた」の一言で、崩れるように泣いた。
——他の子供たちの症状も改善し始めていた。
煮沸した水への切り替えと、手洗いの徹底によって、新たな感染が止まった。すでに感染していた子供たちも、経口補水液と栄養のある食事によって徐々に回復していった。
セラフィナが、部屋の入口で立ち尽くしていた。
三日前とは違う。白銀の法衣の上からエプロンをつけ、腰には煮沸済みの布を下げている。手には子供たちの食事記録を綴じたノート。
「……これ、昨日の分です。確認してもらえますか」
食事量、排泄回数、体温。一人一人の子供について、丁寧に記録されている。
——教えた覚えはない。俺が健康記録簿を作ったのを見て、自分で始めたのだろう。
「……ただの食事記録です。あの子たちが何をどれだけ食べて、お腹を壊していないか、確認したくて。学校では、こういうのを看護記録って呼んでいたんですけど」
「知っていますよ。——すごく助かります」
セラフィナ、と俺は思った。あなたは気づいていないかもしれないが、今あなたがやっていることは——前世の看護そのものだ。
A級チートの回復魔法ではなく、看護学校の一年生で習う「観察と記録」を、自分の意思で始めている。——それが、チーム医療だ。
「あと、先生」
「はい」
「私のA級チートの回復魔法より、一年生の教科書のほうが強かった。——悔しいと思うけど、もう嘆いてるより、マシだと思います」
「強い弱いの問題じゃないって、前にも言いましたよね」
「分かってます。守備範囲が違う。——でも、こうして簡単な記録をつけているだけで、子供たちの調子が分かるようになるのは、正直、戦場で骨折を治すより、ずっと地味です」
「そうです。予防医学は地味です。退屈です。誰も褒めてくれません。——でも、それをやる人がいるかいないかで、子供の命が変わる」
セラフィナが、静かに笑った。
「……看護学校、続けていればよかったなって、初めて思いました」
「今からでも遅くないですよ。——先輩の俺が保証します」
「……はい」
◇ ◇ ◇
それから三ヶ月。
俺はエルマと一緒に、孤児院の衛生制度を一から作り直した。
まず、井戸水の煮沸を完全に義務化した。調理用も飲料用も、すべて一度火にかけてから使う。手間はかかるが、子供の命には代えられない。
手洗い場を厨房の入口と厠の隣に設置した。煮沸した水を使い、子供たちが自分で手を洗えるようにした。
そして——「健康記録簿」を作った。
一人一人の子供について、名前、年齢、身長、体重、既往歴、食事量、排泄の状態を記録する。月に一度の定期健診で体重を測り、成長曲線を描く。
——前世の母子手帳を、異世界の孤児院に合わせて再設計したものだ。
「これを毎月つけてください。子供の成長が順調かどうか、この記録を見れば分かります」
エルマが記録簿を受け取り、ページをめくった。
「……名前の欄がありますね。一人一人の」
「当たり前です。子供は一人一人違います。同じ年齢でも体格が違う。食べるものが違う。得意なことが違う。——だから、一人一人の記録が必要なんです」
「今まで……こんなものは、ありませんでした」
「回復魔法があったからです。記録しなくても、具合が悪くなったら魔法で治せた。——でも、治せない病気が来たとき、記録がなければ誰がいつ何の症状を出していたか分からない。感染経路も特定できない。予防もできない」
「住民台帳を作ることに似ていますね」
「——どこかでその話を?」
「噂で伺いました。別の領地に赴任した、魔法も剣も使えない変わったお役人様が、同じような帳簿を作って領地を立て直したと」
住民台帳。——もしかして、別の『凡人枠』の先輩だろうか。中村さん、だろうか。面識はないが、なんとなく、仕事のやり方が似ている気がした。
名前を記録する。個人を識別する。一人一人の存在を制度に組み込む。——地味だが、それが行政の基盤であり、医療の基盤でもある。
「似ています。住民台帳は行政の基盤で、健康記録簿は医療の基盤です。——記録しなければ、その子は『いなかった』ことにされる。それだけは、許してはいけない」
「こんな地味なことで、子供たちが元気になるんですか?」
「チートの回復魔法は一秒で傷を治します。でも、手洗いの習慣は一生子供を守ります。——どちらが強いかは、十年後に分かります」
◇ ◇ ◇
ある夜。夢を見た。
真っ白な空間。カウンター。とんがり帽子。
「定期フォローです。——マント、どうです? 裏地に星座の刺繍が入りました」
「正直、以前との違いがまったく分かりません」
「ですよね。——状況、見てましたよ。聖女との対決、見応えがありました」
「対決ってほどでもないです。先輩が後輩を叱っただけです」
「いや、あの瞬間。見た目二十七歳の女性から四十代のおっさんの威圧が出た時、聖女が直立不動になりましたよね。あれはちょっと面白かった」
「笑い事ではないんですが」
「あれ、報告書に載せていいですか? 『性別変更凡人枠、前世の指導医オーラで聖女を矯正。チート枠への抑止力として有効』って」
「やめてください」
「冗談です。——高橋さん。上層部の反応、お伝えしておきますね。『煮沸と手洗いだけで感染症を抑制。コストほぼゼロ。チート不要。費用対効果最強』と」
「嬉しくない褒め方ですね。知ってますよ、その台詞。前の凡人枠の方も同じこと言われたそうですね」
「同じこと言われましたね。——凡人枠って、コスパが良すぎてかえって評価しにくいんですよね。チート枠の百分の一の予算で同等以上の成果を出すので」
「マントに使った予算のほうが高いということですか」
「……マントの話は掘り返さないでください」
「ツクヨさん」
「はい」
「チートの回復魔法は、目の前の子供を一瞬で治します。でも、手洗いの習慣は、これから生まれてくるすべての子供を守ります。——どちらの価値が高いかは、効率の問題ではなく、時間軸の問題です」
「……また報告書に使っていい台詞を」
「事実を言っただけです」
「凡人枠の方は皆さんいい台詞を言いますね。上層部のスライドに入れやすくて助かります」
「スライドに入れるのは構いませんが、予算はちゃんとつけてください。マントではなく、現場に」
「善処します。——本気で」
◇ ◇ ◇
夢から覚めた。
朝の孤児院。
窓を開けると、子供たちの声が聞こえた。笑い声だ。
広場では子供たちが走り回っている。頬に赤みが戻り、声が大きくなった。手洗い場の前で、年上の子が年下の子に手の洗い方を教えている。
「ほら、指の間もだよ」
「こう?」
「もうちょっと。——先生がそう言ってたでしょ」
セラフィナがそばに立っていた。
白銀の法衣ではなく、エプロンを着ている。厨房で子供たちの食事を作っていたらしい。手に粉がついている。
「……聖女がエプロン姿で料理してるのは、なかなかのギャップですね」
「回復魔法じゃ栄養はつけられないから。——先生に教わりました」
「教えた覚えはないんですが」
「先生が毎晩、栄養バランスのメモを書いてたでしょう。あれを見て。——タンパク質、鉄分、ビタミンってメモされてたけど、この世界には成分表なんてないから、こっちの食材でどれに当たるか私なりに解釈して」
「……ちゃんと読んでたんですね」
「看護学生は、先輩の背中を見て学ぶものですから」
リリが走ってきた。三ヶ月前には起き上がることもできなかった女の子が、全力で走っている。
「せんせい!」
「おはよう、リリちゃん。——元気そうだね」
「せんせい、あのね」
リリが俺の白衣——この世界では麻の上着だが——の裾を引っ張った。
「わたしも大きくなったらせんせいになりたい」
「先生は地味だよ? 魔法も使えないし、剣も振れないし。毎日みんなに、手を洗ったか、ご飯は食べたか、お腹は痛くないか、って聞いて回るだけだよ」
「でも、せんせいがきてから、みんな元気になったよ?」
「……うん。そうだね」
「だから、わたしもみんなを元気にしたいの。せんせいみたいに」
——前世を思い出した。
三十五歳で地方のクリニックを開業した日のことを。
大学病院に残ればもっと派手な医療ができた。論文も書けた。学会で名前が売れた。教授になれたかもしれない。
でも、町医者を選んだ。三歳児健診で子供の成長を確認し、お母さんに「大丈夫ですよ」と言う仕事を選んだ。
そして四十二歳で、過労で信号を見落として死んだ。
馬鹿な死に方だ。
でも——「先生のところに行けば大丈夫」——その一言のために十五年を費やしたことは、後悔していない。
今世もきっと同じだ。
チートはない。回復魔法もない。聖剣もない。
あるのは、十五年分の経験と、煮沸した水と、手洗い場と、健康記録簿だけだ。
でも——
「せんせいがいれば大丈夫」
リリがそう言った。
七歳の女の子の、真っ直ぐな目で。
——ああ。
その一言のために、また二十年やれる。
チートの回復魔法は一秒で傷を治す。
手洗いの習慣は一生子供を守る。
健康記録簿は子供が大人になっても残る。
どちらが「チート」かは——十年後に、子供たちが教えてくれる。
(完)
【新連載のお知らせ】3月7日(金)より、凡人枠シリーズ初の長編連載を開始します!
→【連載版】チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした
高橋先生が噂で聞いた「住民台帳を作って領地を立て直した変わったお役人様」——その物語がついに長編化。
健康記録簿も住民台帳も、一人一人の名前を記録するところから始まる。凡人枠のDNAを感じる全39話です!
毎日18:00更新。ブックマーク登録で更新通知が届きます!
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お読みいただきありがとうございます!
チートの回復魔法で治せない病を、手洗いと煮沸で治す——という地味すぎる話を書いてみました。
回復魔法は万能に見えるけれど、「壊れたものを直す」魔法では「体の中で静かに増えるもの」には対処できない。
抗生物質がなくても、ナイチンゲールの時代にできたことがある。
手洗いと煮沸。たったそれだけのことが、子供の命を救う。
予防医学は地味で、退屈で、誰も褒めてくれません。
でも、「病気にならない」ことほど強いチートは、どの世界にもありません。
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なお、本作の執筆にあたり、医学・医療に関する記述について、ある方に監修・助言をいただきました。医療者のキャリア、小児科の診察手順、経口補水療法、感染経路の推定、看護記録の実務など、作中の医療描写のリアリティは、その方のご協力に負うところが大きいです。この場を借りて心より感謝申し上げます。
※なお、物語の都合上、一部の医療描写には簡略化やフィクションとしての脚色が含まれています。
凡人枠シリーズ、他の作品もあります:
→「チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした」
→「悪役令嬢、断罪されたので謝罪します ~前世が百貨店クレーム対応部長(勤続25年)なので、プロの謝罪で全員黙らせてもいいですか?~」
→「チートで終わらせた戦争の後始末に赴任したら、前世が外交官だったので普通の交渉で片づけることにした」
→「チートで救われた世界の歴史が間違いだらけだったので、前世が図書館司書だったから記録を残すことにした」
よろしければそちらもぜひ!




