第16話 別れと最悪の記憶
カランの身体は意思とは関係なくグラジオラス国の首都へと向かう。
数週間の道程を、勇者の肉体の全力はたった数日で踏破する。
その間、カランは何とか肉体の主導権を取り返そうとしたが、勇者の術式は災禍と戦うためにカランの魂そのものに刻まれてしまっている。
これを施したのはオーキッド本人だ。彼女に逆らえないカランにどうこうすることは根本的にできないのだ。
そして、無事にカランは作戦目標に到達し、空間鞄から城砦と軍団を解放した。
開始されたのは地獄の殲滅戦である。
のちに トリティスの大虐殺と呼ばれる騒乱の幕開けである。
「あ、ああ……」
時代を支える炎の叡智が怒っていた。
今やそれは全て人に牙をむく。嚇炎は全てを燃やし尽くさんと火の粉を振りまいていた。
「――――」
世界が血で染まっている。
地獄とはかくあるべきだとでも言わんばかりに。
此処こそが地獄、これこそが地獄絵図。
虐殺という名の過剰殺戮が織り成す地獄は、今もなお拡大を続けている。
グラジオラス国の無辜の民が悲鳴を上げて逃げ惑い、そして、逃げられはしない。
ここはもはや全ての阿鼻叫喚、全ての絶望を混ぜ込んだ魔女の窯の底。
たった数分の内にグラジオラス国首都トリティスは、炎に包まれ血で染まっていた。
突如、現れたアストラガルス王国の精鋭と勇者に、彼らは一切の抵抗ができなかった。
住人たちは逃げ惑う。しかし、ぐつぐつと煮えたぎる窯の底ゆえに、逃げ場など存在はしない。
全てが炎上している。どこへ逃げるというのか。逃げられるわけがない。
カランの目の前で、建物が倒壊する。
聖神剣カスレフティス・メルアァを振るえば、王城がぶった切れる。
そのたびに悲鳴が上がり、紅い華が咲く。
死骸は例外なく炎に包まれて燃えている。
油分が大気を汚染し、燃える死骸は酷い瘴気を撒き散らす。
殺戮の権化と化したカランの肌に張り付くのは、死体から出た魂の如き瘴気だった。
生者を呑み込む死者の手招き。お前も来い、お前も来い。そう絶望の中で死者の怨嗟が叫んでいる。
右を見ても、左を見ても、炎が燃えている。
燃えていない場所ないし死骸がない場所もない。死体の博覧会会場と言われても信じられることが出来そうなくらい石畳の上は赤く染まっている。
しかも、現在進行形で死体が増えていっているというのだから恐ろしい。おおよそ考えらえる以上に絶望に薪がくべられている。
それを己がやっていることが信じられなかった。
それを己の国がやっていることが信じられなかった。
だが、全て真実で、目を背けることができない。
オーキッドの命令は王都の住人の虐殺と王族の殲滅だ。
誰一人として、このトリティスから逃がすことを赦さない。
「あああ、あああ――!」
カランは声にならない悲鳴を上げた。既に精神は限界だ。
だというのに、肉体は彼の思いのままにならず殺戮を続ける。
こんなことの為に強くなったわけではない。こんなことがしたかったわけではない。
自分はただアネモネのために強くなったのだ。アネモネが自分のものという世界のために勇者になった。
そのためなら、死ぬ可能性のあった勇者の術式を魂に刻むことすら躊躇わなかった。
「なんで……」
だからこそ、本当に、どうしてこんなことになってしまったのかと自問自答は続く。
「死ぬが良い、勇者ァ!」
「できれば、殺してほしいよ……」
その最中に、アネモネの師匠を撃退する。
彼ならば殺してくれると思ったが、老境に入り衰えた彼では肉体の全盛期に加え、全ての性能を術式にて引き出された勇者に敵うはずもない。
「くそ、くそぉ、せっかくここまでやってきたというのに、なぜだ、なぜ! わしがせっかく教えたというのに!」
「それは、僕が聞きたいよ……」
恨み、怒り、憎しみを受けながら、勇者はついに運命の場所へとやってきてしまう。
「カラン」
そこに、アネモネが立っていた。
「あ、アネモネ」
「なぜ、とは聞かない。その顔を見れば、不本意であるとわかる。私が聴くのは一つだけだ。オーキッドだな?」
「あ、ああ、そうなんだ。もう何がなんだか、わからないんだ」
「やはりな。いつかこうなると思っていた。いや、今気にすることじゃないな。カラン、どうすればおまえは止まる」
カランは既にアネモネに向かってカスレフティス・メルアァを振り下ろしている。
アネモネは、刹那の見切りで躱し、カランの足を踏み手首を押さえる。
「わから、ない……姉上の術式で、自分の意思じゃ、動けないんだ」
「ふむ」
アネモネはカランを見つめる。瞳からその奥を見ようとするかのように。
「わかった。術式を切ってやろう」
アネモネは、地獄の中でも輝いていた。
カランとアネモネの戦闘は、カランの意思が戦うことを拒んでいたとしても十全に勇者としての力を発揮する。
呼吸するたびに、魔導の源である魔素を取り込み、魔導を使用する。
流星群の如く攻撃魔導のきらめきがアネモネへと降り注ぐ。
それをアネモネは真正面から撃墜した。
「はは、良いぞ。剣技だけではない、おまえの全力だ。こんなことで相手にするのは残念だが、ついこころが踊ってしまう」
グラジオラス国は剣の国だ。
剣一本で独立を勝ち取り、アストラガルス王国と長年国境を接しながらも独立を勝ち取って来た国である。
その剣技は、魔導と同じく超常の領域にあるものだ。
風の剣姫アネモネの斬撃が魔導を駆逐する。
ならばとカランの肉体は剣技による戦いを選択する。
相手の武装は、名剣ではあるが聖神剣カスレフティス・メルアァには及ばない。
なぜならば、聖神剣とはこの大地そのものである始祖龍の骸、その神経系を異星より訪れた剣匠が鍛え上げた剣である。
その刀身は鏡のように透明に妖しく煌めいており、あらゆる総てを映している。
オリハルコンよりも硬いとされる剣だ、普通に打ち合えば折れる。
そう術式が判断した。
「所詮、術式だな」
だが、アネモネはカスレフティス・メルアァと打ち合えていた。
カランならば、アネモネと全力で殺し合いをする場合、距離を取り、遠距離から魔導を討ち続けることを選ぶ。
剣技ではまずカランには勝ち目がないからだ。
それほどまでにアネモネの剣術は磨き上げられている。
放たれる斬撃全てが、魔剣となっている。
絶対に壊れるという理を斬り裂いて、彼女はカスレフティス・メルアァというあり得ざる聖剣と打ち合っているのだ。
それでも戦いは熾烈を極め、長時間続いた。
あまりの激しさに誰一人近づけず、近付いたものは剣戟の余波で細切れになった。
決着は、一昼夜後であった。
「見えた、そこだ――」
アネモネの剣閃が、カランの中にあった術式だけを切り裂く。
勇者の術式につけられていた、オーキッドの命令に服従するという部分だけを切除したのである。
カランの意思に肉体の制御が戻ってくる。
「はあ、はあ……」
「無事か?」
「だ、いじょうぶ。それよりも、アネモネは!」
カランは慌ててアネモネの状態をぺたぺたと触って確認する。
「そ、そんなに触るな、大丈夫だ」
「よかった……アネモネ……本当に……」
カランは助けてくれたことに対して、感謝を述べようとした。
これで終わるのだと安堵した。
だからこそ、オーキッドはそんなこと赦しはしない。
「駄目です。殺してください」
転移の魔導で現れたオーキッドの声が響いた瞬間、カランの身体は再び勝手に動き、アネモネの首を刎ねていた。
「え……?」
「まったく。嫌な予感だけは良く当たります」
「あ、なんで……どうして」
「どうして? 当然じゃないですか。バックアッププランくらい用意しているに決まっているじゃないですか」
オーキッドはこうなることを予測していた。
風の剣姫アネモネの実力をオーキッドは正確に評価していた。
水の剣王と呼ばれた彼女の師匠をはるかにしのぐ実力を持ち、カランが勇者にならなければ、彼女が魔王を討伐していわれていることも把握していた。
だから、術式の一つくらい簡単に斬られると思っていた。
「だから、予備を用意しておいたんですよ。まあ、こちらは私ではなく、アストラガルス王族の血を引く者の命令を聞くという制約に弱体化してしまってますけど」
だから、命令して、殺させた。
人はどんなに完璧な人間であろうとも、偉業を達成した瞬間に気が緩む。それは、どうやっても防ぎようがない心の作用だ。
アネモネですら例外ではない。
「でも、そのおかげで紛れ込ませてお邪魔虫を殺せたので良しとしましょう。ふふ、これでずーっと二人でいられますね」
「なんで……こんなことをするんだ……」
「ああ、そう言えば言っていませんでしたね。では、その前にこの術式をかけておきますね」
オーキッドが複数枚の札を放る。
それに書かれている魔導は、真実の魔導。
特殊な結界魔導であり、ある一定の空間内では嘘を吐くことができず、本当のことしか喋れなくなる。
このアストラガルス王国でも使えるものは、この術式を開発したオーキッドを除けば数人しかいないほどの高等魔導だ。
カランもこれの存在は知っているが、使用することはできない。
ともあれ、これからオーキッドが告げることは、全て真実ということだ。
一体何を話すのかとカランは戦々恐々とする。
では、と改まったオーキッドは、本当にまるで何でもないように衝撃の事実を告げて来た。
「あなたを母親として愛しているからです。ふふ、言っちゃいました」
「………………は?」
その言葉に、アネモネを殺して絶望と失意の中にあったカランすら呆けさせた。
オーキッドは、気にせず瞳をとろけさせ、頬を紅潮させながら続ける。
「私と、私の愛したお父様の間にできた子があなたなの。私のカラン。この世で一番、愛おしい、私の宝物」
嘘だと言いたくなったが、オーキッドが発動している真実の魔導は完全だ。
開発者であろうとも抜け道を用意することができないほどに完璧である。
だからこそ、オーキッドの発言は真実なのだ。
今まで自分が母親と思っていた存在はそうではなく、姉だと思っていた存在が母親なのだと強制的に理解させられる。
何のために真実の魔導を使ったのかと思ったが、このためだったのだ。
確実にカランに分らせるために使った。
「アストラガルス王族には悪癖があるの」
「あく……へき……?」
「そう、自分の子供や親を愛してしまうっていう悪癖がね。お父様は私を愛していたの。私もお父様を愛していたわ。子供が作れるようになったらすぐに孕ませてもらったの」
にこにこと本当に愛おしい人を想う乙女のような表情で、何一つ後悔などない素晴らしい思い出のように語るオーキッドがカランには人には見えなくなっていた。
どうしてこんなおぞましいものが存在しているのか理解できない。
それが人の形をしていることがなによりも人間という種族そのものを冒涜しているのではないかと思えて仕方ない。
「お母さまにバレないようにするのが大変だったわぁ、お父様のすごくて、声がでちゃうの。でも嬉しかったわ、貫いてもらって愛をもらって。カランは甘えん坊さんでたくさんお腹を蹴ってきてね」
カランはもう聞きたくなかった。
「やめてくれ……」
「お父様に頼んで、産ませてもらって、表向きはお母さまの子ってなった時は悲しかったなあ。だから、お母さまを洗脳してあなたを嫌ってもらったの。
どうしても憎らしくて、あなたなんて存在しないでほしいって思ってもらったの。そうしたら、あなたは私を愛するしかなくなるでしょう?」
ガラガラと、カランの立っている場所が崩れていく。自分の人生の意味が急速に失われて行く。
いや、そもそもアネモネを切った時点で、そんなものは喪失している。
ならば、せめて――。
「っ!」
「だぁめ」
オーキッドを殺そうとするも阻まれる。
殺すことを赦してくれない。
「お母さんでお姉ちゃんを殺そうだなんて、悪い子。でも、反抗期はあるものだし、そこが可愛いところよね」
無駄だ。カランにアストラガルス王族を殺すことはできない。そういう命令がされている。
「あ、ああああああ!」
虚しいカランの叫びが、天に響く。
天界にすら届くような悲鳴を、まるで心地よい音楽でも聴いているようにオーキッドは堪能していた。
そして、カランは全ての力を抜いて、懇願する。
「殺してくれ……」
もはやカランにはそうするほかなかった。
自害しようとしても身体が動かなくなる。
カランの全ては目の前のオーキッドが握っていた。
「カランは死なないわ。だって、勇者の術式を刻んだときに不老不死にしちゃったんだもの。だって、カランが死んじゃったら困るでしょう?」
「そんな……」
この絶望を抱えて、永遠を生きろというのか。
「そうよ、だってあなたはそうしたら私を忘れないでしょう?」
「死ねないなら……眠らせてくれ……」
「仕方ないですね。色々とお話ししましたし、眠らせてあげますね」
トリティスの大虐殺はこうして終わりを迎える。
グラジオラス国はアストラガルス王国へと吸収され、王国は黄金期を継続していく。
その間、カランは眠りについた。
もちろんことあるごとに起こされ、戦争に利用され続けた。
そのたびに、カランの精神は擦り切れ、ボロボロになっていった。
生きる意味を失い、生きる意義を失い、生きる理由すらなくなったのに、死すら許されない。
カランは、理解した、生まれてこなければよかったと言われた、その理由を――。




