二章③ 安全確認
「…………ケルベロスに比べれば足は速くなさそうだな」
突然現れたミノタウロスとしか形容しがいのない怪物を前に、透が何とか口を開く。まず逃げるのは前提だ。今まで出会った化け物の中では一番マシというか体格は小さいが、それでも一般人がどうにかできる存在ではない。
「入って、来ませんね」
春人は僅かに腰を落としていつでも後ろに逃げられる体勢は作っている。しかしミノタウルスは噴水広場に踏み込んでくる事無く、通路の向こうからじっと四人を見ているだけだ。ケルベロスと同じように初見のこちらを警戒してるのだろうかと想像する…………しかしそうでなかったとしたらと春人は思い浮かんだ。そしてその考えが正しいかどうかは、今確認しておかなければならないものだった。
すぐに覚悟を固める。多分きっと落とし穴の時のように考えは足らない。それでも行動しなければ状況は良くならないと春人は決意する。
「みんな、いつでも逃げられるようにしておいて」
通路の向こうからこちらを伺っているミノタウロスを凝視しつつ、春人はそう告げる。その手には先ほど透から取り返したナイフが握られていた。
「ちょっと、そんなものでどうにかできるわけないでしょ!」
それを見て天音が声を挙げる。
「わかってる…………けどこれは今確認しておきたいことだから」
リスクを負うだけの価値のあることだと春人は判断していた。もちろん皆の承諾を得るべきなのだとはわかっているが…………すぐに得られないであろうこともわかっている。そして話し合っている間に怪物が去ってしまえば次に確認できるタイミングがいつ来るかわからない。
「違ったらごめんっ!」
しかし完全に開き直ることはできずに叫んで春人はナイフを投擲する。ナイフを投げるのは初めてだが一時期はダーツに凝っていることもあった。その時に覚えた感覚が役だったのかナイフは綺麗にミノタウルスの頭めがけて飛んでいく。
「まあ…………だよな」
しかしその結果は分かっていたというように透が横で呟く。春人が投げたナイフは音もなくミノタウルスの眉間によって弾かれた。傷もなく恐らくは痛痒もなく…………単にミノタウロスの注意と怒りを買っただけだろう。
「ウゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
牛の鳴き声にしては獰猛すぎる声をミノタウロスが上げる。全身の筋肉も膨脹してその顔も見るからに赤く紅潮しているのが見えた…………しかし、それだけだ。その声と迫力に思わず身を翻しそうになる春人達を見てもミノタウロスはこちらへと踏み込んでこない。まるでこの部屋と通路の間に見えない壁でもあるかのうようだった。
「あんたこれ、予想してたの?」
「…………一応」
呆然とこの光景を見ながら尋ねた天音に春人が頷く。それでもいつミノタウルスが踏み込んでくるかの恐れは消えず、いきり立つそれから目を離すこともできないでいた。
「水場ならたくさん生物が行き来しててもおかしくないのに、草が全く踏まれてなかったからね」
最初ここに足を踏み入れた時に春人はそれに気づいていた。そしてこちらに入ってこようとしない様子のミノタウルスを見て怪物はこの場所に入れないのではないかと思ったのだ。
「だからもしかしたらここが安全地帯なのかもしれないって思った」
だからそれを確認するためにミノタウロスをナイフで挑発した。
「あの、それって今確認しなきゃいけないことだったんですか?」
けえれどそんな彼に思わず彩花が口を開いて尋ねる。なにせ一歩間違えれば全滅の可能性もあったのだ。
「そりゃもちろんだ」
それに答えたのは透だった。
「今確認したおかげでこの噴水広場が安全地帯だってわかったんだ…………つまりこれ以降は安心してこの場所で気が抜けるってことだぞ? 夜だって見張りを立てずにぐっすり眠れる」
「あ」
透の言葉に彩花は納得したような表情を浮かべる。ここが安全地帯であるかもしれないとここが安全地帯だと確信しているのでは大きく違う。前者では安全かもしれないと思っていても警戒は残さなくてはならないが後者なら気兼ねなく休める…………その違いは大きい。
こういった極限状況下で安全に休める場所というのは非常に重要だ。交代で寝ずの見張りを立てて休むのでは完全に疲れはとれず、少しずつ疲労は蓄積してしまう。そうなればいつか必ず破綻は訪れるのだ。しかしその必要はないと証明された。
「まあ、それは確かに大事よね」
それは理解できたので天音も納得したように頷く。最初に怪物と遭遇して以来彼女もまたいつどこから出てくるのかと常に警戒していたが、今の話を聞いて少なくともこの場では緊張が薄れた。気を抜いて休むことができる場所というのは確かに重要だ。
「みんな納得してくれたところで…………今日はこの場所で休憩にしようと思う」
「これ以上今日は探索しないってこと?」
「うん」
天音に頷いて春人はポケットから取り出した懐中時計を皆へと見せる。今時はスマホに時計もついているが祖父の形見のそれを気に入って彼は持ち歩いていたのだ。手巻き式だから電池切れの心配もないし、こんな状況下ではありがたかった。
「なるほど、もう十六時を回ってたのか」
納得したように透が呟く。窓がないせいで外の様子もわからず時間感覚が狂っていたが、昼頃にこのダンジョンに迷い込んだ四人は日が暗くなるまで歩き回っていたことになる。長い休憩を取るべき程度には動いたことになるし、この時間から休憩をとるならそのまま明日まで休んでしまったほうがいいのも確かだった。
「わ、私は休憩に賛成です」
一番疲労しているであろう彩香は真っ先に賛同した。
「俺も異存はない」
「私もよ」
透と天音も反対する理由は特になかった。
「じゃあ今日はもう休むってことで…………まずご飯にしない?」
時間的にも準備を考えればちょうどいい。
「お腹は…………空いてるわね」
少し恥ずかしそうに天音が同意する。ここが安全地帯とわかったからなのか急に思い出したように空腹を覚えていた。
「えっと、私はそんなに…………」
おずおずと彩花が告げる。恐らく遠慮しているというよりはストレスで胃が委縮してしまっているのだろう…………天音と違って彼女はまだ緊張が続いているのだ。しかしそれでも食べなくては体力がもたない。確実に蓄えたエネルギーは消費してしまっているのだから。
「食べれる時に食べとくのが基本だし俺は賛成だな」
最後に透が賛成する。
「ではご飯という事で…………彩花もきついかもしれないけど頑張って食べてね」
「が、頑張ります」
春人が声を掛けると彩花は奮起したように頷く。そこまで頑張るようなことも無いような気はするが、食べて欲しいのは事実なので春人はあえて何も言わなかった。
「じゃあ準備しましょうか」
そういうことになった。
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