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Ⅰ.蝶の少女

 男は、とある屋敷の若旦那に男妾(だんしょう)として買われた。


 幼い頃から年の離れた兄姉たちに蔑まれ、奴隷のように扱われた男であったが、とうとう兄姉たちに「穀潰しの悪魔憑き」と奴隷商人に売り飛ばされて、現在に至る。


 男が「悪魔憑き」と呼ばれる所以は、その目にあった。男の闇の中でも光る青い目は、多くの常人であれば目にすることなどできぬモノ──生者も死者も問わず、生きとし生けるモノ、かつて生きたモノたちの〈魂の形〉を目にすることができたのだ。


 たとえば、死者の魂であれば。男が売り飛ばされた先であるこの屋敷には数え切れぬほど、子供の姿をした魂があちこちを隈なく彷徨(さまよ)っている。

 たとえば、生者の魂であれば。多くの生者の魂は、〈色〉で視認できる。大体の生きた人間は一、二色の色。

 しかし男の飼い主である若旦那の魂は、橙、藍、紫、茶、緑、黒……さまざまな色が渦巻いている。その父親である大旦那は濁ってくすんだ濃い灰色だ。黒や白、灰色などの無彩色の魂のかたちも珍しい。


 男が世間知らずなこともあるが、この屋敷には珍しい魂のかたちがたくさん在った。その中でも、己の眼を疑ってしまうほど尋常ならない〈魂の形〉の持ち主に、男は出逢う。


「……あ」


 男はその尋常ならぬ魂のかたちの持ち主──〈彼女〉を遠くに見つけて、小さく声を漏らす。

 彼女は、人一倍身体の大きい男の何倍もの背丈がある高木の枝に、ひっそりと腰掛けていた。


 はばたく純白のドレスから伸びる裸の四肢はすらりと長く、陽の光が反射してしまいそうなほど白い。

 そよ風に流される、濡れた黒曜で染められたような髪から覗く瞳は燃え盛る炎の色だというのに、いつも息を吞むほどに冷え冷えとしていた。

 色づいた淡紅(うすくれない)の果実の如き小さな唇を尖らせ、地上を見下ろしているその少女は、男の飼い主である若旦那のすぐ下の妹君にあたる。


 少女はかつて、人々に「天使」と呼ばれていたと云う。

 だが、現在は家族にも屋敷人たちにもかつての男と同じ「悪魔憑き」と呼ばれ、疎まれている。

 現在の少女は、毎日欠かさず自殺を繰り返す、極度の死にたがりだった。


(──また、あの〈(はね)〉か)


 男は無意識に心の内でそう呟きながら、たおやかに高木の枝の上で立ち上がる少女の下へと駆け出す。男の身体はいつだって、少女の姿を目にすると何者にも囚われず、勝手に動き出すのだ。


 枝の上で立ち上がった少女の純白のドレスが、地上から舞い上がった風を吞んでふわりと膨らむ。

 白銀の日差しと、若葉が歌い踊る薫風(くんぷう)を全身に受けて、冷たい炎の色の目を細める少女──そのか細い背中からは硝子のように透明で、巨大な蟲の翅が生えていた。


 この〈透明な蟲の翅〉こそが、男が目にすることができる少女の〈魂の形〉であった。

 少女の魂のかたちは何故か彼女が自殺しようとする時、少女の身体の細い輪郭よりもはっきりと浮かび上がる。

 あの翅は、死者どころか生者よりも濃密な気配のようなものを発していた。

 そのため、男はどこにいても、何をしていても。少女が死のうとしている瞬間がわかってしまう。

 そしてやはり、気が付けば勝手に男の身体は、死を求める少女のもとへと駆けつけてしまうのだった。


「あのクソ馬鹿……!」


 男は悪態を吐き捨てながら、駆ける足をさらに速める。

 少女の背にある翅が細かく、小さく震えて──ついに、少女の身体が宙に投げ出された。

 浮き上がった純白のドレスが、透明な蟲の翅と重なる。

 宙に飛び立った少女の魂のかたちを追いかける男の胸には、得体の知れない感情が湧き上がって、弾けて、沈んで──


(蝶に、似ている)


 やはり男は、その感情を正確に言葉で表すことができない。

 ただ、少女を目にして一番に思い浮かぶありきたりなようで、奇妙な言葉がいつも通りに頭を(よぎ)った。


 少女が蝶と成った刹那。その細っこい身体は、当たり前に地をめがけて真っ逆さまに落下する。

 男は両腕を大きく広げ、地面と少女が今にも接触してしまいそうな僅かな空間に、土煙を上げて滑り込んだ。


 とさり。そんな音と共に、全身で大きな衝撃を受け止めて、男は僅かに唇を歪める。だが、腕の中には力を込めれば折れてしまいそうな華奢な肢体と、小さな子供のような体温の熱が確かに在って、咄嗟に安堵の息を小さく漏らした。


「……に……い」

「ああ?」


 風に攫われそうなほど澄み切った声が耳に入って、男は腕の中を覗き込む。男の太い腕にしっかりと抱かれた少女は、細い白磁の四肢を糸の切れた人形のようにだらりと投げ出した、あまりにも無防備な姿で目を閉じていた。

 しかし、すぐに青い血管の透けた薄い目蓋は開かれ──炎の色の瞳が、鋭く男を睨み上げる。まるで、喉元に突きつけられる剣の切っ先の如き、冷血の(まなこ)であった。


「死にたい」

「は……」

「死にたい」


 少女は、口を開けばいつもそればかりだった。

 身体に異常はないかと尋ねようとした男の声も、少女の凛とした声にそぐわないその言葉に遮られる。


「死にたい」


 死にたい。

 己と無理心中を図って死んだ父や、己を売り飛ばした兄姉たち。幼い頃から狂いそうになるほど聞かされたその言葉を、男は心の底から嫌悪していた。


『お前を産んで、母さんは死んでしまった。……ああ、彼女を追って、私も死にたい』


 掠れて濡れた、父の声。


『お前が産まれたせいで、母さんどころか父さんも死んだ! 全部お前のせいだ! こんなことなら、あたしも死んでしまいたい……』


 髪を掻きむしって、狂ったように暴れ回る姉の金切り声。


『父さんの魂が見える? よくもぬけぬけと……! お前が、父さんと母さんを殺したんだろう! この家に滅びを運んできたんだろう!? この悪魔憑きが! お前と同じ血を引いていると思うだけで死にたいくらいだ!』


 殴って、蹴りつけてくる鈍い音と共にこの身体をズタズタに引き裂いてくる、兄の声。


 死にたい、死にたい、死にたい──そんなこと知るか。俺は生きたい、生きてみたい。


 男は、未練を残してそこらを誰にも気づかれず、ただひたすら彷徨(さまよ)い続ける空虚な魂には成りたくなかった。どんなに嫌なことがあろうが、胸糞悪い気持ちが拭えないままであろうが──生きていれば、きっと何かがあると。


 男は心から信じているのだ。


 春には淡い木漏れ日の下で、気持ちよく昼寝したり。

 夏には強い白銀の日差しの雨に打たれて、じんわりと肌を焦がしたり。

 秋にはみずみずしく実る果実を、腹が満たされるまで頬張ったり。

 冬には真白に冬化粧を施した峰々が、朝焼けで頬を柔い赤に染める絶景を楽しんだり。


 もっと、生まれたままのこの目と耳と肌と、全身で。この世界をじっくりと味わい尽くして生きたいのだ。あと数十年……百年あっても足りない。

 男にとって、生きることは希望であり、光であった。


「死にたい」


 また少女の小さな口から、男を否定しているように感じるその言葉が端然と紡がれる。


(じゃあ、勝手に死ね。ひとりで死ね──誰かを巻き込むな。死ねないのを誰かのせいにするな。死ねないのは、てめえのせいだろうが。本当は口だけで、死ぬ覚悟なんざないんだろうが)


 男は激情に任せ、思いがけずそんな言葉を吐き出しかけたが、何とか吞み込んだ。

 男にもわからない。

 ただ、どうしても──死にたいと無駄にほざき、何度も自身を殺そうと藻掻いているこの小さな少女に、何故だかそんなことは言えなかった。


 それに、そんなことを思うのならば、死にたい奴など放っておけばいい話だ。だが男はどうにも、死にゆこうとするこの少女を生かそうと身体が勝手に動いてしまう。

 男は、目の前で死のうとする誰かを放ってなどおけない──生来より、そういう性質(タチ)であった。ただ、それだけなのだ。


「死にたい」

「……っはあ……ああクソ! てめえ、いい加減にしろ! 何度死にゃあ気が済むんだ!? この阿婆擦れ!」


 代わりに、生まれつき育ちの悪い口で毒を吐き捨ててやった。

 しかし、やはり少女の人形のような顔は、相変わらず感情すら微塵も匂わせない。

 少女は赤ん坊よりも無防備な様で、男の腕の中から空よりもどこか遠い別世界に意識を飛ばしているようだった。


「死にたい」


 少女は、男に応えない。

 男は無遠慮に盛大な舌打ちを鳴らして、日差しの白銀を弾く己の金髪を乱雑に掻きむしる。

 男はこの死にたがり少女が、世界で一番嫌いなはずだった。


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