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朝となった。
久しぶりに着る制服の袖に腕を通し、まだ衣替え前の夏服をピシッとキメ、鞄をもって靴を履いた。
僕の背後にはやっぱりあの男が居て、朝の目覚めに苦言を呈す。
「早すぎませんか」
「学生は当たり前だと思うけどね」
なんて会話を終え、僕は外へ歩き出した。
目の前にある水路を伝い、斜面を降り、駅へ着いた。
そしてその駅で電車に乗り込み、数分揺られ、学校の最寄り駅へと到着する。
思えば、ここでこの男と出会ったのも少し懐かしく思えて来た。
嫌な思い出であるが、それでも消えないあの記憶をこうも呼び起こされるのは遺憾なものだった。
「……」
今日は、部活か。
まあ、数日僕が休んでいたからだろうね。どうやら彼はいないらしい。
何の連絡も出来なかったんだ。きっと……。
「いつもは一人で通学を?」
なんて心配事を想っていると、横を一緒に歩く信義鐘人が口を開いた。
「そういう訳でもないよ。いつもはクラスメイトと登校していたんだ」
「友達いたのですね」
「どういう意味かは聞かないでおくよ」
「せめて、否定してくださいよ」
否定もなにも友達ではない。勘違いしないでほしい。
……でもまぁ、勘違いして当然か。普通に考えても分からないからね。
他人の交友関係なんて見て分かる物ではない。
何故なら関係性と言うのは不透明な物で、傍から見ても分からない場合がほとんどである。
そういう見えない物を持っているのが人間であるのだ。
人間らしいと言えば、人間らしい。
人は、他人の本心を決して理解することは出来ない。
これは僕が思う『当たり前』だけど、見えないものを理解できないのは当然の話で、だからまあ、そういう勘違いをするのは仕方ないのかもしれないな。
「あぁ、そう言えば四番の番組見ていないな」
なんて彼について考えていたから、ふとあの時の会話を思い出した。
僕のぽつりとした言葉に、信義鐘人は首を傾げ。
「番組?」
「うん、そうそう。言われてたんだよね」
言われていた言葉だ。
テレビの四番が面白いって。忘れてたな。やらかしたな。
「春香ぁ~~、それでっ」
「……」
「よんばん、みた?」
この感覚を、忘れていた訳ではない。
だが、この僕にとっての日常は。
変えられない世界である。
環境は、自分で変えられないからだ。
それこそ、人の弱さかもしれない。いいや、間違いなく弱さだ。
そう、僕は弱いから。――今土下座している。
教室に入り、一番に食らったのは飛び蹴りだった。
腹に受けた衝撃に苦しみ、僕は地面に倒れ込むと、その上から上履きが降ってきて僕を踏みつけて来た。
ああ、教室の地面の香りだ。なんて思うと共に、頭の中でスカした僕がこう言った。
帰って来たって感じがするなぁ。
いじめられている。
というのは一見しただけで分かる事実であった。
頭から浴びた購買のパック牛乳に冷たさを覚えつつ、全身の倦怠感と共に走る激痛に耐えていた。
教室の後ろの黒板に、縄で縛られ磔にされている今、そこに飛んでくる野球ボールの的と言う事で、僕は遊び道具になっていた。
「田中ぁ~、どうだ?」
「最高のマトだねぇ、これで練習してれば本番で優勝だ」
先生はその様子を見て、どうやらまだ『戯れ』であると信じているらしい。
担任の先生は気弱な人だ。
きっとこのいじめを怖がって手を出せないのだろう。なんて自己中な。
「こほっ」
「それで春香」
「な、なに」
「どうして数日休んでたんだよ。なんか連絡くれてもよかったじゃん。俺、待ってたんだよ駅で」
「それは……ガッあ!」
僕が喋ろうとしたタイミングで、またボールが飛んでくる。まるで鳴き声を楽しんでいる様だった。
「携帯を教室に忘れちゃって」
「え、あぁあのスマホ春香のだったのか……じゃあごめんだわ」
なんて、とても白々しく。田中幸村はポケットに手を突っ込んで。
そこから取り出したのは。
「昨日見つけてさ、それも間違えて踏んじゃったんだよね。わりいわりい」
まるで汚い物を持つような持ち方でボロボロのスマホを振り、謝りながらその場にスマホを落として。
目の前でスマホをもう一度踏んだ。
なるほど、隠していたつもりなんだけどな。いじめも徹底している。
「ごめんな、また踏んじゃった。でも許してくれるよな」
心にもないセリフを空気に吐きつけながら、
田中幸村は憎たらしい笑みを浮かべ、そして言い放った。
「俺達、一緒に帰るくらい、仲がいいもんなっ?」
「……」
「だから、せっかく駅で待ってたのに。来なくて寂しかったんだぜ」
「……」
田中幸村は僕に近づき、落ちたトーンの声で迫ってきて。
「ッ!」
身動きが取れない僕を、ロッカーの上から突き落とした。
そして、僕が上を見あげると、彼が黒い瞳で僕を睥睨して、
またもう開かなくていい口をもう一度開き、笑みをこぼした。
「約束破ったんだ。喧嘩しよっか」
満面の笑みでそう告げて、田中幸村はその右足を振りかざして、僕の股間へ振り下ろした。
喧嘩と言う名のリンチが始まった。
「オラぁ!」
「ッ……ブッう」
「謝れよ」
「はっ、アあ――」
「早く謝れよ」
「がぁあああ、いッ」
「なに泣いてんだよ、泣きたいのは俺の方だったんだぞ」
……酷い、理屈だ。とても、理不尽だ。
でもこれこそが、いじめだ。
一方的で、とても苦しくて、激しく痛くて、吐きそうで、それでも僕は弱いから何も出来なくて、そんな自分が気持ち悪くて、弱くて、アホみたいで、醜くて、弱者のままで、あぁ、そうだよ。僕は強がりなだけだ。強がらなきゃ精神を保てない。そんな人間。
化けの皮が剥がれて来たでしょ。
僕はこういう人間なんだ。
だって僕は弱虫で力も無くて度胸も無くてやり返せなくて、身長も無くて体格も無くて喧嘩に勝てた記憶もないし、小さいころ少しだけやったボクシングをすぐやめてしまったし体を動かすのが大の苦手で水泳ですら苦手でバスケットボールなんてもちろんできなくて足を捻ってしまったし肩を痛めてしまったし体力も無くて成功した事も無くて、そんな僕が運動部の彼らに勝てるわけがないんだ。だってそうだろう?僕はちっぽけな人間なんだからね。そうだそうだ。そう言えばさ。昨日食べた冷凍食品、賞味期限とか大丈夫だったかな。見るの忘れてた気がする。お腹壊してないからいいんだけど。おばあちゃん元気かな。昔ヘチマを育てた時、一緒に面倒を見てくれたな。あれ部屋のエアコンきったっけ。あ、漫画も読み途中だったな。財布も忘れて来ちゃったな。電気消したかな。制服のボタンちゃんと閉めてたっけ。誰かに迷惑かけたっ昨日の野菜美味しかったな。そう言えば昨日の助けて助けて助けて助けて助けて。小説を読まなきゃ。思い出そうか。確か昨日読んでたシーンは、印象深かった気がする。なんだっけな。うん。テレビ消したっけ。課題もってきてないな。ニュース大丈夫だったかな。助けて。回覧板やったっけ。バイト今日もあるんだよね。なら早めに帰って行かなきゃいけないな。そうだ、今日は何曜日だっけ晴れてたっけ曇ってたっけ寂しいな献立考えなきゃいけないな恥かきたくないな。誰かの役に立ちたかったな。そうだ、あの芸人さん元気かな、お皿あの時割っちゃった凄く申し訳なかったなカッター買い忘れた趣味でも増やそうかなあの子可愛かったなあいつ嫌いだったな野球のルール覚えたいな料理番組みたいに料理したいな靴下買わなきゃ電池かわなきゃトイレットペーパー買わなきゃシャーペンの芯ない気がする課題やったっけ。誰かの役に立ちたかったな愛されたかったな努力できなかった見掛け倒しだった何者になりたかった有名人になってみたかった小説書いてみたかった絵がうまかったらな努力できればなめんどくさがりじゃなかったらな。花を踏むなよみんな当然のように道草を普通に生えていると勘違いしている!馬鹿なんじゃないのか誰かが世話してるんだよ花壇に入るなゴミを捨てるな花を抜くな人を馬鹿にするな。何言ってんだ。いや、今は謝らなきゃいけない。そうしなきゃ、そうだ。許してもらえない。僕は許されたい。友達じゃないけど、それでも、なんでだろ。友達じゃないやつの怒りを解消させても仕方ない?でもそれだと痛いのは止まらない。さっきからずっと何かが痛い。チクチクみたいなジワジワみたいな不思議な痛みが胸のあたりでする。理屈で説明できないなら謝りたくない。でも謝らなきゃ痛いのは終わらない。なら謝るべきだ。でも何に謝るんだ?分からない何に謝ればいいんだ。僕が悪い過去の事について?そうだな、思い出してみよう……うざくてごめんなさい。気持ち悪くてごめんなさい。スカしててごめんなさい。大人ぶっててごめんなさい。生意気でごめんなさい。生きていてごめんなさい。息を吸ってごめんなさい。のうのうと学校へ来てごめんなさい。一言いえなくてごめんなさい。気遣いができなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。痛くて痛くてたまらないんです! もウ苦しいんです。
……惨めでごめんなさい。
「ごぉ、ごめん……な」
「……殺しましょう」
……え?
思考が、ぐちゃぐちゃになって取り返しがつかなくなった、思考の渦が動きを止めた。
そしてまるで肩から力が抜けるように情景が良く見えて来て、
僕は水面から出たような感覚と共にしっかりと意識を思い出す。
その声は一度、憎んだことがある声だった。
耳に降ってきたその言葉は、何故かあの混濁でも鮮明に聞こえた気がした。
体をよじり、どこか朦朧とする意識の中で、徐々に左目を開いた。
「君は耐えすぎている」
照明が一瞬眩しくてよく見えなかった。
手前でぶれている影は、紛れもなく田中幸村であったが。
その背後に一つ、影が増えているような気がして、僕はじーと見つめると。
見えて来た。
信義鐘人が田中幸村の背後に立っており、鬼の様な形相で彼を睨みつけていた。
「イラつく奴は全員殺そう」
……。
「こんな奴なんて生きている資格がない。社会の癌だ」
……。
「皆殺しだ。殺しても誰も文句を言うまい。言っている奴がいたならそいつも殺そう」
……。
「何故、君は殺す程の力があるというのに耐えているんだ?」
怒りを隠しているのか、はたまた悲しみでも芽生えたのか知らない。
だがしかし、その時の彼はまるで、それら感情を堪えきれていないような気がした。
怒りなのか悲しみなのかは傍から見たら区別できない。
だがそれら言葉を『激情』とひとくくりするなら、やはりこの殺人鬼の信義鐘人は、不思議な事に僕の境遇に感化されているように見受けられた。
あり得ない。
なんて感想もよぎった。
だってあの狂った男が、僕と言うちっぽけで愚かな人間に対し、感化されるなんて想像が出来なかったからだ。
彼のその言動は言い換えれば、僕の境遇に同情し、その上でこの提案をしている。
殺そう。殺そう。何度も何度も重要な部分を繰り返すように、台詞を呟くその様は、
本当に一瞬、彼が僕を憂いているような思い違いをしかけた。
そんなわけがあるはずない。
少なくとも、僕はそう信じたかった。――信じたかった。
だから、愚者のフリをした。
「……」
その言葉の意味が分からなくて、その時は何とも言えなかったけど。
後にその言葉は、僕にとっての疑問へとなっていくのを。
この時の僕はまだ知らなかった。