01.呪いの湖
見つめ続けていると──不意に、魂を根こそぎ水底にまで、引きずり込まれてしまいそうな。
そう、思わずにはいられないほどに美しく、眩いほどの純白を湛える「白い湖」を前に、ロクアスは東洋の遊女の着物にも似た、口が広く丈が長い蝶柄の袖をふわりと揺らして背後を振り向いた。
「こちらが本当に、呪いの湖と噂の〈白闇湖〉ですか? 私には、珍しい色をした絶景──むしろ、聖なる気配を感じる神聖な湖にしか思えないのですが」
顔全体を覆っている山羊頭蓋を軽く傾げて見せるロクアスに、少し離れた場所にある木の陰に隠れている中年の男──ライサが、怯えた様子で引き攣った声を上げる。
「何言ってんだよ、魔王さま! こんなに禍々しい湖を絶景だの、神聖だのなんて……正真正銘、ここが件の呪いの地〈白闇湖〉だ! ……もう、何人もの俺の仲間が、この湖に引きずり込まれて正気を失っちまってる……! 昔からこの辺りじゃ『神隠し』の言い伝えも残ってるらしい。頼むから、ここを呪ってる怨霊を天に還してくれよ! あんた、人だろうが物だろうが、人ならざるモンまであるべき場所に返してくれる──〈奉還の魔王〉さまなんだろ!?」
奉還の魔王。
本来の魔王であるディルムッドが魔女たちのもとに帰った後、ロクアスは世間にそう呼ばれるようになった。
今まで散々、虐げられる奴隷たちを解放したり、侵略された国を独立させたり、奪われた国宝を取り戻したり等──好き勝手、己が思うがままにしでかしてきた事を、人々は「功績」などと美化して讃え、挙句の果てには〈奉還の魔王〉などという呼び名までつけられてしまった。
己は勝手に「魔王」を名乗ってきた偽者でしかなく。本当の魔王は、ディルムッドしかいないというのに。
当の魔王さまも、ロクアスの〈奉還の魔王〉という名を何故か痛く気に入っており、先日会った時には「二代目魔王って呼び名もよくない?」と、くだらないことをへらへらと言っていた。
未だに「魔王」と呼ばれるのは、何だかむず痒いというか、きまりが悪い気がする。
ロクアスは何度目かわからない、己の呼び名である「魔王」を否定しようと口を開こうとした。
しかしそれは、現在のロクアスの趣味である「物語作りの種探し」のため、大陸各地に伝わる「伝承」や「伝説」を調査する仕事──その依頼人であるライサによって遮られる。
「と、とにかく! もう頼りはあんたしかいねぇんだ! 頼むから……あの馬鹿デケェ、白蟷螂の霊を何とかしてくれ!」
ライサが〈白闇湖〉を指さして、顔を蒼ざめさせながらガタガタと震えて叫ぶ。
ライサが指さした方向を振り向くが、そこにはやはり、純白の美しい湖しかないように見える。
「〈白闇湖〉に現れ、幻を操っては精神を蝕み、水底へと人を引きずり込む巨大な白い蟷螂、ですか。精霊か、怨霊の類か……しかし」
ロクアスは再び首を捻りながらも、小さく息を吐く。
「この〈白闇湖〉からは、呪いや怨念など微塵も感じられません。もしかすると、〈呪〉が現れるのには何かしら条件があるのやも」
ロクアスは身体ごとくるりと振り返ると、ライサのもとまで歩み寄って軽く一礼をして見せた。
「改めて詳しく、周辺の住民からここについて聞き込み等をいたしますので。今日は一先ず、失礼させてもらってもよろしいですか? 事前に申し上げておきました通り、これから別件の依頼がありますので。そろそろ、そちらに向かわないと」
「あ、ああ……はあ。わかったよ。そっちの別件とやらをさっさと片付けて、早くあの蟷螂も何とかしてくれよ? 俺、毎晩あの蟷螂に首を狩られる悪夢を見せられ続けて……もう、限界なんだ! このままだと、俺も頭がおかしくなっちまうからさ……お願いしますよ、魔王さま」
ライサの焦点が合わないような、血走った目を神妙に見つめながら、ロクアスは小さく頷く。
「承知しています。それでは、また後日」
そのままロクアスはライサと別れて、足早に次の目的地へと歩き出す。
(白闇湖……神隠しの言い伝えは確かに周辺地域に存在する。白闇湖の主である巨大な白い蟷螂は、美しい子どもの幻を操り、子どもが溺れまいかと心配して近づいてきた大人をくるわせ、そのまま白闇湖に引きずり込むのだと。およそ二百年前から伝わる、呪いの伝説)
ロクアスは事前に調べ上げた白闇湖の伝説を内心で改めてなぞると、微かに首を傾けて遠くなってゆく白闇湖を振り向く。
やはり、あの美しい湖からは、呪の気配も怨念も感じ取れない。
(あの湖に在るという何かしらの存在は……恐らく相当の〈大物〉。タチの悪い精霊か。はたまた特殊な怨霊か。どちらにしても、手ごわい相手には違いない。しっかり、一から調べなおさなければ)
その事実にロクアスは小さく息を吐きながら、白闇湖を後にしたのだった。