その三
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私が人生の最後の山場を越した後は、本当に平穏で平和な余生が待っているでしょうか。いえ、私はそんな事ない気が猛烈にします。却って、人生に『最後の山場』なんてものは無くて、その後にずっとまだ来るんだという気持ちがしているのだと、今からもう予想が付いています。
真実の安息は生を終えて初めてやって来るものです。そう、その真実の安息を真実の安息たらしめるべく、今生きているのでしょうね。それが生きる意義なのでしょうね。
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時にはわざと寒い中外に出て下さい。それもお金をもたずにです。そして『何も出来ない』自分を実感して下さい。帰る家がある事の嬉しさを実感出来ます。そうしないと実感出来ないのなら、そうして下さい。
みっともない手段に拠ろうが達成しなければならないものがあります。達成しないとお話にならないからです。
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『一生を捧げてきた』ものが在ると、人はもう自分が死ぬというのにその傍を離れません。昔テレビでルパン三世を見た時にあったお話ですが、生きた人間を剥製、蝋人形にして数多く並べて喜んでいる人間が、もう直ぐ自分が死ぬというのに、崩れ落ちるその部屋から逃げようとはせず狂った様に笑いながらその場に留まっていました。私は明白に、子供ながらに恐いと感じました。その狂気を恐いと思ったのです。それにしがみ付くのです。何が何でも。しかしそういう狂気とは別に、人が自分の死に臨んでも手放さないものもありますね。信念や愛する人間の傍を離れないのです。こちらは誰も狂気であるとは謂いません。私も狂気であるとは感じません。寧ろ慕わしく、心に尊敬の情を起こします。自分もそうでありたいと思います。同じく『しがみ付いている』のにです。
前者と後者の本質的な違いが何であるのか。本当に、自分が心を寄せるその対象の本質以外に、何か相違があるのか。これについては私も何と言って可いのか判りません。私にも判らないのです。でも、人は心で生きるのです。それを裏切る事は、仮令自分の命が懸かっていても出来ません。それは屹度死よりも強いものなのでしょう。私はその死よりも強いものを求めます。私は蝋人形を集めようとは思いません。けれども死に臨んでもそれから離れたくないと思うものは猛烈に求めます。そして死ぬのなら蝋人形と一緒にとさえも思わず、自分の命を永らえさせる為に早々にその場を逃げ出して仕舞う腰抜けには、蝋人形と一緒に死ぬ狂気の人間以上に、もっとなりたくありません。
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馬鹿たれは自分の命を惜しみます。これはもう古今東西相場が決まっています。自分が誰の世話もしていないのに、誰か自分以外のただ一人の人間の人生を背負っている訳でもないのに、それでも自分の命を惜しむのです。これが馬鹿たれの動かぬ証拠です。でも言い換えるならば、そういう事をする人間は馬鹿たれと見做されても文句が言えぬという事でもあります。
命を粗末には出来ません。況や自分が親であり小さな子供を抱えているというのに、自分の命を棄てて良かろう筈がありません。そういう時、そういう立場の人は自分の命が自分一人だけのものではないのですから。でも本当に誰の命も背負うていないなら、然るべき時には自ら命を棄てましょう。屹度城山に於ける西郷南洲翁の如くに良き死処を得た喜びに打ち震えると思います。
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