03.忘れじ
〈夢見し蝶の君〉──かつてこの学院の初代校長であったのだろう〈シエル〉という女性の生き様、情念、激情。
濁流の如く流れ込んできたそれらの全てを一気に受け止めたロクアスは、未だに眩い光が点滅する視界と、己の魂とシエルの情念が結びつき、激しく鳴動する感覚に思いがけず身体をふらつかせて、黒杖を支えに何とか地面を踏みしめる。
「シエル、さま……ああ、何てこと……!」
近くにいたゼイラル学院長にも、シエルの情念が流れ込んでしまったらしい。ゼイラル学院長はぼろぼろと涙を流すのと共に呼吸を乱しながら、よろよろとその場に倒れ込もうとする。
そこで咄嗟にロクアスがゼイラル学院長を抱きかかえ、彼女が倒れないように支えてやった。
そして、ゼイラル学院長の様子が落ち着くのを少し待って、ロクアスは〈シエル〉の情念が形となった黒いアゲハ蝶を見上げる。
「彼女は、〈シエル〉さんという方なのですね。シエルさんが嘆いている理由が、判りました。おそらく、この学院の名前──〈アンフェール学院〉の名前が変わってしまうことを恐れたのでしょう」
ロクアスの話をしっかりと聞き入れたいのだろう。ゼイラル学院長が己の身体をゆっくりと起こし、一人で立ってロクアスを見上げる。ロクアスは未だに涙を流し続けるゼイラル学院長に頷いて見せながら、話をつづけた。
「シエルさんの一番の願いは、彼女が少女の頃に亡くなってしまった大切な方〈アンフェール〉さんが、この世界から忘れ去られないこと。彼が存在したという事実、彼の真名、彼の生き様、彼の全てがこの世界から消えてしまうことを、何よりも恐れた──故に彼女は、〈アンフェール学院〉を創設した。この学院こそが彼女の魂。魂であるが故に、彼女の強すぎる情念が学院から溢れ出し、黒いアゲハ蝶と成ってまさに〈守護霊〉と化したのでしょう」
ロクアスの言葉に何度も頷いて、ゼイラル学院長が嗚咽を漏らした。
「ええ、ええ……! シエルさまの、そのような想いも知らず。私たちは学院の名を変えようなどと……ああ、何ということを……!」
「気に病むことではありませんよ、ゼイラル学院長。万物は、変わりゆくもの。それがこの世の理。ですが、シエルさんが死後にまで残る情念を抱いてしまうほどの──『忘れたくない』という想いも、理解できます。我ら人は、ままならぬ情念を抱かずにはいられない」
ロクアスは今にも泣き崩れそうなゼイラル学院長の肩を摩って、静かに問いかける。
「強すぎる情念を糧とし、この学院に根を張っているシエルさんの魂は、今現在の状態を見るに弱りつつあります。このままでは魂ごと壊れてしまい、〈生まれ変わりの循環〉から外れてしまうでしょう。ですので、しばらくは彼女の魂を休めるため生者による〈鎮魂〉が必要となります……彼女の想いや願いを汲み取って差し上げられることは、可能でしょうか?」
ロクアスの問いにゼイラル学院長が、一つ間を置いて、涙を拭い去りながらしっかりとした様子で答えた。
「勿論でございます。不変となってしまった死者の想いを汲み取るのも、生者の務め。この学院は永久に〈アンフェール学院〉。母なるシエル校長がお創りになられた、〈教え〉と〈学び〉の尊さを子どもたちから後世に伝えてゆく、学びの庭です」
ゼイラル学院長の言葉に応えるように、突如、辻風がどこからともなく巻き起こった。
併せて、旧校舎のてっぺんにとまっていた巨大なアゲハ蝶──シエルが、四枚の翅をゆるりと羽ばたかせて飛び立つ。
『不変は、この世の理から外れている。それは解っているのに……それでも、願わずにはいられなかった。あの人の生き様が、あの人がこの世界で生きていた証が、あの人がわたしに教えてくれた生きる喜びが、この学びの庭に在り続けて欲しいと。あの人が忘れ去られてしまうことだけは、何よりも耐えがたい』
シエルの声が、風に乗って鼓膜を撫でるように揺らす。
『ありがとう。わたしの声を掬い上げてくれた子どもたち──あの人と同じ。あの人の子どもたち。わたしは眠ります。もう一度、あの人に逢うために』
シエルはそよ風のようにそう語りかけると、空高く舞い上がる。
『アンフェール。あなたにまた巡り逢うためならば。わたしは何度でも地獄の業火に焼かれて、いつまでも、どこにでも飛んでゆける蟲に生まれ変わる──あなたに、逢いたい』
それは、祈りの言葉だった。
シエルはその言葉を最後に、巨大な蝶の姿から無数の小さな蝶へと変化してゆく。無数の蝶たちは花雨の如く舞い踊りながら、旧校舎の屋根に降り注いで染み渡るように消えていった。




