第17話 ハイドランジア
水の国ハイドランジアは、海上に特殊な魔導を用いて作られた海上国家だ。
そこに渡るには、四つある船着き場から船に乗らなければならない。
カランは、ソラナムの調達した船に乗ってハイドランジアへ向かっている最中であった。
甲板で風を感じながら、隣で樽の上に乗って、中の林檎を手の中でもてあそんでいるソラナムにハイドランジアについて聞くことにした。
「ハイドランジアはどんな国なんだい?」
「わたしも行ったことはないんだ」
「なら、魔王ハイドランジアはどんな奴かはわかるかい?」
「それならわかる」
とんっとソラナムが樽から飛び降りて、船首の方へと歩いていく。
「嫌な奴だ」
「嫌な奴?」
「そう、いつも姿を隠して自分じゃ出てこない。だから、誰も本当の姿を知らないし、何をしているのかもわからない。けれど、何かしてる。ね、嫌な奴でしょ」
「確かに、嫌な奴だけれど。それでどうやって魔王として認められたんだい?」
魔王が魔王として君臨しているとするならば、人間に認知されるだけの何か大事件を引き起こしたはずなのである。
そうでなければ、新たな魔王として今出現したとなるだけだ。
どれほど長く生きていても認知されていなければ、いないものと同じなのだから。
その質問は予想通りという風に、にこりとソラナムは笑う。
「魔王は、存在するだけで魔王として認められる。偉業は重要なことじゃない。魔王が現れると天界がそいつを調査し、神託として人間に伝える」
「ああ、神が伝えれば、そいつが何をしているかわからなくても魔王だということはわかるのか」
「そういうこと。でも、逆にハイドランジアは名前しかわかっていない魔王だ。生きる目的がわからない。だから何をしてくるかわからない。それならまだ、何をしたかわかってる魔王の方が対処はしやすい。気をつけてね」
「気をつけるよ。でも、そうか……だったら久遠血河の目的はなんなんだろうね」
ふと気になって思いがけず口から出た問いだった。
一体何が、彼の魔王を天界と戦争へと駆り立てたのだろうかと気になったのだ。
「そうだね、案外わかりやすいよ理由さ。きっと人間ならだれでも理解できる」
「どんな?」
「愛だよ」
それは、魔の中の魔。魔王の中でも最も厄介と言われる久遠血河が、天界に喧嘩を売る理由とは到底思えなくて、カランは思わず吹き出してしまった。
「はは。いや、あ、ごめん。まさか魔が愛だなんて思わなくて」
「良いよ。魔の中でも愛を語るのは異質さ。でも、だからこそ最強と呼ばれる。だってそうでしょ、かつて魔王を倒した勇者は、愛の為に戦っていたんだからね」
カランは何といったものかと頭をかく。
「それは……どうかな。ただ、生きる理由だと言われて、言われるままに戦っていただけだから」
カランは確かにアネモネの為に戦った。
それはアネモネこそがカランの生きる理由であり、生きる意義であり、生きる意味だったからだ。
ただそうするように言われて、そうしただけで、カラン本人の意思では愛なんてなにもなかったかもしれない。
そうでなければ、アネモネを自分の手で斬っておきながら、こうやってのうのうとしている
そんな思いをソラナムは知らないはずだが、珍しく強く否定の言葉が彼女の口から出た。
「それは違う。わたしにはわかる」
「どうして?」
「昔、人に同じことを言われた。生きる理由がないなら、生きる理由になってあげるってね」
「それで……君はどうなんだい? 君は、言われたからじゃなく――」
「わたしは、愛してる」
まっすぐにソラナムはカランの目を見て言った。
そこに嘘偽りなんて微塵も感じさせない、強い光の宿った目だった。
「言われただけで魔王を倒せるなら、どこかの兵士だって倒せる。でも、そうじゃない。強い思いがあったから最後までやれた。いや、やれる」
ソラナムはどこまでも遠く広がる青空のように美しく澄んだ笑みを浮かべた。
「だから、あなたはその人を愛していたと思うよ」
「ああ……」
カランは思わず口元を手で覆った。アネモネとの思い出が脳内に駆け巡る。
「カラン」
アネモネの声にカランは振り返る。
それは魔王を討伐した祝勝パーティーの最中のことだった。
カランは一人、パーティー会場から抜け出して、バルコニーで星を見ていた。
満天の星空には陰りなどなく、世界を救ったのだと実感できた。
「ああ、アネモネ……」
アネモネの姿を見て、言葉が出なくなった。
普段の剣を振るうための動きやすい衣装ではなく、彼女が身に纏っていたのは女らしいパーティードレスだったから。
「こんなところに主役がいても良いのか?」
「アネモネだって」
「私はいなくても良い。魔王と戦ったわけではないからな……何かあったのか?」
「いや、何でもない。それよりどうかしたの?」
「私もおまえがいなくなっていたから探しに来ただけだ。我々がいなくても、パーティーでは問題ないらしいからな」
「はは。僕は魔王討伐まで無能だったからねぇ」
アネモネは少しだけ押し黙って――。
「……なあ、踊ってくれないか?」
そう手を出しだす。
カランは思わず目を見開いて驚く。
「珍しい。アネモネがダンスだって……?」
「こんな時だ。ダンスの一つくらい所望してもおかしくないだろう」
「……僕下手だよ」
「なに案ずるな」
カランは定位置で腰に手を当て、アネモネの手を取る。
互いの心臓の音が妙に大きいと思った。
「――私も下手だ」
そこから繰り広げられたのはダンスともいえないものだった。
子供でももっとマシなダンスを踊るに違いない。
ステップはめちゃめちゃで、互いの身体性能でごり押しているから、何がなんだかもうわからない。
ただ、互いの距離だけが普段以上に近いことだけが、ダンスであると告げていた。
「体温が高いな、緊張しているのか?」
「アネモネこそ」
「……そうだな。緊張している」
「また驚かされた。そんなこと言うなんて」
「言うとも、なにせ愛しい相手の前だ」
「……それ、本当?」
「この状況で嘘を言うと思われているのか? 心外だ。それにわかるだろう」
そっと胸を寄せてくる。
普段のアネモネよりも高く早い心音が、彼女の本音を伝えてくれる。
「本当、みたいだね……」
「おまえはどうだ?」
「僕は……わからない」
「嘘を言うな」
「嘘じゃないよ。本当にわからないんだ、僕が……」
「まったく、馬鹿だ、おまえは何もわかっていない」
アネモネはいつかのようにそう言った。
「おまえの心臓はちゃんとわかってる」
カランの心臓もまた早鐘を打っている。
高く、早く、ドキドキを伝えている。
それが恋するものへの感情でないのならば、愛でないとするならば、一体なんだというのだ。
「まあ、わからずやのおまえのために言ってやろう。おまえは、ちゃんと私に恋をして、私を愛そうとしている。だから、なにも問題はない」
――海風と海鳥の鳴き声が通り抜けていった。
ソラナムが言ったことは、カランの中にストンと落ちて来たのだ。
まったくもって、こんな大事なことすら忘れていた自分自身は救えないとカランは自嘲する。
「それで? あなたはまだ、生きる理由がわからない?」
「そうだね。愛の為に戦ったとわかっても、僕はたぶん誰かの為にしか戦えないのだと思う。どうしても生きる理由が見つからない」
アネモネを愛していた。それは確かだとしても、彼女を殺したのは自分自身なのだ。
それに、遠い過去の出来事である。
今更変えることはできない。
それでいったいどうすればいいのやらだ。どう生きればいいのか。
「なら、なおさら前に進んでいいんじゃないかな。ああ、それならこれはどう? あなたが、自分で生きる理由を見つけるまでは、わたしの為に生きてみるというのは」
がたんと、甲板の樽が大きな音を立てた。
ソラナムがそちらをきっと睨むと音が止まった。
「君の為に?」
「そう。どう?」
「わからない。でも、考えておくよ」
「うん、考えておいて。じゃあ、到着まで部屋にいるよ」
そう言ってソラナムはさっと駆け出して船室へと続く階段を降りて行った。
「……前に、か……」
自分は本当に前に進みたいのだろうか。
何がしたいのだろうか。
「僕は本当に生きたいのか」
アネモネに聞かれたら、生きなさいと命じられただろう。
だが、そのアネモネはもういない。
命じる者はいない、全て自分で考えなければならない。
自分がアネモネに押し付けて、目を背けて来たものを見る時が来たということだ。
「まあ、何とかなるか」
それでも結局答えはでず、明日の自分に任せることにした。




