05.物語は出逢いより始まり、別れで終わり。そしてまた、私たちは出逢う。
それは、何よりも温かく、柔らかく、声を上げて泣き出したくなるような。
ひたすらに真っ直ぐな慈愛に満ち満ちた〈祈り〉の情念であった。
〈白闇の祈り蟲〉──アンフェールの情念と記憶へと直に触れたロクアスは、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。
ロクアスの全身は真白の水の塊の中で揺蕩っており、目の前には、鮮烈な赤い模様が花のように咲いた蝶の翅を持つ、巨大な純白の蟷螂の姿をしたアンフェールがロクアスを静かに見下ろしていた。
『やっぱ、お前は奴隷商人じゃあなさそうだな。悪かった、無理やり湖に引きずり込んじまって。この辺りは、子どもを狙った奴隷商人がどうにも多いから』
アンフェールの言葉に、ロクアスは「やはり」と内心で零して山羊頭蓋の下にある目を伏せた。
この地では、「子どもの人身売買」が大昔から我が物顔で横行している。
そこで〈白闇の祈り蟲〉は──アンフェールは何百年と前より、美しい子どもの幻を操り、奴隷商人たちをおびき寄せては白闇湖へと引きずり込んだり、その精神を蝕むことで、奴隷商人たちから子どもたちを守っていたのだ。
つまりは、ロクアスの依頼人であったライサや、ライサの云う仲間とやらも、子どもを狙った奴隷商人なのであろう。
(永い間、そうやって魂をすり減らしてまで子どもたちを守っていたゆえに……この人もシエルさんと同じく、魂が消えかかっている。一刻も早く鎮魂をせねば……彼ら二人がまた、出逢いを果たし、共にいつか、どこかの世界で生まれなおせるように)
ロクアスは微かに俯かせていた山羊頭蓋を上げて、アンフェールを見上げる。そして、アンフェールへと静かに呼びかけた。
「……あなたの魂は、今にも消えかかっている状態です。私に、あなたの鎮魂をさせてはいただけないでしょうか」
『鎮魂か。……俺は、この魂が潰えるその時まで。とある死にたがりが、長生きするように祈り続けることを決めてる。だから、それは……』
断ろうとするアンフェールの言葉を、ロクアスは淡々と、しかし至極柔らかな声を意識して遮った。
「シエルさんですね。彼女は生家を出た後、〈アンフェール学院〉という学校を創立し、教師と成って、百二十年あまりの生を全うなさいました。そしてつい先ほど……あなたのように彷徨える〈還らずの魂〉と成っていらっしゃった彼女を、鎮魂させていただいたところです」
ロクアスの口から出た「シエル」の名に、たちまちアンフェールの蟷螂の身体が揺らいだ。
「シエルさんは、数百年もの間、ずっとあなたを想ってこの世界に留まっていらっしゃいました。あなたが、この世界から忘れ去られるのだけは耐えられない。故に、己は死んでも死ぬわけにはゆかぬのだと──『生きたい』と。そう仰っておられました」
ロクアスがそう語って聞かせるうちに、アンフェールの姿はどんどんと変容してゆき、巨大な蟷螂から、金髪碧眼の美しい男の姿へと。アンフェールの本来の姿へと、戻っていった。
元の姿に戻ったアンフェールは、その宝玉のような美しい碧い目を零れんばかりに見開き、しばらく固まっていたが、一度嚙み締めるように震える息を吐き出して目を伏せると、泣き笑いを浮かべた。
『く、っはは……あの死にたがりお嬢さんが〈生きたい〉、だって? そんなことが言えるようになるとは……しかも、お嬢さんの方が、百年以上も長生きしやがって。これは、傑作だ……ああ、最高だよ。本当に……』
アンフェールが両手で顔を覆い尽くし、濡れたような、掠れたような低い声を、震える吐息と共に絞り出す。
『逢いたいなあ……お前に……』
小さく零れた、アンフェールの独り言。
祈りにも似た響きを纏ったその独り言へと応えるように、ロクアスの蝶柄の装束から一匹の蝶が飛び出した。
蝶は、ひらひらと覚束ない動きで翅を羽ばたかせながらも、何処か必死な様子でアンフェールのもとへと飛んで行く。
(あの蝶は、まさか……ここまで、私に取り憑いて付いて来ていたのか……!)
黒い翅に、アンフェールの目と同じ色をした碧の模様が走るアゲハ蝶──それは間違いなく、シエルの魂の欠片であった。
ロクアスは己から飛び出していった黒いアゲハ蝶の姿に内心で驚愕し、思いがけず息を呑むが、すぐに笑いの混じった小さな吐息を漏らす。
蝶は、未だ両手で顔を覆って俯いているアンフェールの周りを覚束なく飛んでいた。
「アンフェールさん。顔を上げてみてください──彼女は、あなたのすぐ傍に」
ロクアスの声に促されて、アンフェールがゆるゆると顔を上げる。同時に、開いたままのアンフェールの両手の上に、黒いアゲハ蝶がとまった。
アンフェールが、己の手の中に収まった黒いアゲハ蝶を目の当たりにして、しばらく石のように固まる。だが、その碧い目は徐々に大きく見開かれてゆき、アンフェールはアゲハ蝶へと顔を寄せ、ぽつぽつと柔い声を落としていった。
『……おじょう、さん……? お前、なのか?』
アンフェールの声に、アゲハ蝶は黒い翅を羽ばたかせて応える。
『ああ、そうだ……そうだった……! お前、そんな無愛想な声してた。なあ、お嬢さん──いや、シエル。お前、とんでもなく頑張ったんだな。学校作ったり、先生になったりしたんだって? やっぱり、シエルは本当に凄いよ。それに、ちゃんと俺が祈った通り長生きもしたんだろ? やるじゃねえか、死にたがりのクソ馬鹿お嬢さんのくせに』
アンフェールには、アゲハ蝶の声が聴こえているようだった。
『ばーか、シエル。蝶は泣いたりしねえよ。……俺を忘れないでいてくれて。長生きしてくれて、本当にありがとうな。シエル』
アンフェールは目に碧がきらめく水の珠をいっぱいに溜めて、これまでにないほど晴れやかで、柔らかな慈愛の笑みを浮かべながら、アゲハ蝶に囁く。
『もう、大丈夫。次に生まれる時は、死ぬまでずっと一緒だ。俺はもう、シエルを置いていったりしねえよ。今度こそお前よりも百年、長生きしてやるから』
アンフェールが、ロクアスへと視線を寄越して深く頷いて見せる。その目は〈鎮魂〉を望む目であった。
『生まれ変われるまで──今は一緒に、この世界で眠ろう。また逢える。俺の〈祈り〉は、絶対だ』
アンフェールの望みに応えるため、ロクアスは背負っていた黒杖を手に持つと、その場に力強く突き立てて、朗々と〈鎮魂〉のまじない詞を唱えた。
「業火を喰らいし再生の蟲。果てなき祈りを捧げし白闇の蟲。御魂を共に別つ、夢見し蟲の半身たち。幾星霜を経て相見えし時、空は玉座となり、大地は高らかに歌おう──いざや、しばし。彼の王の帰還を控え。汝らの望みし彼の地へ還らんとす、その時を控え。安らかに、鎮まりたまえ」
ロクアスのまじないと共に、辺り一帯に蝶と蟷螂が睦み合うような紋様の魔法陣が顕現し、光が噴水の如く噴き上がる。
魔法陣の中央には、完全な人の姿となったシエルとアンフェールの二人が、微笑み合って互いを見つめていた。
そして間もなく、二人の周りに幾つもの〈縁の組紐〉が色とりどりの火花を散らして現れ、複雑に絡み合いながら二人を呑み込んで、巨大な繭が創られてゆく。
アンフェールとシエルが繭に呑まれる寸前。ロクアスは、二人に向かって大きく声を張って宣言した。
「今しばらく、どうか安らかにお眠りください。私は決して、あなた方を忘れない──世界に、忘れさせたりはしない。あなた方を、物語として必ずや後世に伝えます。あなた方が守り、導いてくださった子どもたちが、更にその子どもたちへと語り継ぎ、いつかは神話となるような。そんな、あなた方の物語を。必ず私が創り、伝え、この世界に刻みます」
すると、繭に吞まれるアンフェールとシエルがこちらを振り向いて、声もなく、口の形だけでこう伝えてきた。
『ありがとう』
その言葉をしかと受け取ったロクアスは深く頷いて見せると、もう一度、己が立っている白闇の水面を穿つように、黒杖を突き立てる。魔法陣から、光の濁流が勢い良く噴き出した。
そうして、シエルとアンフェールの繭は光の濁流によって、遥か天高くへ昇り、ロクアスも光の濁流に吞み込まれた。
◇◇◇
白闇湖の水が、まるで生き物の如く中心部へと集まって巨大な水の塊となり、そのまま水柱へと変化して遥か上空へと噴き上がる。
それから七日間の間。
辺り一帯には、雲一つない晴れ間であろうと、真白の雨が絶え間なく降り注いだという。
純白の水面は、雨となり。大きな穴と化した白闇湖の中心には、黒杖を片手に持つロクアスが一人立っていた。
白い雨の中。何故かロクアスは、先日会った魔王ディルムッドの「どうして、お前は物語を創りたいの? 俺の物語も創るって言ってたけど」という言葉を思い出していた。
「……何故って。忘れたくないじゃないですか。懸命に生きた、あなた方のとんでもない生き様を。この理不尽極まりない世界に、少しでも刻んでやりたいじゃないですか。放っておけば吹いては消えてしまうような、私たちの生き様を」
ロクアスはそう独り言ちて、黒杖を再び背負う。
(物語は、魂が行き着きたいと願う場所への道標のようなものでもあります。私はそんな物語を、『死んでも死にきれない』と、死してなお〈生き続けてしまう人々〉から創り出して後世へと残し、未練によって未だこの世を彷徨い続ける〈還らずの魂〉となってしまった彼らを、彼らの帰りたい場所へと還したいのです)
ロクアスは天を仰いで、たった今眠りについた〈夢見し蟲〉の彼らへと問いかける。
「これもまた、祈りなのかもしれませんね。私も、あなた方と同じです」
そう呟いて一つ息を吐くと、力強く、一歩を踏み出した。
「さて。彼らの物語の題目は、何としましょうか」
ロクアスの物語を創る旅は、未だ始まったばかり。
◇◇◇
ロクアス自身が物語と成ることも、この〈物語〉を読み終えたあなた方が、必然としてくれるだろう。




