02.祝福の守護霊
ロクアスが引き受けたもう一つの依頼は、とある学院の学院長からのものであった。
そういうわけでロクアスは現在、依頼人である齢八十はあるだろう老女、ゼイラル学院長の案内によって、学院の旧校舎を訪ねていた。
「こちらが件の本校の旧校舎でございます、魔王さま。建立されたのは、今よりおよそ三百年前。学院創立の祖とされる、初代校長の代に建てられたのだそうです」
ゼイラル学院長のおっとりとした声音を耳にしながら、ロクアスは目の前に聳え立つ古めかしい石造りの旧校舎を静かに見上げた。
「なるほど。そして、依頼にて仰っておられたのが──あの〈守護霊〉ですね?」
ロクアスが見上げる視線の先。旧校舎の一番高い屋根のてっぺんには、恐ろしいほどに巨大な黒いアゲハ蝶が、悠然ととまっていた。
空を覆うように広がる、揃えられた四枚の黒い翅は陽の光が微かに透けており、鮮やかな青色の模様が宝石の如く美しくきらめいている。
まるで巨大なガラス細工のようにも思える黒いアゲハ蝶を、ロクアスと共にゼイラル学院長が眩しそうに目を細めて見上げながら、ゆったりとした調子で語り始めた。
「ええ、魔王さま──あちらに御座すのは、三百年前よりこの旧校舎にて我が学院を永く見守ってくださっている祝福の〈守護霊〉さまです。学院に残る記録によりますと、〈守護霊〉さまはいつの間にかこの旧校舎に降臨され、以降ずっと静かにあの場所にて我が学院をお守りくださっているのだと、伝わっております。学院の者は皆、その言い伝えを信仰し、〈守護霊〉さまを心よりお慕い申し上げているのですよ」
ロクアスはゼイラル学院長を一瞥した後、再び視線を黒いアゲハ蝶に戻す。
あの黒いアゲハ蝶は祝福の〈守護霊〉と呼ばれてはいるが、ロクアスが思うに世界の創世時代より息づく〈精霊〉のような上位存在には感じられない。むしろ、人間の念によって生まれた〈怨霊〉などに近い気配を感じるが──禍々しい怨念や呪いの念は、まったく感じ取れなかった。
ロクアスは己の中で、アゲハ蝶がどのような存在であるのか、いくつかの仮説を立てながら、ゼイラル学院長に依頼内容を確認する。
「やはりそうでしたか。それで、数百年も変わらずこの学院にて〈守護霊〉と崇められていたあのアゲハ蝶について、今私に調査を依頼なさったということは……何かしら、〈守護霊〉に異変があったということでしょうか」
ロクアスの問いに、ゼイラル学院長が神妙な面持ちで頷いて見せ、アゲハ蝶からロクアスの方へと顔だけで振り向いた。
「はい、その通りでございます。実は、ここ最近……〈守護霊〉さまの、泣き声のようなものが学院中に聞こえてくるのです。まるで、必死に訴えかけるような……涙混じりの、お声でした。もしかしたら、〈守護霊〉さまに何かあったのではないかと。学院の者は皆、心底心配しているのです」
「声、ですか」
ロクアスは視線をアゲハ蝶に縫い留めたまま、静かに再度問いかける。
「その声は、何と言って泣いているのです?」
「〈守護霊〉さまは繰り返し、こう泣いておられます──『生きたい』と」
生きたい。
それは間違いなく、「人類」からしか生まれない強い情念だ。
おそらくあのアゲハ蝶は「人の強い情念」から生まれた霊体なのだろう。
怨霊にまでは成らなかったが、何かしら「未練を残して死んでしまった何者かの魂」による情念は霊体を生み出し、この現世に「情念の形」を創り出すこともあるのだ。
強すぎる現世への未練を残して死んでしまったがゆえに、肉体の縛りが解けた死後、己が願い求める安息の地へと帰ることができなくなって、迷子のように彷徨うこととなってしまった人の魂──〈還らずの魂〉。
精霊とも怨霊とも違う、魂と情念が作り出した霊体の存在を、ロクアスはそう呼んでいる。
ロクアスはゼイラル学院長の証言からアゲハ蝶の正体をある程度導き出すと、背負っていた己の背丈以上に長い黒杖を取り出し、足元の地面に円形の魔法陣をおもむろに描き出した。
「色々とお教えいただきありがとうございます、ゼイラル学院長。取り敢えず、まずは〈守護霊〉との対話を試みてみます。さすれば、御方が嘆かれている原因も何かしら判るやもしれません。それと、最後にもう一つ。お尋ねしたいことが」
手早く魔法陣を描き切り、その中央に立ったロクアスはゼイラル学院長を振り返る。
「最近、この学院で何かしら大きく変わることはありませんか? この三百年で一度も変わったことがないことが、変わるようなことなど。些細なことでも、何でも構いませんので」
「そうですね……ああ、それでしたら。一つだけ、あります。近々、学院の創立三百周年を記念して学院の名前が変わるのですよ。学院の創始者である初代校長の名前に基づいて、『ルシエル学院』と。初代校長はかけがえのない、この学院の偉大な母ですから」
ロクアスはゼイラル学院長から受け取った、最後の情報を胸に留めて「ありがとうございます」と軽く頭を下げると、くるりと回ってアゲハ蝶へと向き直った。
そして、アゲハ蝶から一時も視線を外さぬまま、描き出した魔法陣の中心部に力強く黒杖を突き立てる。すると、キィンという甲高い音が鳴り響いて、円形の魔法陣から淡い銀色の光が水の如くとろとろと溢れ出した。
「では、お話させていただきましょうか。名は存じ上げておりませんので、誠に勝手ながらこう呼ばせください──〈夢見し蝶の君〉」
未練のために未だ現世を彷徨う、蝶の形をした魂。まるで夢と現世の狭間にいるよう。
そんなどこか儚くも、この世界の境を今も漂っているのだろうアゲハ蝶は、遥か東洋に伝わる「胡蝶の夢」という古い言葉が連想された。故にロクアスは、アゲハ蝶を〈夢見し蝶の君〉と呼ぶ。
ロクアスがアゲハ蝶にそう呼びかけると、アゲハ蝶がロクアスの声に反応したかのように、今まで微塵も動くことのなかった蝶の翅がゆったりと羽ばたく。そして、アゲハ蝶の宝石の如く美しい黒曜の翅から、金色の鱗粉が舞い踊る。
金色の鱗粉が、ロクアスの魔法陣から溢れる銀の光の水と混じり合い、たちまち目が眩むほどの強烈な光が弾けた。
それと同時にロクアスは、己の意識がアゲハ蝶へと吸い込まれる感覚にそのまま身を任せ、眩い光の中で目を閉じた。