その十五
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京都生まれの父でしたが奈良も好きでした。近鉄に乗って奈良に行き、猿沢の池の前に立ち、父は私に色々と話してくれました。主に日本の歴史の事だったと思います。美術館に行き、仏像などを見て、これも色々と。今思い出すと実に父らしい訪問先でした。その後、習字をしていた父に墨を買ってあげようと私は老齢の父と一緒に再び奈良を訪ねた事を思い出します。
尊い想い出、今の私の心を鎮めてくれます。様々な些事、詰まらないのに心に引っ掛かって外れてくれない事どもに波立つ私の心を静かにしてくれます。人間らしい想い出の力、凄いものではありませんか。そういうものこそ尊ばなければならない自分であるとは思いませんか。
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特に何も思わずに生きて行く事、すなわち何の『想い』も胸に抱く事なしに、その時々に自分の心を楽しませるものを探して生きる、年齢を重ねる。屹度世の中を上手く渡る為にはこれが一番適している、良いのだと私は思います。多分多くの立場に於いて抜き差しならない状況に陥る事は無いのではないかと想像します。
しかし出来るだけ困難少なく世を渡る事だけが目標である場合、その営みには完成という概念がありません。完成するか否か、到達するかどうかではなく、完成という概念自体がそこには存在しないのです。世の中には既にそういう状況を示す言葉があります。それを『彷徨』と謂います。そういう人生の後半、更には終盤、如何なる気持ちがその人の心を覆うのかは簡単に予測出来る事です。私は寧ろ困難が連続してやって来ても到達出来る目当てがある人生の方が良いです。それが無いなら遠からず私は発狂するでしょう。
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愚かな人は『取り敢えず』何かをするのです。この取り敢えずというのは早い話が具体的な目的を定めずに、それを今為す事で事後その事による福利が謂わば汎用的に利活用出来るという目算を立てる、それに期待するという意味です。それを実行する根本的な目的を欠いたまま実践する訳です。だから後になってそれが思った様な効果をあげる事なく終わって仕舞う時になって、
「斯んな筈ではなかった。あの努力は無駄だったのか」
と不満げに独白するのです。その何事かを為す事自体に自分の根本的な生きる目的に近付くという価値を見出さず、正に取り敢えずで実行するのです。当てが外れる事の方が寧ろ多いのは自明であるのに。
恐ろしい事ですがその『取り敢えず』、一生続く場合もあるのです。いや、多いのではないでしょうか。自分を、自分の生きる意義を確立すべきです。確立すべく探し求めて下さい。それも遠い旅ですが、それでも。それをしないと本当に夢幻の霧の中に一生が閉じて仕舞います。
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株で大損した人の顔を出来ればじっくり観察してみたいと私は常々思っています。大儲けした人というのは時々表に出て来ますが、大損した人というのは皆家に入ってひっそりと静まっていますから中々鑑賞する機会がありません。見付けられませんからね。
「勝敗は兵家の常、気にするな」
いえ、別に大損して落ち込んでいる人の顔を見て、
「貴様は馬鹿で無能だ。今回失った金で、一体何れだけの事が出来たと思うんだ」
と指差して馬鹿にしてやるのが目的ではありません。私がそういう人の顔を見たいと思うのは、そんな株などというゲームに現を抜かしていて大損した時にその人が何を思うのか知りたいからです。自分のしてきた事の虚しさをやっと理解するのか、それとも次の勝利の為に機械の様に冷静に敗因の分析をしている、詰まり現在の自分の愚かさを一層肥大させて更なる悲劇に向かって突き進むのかを知りたいのです。そんな人間の表情を是非共観察してみたい。必ず何か凄まじいものが見えるでしょうね。
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