第13話 寝所へ
寝室に向かうことになった二人であったが、拍子抜けしていた。
道中に妨害があるかとも思ったが、これといって妨害はなかったからだ。
宮殿内は不気味に静まり返っていた。気がつけば、明るかった宮殿の外も暗く、よどみが見えるような気がした。
隠されていたものが暴かれたような様である。
あれほど美しいと思っていた水の中には、数多くの人骨が沈められており、その中を怨嗟の形相を隠しもしない水魔が蠢いていた。
これほどのものなら、先ほど使った邪悪な剣も出てくるだろうと、改めて納得してしまう。
魔の気配が異様に濃く、ネリネが魔王の等級にあることがわかる。
カランは神妙な顔を作るが、ソラナムは明らかに危険な状況にも関わらず、一人陽光の下で散歩でもしているかのような気楽さを見せていた。
「神が魔王になった。うん、これは凄い。ありえなさすぎて、もう笑うしかないね」
「この状況で笑える君は、本当に大物だね」
「それはありがとう。あなたも平気そうだ」
「慣れてるからね」
「そうか。流石だね。それで、どう思う? 水神ネリネはやっぱり魔王になっているみたいだけれど」
「この目で見ても、まだ信じられないよ。けれど、僕はこれと似たようなものを見たことがある」
ダリア村でベリス・ペレンニスと出会った時に、カランは貴族が魔王に成る瞬間を目撃している。
その時に何かしらの魔導具を使用していたが、今回もこれが使われたのかもしれない。
「あの時は、単純に貴族を魔王に変える魔導具かと思っていたけれど、神も魔王にできるとなると話は変わってくる」
「世界の均衡が崩れる。誰もが魔王に成れるのなら、世界は滅ぶだろうね。はは、まるで九百年前の災禍みたいだ」
「そうなれば最悪だ」
「似た事象なら、同じ誰かがやったのかもしれない。心当たりは?」
「あったら言ってるよ。君はどうだい?」
「わたしにもない。あったら一番にあなたに言ってる」
ハルスがやっているなら、自分に使わない道理はない。自分は使えないのか、あるいは何か問題があるのか。
いいやとカランは自分の考えを否定する。
見ている限り、ハルスは他者を魔王にするという偉業をなせるほどの力の持ち主ではないと確信できる。
そうなれば黒幕がいる。
「厄介そうだ」
「まあ、今は目の前のことを考えるでいいんじゃないかな。これだけのことをやるんだ、いずれ表に出てくると思うよ」
「それはそれで大変なことになりそうだね」
「勇者の出番ってヤツだよ」
「僕は勇者じゃないよ。仮にそうだったとしても、もうやる理由はないからね」
その言葉を言うのは何度目だろうか。まるでそれは自分への言い訳のようで、カランは苦々しく目を閉じた。
しかし、すぐにその感情はソラナムの声により霧散する。
「着いたよ、ようやく待ち伏せみたいだ」
カランも前に視線を向ければ、広間だったらしい場所には、今や暗黒が鎮座していた。
勇者としての目を用いても何一つ見通すことができない暗黒は、貴族の領域であることは明白だった。
水神ネリネが作り出したと思わしき、この歪んだ領域の外側を覆っていた水魔の領域だ。
つまり、ハルスの領域であり、彼がここでカランたちを待っているということになる。
カランとしては手負いの貴族を侮っているわけではないが、負ける要素はない。相手の力は洗脳であることは見ているし、中にいる大量の水魔の等級は兵士級がせいぜいだ。
それにほとんどの洗脳の力をネリネに向けているであろうことは間違いなく、その状態でいったいどれほどのことができるだろうか。
だから、さっさと入って進もうとすることにためらいはなかったのだが、どういうわけかカランだけがその空間に入れない。
代わりにソラナムは入れる。
「僕だけ入れないようにしたのか」
領域は、他者に己の有利な状況を押し付けるためのものだ。
基本的に誰かを拒むという使い方はしないものだが、相手を分断したいときなどには入れるものに条件をつけたりする。
この場合は、女のみ入れて、男は入れないといった具合だろうとカランは予測する。
「賢い。流石は洗脳の使い手だ。力は弱くても頭はそれなりに回るみたいだね。じゃあ、行ってくるよ」
あまりにも気安くいうものだから、カランも思わずつっこみを忘れるところだった。
「い、いやいや。君だけを活かせるわけにはいかないだろう。この程度なら、領域を壊すことだってできる。二人で行こう」
「それは、やめておこう」
無理矢理入ることは可能であるが、ソラナムはそれを却下した。
「あなたは、この先魔王になってる神と戦う必要があるかもしれない。その時に力は少しも消耗していない方がいい」
「だが、君は」
「大丈夫。これでも一人旅をしてきたんだ。腕に覚えくらいはあるよ」
「ならせめて、この服を着ていってくれ」
「その服を?」
「ああ」
カランが来ている服はダリア村の花嫁衣装を示す。
ハルスに効果はないにしても、この中に無数に存在するであろう兵士等級の水魔の圧を少しは軽減できるかもしれない。
ソラナムは妙に神妙な顔になる。
「それを脱いだら、あなたは?」
「うーん、これしかないから裸のままか、君の服でも借りるかしかないかな。でも、君の安全の方が大事だからね、贅沢は言わないよ」
「…………」
ソラナムは黙ってカランに背を向ける。
「ソラナム?」
何かあったのか、まずいことでも言ったのかと心配してカランが近づくと、どうやら肩を震わせて笑っているらしかった。
流石のカランも半眼になる。
「ソラナム」
「はは。ごめんごめん。まさか、こんなところでそんなことを言うだなんて思ってもいなかったから、面白くて」
「まったく、人の好意を笑うだなんて悪い子だ」
「うん、ありがとう。でも、それはあなたのために使ってほしい。わたしは本当に大丈夫。信じて待ってて」
そう言って彼女はカランが止める間もなく領域へ飛び込んでいった。
そして、すぐに鋼の激突音が聞こえて来た。
●
ソラナムが領域へ飛び込むと、やはりそこは暗黒の水底であり、無数の水魔が彼女を喰らわんと迫ってくるのが見えていた。
しかし、彼女は微笑を浮かべたまま街中を散歩するような気楽さで一歩を踏み出した。
まるで全ての頂点に立つ、王侯貴族とでも言わんばかりの歩み。
それに気圧されたのか、水魔たちが一斉に平伏した。
その様子にハルスも飛び出してくる。初めて会った時の優雅さはもうどこにもなく、水魔らしい醜悪な地金をさらしていた。
「な、んだ、貴様は! なぜ貴様にあの方の兵が首を垂れる!」
「さあ。こいつらが弱すぎるだけなんじゃない?」
「ありえん。ありえんぞ。そいつらは、精鋭だ。我の為にあの方が寄越してくださったのだ」
そう言うが、どいつもこいつも平伏したまま動かない。まるで伝説のゴーゴンにでも睨まれて石になってしまったかのようだ。
その事実が信じられるハルスは地団太を踏む勢いであの方がとまくし立てている。
ソラナムは、その間に悠々と歩を進める。水の中だというのに苦しさを一切感じさせず、法衣の裾一枚、髪の毛一本すら、水に流さない。
ソラナムは遥かな天上から見下すようにハルスに告げる。
「さあ、始めようか」
「始める? 何をだ? 人間が、このオレ様相手に何をするつもりだ!」
「オマエは、敵を前にしてただ口を回すだけか? わたしならこの手で殺すけれど。それとも部下がいないと何もできないのか? やっぱり、無能だ」
「ほざいたな、小娘ェ!」
ハルスが残った腕を振り上げた瞬間、虚空から現れた剣がそれを弾く。
鋼の硬音が水中に響き渡った。
ハルスの爪を弾いた剣は、先ほど流れを切るためにカランが振るったそれだった。
剣はソラナムの前にやってきてくるくると回転していた。
それを見たソラナムの顔が今まで見たこともないほどに鋭くなる。
「出てきてまずするのが、自慢?」
剣の目がぎょろぎょろ動き、回転が速くなる。
まるで剣と会話でもしているかのようなソラナムは、ハルスを無視して剣を見て嘲るような笑みを見せる。
「はっ、物事には順序があるの。ただの剣と一緒にしてもらったら困る」
ソラナムの言葉にえーとでも言わんばかりに剣は左右に振れる。
「ヘタレてない。そもそも、そういう気はない。ただ、恩返しをしているだけだよ」
自分を無視する女に、ハルスも怒髪天を衝いて、もう海底火山が噴火したかのような衝撃が領域を激震させる。
「ふざけるな、女ァ! ハイドランジア様、第一臣下のハルス様を舐めるなァ!」
「――舐めてないよ。そもそもその必要すらないんだから」
その衝撃は、再び剣が動いて防ぐ。
「話はあとで、まずはアレを片付ける」
その言葉とともに剣は飛翔した。
●
パンッ、という音とともにカランの目の前で領域が消え失せる。
あとには無傷のソラナムだけが立っていた。
カランはすぐに彼女のところに駆け寄って、傷がないかを確かめる、見るだけでなく、身体中ぺたぺたと触って。
「大丈夫? 怪我とかしていないかい?」
流石のソラナムも恥ずかしいのか。頬に朱がさしていた。
「大丈夫。どこも怪我していないよ」
「よかった」
「そんなに心配した?」
「心配するよ、君は女の子なんだから」
「あなたには、そう見える?」
「それ以外に何に見えるんだい?」
ソラナムはことさらおかしそうに、くっと喉を鳴らした。
「はは。うん、あなたといるといつも新しいことに出会える」
「ごまかしてもダメだよ。もう、危ないことはやめてほしい。代わりに僕がやるよ」
不思議なことにカランはソラナムに対しては、そう言えた。
この世に生きている理由も、生きる意義もないと思っているが、彼女が危ない目に遭うのは、どうにも見過ごせないと思ってしまう。
これはいったいどういう気持ちなのか、カランは測りかねていた。
「そう? あなたが良いなら、そうするよ」
「うん、とりあえずはそうしてもらえると助かるよ」
カランはそう言いながら、広間を見渡す。
誰かが潜んでいるということはない。ここにあったハルスの気配は消えている。
「良し、行こうか」
広間を抜け、二人は寝所の扉の前へ着いた。
静かなもので、床に満ちた水が天上の水滴が落ちる以外の音は聞こえない。
ジニアが連れ去られてからそれなりの時間が経っている。殺されたか、あるいは、別の何かが行われているのか。
「それじゃあ、開けるよ」
考えても仕方なく、一応の礼儀としてノックをするか迷ったが、固定されているように開かったので、結局カランはドアを蹴破った。
扉は容易く水の中に落ちて、中の様子が飛び込んでくるよりも素早く、カランは短剣を向けた。
これから相手をするのは神から魔王になったという未知の存在だ。
勇者として衰えに衰えている力がどれほど通用するかわかったものではない。
ことと次第によってはとても、大変なことになるだろう。
緊張に汗が流れ落ち、音を立てる。
そして、ようやく部屋の中の光景が視界に飛び込んできた。




