第19話 一歩
ソラナムの声が聞こえた。
それは、アネモネへの謝罪のようだった。
何のことはない言葉。
だが、彼女の口から聞こえたその言葉だけが、カランを奮い立たせるのに十分すぎる力を有していた。
カランは咄嗟に手にしていた短剣を前に出した。
辛うじてハイドランジアの剣を受けとめる。
しかし、咄嗟で踏ん張れずに吹き飛ばされてしまう。
「おや、もう諦める頃だと思っていたんだけどなぁ?」
「……ああ、うん。諦めようと思っていたよ。けれど、どうやら僕はこのまま止まっているわけにはいかないらしいんだ」
ソラナムとアネモネの関係なんて知らない。
もしかしたら、瀕死になって幻聴を聞いただけかもしれない。
それでもかまわない。アネモネの名前と約束なんて言葉が聞こえてしまったからには、カランは立ち止まっていられないのだ。
結局、何時だってカランはアネモネの為でしか戦えないのだ――。
「すぅ……」
深く、カランは息を吸った。
それは、起きてから初めてした本当の呼吸だった。
その瞬間、彼の背後で、数百を超える魔導術式が展開される。
「なにィ……!? なんだ、その魔力は! アストラガルスの血筋はどこにも残っていないんだぞ!」
だというのに、カランが呼吸するたびに、莫大な魔力が生まれている。
あまりの魔力に局所的な天変地異すら生じるほどだ。
「ああ、なんだ。知らなかったのか」
「なにをだ、ボクが何を知らないというのだ!」
「アストラガルス人と他の国の人の違いだよ」
カランは己の心臓を指さす。
「ここが違うんだ。僕らの心臓は魔力を生み出す炉心なんだよ。生まれた時からこれだから、どうしてかっていうのは聞かないでくれよ?」
そう、その心臓の存在こそがアストラガルス王国が魔導を生み出した理由。
己の身一つで通常、都市に一つ設置される大型魔力炉心並みの魔力が生み出せるからこそ、アストラガルス王国は大陸に覇を唱え、魔導大国となり、ただ一国で災禍の魔王を大陸西域へと押しとどめることができた。
ハイドランジアは、勇者の力によるものだと勘違いしていたが、カランの無限に等しい魔力なんてものは、ただアストラガルス人ならば誰もっていたものなのだ。
カランの場合は勇者の術式を介して、さらに効率よく災禍と戦えるように専用化し、アストラガルス王国国民が危険であるほど力を強化する。
一般的なアストラガルス人との違いと言ってしまえばその程度で、強化もさほど劇的ではない。
あくまでも危険が迫っているのだなとわかる方がカランとしては重要だった。
だから、特別なのはアストラガルス人の身体なのだ。
「じゃあ、なぜあれほど弱っていた!」
「まあ、呼吸するのも億劫だったからかな」
二百年前、一国の王を殺し、その後も人々を虐殺したことで、己が護るべきものはないのだと理解した。
おかげで心が完全に折れたカランは、もう死にたい症候群末期患者である。しかし、勇者術式のせいで死ぬに死ねないので、仕方なく瀕死になっていただけなのだ。
それが、改めて深呼吸した。
魔力がみなぎり、急速にカランの肉体と魔力は全盛期のそれへと舞い戻る。
「それでも、ボクは魔剣を練り上げて来た!」
例え呼吸で魔力が生み出されようが魔剣で押し通すことにハイドランジアは決めたようだった。
カランは避けもせずに一撃を受ける。
だが、カランの身に剣身が通ることはない。
「僕の身体を傷つけることができたのは、アネモネくらいだよ」
「おお、おおおおお!」
戦意喪失するかと思われたが、ハイドランジアは逆に歓喜に打ち震えていた。
「つまり、それを斬ればボクは、アネモネと並び、さらにキミを殺せば越えられるというわけだ。たまらないねェ!」
「できるとは思わないな。無駄なことはしたくないんだ、降参してほしい」
「降参するなんて、もったいない! ボク一人で無理なら、みんなで力を合わせるまでさ!」
魔王軍団をハイドランジアは呼ぶ。
だが、誰一人として彼の下に魔王軍団がやってくることはない。
「はは」
代わりに、軍勢に呑み込まれたはずの女の声がする。
屍山の上、血の河の中にソラナムは立っていた。
その黒髪にも、美しい珠玉の肌にも、均整の取れた手足にもどこにも傷一つない。
まるで公園の椅子にでも座っているかのように屍の山に腰掛けていた。
「バカな! 魔王だぞ、ボクと同等の力を与えたんだぞ! なぜ、それがすべて死んでいる!」
「魔王の中にも優劣がある。アレが君と同等なら、単純に君が劣っていただけだよ」
「ありえない、このボクが、貴様のような小娘に、いや、待て、誰だ、オマエは!」
「良いのかな、わたしなんかに構っていて」
ハイドランジアがはっと気がついたときには、もう遅い。
カランはあらゆる準備を澄ませることができていた。
「来るんだ、カスレフティス・メルアァ」
そして、悠久の時を超え、失われた愛剣の名を呼んだ。
刹那、輝きが降臨する。
ありとあらゆる間を滅する七色の輝きを放つ、鏡の刀身の剣がカランの下へ顕現を果たす。
その輝きはまるで巨大な龍のようであった。
「いや、ごめんごめん。だから、拗ねないでよ、これからはちゃんとするから」
その中でなにやらカランは平謝りしていた。
ひとしきり謝った後、ようやく柄を握る。輝きが、折りたたまれるように剣に戻っていった。
「それじゃあ、終わらせよう」
その宣誓に、ハイドランジアは知らず悲鳴を漏らしていた。
「ひっ……」
それはもう無意識であり、自分自身ですらカランを恐れていることなど自覚できなかった。
だが、カルマ天秤により魔へ傾いた彼自身の身体がはっきりとそれの恐怖を覚えている。
圧倒的なまでの聖性は、かつて神の座に列せられることすら認められた本物の輝きだ。
「ふぅ……」
息を吐いて、カランは一閃を放つ。
咄嗟にガードしようとしたが、カランの剣閃は明後日の方向を切り裂くにとどまる。
「おっとしまった、本気を出したのなんて久しぶりで力み過ぎてしまった」
ははと、軽く笑うがハイドランジアは笑みを崩す羽目になった。
彼が立っているその隣には、巨大な谷が出来ていた。
ただの剣閃で、この中天地が両断されたのである。遥かな下方には、魔界の都市すら視認できた。
「大地を、この始祖龍の肉体を斬った、だとぉ!?」
「? そんなに驚くことかな?」
「絶対に破壊できない、この始祖龍の身体は、そういうものだろう!」
「ああ、このカスレフティス・メルアァがなんで聖神剣って言われてるのかも知らなかったのか。アネモネ、師匠に冷たかったんだなぁ」
ここにきて新たな事実が発覚したのを嬉しく思いながら、カランは説明してやることにした。
「聖神剣の聖神ってのは、別に聖なる神の事じゃない。精神が、なまったんだよ」
このカスレフティス・メルアァは、始祖龍の神経を素材に鍛え上げられた刀剣だ。
そこには、始祖龍の精神が宿っている。
カスレフティス・メルアァには、始祖龍の精神分の重み――この大地そのものの重さ――が乗っており、扱えるものはカランを除いて他にいない。
そもそも持ち上げることすら不可能である。
「だから、この世界事両断できる」
それはつまるところ防御不可能であるということ。さらに他にも色々と機能があるのだが、カランは使う必要はないだろうと判断した。
「それじゃあ、もう一発」
今度は軽く、と剣を振るう。
「っ!」
辛うじてハイドランジアは、剣を斬撃に差し込むことに間に合ったが、それは不運でしかなかった。
己の愛剣を、魔と転じたときに魂と肉体を用いて打ち直した邪見は、衝撃波一切殺すことができずへし折れた。
そのまま壁に叩きつけられ、都市の端まであらゆる障害を貫通しながら船着き場の桟橋に引っかかる羽目になった。
もちろん、魔の持つ頑健さにより五体は何とか揃っているものの、一瞬にして全身の骨が砕け散っていた。
もはや動くことは叶わない。
ならば、距離があいた今、撤退するべきかと思案したところで勇者が追い付いて来る。
「逃がさない。ここで消えてもらうよ」
「ぐ、このォ!」
ハイドランジアは魔剣を放つ。
渾身の魔剣だが、カスレフティス・メルアァのひと振りで魔剣は虚空へと消え失せる。
「終わりだよ」
そうして、ハイドランジアは一刀のもとに両断された。
「ボクは、ただ、最強に……アネモネを、愛して……」
「でも、アネモネが選んだのは僕で、僕もアネモネを愛していたんだ」
そう今なら確信をもって言える。
勇者カランは、アネモネを愛しているのだと胸を張って言える。
「く……このどこまでもいけ好かない、勇者め……」
そう言い残してハイドランジアは塵となって消えた。
カスレフティス・メルアァは、用は済んだと言わんばかりに、再び何処かへと消えた。
正直、ありがたいとカランは思った。
カスレフティス・メルアァはとてつもなく目立つ剣だ。
あるだけで光り輝くし、他の剣があればすぐ喧嘩を売りに行こうとする。
ない方が気楽な旅ができるというものだ。
「もどったよ」
「おかえり」
剣を見送った後に、カランはソラナムの下へと戻る。彼女は変わらず屍の椅子の上に座っている。
カランはふっと考え込んで。
「それじゃあ、次はどこへ行こうか。カメリア・イモーテル」
ソラナムは、感心した表情になる。
「へぇ、気がついてたんだ」
「まあ、流石にね。色々と怪しかったし」
貴族の魔と戦って無傷だとか、魔王軍団を倒せてしまうだとか。
もっともソラナムこそが久遠血河カメリア・イモーテルだと気がついたのは、血の河に立っている姿がとても絵になっていたからだったりする。
外れてたら、謝るつもりだった。それでも十中八九、彼女は魔王であろうとは思っていた。
「それで? わたしも倒すの?」
「なぜ?」
「だって、最凶の魔王だ。倒せるなら倒した方が世界の為じゃないかな?」
カランは考えてもみなかったと手を叩く。
「ああ、確かに。でも考えもしなかったな」
「あなたは勇者なのに、抜けてるね」
「よく言われるけれど、君に関してはあまり倒すとかそう言う気になれなくてね。ご飯もおいしいし」
「油断させて、後ろから刺す罠かも」
「罠ならそんな指摘はしてこないだろうし、そもそも天界に喧嘩を売る魔王が、勇者にそんな卑怯な手を使うとは思えない」
「ふうん」
ソラナムは、カランの答えが気に入らない様子だ。
それも当然のことで、人間と魔は昔から殺し殺されの関係で、勇者ともなれば魔がいればすぐにこれを倒す立場だからだ。
「良いじゃないか。せっかくできた友達なんだから」
「友達? 魔と人間の勇者が?」
「いけないかい? 君の人となりは知っているし、何より僕はどんな魔王でも殺せるんだ。これ以上の安全装置があるかな? それに、アネモネの事を話せるのはもう君だけだろう?」
「……そうだね」
「なら、それだけでも僕には君を倒さない理由になる」
「本当に、酷い人だね」
「えぇ、なぜに」
ソラナムは、ツーンと明後日の方を向いて、それからいたずらっ子のような笑みを作る。
「それで? これからどうするんだい?」
「ご飯にしよう。久しぶりに動いたからお腹が空いたよ」
「なら、腕によりをかけて振る舞うよ」
「楽しみにしてるよ、ソラナム。ああ、そうだ。僕のことカランで良いよ。というか、一度呼んでくれてたよね」
「さて、どうだったかな?」
「まったく、恥ずかしがり屋だな、君は」
「魔王にそんなこと言えるのはあなただけだよ」
「はは。勇者だからね」
笑いながら、カランは振り返る。
そこには、廃墟となったハイドランジア――かつてのトリティスの姿がある。
「……ここからの旅立ちか。結局、あの時から一歩も進んでなかった」
でも、とカランは前に目を向ける。
陽光を背にソラナムが船までカランを手招きする。
「早くしないと一人で行っちゃうけど?」
「それは困る、今行くよ」
カランは振り返ることなく、先へ進む。
「とりあえず、彼女と旅をしてみるよ、アネモネ。それで、生きる理由を見つけようと思うんだ。君が僕を彼女に頼んだというのなら、その約束を破らせるわけにはいかないからね」
だからまずは、今の世界を見に行こう。
何をするのか、どうやって生きるのかを決めるのは、それからでも遅くはないだろう。
カランは再び、歩き出した。




