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第12話 水/記憶

 懐かしい記憶だ。

 カランは目の前に広がる光景を見て思った。


 水に関する記憶で、アネモネという婚約者と出会った後、彼らは仲を深める為に川遊びに来ていた。

 もっともそれは表向きで、本当の理由はアネモネの剣の師匠が、アストラガルスに来てから見つけたという秘境でとても良い修行になるからだった。


 カランは王子の婚約者だからと王城に縛りつけられていたアネモネが、脱出するのにいいように使われたわけである。

 そんな利用した張本人はと言えば、岩の上に立って腕組みをしてカランへと命じるのである。


「さあ、私のために泳ぎなさい!」


 彼女はアストラガルス王国に来た時から、この調子で自分の都合しか考えず、相手が文句を言おうとも気にしなかった。

 そもそも自分自身が世界の中心と思っている女だった。何事も自分のため、自分の役に立つために存在しているのだと信じて疑っていなかった。


 無能のカランであろうとも、アネモネはまったく気にせずただ私の為に泳げと何度も命じた。

 かなりの激流であり、カランは流されて、もしかしたら死んでしまうかもしれないと頭の片隅で思ったほどである。


 だから、カランは川へ入った。

 そして、その時、運が悪いことに川が氾濫した。

 この川には、秘境というだけあって水魔がいたのだ。


 川へ入って来たものを押し流し、溺れさせるために洪水を引き起こしたのである。

 ただの子供だったカランは、抵抗することもできず一瞬で、流されるままになった。

 視界が攪拌され、上下左右がわからなくなった。


(このまま、死ぬのか……まあ、それもいいか……)


 などとカランが思っているとアネモネが躊躇せず飛び込んでやってきた。

 これにはカランも思わず、濁流の中で目を見開いてしまった。

 一体どこの誰が、絶対絶命の濁流の中に飛び込んでくるというのか。それも隣国の王女がやることではない。


 だが、彼女の燦々と輝く黄金の瞳は、雄弁に語っていた。

 カランは彼女に抱き留められると、流されていることすら忘れ、巨大な山脈に支えられているとすら錯覚した。


「安心しなさい。私が私のものを助けるのは当然のことよ。それにこの程度、危機の一つにもなりはしないわ」


 むしろ、アネモネはいい修行になるとすら思っていた。


「見せてあげる、アネモネ流剣術――断流」


 それはもはや剣技による魔導であった。

 それが剣の国グラジオラスですら、数人しか使い手のいない魔剣という技であるとカランが知ったのは、その後しばらくしてからだ。


 アネモネは、その魔剣をまるで通常技とでも言わんばかりの気楽さで、魔剣を使用して川そのものを切り裂いた。

 その結果、水魔が引き越した洪水どころか、秘境の川自体が、地図上から消え失せたほどである。


 水しぶきを浴びて輝く彼女は神のようで、それを見るのに必死だった。

 髪の毛から垂れた雫が肩へ落ちて、鎖骨を流れ、胸の谷間へと向かう様は、例えようもないなまめかしさがあった。


 その時、カランは初めて自分の心臓が鼓動を刻んだと感じた。

 あまりにも大きく耳障りなほどに激しく、心臓が拍動した。

 そして、それ以上に、どうしてもわからないことがあった。


 自分は助けられた。しかし、こんな自分を助ける価値などないのに、どうして助けてくれたのだろうか。

 そう疑問は勝手に口から出た。


「なんで……僕を助けたの。助けても何の意味もないのに」

「なぜ? 決まっているわ。私のものを助けるのは当たり前でしょう。

 この世界の全ては私の為に存在している。それが目の前で失われようとしている。助ける理由なんてそれで十分。それ以上の理由がある?」

「…………」

「さて、私は答えた。だから、次はおまえだ。おまえは言ったな、生きる意味がわからない。生きる理由がない、生きる意義もないと」

「ああ、うん、そうだよ。わからないんだ」


 そう言った。

 なぜなら、女王に面と向かって、そう言われたから。


「おまえなど、生まれてこなければよかった」


 そう言われたカランは生きることがわからなくなった。

 生まれてこなければよかったのならば、自分はいったい、何なのかと。

 おかげで何事にもやる気をなくし、無能王子となった。

 それをアネモネという女は呵々大笑とばかりに笑い飛ばした。


「馬鹿だ、おまえは何もわかっていない」


 それから続けて、やはり言った。


「生きる理由がわからない? 生きる意義がわからない? 簡単だろう。世界の全ては私の為に存在している。ならば、この世界の全ては私が生きる理由で、私こそが生きる意義だ」


 傲慢そのものの言葉だった。

 アストラガルス王が聞いたら、無礼だと怒鳴り助走をつけて魔導を放つレベルだ。

 だが、彼女にとってはそんなこと何一つ関係ないのだった。


 アネモネという女は心底から、自分自身こそが世界であり、世界そのものへ覇を謳う存在であると確信していた。

 圧倒的なまでの自負に、カランは呑み込まれる。


「だから、おまえの認識は間違っている。おまえは私の為に生きている。私こそがおまえの生きる意味で、生きる理由で、生きる意義だ」


 ただそれは彼にとっての天啓に外ならなかった。


「もう理解したわね? してないならもう一度だけ言ってあげる」


 その言葉は、カランに一生涯刻まれた。


「おまえの生きる意味は私。おまえの生きる理由は私。おまえの生きる意義は私だ。だからおまえは、私の為に生きるのよ、カラン」


 その日から、カランの生きる意味はアネモネになった。生きる理由はアネモネになった。生きる意義はアネモネになった。

 アネモネが言うのなら、彼女の為になろうと思った。

 カランは無能をやめた。

 アネモネの為に生きるのに無能ではいられない。いたくない。彼女の為になりたいと思った彼は勇者になった。


 ●


「ほら、起きて。じゃないと大変だよ」

「――っ!」


 ソラナムの声がカランを記憶の中から、現実へと引き戻した。

 随分と懐かしい記憶を見ていたものだ。

 アネモネに認めてもらったという、人生で一番幸福だった頃を思い出すだなんて、酷く年寄りっぽくてカランは少し自分が嫌になったくらいだ。

 出来ることなら死んでしまいたいものであるが、そうも言っていられない。


 未だに濁流の中である。ソラナムは彼のところへ流されて来たらしい。

 彼女がぶつかって来た衝撃で、この流れの中に仕組まれた術から逃れられたようだ。


「大丈夫かい?」

「あ、ああ。大丈夫。ちょっと昔のことを思い出していただけだ」

「それは気になるな。今度聞かせてよ」

「聞かせるようなことじゃないんだ」

「なんだ、女の話か」

「よくわかるね」

「だって男が他の女に聞かせたくない話なんて、別の女の話くらいでしょ」

「はは。それもそうだ」


 ソラナムの軽口に沈みかけていたカランの心が明るさを取り戻す。


「ジニアは?」

「さあ、どっかに流されたのかも」

「困ったな……って、あれ? どうして呼吸できるんだい?」

「流されるとき、あの人が魔導をかけてくれてね。まったく、お人好しだ。誰に似たんだろう」


 意味深にカランは見つめられて、苦笑いするほかなかった。


「まあ、良かった。しかし、このまま流されるのも不味そうだ」

「どうにかできない?」

「剣があれば、流れを切るくらいはできるよ」

「あの人に借りてる短剣は?」

「流石に借りものを壊すのは気が引ける」


 仮にも神と呼ばれた存在が引き起こしている流れだ。

 ありとあらゆる記録にある洪水よりも激流となっている上に、この流れは精神にまで影響を及ぼす。

 カランが過去を想起させられたのもその効果だ。ソラナムがやってこなければもっと、あのまま過去に囚われていた可能性すらある。


 そんな流れを断ち切るにはカランとて少しばかり本気を出さざるを得ない。

 本来なら使えない剣技を使うつもりだし、それを使うならば今のように腑抜けたままでは、その剣術を教えてくれたアエモネに申し訳が立たない。

 仮にも勇者だったカランの本気――ほんのちょびっとだとしても――並みの剣では耐えきれず粉々になるだろう。


 ジニアから借りている短剣は業物であるが、カランの本気を受けとめるだけの格はない。

 この先、何らかの加護を得て聖剣や、もしくは堕落し邪剣となるかは使い手次第であるが、今のところはただの短剣の域を出ない。

 そんなものではカランが使っては壊れてしまう。


「なるほど、じゃあ……」


 ソラナムがカランの腕の中から周囲を見渡し、ある一点を見つめてから指さした。


「あれは?」

「どれ?」

「あれ」


 果たして確かに剣ではあった。

 しかし、いったいどこにそんなものがあったのかとカランが思ってしまうほどにおどろおどろしく、禍々しい気を放っていた。

 こんなものがあれば大陸の両端ほど離れていようとも感知できるほどの剣なのに気づかなかったのが異常性を香らせている。


 彼が昔使っていた聖神剣カスレフティス・メルアァと似た感じもあるが、性質は真逆だろうことは想像に難くない。

 まず見た目が凄い。邪剣と言っても遜色ない鈍いさび色をしていて、剣身の根本にはいったい、どうしてそんなものを埋め込んだのかと製作者の正気を疑いたくなる何かの目らしきものがはめ込まれている。


 見ていると時折ぎょろりと動いているから、生きているのかもしれない。

 剣身そのものは長方形をしていて、ただの剣ではなく、どちらかといえば包丁とかそういうものの系譜に思えた。


 九百年、カランが起きて戦っている時は聖神剣以外の数多の剣を使って戦ったものだ。

 その中で聖剣だけでなく、邪剣や妖剣なども手にしたことがある。

 その経験を加味してもこの剣はダントツでどの角度から見ても手に取りたいとは思えない代物だった。


「ええと、本当にあれを使わないとダメかい? どう見ても手にした瞬間に手を食いちぎるか、呪ってくるか、乗っ取ってきそうなんだけど。絶対、邪悪な意思を持ってると思うんだけど、アレ」

「大丈夫。きっと犬みたいに従順だよ」


 ソラナムがそう言うや否や、まるでその邪剣は犬のようにすいーっと寄って来た。

 これにはカランも唖然としてしまう。


「えぇ……」

「ほら、従順そうだ。わたしの勘はよく当たる」

「そ、そうか。それは凄いな。まあ、他にないのなら使うほかないか」


 例え呪われようとも、別に問題はない。カランの身はアストラガルス最高の魔導により強化されているのだ。

 少しくらいなら何かあっても痛みすら感じはしない。


(仕方ない、いつまでも流され続けるのは面倒だし。ソラナムも、いつまでもこの状況で気丈に振る舞い続けられるものではないだろうから、背に腹は代えられないか)


 カランは、ソラナムの勘を信じることにした。


「よし、君の勘を信じよう」


 手を伸ばし、そばに寄って来た邪剣を手にする。


「普通だ」


 意外にもいたって普通の剣と変わらない持ち心地である。少しぎょろぎょろと目が動く程度が他と違うことだろう。

 ただ、手に感じる重量が桁違いだった。

 いったいこの剣のどこにそれほどの質量を閉じ込めているのかと言わんばかりに見た目と重さが釣り合わない。


 水の中でも気をつけていないと水底へ引きずり込まれそうなほどだ。

 ただその重さは、カランにとっては懐かしさすら感じさせるほどに手になじんだ。


(ああ、この重さは良いな。カスレフティス・メルアァもこれくらいの重さだった。それで重いって言うと拗ねて大変だった。この剣に拗ねられたら困るから重いとは言わないでおこう)


 それにこういう見た目と重さが釣り合わない剣というのは往々にして、何かしらの存在を内包しているのだ。

 それが何にせよ、今のところはこちらに危害を及ぼす気がないということは、良いことだろう。


「さて、久しぶりだから、出来るかな」


 この流れを断ち切る。

 川をぶった切ることと同じだ。かつてアネモネがやったのをそっくりそのまま真似する。

 大昔にやったきりであるために、カランとしては成功するかしないか心配だった。


「大丈夫。失敗したら、死ぬだけだから」

「それはまずい」

「だから、わたしのために頑張ってね」


 その言葉は、カランに少しだけ本気を出させるに十分な言葉だった。

 脳裏でアネモネが同じことを言っている。

 カランはふっと微笑んで軽く剣を振るった。


 ただ無造作に、何の気なしに振ったように見える。だが、見る者が見ればそこには、幾星霜の研鑽の後が見えただろう。

 さながらアスファレス大陸の脊柱山脈が如き巨大と言えるほどに積み上げられた鍛錬が見えただろう。


「アネモネ流剣術――《断流》」


 その結果は、ただ一つ単純にして明快だ。

 流れていた水が爆ぜ消え、剣閃が回廊を切断する。

 魔導を使ったわけではない。ただ純粋に剣の腕前だけで、カランは水の流れそのものを断ち切った。

 カランをも押し流す凄まじい流れは跡形もなくなって、二人は地面へと着地する。

 回廊は完全に切断されていて、陽光がふたりの立つ場所を照らしていた。


 それと同時に剣はカランの手元から去って行った。

 果たしてあれは何だったのか、わからずじまいだ。

 ソラナムはその惨状を見て、とてもいいものを見たと満天の宵月のような笑みを浮かべた。


「すごいね、本当に川を切っちゃうなんて。流石は勇者と同じ名前ってところかな?」

「まあ、むかしとった何とやらだよ。うまくできて良かった。ジニアは大丈夫かな」


 周囲にはジニアはいない。ただ彼がつけていた仮面だけが、カランのそばに落ちていた。

 ソラナムがそれを拾って手の中でくるくるともてあそぶ。

 それからまるで関心がないかのように、あっけらかんという。


「さあ、どうだろうね。この仮面が取れてから、あの女に連れていかれてたよ」

「それは不味いな。彼女が今、どんな状態なのかわかったものじゃないのに、連れていかれてはどうなるか」


 死ぬだけならまだマシだが、それ以上に不味いことが起きる可能性もある。

 カランがどうしたものかと思案していると、ソラナムが仮面をぽいと捨てて、両腕を頭の後ろで組んで背を向けて言った。


「それじゃあ、行こうか」

「助けに行くつもりなのか? 君は彼のことが嫌いだと思っていたのだけれど」

「そうだね、あまり好きじゃない。だけど、あなたは、そのつもりでしょう?」

「いや、僕は……」

「ならわたしの為についてきてよ。さっきの凄かったし、危なくなったら守ってくれればいい」


 どうにも、『わたしのために』という言葉を聞いてしまうとカランは断ることができない。


「わかったよ、君についていく」

「じゃあ、決まりだ。さっそく行こう」

 ソラナムはうきうきと水を跳ね飛ばして歩いていく。その姿は子供っぽくもあったが、頼もしくもあった。

「それでどこか目星はあるのかい?」

「男を攫った女が行くところなんてひとつしかないでしょ」

 ソラナムが宮殿の一画を指し示す。

「寝室か」

「そういうこと」

 早速、カランとソラナムはこの宮殿の主の寝所へと向かうことにした。

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