その九
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何か新しい事を知るのも良いでしょう。しかし自分が既に知っている、否、もう知っていると『思っている』事を再度深く想ってみる事を私は勧めます。事実は既に知っているでしょう。しかし新しい『意義』が生まれてくる事があるからです。そして私の経験ではそういう今まで自分が知らなかった意義を看取した時に受ける衝撃は非常に強く、またその意味も重いものが多いのです。重要なのです。目が開かれるのです。明らかに何か、自分の中の非常に基礎的なものが変革されます。これは重大な事です。
生きるおいては『気が付く』事の意義が非常に大きいのです。良い『再』発見がある事を祈ります。
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自分が助けてあげるべき人を見出せない事実を淋しく思うのはおかしい。これは淋しく感じるべき事ではありません。明白に恥じるべき事です。これだけ生きてきてまだそういう存在を見出す事が出来ない自分。その事態は明らかに自分の不明と不徹底を示しているのですから。
衷心から恥じてそして本気で探し、見付けて下さい。それは自分の生きる意義を見出す事と同じだと思います。
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世の中を如何に生きるのか、これは詰まるところ処世術に過ぎません。下らないものは最初から除外するにしても、智慧を含み人間らしい落ち着きと透徹した目をもった考察であっても、それでも生きて行く為の『方法』です。それは『何故、自分が生きるのか』に連結していません。真実に尊いものはこれに答えていなければなりません。
自分は何をしたいのか、これに拠って自分の人生を設計する事を私は勧めます。それが現実に人間の出来るものであるか否かなど関係がありません。そんな事は全く重要な事ではないのです。自分は何をしたいのか。それが、その願いが、可能不可能を岐ける壁の遥か上に虹の様に架からなければなりません。生きる限り、その願いを抱き続けて下さい。その願いが人を導くのです。
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文庫本サイズの漫画ですが、親鸞上人の伝記を読みました。その中に斯く書いてありました。
『範宴(はんねん:親鸞の叡山修行中の名)は嘆いたが、観世音菩薩の慈悲は深かった』
深く苦しい、それも無私の、誠実で徹底するからこそ来る悩みであるのに、それに直接に答えてもらえない。その事を指して『観世音菩薩の慈悲は深かった』とあるのです。私はこの件に深く想いました。直ちに答えてもらえる事が自分の救いになるのではない。自分が今欲しいと思うものを与えられる事が真実に自分の幸福に繋がる訳ではない。本当の深い慈悲とは、
「いや、其処ではまだ浅い。仮令今御前にその答えを示したとしても、それではまた直ぐに御前は別の事に苦しみ始めるだろう。それでは駄目なのだ。本当にお前を救い苦しみから引き上げるものは別に在る。御前がその事に気付くまでは、そして直接にそれを私に求めるまでは、私は何もしてやる訳にはいかないのだ」
というものだと思います。茲の消息をこの観世音菩薩の慈悲深しとの言葉は伝えているものでしょう。自分が求めているものが未だ何かよく分かっていない。人は深くこの事を心に留めておくべきです。
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