その十一
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或るビルの地下街で、所謂立食蕎麦的な店に入りました。お昼ご飯が少なかったので、午後にそのビルの地下街で用事を果たした後、お腹が減ったので入った訳ですね。ところが、三百五十円の昆布蕎麦が美味いのです。麺はごく普通の安いものだったのですが、出汁の鰹の香りが素晴らしく、一杯目を食べた後二杯目を注文しない為に私は近頃に無いレベルの忍耐を必要としました。もう一杯というのは素晴らしいのですが、その金額と雖も二杯食べるのは贅沢だと自制したからです。食べ終えて代金を払い店を出る時に、
「いや、どうも、美味いね」
と言わずには居れませんでした。この後同じその地下街に出向いた時、その立食蕎麦屋の前を素通り出来るかどうか自信がありません。
楽しみです。私にはこれで十分な楽しみです。数千円、一万円超えの何かでなければ慰めにならない、そんな事はありません。そんな事を言う人間は幼稚園児並にものを知らないのです。こういう次元の金銭的支出をもって幸福になる事が出来る暮らしをして下さい。そういう幸福こそ長続きするものですし、何より本質的に祝福されているものだからです。阿呆の様に投げ捨てる如き金のつかい方をする人間を見て、
「あれは阿呆なのだ。ああいうのには愚か者の末路が待っているのだ」
と心から思える様になって下さい。さすれば幸福は近いと思います。
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五歳九ヵ月の息子が、或る事で私を心配して泣いてくれました。息子自身の事ではなく父である私の事を、それも『若しも仮にそうなったら』という仮定の上の話で泣いてくれました。
どうも、間違い無く私直系の子だと思います。見事に似ています。精神がです。この子の未来に祝福あれ。
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「これでやっと俺は、人間に返れる」
或る本で読んだ登場人物の科白です。心に引っ掛かりをもったまま二十年以上も生きてきた。生活は豊かになった。社会的な地位も立派なものを築いた。しかし若い頃のその引っ掛かりが決して自分の中で消えない。それで現在の自分の財産も地位も捨てて過去のそれを解決しようと乗り出すのです。
私が自ら納得出来ない事をして、事後それを覆い隠そうとしそのままに生き続けたら、結局私はこれと同じ結末を辿ると思います。それをするまでの間、私は必ず現在の自分は本当の自分ではないのだという観念から逃れる事が出来ないでしょう。そして苦しむと思います。目に見える様です。私はそういう事をしてはいけない。二股に岐れた間違った道を進んだ、それを正すにはどうしてもその二股の場所にまで戻らないといけない、私なら絶対にそう考える、否、感じるに違いないからです。
後悔無き様に。本当にそうです。私は間違わないのではない。しかし間違ったら直ぐに引き返さないといけない。他の人間ならば兎も角、この私は絶対にそうです。
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『捨てた後で、それが分かった。私が捨てたそれが、実は私の全部であった事が』
この言葉を言いたくないのです。この告白を私は絶対にしたくないのです。これは人が生きて行く力を根こそぎ全部奪って仕舞う力をもっています。取り返しがつきません。それを捨てたのは紛れも無く自分です。だから一切の言い訳を封じられます。弁明出来ません。
自分にとってそれが如何に大切か。それが見える自分でなければなりません。捨てる前にどうしてもそれが見えていなければならないのです。私が馬鹿であってはいけないのは、この事をずっと前から、本当に自分が若いうちから何故か知っているからです。私が生きたまま自分の命を失う事が若しもあるとしたら、その理由は間違い無くこれです。それを『やって仕舞う』事に拠って、私は自らの命を葬って仕舞うでしょう。
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