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ただ残ったのは、矛盾人間だった  作者: 夏城燎
1 『うつつをみろ』
5/18

5



 目の前に立っていた男が、

 青いライトと共に、静かにこちらへ迫って来た。


 僕は動揺して、重い全身を奮い立たせながらも後退を始める。

 男の口元が良く見えなかったが、しかし、言葉だけはどんどん、責め立てるように聞こえて来た。


「どうして逃げたんだ?」


 男の問いは酷く簡潔であった。

 僕はその問いに対し、理性的に返す事は不可能であった。


「こっ、怖くなって……」

「君が面白そうと言ったんだろう?」


 と、食い気味で言ってくる。

 僕はどうしようもなく、しかし、体が重かったので、その場で尻餅をついてしまった。


 あぁ。

 と声だけが漏れ出すが、僕はそれでも腕を使って後ろへ戻っていった。

 だが、その先が壁であると言うのは、考えなくとも分かる事であったが、

 それでも、僕は後ろへ逃げるという意思を曲げなかった。


「まさか君が怖じ気づくとは思いもしなかった。どうしてそうしたんだ? あの言葉は何だったんだ? まさか、俺をからかった訳ではなかろうな?」


 僕が両手を使って後ろへ戻るスピードと、

 目の前の男が迫ってくる速度は明らかに違う。

 故に、僕は慌てながらも後退をしていたが、それでも、距離はじわじわと詰められていた。


 途中、僕の頭上が暗転した。

 壁があるとばかり思っていた僕の背後側には、どうやら、薄暗くて人気がない路地があったらしい。

 だからといって、逃げるスペースがあったからといって、その時の僕にそれを喜べる余裕なんてない訳で、ただ単に恐怖する時間が伸びたとも考えられるし、また、恐怖に駆られながら背後へ逃げられる余地があった事に安堵を覚える。と言った事も不可能だった。


「失望した」


 言葉と共に、舌なめずりが脳裏に響く。


「おっぉ、めぇ、ごめぇぁ、ごっごめんあさい」


 口が滑る。凍結した道路の様に滑って、ブレーキを踏もうとしてもちぐはぐになるし、

 進もうと思っても滑ってこれもちぐはぐになる。

 言葉がここまで詰まったことは人生でない体験だったが、

 自分でも、ここまで言葉を発するのが難しいとは、思いもしなかった。


「小さくて声が聞こえないぞ、少年。少年、ああ、子供だなそうだ。可愛く、醜く、そして儚い少年。愚かで、真面目で、アホで、間抜けで、そうして、凄まじく主観的な、少年よ――。さて死のうか。俺のポイントとなってくれ」

「ひぃッ」


 迫る巨影は、ほんと、捲し立てるように僕へ言葉を吐き散らかした。

 その様に、何か分かりやすい例えがあればよかったのだが。

 当時、それほどまで余裕が無かったことに加え、幸いながら、それとも不幸ながら、こういった恐怖体験をすることが無かったからか。

 この状況にピッタリハマる例えが出てこなかった。


 しかし僕は、理性では冷静であったにも関わらず、感情がどんどんと押し寄せてきて、それらが体に作用していった。

 感情というのは名前がある通り『悲しみ』『嬉しみ』『恐怖』『幸福』『焦り』『絶望』などなど名前がついているが、その時思ったのは、皮肉にも、いざ感情が溢れてくるとき、自分でも、その感情がどういった物なのか理解できなかった。


 いま全身を蝕む激情、その中身はどういった感情で構成されているか。

 自らでも、どれだけ自己を解明しようとしても、理解が足らない、行き届かない。

 それほど感情は不透明であり、そして不安定でありながらも、確固たるパワーが存在していた。

 さながら、娯楽漫画などに出てくる概念的パワーに酷似している。

 こういった事から、想いの力が、物語の上で当人の力の根幹となる事が多いのだろう。


「しね」

「……」

「しねよ」


 男は僕を追いかけながら、手に持つ包丁をギラギラと光らせながら呟いた。

 身の毛がよだつ。


 僕は冷静だった。

 が、それでも体は正直だった。

 驚くほど体は怖がっていたし、心臓の音が、体育館で聞く和太鼓の様な音で、

 僕の恐怖を表現していた。

 ドンドンドンドン。

 鳴り響く中、ついに僕は、壁に背中を付けた。


「っ⁉」


 逃げ場が無くなって、同時に、目の前の男が迫ってくる速度が明らかに増した。

 僕が背後へ下がらなくなったのだから当たり前だけど、

 その恐怖は今や、絶頂にまで達しており。

 強い吐き気を覚えて。

 血の気が引いて。

 咄嗟に、催涙スプレーを男に向け発射した。


「ふん⁉ 何しやがったア!」


 当たり所がどうやらよかったようで、僕が発射した催涙スプレーは顔面に向かっていた。

 男は両手をばっと上にあげて、自身の顔を擦っている。そしてその瞬間。


「――――」


 男は、手から包丁を落とした。

 ……。



 そこからは早かった。


「ッぁ」


 僕は、落ちた、重い包丁を両手で持ち上げて。

 理屈で考える前に。

 包丁を男の腹へ押し込んだ。


「う、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 男の絶叫が路地裏に響き渡る。

 だが僕はその時、非道にも、こう思った。

 ……確実に殺らなきゃ。


 刺さった包丁を、男の腹の中で回して、上半身の方へ刃を向けながら、包丁を引き抜いた。

 そして最後に、僕は包丁を片手に持ち替えて、

 ――心臓あたりに向かって、包丁を振った。


「ぁ」


 という、僕の吐息に近い呟きは。

 全身に感じる生暖かい感覚と、そして、腕を伝う気持ち悪い感覚を通じて、出た言葉だった。

 僕は上げた腕を下ろした。

 手には何かが付着していた。


 ぬるぬるしてて、

 ぬめぬめしてて、

 そして熱くて、

 湯気が出ていて。


 最初こそ何か分からなかった。

 駅にあるガチャの景品などでよくある。スクイーズの中身にも近い触感。

 スライムや、ローションなども、このような感覚であるのかもしれないと。

 思ったが。


 刹那、差し込んだ月光が、それら液体の色が赤色である事実を、証明した。


「あっ」


 僕は気が付いた。

 とても遅れながら、気が付いた。


「――――」


 いつかの時、思い出として、僕の心にずっと残っている哲学がある。


 人は人である限りまともではないし、また、人は人でいる限り、ある意味まともと言える。

 そんな、単なる言葉遊びとしか思えぬ言葉であるが、どうにもその言葉が僕の心につっかかっていた。

 人であるから『まとも』であるし、

 人であるから『まとも』ではない。

 意味が分からないと切り捨てるのは簡単であるが、

 しかし、僕と言う人間はこの言葉に、ある種の共感を示しているらしい。


 僕とて、どうして共感を抱いているのかなど分からないし、

 ぶっちゃけ自分でも知りたいと思っている。

 しかしながら、やはり人と言うのは『情』が存在するからか、

 体は正直であるという言葉の通り、理屈を貫通した感情が備わっている。

 何と忌々しい。

 だが恐らく、この言葉の『まとも』の定義について、きっと、この『情』というキーワードは必要不可欠であり。

 また、ある意味、答えに最も近いのではないかと勘繰りを入れてみる。

 詳しい解説なんてしてみたら、恐らく分かる人と分からない人が現れるであろう。

 だから僕は誰にもこの言葉を話さないし、僕は他人を、言ってしまえばそこまで尊重しない。

 何故ならば、人と言う生物は、精神――イコール『感情』を省いた際。自己完結できると確信しているからだ。


「――――」


 感情は愚かである。


「……ぁ」


 これは教訓だ。


「……ぁっ」


 僕は、全てを終えた頭で、そう色濃く感じる。

 両手に広がる生暖かさと、体の芯を凍らす鋭い冷気に怯えつつ、

 僕と言う人間は、白い霧を口から漏らし、照明がままならない路地裏にて。


 ――感情を用いて、殺人をしたからだ。


「う、うう、うわ、うわあ。ああ。あああ」


 転がり不格好に倒れる男は。

 赤くドロドロで煮えた鮮血を腹から垂れ流す男は。

 先ほどまで僕に対し嫌がらせをしていた奇妙な男であり。

 そしてその男が言う事が、未だに馬鹿らしくて笑えるけれども。

 しかしながら、その馬鹿げていた男の戯言を。

 しっかりと聞いていれば。

 もしかすると。

 このような最悪は訪れなかったのかもしれないと。

 僕は遅いが、後悔に近い物を抱いた。


 しかしその抱いた後悔が。

 後に後悔でないという事実に気が付くのだが。


「あああああああああああああああああ、ああ、ああ」


 それは僕が、今抱いている感情について解説をし。

 そして理屈を用いて語れるようになってからの話であり。

 とどのつまり、僕に今必要なのは。


「あぁああ! なに、なっ、へ? うわ、ああ。おえっ、はあああ」


 考えるだけの時間と。

 ――そしてこの状況をしのぐ、策であった。





















「お困りかい?」


 なんて、頭に響いた憎ましき声は、僕の耳から頭に通った空気振動であると共に。

 その異常光景について、僕の解明を軽く阻害するほどの、害悪性を有していたと言わざるを得ない。


「……なんで生きてる?」


 話しかけて来た男は、気が付くと僕の眼前に存在し、

 僕が屠った死体を屈んで眺めながら、舌なめずりの音を出して、こう答えた。


「これが俺様の異能だからだ、殺人鬼」


 男は、死体と同じ服装、同じ顔面を覗かせ。

 僕の目の前に、亡霊として顕現したのだった。


「は?」


 これが神のいたずらであるならば悪趣味と非難するし。

 これが僕の妄想ならば僕は既に手遅れだが。

 この不可思議かつ解明不可であり、そしてあり得ない光景に。


 僕と言う人間は愚かにも、感情でしか反応が出来なかった。





 うつつへようこそ。なんて言葉をかけられた気がして。

 僕の破滅へのカウントダウンが、カタッと起動した。

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