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「おい、お前の膝に乗っているその白いものはなんだ」
魔物討伐の騎士団の仕事から帰ってきたテオドールが、開口一番そう言った。
来客用ではないダイニングと繋がっている居間のソファで座っているシーラと、その膝の上に載っている白いものを見て怪訝そうな顔をしている。
「雪山猫です。庭に迷い込んでいて、怪我をしていたので保護しました。怪我が治るまでうちで面倒を見ませんか?」
「駄目だ、捨ててこい」
テオドールが間髪入れずに言った。
シーラは彼を下から見上げる。
深海のように黒い瞳は無慈悲に細められている。
ホワホワ愛くるしい雪山猫を外に捨てに行くことは、動物が好きなシーラにとって拷問である。
雪山猫を抱きしめて、「短期間だけだから」と言ってテオドールに迫る。
従者の話だと、テオドールはなんだかんだ情に厚いところがあるので怪我をした子猫を見捨てることはしないはずだとのことだった。
シーラが「絶対家具は傷つけさせないし、絨毯も汚さない。最後まで自分で面倒見る」と懇願すると、ようやく大きくため息をついて雪山猫の滞在を許してくれた。
良かったですね、とシーラは腕の中にいる雪山猫に話しかけた。
雪山猫はきょとんと首をかしげている。
この雪山猫は、霙の降る今日の朝シーラが庭で保護した。
部屋の窓から生垣の方まで点々と続く赤い血を見つけ、庭に出てそれを辿った先で発見したのだ。
オスの雪山猫で、左の後ろ足を怪我していた。
群れからはぐれて凶暴なカラスにでも追いかけ回されたのだとしても、こんなところにいた理由としては無理がある気がするが、何故庭にいたのかは分からないので考えないことにする。
雪山猫とは、大人になると小型の狼くらい大きくなる真っ白な猫だ。
野生の彼らはこの北の雪山に群れで生息している。
猫のくせに群れて暮らすのかと思ってしまうがその気性はまるっきり犬で、とても協調性があり忠実で賢い。
野生動物のくせに人懐っこいところがあってあまり攻撃的ではないので、一時期その上質な毛皮や愛玩用に乱獲されて野生のものは数を減らしていた。
テオドールの部屋でのんびりとソファに座りながら、シーラは雪山猫の綿毛のようにフワフワな体を撫でた。
シーラの膝の上にいる雪山猫はフワーとあくびをする。
「この子の名前、どうしましょうか」
「すぐに逃がすんだ、適当でいいだろ」
目をパチパチと瞬かせた雪山猫はシーラの膝からソロソロと降りて、シーラの隣にいるテオドールの骨ばった大きな手にじゃれ付き始めた。
テオドールは仕方ないという顔をして雪山猫の顎を撫でていた。
雪山猫がゴロゴロ喉を鳴らしている。
「逆です。すぐに逃がすのですから、忘れられないような名前にするのはどうでしょう」
熱心なシーラはもふもふ丸や雪解け丸などの名前を提案したが、「船じゃないんだぞ」とテオドールに一蹴されて、議論の末結局シロと呼ぶことになった。
テオドール曰く、由来は単純に白いからだ。
せっかく彼が提案した名前を採用したのに、テオドールは雪山猫を「おいお前」と呼んで撫でている。
無駄に彼の造形が整っているせいで、侍らせた白い雪山猫を撫でている様は意味もなく絵になっていた。
その時のシーラは、生き物が家にいることをテオドールもなかなか楽しんでいるのではないか、と微笑ましく思っていた。
「この前の魔物は…」
ある日の夜。
テオドールの部屋のソファに寝転がったシーラが、天井窓から見える月と雪を眺めながらテオドールが横で話す声を聞いていた時。
何やらゲーゲーと不穏な音が聞こえてきた。
暖炉の火と小さく灯した照明の光が届かない、部屋の薄暗い方からである。
シーラはハッと不吉さを直感して飛び起きる。
「すみません、ちょっと待っていてください。シロが毛玉を喉に詰まらせたみたいです。助けてきます」
案の定、テオドールの部屋の隅で小さく丸まったシロが苦しそうにしていた。
シロの喉に詰まったものを取ってやり、そのまま白いフワフワを抱きかかえてシーラは元の位置に戻ってきた。
「お待たせしました、それでその魔物はどう倒したのでしょうか?」
「いや、逃げられた。人の話は最後まで聞け」
テオドールは口を少しへの字に曲げていた。
「おい、今度長期休暇が…」
またその時は、背中に紙を隠したテオドールが何か大事な質問をするために、意を決したように口を開いた瞬間だった。
シーラが気づかれない程度に姿勢を正して彼の次の言葉を待とうとした矢先、テオドールの背後でモゾモゾしているシロが目に入った。
背筋が凍ったシーラは、調度品の危機を感じてバッと立ち上がる。
「すみません、ちょっと待っていてください。シロがカーテンを破りそうです。躾けてきます」
寸でのところでシロを止めたので、幸いカーテンは無事だった。
テオドールの部屋の特注感が漂うカーテンを引き裂こうものなら、シロは氷柱で串刺しの刑だっただろう。
シーラは、怪我が治る前に死にたくはないでしょうとシロに躾を施した。
それから廊下を通りがかった従者にシロを預け、扉を閉めてテオドールの前に戻る。
「お待たせしました、何か言いかけていましたよね」
「フン、お前に話すことなどもうない」
黒い目を伏せたテオドールはそっぽを向いてしまった。
「おい、今日は久しぶりにチェスでも…」
あくる日は、テオドールが白亜の石でできたチェス盤を抱えていた。
シーラとテオドールが夜更かししながら幾度となく使ってきたものだ。
いつもと違って素直に遊びに誘ってくれるテオドールに少し感動しつつも首を縦に振ったが、シーラは次の瞬間には顔を上げて目を見張っていた。
「すみません、ちょっと待っていてください。シロがドアで爪を研ぎそうです。叱ってきます」
シロを扉から引きはがす。シーラの反射神経のおかげで、扉は無事だった。
シーラに抱きかかえられたシロは爪を研ぎたそうにミーと鳴いた。
可愛い鳴き声で甘えても無駄だと思いながら叱ろうとしたら、シロがビョンと腕から飛び出した。
どこか別の場所で爪を研がれても大変なので、シーラはシロを追いかけることにする。
シーラは、扉から駆け出す寸前でバッと振り向いてテオドールに声をかけた。
「ごめんなさい、すぐに戻ります」
「…気にするな、チェスはやはりお前とやるより一人でやった方がまだ有意義だ…」
ようやく捕まえたシロを爪とぎの木片を持った従者に引き渡したシーラは、テオドールの元に戻る。
彼はもうチェス盤をテーブルの下に仕舞い込んでいて、分厚い本を開いていた。
頼んだらとりあえずチェスには付き合ってくれた。
彼はシーラをコテンパンに負かしても全然満足そうではなかったが。
かくかくしかじかで、シーラはシロにほとんどつきっきりだった。
しかしシロの面倒を見るのも、成長を語るのも楽しかった。
シロは特別に賢いのか、それはしてはならないと叱ったことはきちんと覚えていて、日に日に行儀がよくなっていくところにも可愛げがある。
そして遊んでばかりはいられないとシーラが役立ちそうな資料を読み込んでいる時でもシロは隣で寝ていたりするので、賢いだけでなく癒しもくれる。
…
白髪の従者は、この晩もテオドールの部屋でお茶の準備をしていた。
テオドールは何でもないような顔をしているが、長年世話をしてきたこの従者は今の彼がいい気分でソワソワしていないことに気が付いていた。
「あいつは今日来るのか」
ぼそっと聞こえた声に従者は顔を上げる。
あいつとはシーラのことだ。
彼女が小気味よく扉をノックする音が、いつまでたっても聞こえないことを気にしているようだ。
結婚してからなんだかんだ習慣のようになってしまって夜はいつも二人でゆっくりしていたし、シーラは夕食後小一時間ほどでテオドールの部屋に訪ねてくる。
だが、シーラとテオドールはいつも夜一緒に過ごすように約束しているわけでもないし、ましてや集合する時間を決めているわけではない。
やりたいことが別にあるなら自由にすることができるのだ。
お茶を淹れ終わった従者は、テオドールがいつもその時間を楽しみにしているが故に夜勤は悉く部下に押し付け、その時間を大切にしているが故に家の雑務を仕事への行き帰りの馬車の中でこなしていることを知っている。
「今は…夕食後シロが外に出たので洗ってやっているようです。私どもがやると言ったのですけど、自分でやりたいと仰って」
従者の言葉を聞いたテオドールはそうか、と小さく呟いた。
察するに、彼はシーラからそのことを聞いていなかったようだ。
「まあ、特にすることもないのにあいつが毎晩ここに来ていたことの方がおかしいからな」
と本を広げながら言うと、テオドールはさっさと従者を部屋から追い出した。
では失礼します、と従者は扉を閉める。
その扉が閉まる瞬間、猫といる方が楽しいだろうしな、とテオドールが小さくため息をついていたのを地獄耳の従者は聞き逃さなかった。
コンコン
シロを洗い終わったシーラは、テオドールの部屋の扉をノックしていた。
少し遅くなったが大丈夫かと聞くと、大丈夫だとテオドールのくぐもった声が向こうから聞こえた。
以前は本や食べ物を片手に部屋にお邪魔していたシーラだったが、ここ最近はシロを腕に抱いている。
「見てくださいテオドール様、シロがお手をするようになりました」
いつものソファの上ではなく、シロに合わせて長い毛が気持ちの良い絨毯の上に座ったシーラは、テオドールにシロの覚えた芸を披露していた。
爪をちゃんと研いだシロがシーラにお手をして、それを見たテオドールが「そうか、すごいな」と言った。
シロは賢かったので、昼テオドールが仕事に行っている間に仕込んだらすぐにできるようになった。
野生の雪山猫なのに、その辺の犬よりよっぽど聡いのだ。
今日のシーラはこれを自慢したかった。
「シロは待てもできるようになりました」
合図をすると、シロがテオドールに近寄っていって待ての姿勢をとった。
ほめてくれと言わんばかりの顔でテオドールを見上げている。
だがテオドールは小さくコクリと首を動かしただけだった。
「そうか、それはよかったな」
「テオドール様もお手してみますか?」
「いや、俺はいい」
そうですかとシーラが頷くと、シロがシーラの手をすり抜けてテオドールにじゃれ付き始めた。
嬉しそうにコロコロとテオドールに体を寄せている。
が、テオドールは彼の気を引こうとするシロを摘まみ上げる。
「こっちに来るな。明日餌抜きにするぞ」
そう言われたシロは、悲しそうな顔をしてぶら下がっている。
ポイっと放り出されたシロがシーラの元にトボトボと帰ってきた。
「餌は明日私があげますから大丈夫ですよ」
シーラが笑って撫でてあげると、シロが嬉しそうにミーと鳴く。
おなかを上に向けてきたので、そのフワフワした腹を撫でまわしてやる。
しばらくフワフワを堪能したシーラは、そっと窺うようにテオドールを見た。
表情を映さない黒い瞳で、本にそっと視線を落としている。
「さっきシロを洗ってあげたので今日はいつもよりフワフワです。触りますか」
シロを抱き上げて掲げたシーラは、テオドールに穏やかに声をかけた。
「触らない」
「可愛いのに」
「そうだな」
「見てください、シロはテオドール様のことが好きみたいです」
シロはテオドールに触ってほしそうに前足をピコピコさせて、フワフワのしっぽをぶんぶんと振っている。
テオドールはフッと顔を上げたが、困ったように首をかしげただけで何も言わなかった。
彼はそのまま本に視線を戻す。
「…テオドール様は最近口数が少ないようですね」
「別にいつもと変わらない。いつも通りお前より本が面白いからそれに集中しているだけだ」
返事を聞いたシーラは少しだけ眉を寄せた。
テオドールが面白い本を見つけた時にどうなるかは知っている。
栞を挟みまくるようになるのだ。
そして、何度も読み返す。
だが、今テオドールが持っている本には栞は挟まれていない。
もはやページを捲ることさえしてないのではないだろうか。
「興味深いです。面白い本のこと、ぜひ教えてください」
「今、俺にお前と話している暇はない。そこの猫とでも遊んでいろ」
テオドールが静かに会話を終わらせたので、シーラは仕方なくシロに新しい芸を覚えさせることにした。
ソファを背に、絨毯に寝そべっているシロと向き合う。
次は毛糸球を投げたら、それを取ってきてシーラに渡すようにシロを訓練したい。
今はまだ、投げたら嬉しそうに追いかけて飽きるまで抱きかかえているだけなのだ。
どうしても毛糸球を抱いたまま離さないシロを見ながら、目の前にいる白い獣ではなくて後ろにいる黒い目の人のことを考えた。
最近の彼は何となく、張り合いがない気がする。
特に、シロの話にはあまり乗ってこない。
彼が大人しいのは少しつまらない。
思い当たることはある。
後ろをちらりと振り返ってみた。
ソファにもたれ掛かった彼は冷えた目で文字を追っていた。
何度も同じところを惰性で読んでいるのか、目の動きに目的が無いように見える。
「あの…もしかして、私がシロにばかり構っているから少し寂しいとか思っていますか?」
何の前触れもなく発されたシーラの声に、テオドールが顔をゆっくり上げた。
「………妄想も大概にしろ。
全く、お前の自意識過剰っぷりはいっそ清々しいほどだな」
「そうですか。
私は、貴方があまり構ってくれなかったので少し寂しかったのですけれど」
「……は、しおらしい令嬢の真似をするのはお前らしくない。その猫に構ってもらえばいいだろう」
テオドールは少し驚いたように眉を動かしたが、元気のない声は冷たい水のようだった。
「本心ですよ」
「でもテオドール様が本を読みたいから私なんて邪魔だと仰るなら、部屋に帰ります」
シーラは、いつもと全く変わらない声色でそう続けた。
「…」
「それで、仰るように全力でシロに遊んでもらいます」
シーラが立ち上がり、ドアを開けてシロに呼び掛けた。
ブルリと名前に反応したシロは耳を立ててシーラの方を向く。
駆け寄ってきたシロを抱き上げようとシーラがかがんだ時、テオドールの声がした。
「待て……俺は、お前のことを邪魔だと言った覚えはない」
「あれ?でも私より本に集中したいのですよね?」
「そうだ。だが…
だが別に、出て行けとは言ってない」
シーラは口を閉じたまま、テオドールの出方をうかがった。
何か言葉を探しているように、彼の長いまつげが揺れている。
「それと………お前は、俺に構ってもらいたいのか」
「はい、そうですよ」
「フン。もし、どうしてもと言うなら…
お前がここにいるなら、読書の合間に気が向いたら少しは構ってやらんこともない……シロのついでに、お前も」
テオドールは、ブランケットに顔を半分ほど隠していた。
シーラの腕を蹴って飛び出していったシロは、モフンとテオドールに突進していた。
構ってやると言われたことを理解したのだろうか。
彼は間を持たせるかのように、気持ちを隠すように、シロのその頭や腹をグリグリと撫で始めた。
今まで触ってやらなかった分を触ってやっているようにも見える。
シロは、いきなり撫でまわしてくれるようになったテオドールに嬉しそうにまとわりついている。
「ふむ、どう構ってくださるつもりなのでしょう…
もしかしてシロみたいに、そうやって撫でてくださるのでしょうか」
ゆっくり戻ってきたシーラはちょこんとソファに座り直す。
隣で気を紛らわせるようにシロを撫でるテオドールを、覗き込むように見つめてみる。
「っ、調子に乗るな。本の話でもしてやるだけでお前には十分だ」
シーラの深い緑の瞳に捉えられた漆黒の瞳が、ぎゅっと細められた。
ブランケットに半分隠れている彼の頬が桃色に色づいている。
構ってもらえて嬉しいのはシーラだけではないらしい。
「それだけでは不十分です。もっと構ってください」
「前代未聞の厚かましさだな。俺が…猫ごときにちょっと大人げなかったと反省してやったんだ、それで満足しろ」
「反省はもう要らないです。
その分、もう少しこうやって話をしていましょう。それからハーブティーを淹れてもらって、買ってきたしょっぱいものを一緒に食べましょう。チェスも私が勝てるまで続けましょう」
「お前は敗者のくせに遠慮というものを知らないのか。お前が俺にチェスで勝てるまでやったら朝までかかるだろ。それに付き合えば明日辛いのは俺なんだぞ」
「はい、覚悟してください。今夜は寝かせません」
そう言ったシーラが笑うと、一瞬間を置いて意味を理解したテオドールは呆れ顔でフッと笑った。
「それ、まだ言ってるのかお前…」
仕方ないなと言いながら、テオドールがチェス盤を引っ張り出してきた。
文句を言うが、シーラの気が済むまで付き合おうと既に腹を括ってくれたのだろう。
そのチェス盤の上に、二人で駒を並べ始める。
「お前は来るな、俺がいいというまでそこで待てをしていろ」
白い石を削って作られたチェスの駒に目を輝かせていたシロは、テオドールに指示されてその場で伏せた。
しかしながらシロは伏せていることに直ぐに飽きたようで、テオドールの手の下に入ってきて撫でろとばかりにコロコロ寝ころび始めた。
シロは、猫かわいがりに見せかけて実はスパルタ調教師のシーラより、大きな手でたくさん撫でてくれるようになったテオドールの方が好みらしかった。
1.大雨に気を付けてください(>_<)
2.ワインはいつ飲む
3.ミーと鳴く犬が欲しい