やさしい女(三十と一夜の短篇第65回)
今は昔、悪事千里を走る、他家の貧乏鴨の味と申します。平安京、一条帝の御代にも噂は流れ、何事かあれば野次馬が集まります。
長徳の頃、流行り病で都では貴賤に関わらず多くの者が亡くなりました。生き残った貴族たちの間で数少ない席を巡って争いがあり、左大臣の地位を得たのは三十歳の藤原道長です。当代の一条帝は十七歳、皇太子の居定親王は二十一歳でございます。道長はお二方の母方の叔父です。
人心一新と、左大臣として出発した道長の所に皇太子からお呼びがかかりました。早速お住まいの昭陽殿に参上いたします。
「大臣よ、我がきさき、そなたの異母妹である麗景殿の尚侍、綏子が懐妊していると聞かされた。それも尚侍やそなたたちからではない。
けしからぬこととおもわぬか?」
かしこまる道長に東宮は続けました。
「宣耀殿のきさきの側仕えや近習がしきりに噂している」
宣耀殿のきさきとは東宮がご寵愛するお方です。
「そなたの父で、私の祖父である兼家が亡くなってから、尚侍は里に下がり勝ちなった。ここしばらくは会っておらぬ。もし身籠ったのなら、既に子が生まれておらねばおかしいし、今お腹に子が宿っているのなら、私の子ではない」
道長は縮こまるばかりです。
「人を悪しざまにいうのは有りがちなこと。そらごとであれば尚侍が気の毒である。だが火のない所に煙は立たぬともいう。
そなた、兄なのだから尚侍とも気安いであろう?」
東宮の問い掛けに拒否の答えはできません。忙しいのに厄介事を押し付けられたと顔に出さず、道長はお受けしました。
「はい、私が尚侍の許に赴きまして噂の真偽を確かめてまいります」
「尚侍とは睦まじいと言えないが、私が元服してすぐに祖父の兼家が与えてくださったきさきだ。大切であるのには違いない。素直で大人しい尚侍が傷付いていないか案じられる」
大切なのであればもっと妹を召し出してくださればよろしいのに、とは口にはできません。ほかのおきさきに夢中になられて独り寝が続く綏子に、大胆にも麗景殿にいる折に言い寄った者がいる、と、その男性の名前まで道長の耳に入っていました。お相手とされるのが源頼定、かつて他氏排斥の謀で失脚した源高明の娘婿で、その為に皇位から遠ざけられた為平親王の息でございます。源氏の姓を賜り臣下となりましたが、村上帝の孫であるのは一条帝とも東宮とも同じで、ややこしくも事情の込み入ったお相手でございます。
道長と綏子は既に述べておりますとおり、母が違います。道長は藤原兼家と藤原時姫との間の末っ子です。綏子の母は、藤原国章の娘で、近江とか、対の御方と呼ばれた女性でした。父兼家と結ばれる前に貴顕に寵を受け、その方の死後の兼家と知り合い綏子を儲け、その後兼家の長男(つまり道長の長兄)道隆とも関わって、娘がいるとの奔放さで知られています。
――その所為で軽々しく扱ってよいと思われたら、子は堪ったものではない。
苛立ちを飲み込むようにして、道長は異母妹の里居する屋敷に向かいました。お使いを出して知らせては、何事かと警戒されるだろうと、ふと立ち寄ってみたといった様子を装い、先触れなしでお屋敷の門をくぐりました。
「東宮とお話申し上げたものだから、ご機嫌伺いをしておこうと急に思い立ったのだ。尚侍にご挨拶申し上げたらすぐにお暇するから、構わずともよい」
側仕えの女房が綏子に来訪を報せに行きます。
「尚侍はいつもの所においでなのかな?」
報せに動く者を追うようにして、道長は屋敷の中を進みました。道長は廂の間を通り抜け、ずいと御簾をくぐって母屋の奥へと入りました。
果たして、女房が慌てて几帳を動かしました。どうやら綏子は几帳の陰にいるようです。特に物音はせず、慌てて誰かが逃げ出した様子はございません。ほっとしながら道長は周りを窺いつつ、話を始めました。
「ご機嫌いかがかな、実に久方振りですな。
本日は東宮とお会いして、あなたの話になったので、今宵あなたともお会いしたいとまかりこした次第。あなたがつつがなくお過しであるとご報告できるのであれば、すぐに退散いたします」
几帳の後ろから何やら声が聞こえました。控える女房が女主人に代わって耳を澄ます道長に申します。
「左大臣様にはご機嫌麗しゅう。姫様は息災であると仰せです。東宮様から御消息はおありかとお問いになられております」
道長ははたと膝を叩きました。
「いや、これはこれは気が付かなんだ。うっかりしたこと。あなたの屋敷に参るのであれは、お預かりしておくべきだった」
「お便りがないのでございましたら、どのようなご用件でいらしたのでしょう?」
取り次ぐ女房は几帳の側に塞ぐようにしております。このまま女房を介して話していたらいつまで経っても埒が明かぬと判断し、道長は几帳を押しやり、止めようとする女房を無視して奥に座っている綏子の前に行きました。
相変わらず美しい、と道長は異母妹を見ました。化粧をしてあでやかで、袿姿です。袴を着け、何枚かの袿を羽織るようにしておいでで、貴族の女性が部屋で寛ぐごく普通の姿です。懐妊していると聞かされていても、産み月がいつとも知りません。袴や重ねられた衣からお腹が大きいのかどうか見て取れません。
遠回しに尋ねてみて言い逃れされては、何の為に来たのか、無駄になる、と道長は単刀直入に訊きました。
「東宮は私を呼び出して、あなたが懐妊されたと噂を聞いたが一向に知らせてこない、本当なのかとお尋ねになられた。また東宮は覚えがないと仰せになった。私は確かめてご報告申し上げなければならない」
綏子は言われてもかなしそうに顔を伏せ、黙っています。
――お喋り好きな単純そうな女なら何を考えているか読めそうなものなのに、こうして大人しく無口な女は心の内が読みにくい……!
「答えを得ないうちは帰らぬぞ」
綏子は袖で顔を隠そうとします。
「なにゆえ東宮は今更わたくしをお気に掛けたりなさるのでしょう」
絞り出すような声が道長に届きました。
「それはあなたが東宮のおきさきだからだ」
「東宮が思召されているのはただお一人、宣耀殿のお方です。東宮は添臥にと、外祖父からあてがわれた女より、望んで妻問いした宣耀殿のお方の方を愛しまれていらっしゃるのです」
憂いに満ちた顔はあわれを誘い、道長は言葉に詰まりました。
「お父様から女人は心やわらかに、やさしくあれ、背の君となった方には素直であれと教えられ、東宮の許に参りました。そのように努めてまいりました。
夏の暑い日に麗景殿に宮がいらっしゃいました折、氷をわたくしの手に触れさせ、『私を大事と思うのなら、私がいいと言うまで手を置いていなさい』と仰言いました。わたくしはずっと我慢しました。手が冷たくなって、指先が何も感じなくなっても。
ところが、わたくしの手が紫色になっているのにお気付きになった宮は、驚き、興が冷めたようにわたくしをご覧になりました。
東宮のお心に叶うようにと精一杯でしたのに、かえってお心が離れてしまったようで、わたくしはつろうございました。わたくし宮にとっていないも同然の者でございます。もうこのまま捨て置き、忘れてくださいませ」
異母妹の言うがまま、肯きそうになり、道長は気を取り直しました。危うく役目を忘れてしまいそうでした。
「いやいや、尚侍、話をすり替えてはいけない。きさきとしてときめかぬ嘆きよりも、懐妊したか否かの話をしている。私は東宮のご使命で参ったのだ」
綏子はまた口を閉じて、うつむきました。
「だんまりを決め込むおつもりか? こちらは何も判りませんでしたとご報告申し上げる訳にはいかぬ。あなたの衣服を引き剥いでも確かめる!」
止める間もありませんでした。道長は綏子の襟元に手を伸ばして、大きくはだけさせました。逃げようともがく綏子を抑えようとして、胸の膨らみを捻るように掴み、あっと離しました。綏子の胸に乱暴に触れて、急に指先が濡れたのです。これは乳かと、手と綏子とを交互に見比べました。
綏子が嗚咽するように告げました。
「申し上げます。わたくしは子を宿しております。東宮の御子ではございません」
「それはかねてから噂となっている相手か? 源頼定か?」
「はい」
「隠しとおせると考えていたか?」
たまらず綏子は打ち伏しました。
「だから捨て置いてくだされば良かったのです。忘れられた女が誰の子を産み落とそうとも、放っておいてくだされば……」
後は言葉にならず、泣き声になりました。
「済まぬ。
あなたは既に咎を受けた。これ以上及ばぬようにする」
返事はございませんでした。
後日、道長は昭陽舎に赴きまして、事の次第を報告いたしました。東宮はそこまでしたのかと、流石に白けたお気持ちになられたようでした。こと明らかになり二度ときさきとしてお召しになりませんでしたが、綏子の尚侍の役職も位もそのままにされました。
素直で従順な女こそ好まれると言われましても、言い寄られて断る術を持たぬのは困りものでしょう。また戯れをまともに取られたのを疎ましく感じてしまうのも相性というものなのかも知れません。
綏子の密通の相手源頼定の官位もそのままにされました。東宮は「頼定を呼び出して従者に蹴殺させてやろうかと思ったが、兼家のじじの御魂がかなしむであろうし、村上帝を同じく祖父に持つ者同士だ」と思いとどまられました。わずかなご運の違いで一天万乗の座に上れなかった身内の方への、憐憫と怒りの複雑な情があったと伝わっております。
参 考
『大日本史料』 東京大学史料編纂所
『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社学術文庫
『女たちの平安宮廷 『栄花物語』によむ権力と性』 木村朗子 講談社選書メチエ
『承香殿の女御 復元された源氏物語の世界』 角田文衛 中公新書
『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば』 倉本一宏 ミネルヴァ書房