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Ⅰ.水面の光

 死にたい。


『おねえさまの目は、どんな宝石よりもキレイだね! 暖炉の火よりも真っ赤で、めらめらしてて……ぼくも、そんな目が欲しかったなあ』


 死にたい。


『どうしたら私の癖毛も、お姉さまのような絹の手触りの髪になれるのかしら。御髪に関しましては私、本当にお姉さまを羨ましく思いますの。その黒曜の色の髪も、お姉さまの白いお肌に映えて美しい限りですし』


 死にたい。


『ああ、あなたのお顔は本当に可憐で、なんて可愛らしいの。まるで天から舞い降りたような──そう、あなたは我が家の天使よ!』


 死にたい。


『お前は我が家の希望だ! 必ず、私たちが選んだいい人と結婚しなさい。さすれば、お前も私たち家族も──いいや、我が家の末代までもの全員が、幸せになれるのだから』


 死にたい。


『天使ねえ。私から見れば、お前は〈クロアゲハ〉のようなものだが……母上も父上も、ずいぶんお前を甘やかすものだな』


 死にたい。



 家族に褒められるたび。いつも心の内を占める紛れもない本心だけで応えるようにすると、皆ようやく口を閉じてくれるようになったため、()()()はその言葉が大変好きだった。


 生まれてこの方、この肉体以外を褒められたことはなかったように思う。


 物心のついたころから、兄や弟妹たちと違って、わたしだけは屋敷の外に出ることすら許されたことがなかった。

 それが当然のことと思い込んでいたわたしだったけれど。白くて無駄にだだっ広い部屋に、純白のドレスで着飾られ、一人押し込まれて過ごすうち。次第にわたしの在り様は、兄が熱心に集めていた「蟲の標本」と同じなのだと気が付いた。


 わたしの魂はとっくに死んでいて。わたしがこの白い世界で必要とされているのは、天使だ何だと喩えられる肉体だけしかなかったのだと。


 それならば一刻も早く、魂に倣ってこの肉体も、完全に死ななければならない。そんな使命感にいつしか駆られるようになった。

 よく考えてみれば、肉体の美しさしか取り柄の無い、屋敷の穀潰しなだけのわたしなんて、ただの邪魔者でしかないはずだ。

 だから兄には、よく誰も知らぬところでお腹や背中を殴られたり、蹴られたりしたのかもしれない。

 それに、魂の無い死体だけを愛でられる、兄の標本の蟲などと同じような存在のままで在りたくなかった。


 魂だけでなく、無駄に息をする肉体も死ぬことでようやくわたしは、誰の邪魔にもならない「完全な人」と成れるのではないだろうか。


 わたしは、人になりたい。

 標本の蟲でいるのはもう嫌だった。


 そう考え至ったわたしにとって、死は「希望」になった。

 それからのわたしは、屋敷の全ての人々から「悪魔に取り憑かれた」と厄介者扱いされるようになる。


『死にたい』


 口を開けばその言葉しか出てこなかった。この言葉を口に出すだけで、わたしの身体は「(まじな)い」にでもかかったかのように、軽くなる。


 わたしは屋敷の人々の眼をかいくぐっては、たびたび屋敷の外へと飛び出した。


 外に出ても、高い塀に囲まれた我が家の庭はどこまでも広大に思えたけれど、わたしが死ぬための何もかもがそこには揃っていた。背の高い木、流れのはやい川、尖った石。庭の全てが、わたしを殺すための道具。それらを使って、わたしは何度も己を殺すことを試みた。

 屋敷人に邪魔されることが多かったが、もうほとんど、彼らはわたしを追いかけてくることはない。


 父と母は見たこともない顔でしょっちゅうわたしを怒鳴り散らしていたが、今はわたしに見向きもしない。

 弟妹はわたしに縋っていつも泣いてばかりいたが、今はわたしを恐れて近づこうともしない。

 兄だけは何も変わらなかった。わたしを見るたびに、声を震わせて大笑いをあげる。


(──死にたい)


 わたしは過った家族の影を振り払うように、また希望の言葉を囁いた。

 今日迎えるのは、百度目の死の試み。百度目にして、ようやくわたしを邪魔する者はいなくなったのだ。

 わたしは庭の中に架かる石橋の端っこに立って、轟々と黒くうねる川を見下ろす。

 水はいい。背の高い木の上から落下するよりも、大きな石や尖った石で身体を打ち付けるよりも、おそらく確実にわたしの呼吸(いき)を止めてくれる。


 冷たく、滑らかに身体の全てを覆ってくれる水の中で死ねるのなら、どんなにいいだろうか。

 わたしは黒い水の中で重く、溶けるように死んでゆく己の肉体を想像しながら、石橋の上から一歩踏み出そうと足を宙に浮かせる。


『また、入水自殺か』


 父でも、兄でもない。

 誰か──男の低い声が、遠くからこの鼓膜を微かに打っただけで。わたしの肉体は何かに縛られ、操り人形よりも硬くてぎこちないモノに変貌した。

 声が聴こえた石橋の向こうを振り返ると、そこには白銀の強い日差しに隠された、父よりも兄よりも大きな男が立っている。


 そうだ、邪魔者はまだいた──〈彼〉だ。


 わたしを値踏みする父の眼も、わたしを蹴って殴る兄の手足も、怖くなんかない。怖いものなんてわたしにはないはずだった。


 でも、数か月前に屋敷に現れ、誰よりもわたしの邪魔をするようになったあの男──〈彼〉だけは、恐ろしくてたまらない。

 彼のそばにいると、わたしがわたしでなくなるような。わたしという存在の全てを、まったく別の何かに書き換えられてしまうような。そんな、未知の恐怖に襲われるのだ。


『本当に懲りんな、お前という馬鹿は……まあいい。今日も死んでみろ! 何があろうと、俺がお前を生かしてやる』


 彼はそう声を張り上げながら、相変わらず大きな歩幅でこちらに近づいてくる。大きく、速くなってゆく彼の足音に釣られるように、わたしの心音もせわしなく胸を叩きはじめた。

 まだ地上にいるというのに、呼吸が酷く苦しい。視界がふわふわと霞み、白んでゆく。


 やはり世界は苦しくて、最悪だ。


 わたしは、彼への恐怖で地上に縫い付けられた足を叩いて叱咤する。そして、白波を立てて流れ渦巻く黒い川の中へと、逃げるように飛び込んだ。


 衝撃は、ほんの一瞬だけ。すぐに全身が柔らかな水に包まれ、激しい流動に攫われる。

 こんなにも激しい世界だというのに。母の金切り声も、弟妹のすすり泣く声も、酒に堕ちた父の怒声も、兄の嘲笑も、何も聞こえない。心地の良い静寂だけが、わたしの世界と成る。


 冷たくて、

 黒くて、

 柔らかい。


 水は、暗闇に抱かれる安らぎのようで。暗闇は、胎に満ち満ちた羊水のようだ。


 しかし、闇の水に溶けるわたしの肉体に──わたしのお腹に、何かが巻き付いた。

 硬くて、

 白くて、

 肌を刺すような水の冷たさの中では、熱い腕──もう、見慣れ過ぎた男の腕だ。


 黒い水によく映える、白き腕一本に力強く引っ張られて。溶けた肉体が強制的に輪郭を取り戻してゆく感覚に、わたしは心底絶望する。そして浮上してゆく身体はそのままに、意識は深い眠りに落ちていった。


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