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その次の日、シーラは書庫に保管されているブルーナーの家に関する書類を読んでいた。
シーラは、仕事はするなと言われている。
しかしリシュタインの家にいた頃は、特に父が亡くなって家が傾きかけた後は公爵令息の家庭教師として働いてみたり、公爵令嬢の王都までの護衛兼付き人なんかを時々頼まれたりして、日々忙しく過ごしていた。
そこで最近、広い屋敷に日中一人手持ち無沙汰でいることはやはり性に合わないなと思い始めたのだ。
忙しくしていたい。
テオドールばかり忙しそうで面目ない。
なにか達成感を感じられることがしたい。
そんなこんなで、何か手伝えることはないかと探し始めて、まずテオドールが全て担っているであろう家のことを把握してみようと思い立ったのであった。
家のお金周りから領地、歴史のことまで事細かに書かれている書類の束に目を通していく。
重要そうなところは、忘れないように書き残しておく。
脳筋だと思われがちだが、実はシーラは勉強が苦手ではないのであまり苦にならない。
時々休憩をはさみ、腕を伸ばしたり書庫を歩き回って面白そうな本を物色したりしながら、家のことを把握する作業を進めていく。
コンコン
シーラが書類や本とにらめっこしながらペンを走らせてメモを取っていると、後ろから扉をノックする音がした。
ペンを止めドアに向かって返事をすると、白髪の従者がひょこっと顔を出した。
ガラガラとお茶のポットと茶葉の瓶がたくさん載った台を押している。
どうやら朝から書庫に籠っているシーラを労いに来てくれたらしい。
嬉しい。茶器を見たら喉も渇いてきた。
シーラは文机に散らばった書類を軽く整頓して、従者を迎え入れる。
「精が出ますね。
しかしシーラ様はこの家に来てくださっただけで、実は十分仕事をしているのですよ。シーラ様がいてくれるだけで、旦那様が文句も言わずサクサクサクサク全部やるようになりますからね」
そう笑いながら、彼はシーラに好きなお茶の葉を選ぶように勧めてくれた。
シーラは、テオドールはいつ家の仕事をこなしているのだろうと首を傾げて曖昧に笑い、しばらく悩んでから爽やかな味が特徴のお茶を選択する。
コポコポコポ、
とお茶が入る大好きな音がする。
手慣れた手つきでお茶を淹れてくれる従者と香り立つ湯気を見ながら、シーラはふと考えた。
そうだ、あの疑問を彼に聞いてみようか。
テオドールが生まれる前からこの家にいる、この白髪の従者ならば何か知っているかもしれない。
「あの…テオドール様って、私のどこを気に入ってくださったんでしょう。知っていますか?私が聞いても教えてくれないのですよ」
遠慮がちに声を発するシーラに、従者は顔を上げる。
彼は入れ終わったお茶を片手に微笑む。
優雅な動作だ。
動作だけを見たらこの家で一番淑女らしいのは彼かも知れない。
そんなことを考えていたシーラに、従者はお茶を手渡した。
「ええ、残念ながらそれは旦那様自身しか知りませんね」
「まあ、そうですよね」と頷こうとするシーラを、従者は「しかしですね」と遮った。
「確かに答えは分かりませんが、私は一つ昔話をして差し上げることなら出来ます…と言いますか、是非シーラ様のお耳に入れておきたいことが」
従者はくるりと台に戻って、茶器を整頓しつつ嬉しそうにそう言った。
彼の表情をよく見ると、少し思い出し笑いをしているようにも見える。
シーラはほうと声を漏らした。
テオドールから幼い頃の話はあまり聞いたことがない。
気にならないと言ったら嘘になる。
小さい時はどんな子だったのか知りたいし、なにより失敗談であれば彼をからかってやることもできるかもしれないし。
従者はシーラの反応を見て、ふふっと笑う。
そしてシーラの興味ありげな視線に満足したように話し出した。
「そうですね。あれは旦那様が今よりももっと若くて、先代も生きていた頃でしたね…
…
その日はいつもと同じように、朝からドバドバと大量の雪が降っていた。
従者は朝起きて屋敷の玄関前の雪を掻き、雑務をこなしたのち屋敷の倉庫の前に積もった雪を掻いていたところだった。
ふと顔を上げると、後ろからサクサクサクと雪を踏む軽い足音が聞こえてくる。
そして従者に声がかけられる。
「セバス、まだ雪かきしてるのか。他の誰も手伝ってくれないのか?仕方ない、俺が魔法で手伝ってやる」
後ろにいる声の主は、静かな冬の日の夜のように真っ黒な髪と目の男の子だった。
幼い頃のテオドールだ。
従者は現れたテオドールを見て考える。
今日は来客があったはずだ。
しかしここに彼がいるということは、客はもう帰ったということか。もうそんな時間か。
ハッと従者が我に返ると、既に半分ほどの雪が行儀よく脇に身を寄せていた。
テオドールが一瞬で雪を移動させたのだ。
「おやおや、テオドールぼっちゃま。だめですよ、これは私の仕事ですから」
そう言って、従者がさらに手伝ってくれようとするテオドールを止めると、彼は手持ち撫沙汰になった手を誰にも踏まれていない綺麗な雪にサクサク突っ込み始めた。
彼は普段、雪で遊んだりする様なことはしないのにどうしたのだろう。
そしてその表情から察するに、なにやら辛抱堪らないことがあったらしい。
従者はとりあえずタオルを出して、テオドールの手を拭いてやる。
「ほら、手袋もないのに雪を触ってはなりません。はい、手を拭いてください。
ええ。それにしても、なにやら嬉しそうですね。何かあったのですか?」
「別になにもないけど………」
「けど?」
「フン、なんでもない」
「何かあるんですね。さあこのセバスに教えてください。でないと、家庭教師の時間を一日2時間増やしますよ」
歯切れの悪い返事しかしないので、従者がトドメの一言を言うとテオドールの顔がみるみる青ざめた。
「やめろよ!おしえるよ、おしえればいいんだろ!」
テオドールが、手を拭いてくれている従者から身をよじって逃げ出しながら言う。
逃げ切ってから、教えてやると言ったことを後悔したような顔になった。
それでも従者が言うように促すと、
「……俺、将来あいつをお嫁さんに貰えるんだって。リシュタイン子爵が言ってた、俺にならいいんだって」
白い息と共にそんな言葉を吐き出したテオドールは、少し頬を染めた。
「あいつ…?
ああ、ヴェルナー様の娘さんですね。ほほう、ほほう。そんな事を言ってもらえたのですか。ヴェルナー様に良くしてもらってよかったですねえ。だからそんなに嬉しそうなんですね」
ヴェルナー・リシュタイン子爵は今日ブルーナー家を訪ねてきた人だ。
シーラの父親である。
彼はテオドールの父親である先代のブルーナー家の当主と懇意にしていた。
「っ、やっぱり別に嬉しくもなんともないし。っていうかなんで俺があんなチビの面倒見なきゃいけないんだ」
テオドールはそう言いながら乱暴に鼻をこする。
寒さで赤かった彼の鼻がますます赤くなるのを避けるため、従者は優しくそれを制した。
「それにしても、一人娘を溺愛していることで有名なあのヴェルナー様に冗談でもそんなことを言わせたとは。ぼっちゃまは余程ヴェルナー様と仲良くなったんですね」
魔物と戦っている時は鬼のように怖いのに一人娘と妻には激甘だという激しい人格で有名な子爵に、冗談でも娘をやると言わせたならテオドールは相当気に入られたのだろうと従者は目を細める。
「冗談?ばかだなあ。むすめの父親が結婚とか冗談で言うかよ」
「おお、失礼しました。
それより、ヴェルナー様とは何かお話したのですか?それとも氷魔法でも披露したのですか?ぼっちゃまの魔法は凄いですもんねえ」
従者はテオドールに話を合わせてやることにした。
大人である。
「リシュタイン子爵とはちょっとしか話してない。でも俺が将来騎士団に入りたいって言ったら喜んでた。鍛えてやるってさ。あと、俺みたいな息子も欲しかったって言ってた。見込みがあるんだって」
子爵の娘とテオドールが結婚したら、鍛えがいのあるテオドールが子爵の義理の息子な訳か。
テオドールの父親とシーラの父親は仲良くそういう冗談を言い合って楽しんでいたのだろう、なるほどそうかと従者は一人で静かに納得した。
「ええ、ええ。ヴェルナー様に見込んでいただけるなんてぼっちゃまは凄いですねえ。あの方は戦場では鬼神のように強いのだとか」
「ふーん」
「たくさんの戦功を残して騎士団でも一目を置かれているのだとか」
「ふーん」
テオドールは子爵には興味がなさそうだったので、従者は話題を変えてみることにする。
「今日はその娘さんも子爵と共に来ていたのですか?」
「ああ、また今日も来た。だからまた今日も仕方なく遊んでやった。この前あいつが来た時、遊んでって言うから俺は仕方なく一緒に遊んで魔法見せてやったから、それが気に入ったんだろ。
ほんと、仕方ないやつ…」
「いえいえ、娘さんはぼっちゃまに遊んでもらえて嬉しかったのですよ。
でも結婚するのなら、ぼっちゃまがもっと勉強して強くなったら娘さんももっと喜びますねえ」
「っ、そうやって俺に勉強させたがって。お前の思惑なんてバレバレなんだよ!」
従者がニヤリとしたら、テオドールが雪をつかんで投げてきた。
従者の思惑はバレバレだったようだ。
だが、勉強する気になってくれたようなので良かった。
彼の成長を願っている者として、頑張ろうとするテオドールが見られそうなのは嬉しい、と従者は雪をぶつけられながら目じりを下げる。
「……まあでもバカでヘボの旦那さんだと、せっかく嫁いでくるのにあいつもかわいそうだもんな…まあ、ちょっとは勉強してやる」
そして、テオドールはそう呟きながら雪に再度手を埋め込んでいた。
折角拭いてあげたのに、と従者は思うが、今度はそのままにしておいてやる。
冷やす時間が必要なのだろう。
「偉いですね、ぼっちゃま」
「なんだよ、ニヤニヤするなよ。俺のせいで不幸になったらあいつが可哀そうだろ」
「ええそうです、その通りです。いい旦那さんに貰ってもらえるあの子は幸せ者ですねえ」
従者は微笑ましいなと思うと同時に、折角やる気を見せているのでもっとおだてたらもっと勉強してくれそうだな、とも思ってニヤニヤする。
「フン!適当なことばかり言うな」
テオドールは真っ赤になって、ニヤニヤする従者から逃げるようにまた雪を投げ始めた。
「さあ、ではこれから家庭教師の時間を1日3時間増やしましょうかね」
「やめろよ、増やすなよ!勉強するとは言ったけど家庭教師の時間を増やしていいとは言ってない!」
…
「そして私は家庭教師の時間を容赦なく増やしましてね。
幼い旦那様が家庭教師から逃げようとするたびに言いました。嫁いできたシーラ様が不幸になっちゃいますよ〜と。そうすると渋々戻ってきて勉強してくださるのですよ。それを言えば、あの頃の旦那様は面白いくらいに言うことを聞いてくれたのですよね」
「セバスさん、楽しそうですね…」
「ええ、ええ。とっても楽しかったですよ。
しかしあの頃の私は、シーラ様と旦那様は別に婚約しているわけでもないし頻繁に会うわけでもないし、シーラ様を脅しの材料にして言うことを聞かせることができるのは精々3カ月くらいかなと浅はかにも思っていたのですけれどもね。旦那様はそのうち脅さなくても勉学に励むようになりまして。
まあそういうわけで私が言いたかったのは、旦那様はあの頃からずーっとシーラ様のことが好きだったということですね」
それを聞いたシーラは、よくそんなに長い期間片思いをしていたものだ、と照れ臭さを隠すためのため息が洩れかかったので急いでズズッとお茶を飲んだ。
「大きくなった旦那様は一応ポンコツなりに、そろそろ婚約者でも決めようと先代に言われた時、シーラ様に縁談を申し込んでくれとは伝えていたらしいですよ。でもそのくらいの時期にシーラ様のお父様が亡くなりました。それで結局縁談を申し込むのは延期ということになりました」
気配りのできる有能なこの従者はシーラの言いたいことが分かったのか、それとも同じような気持ちでいたのか、そう補足した。
「なるほど…確かにその時期に縁談の申し込みがあろうものなら、私はそれを切り刻んでいたかもしれませんね…私、父がいなくなって何年かは本当に殺伐としていましたから」
シーラは苦い顔で笑った。
父の死がどこか信じられずに父に教えてもらった訓練を毎日必死に繰り返したり、そうかと思えば父の仇と言って魔物を根絶やしにしようと国境を一人で超えて、騎士団の人たちに取り押さえられたシーラの過去が思い出された。
あの頃は、頑張ったら父を取り返せると思って体を動かしていないと悲しすぎて気が狂いそうだった。
何年か経って、父が大好き過ぎてずっと塞ぎ込んでいた母が突然スクッと立ち上がって泣かなくなったので、それを見たシーラもようやく立ち直った。
「旦那様はその時も貴方のことをとても心配しておられましたよ。もちろんポンコツヘタレの旦那様は傷心の貴方に話しかけられるような技量は持ち合わせていませんでしたから、私は苦肉の策として手紙を書くように勧めたのですが、どうやら出してはいなかったようですね」
そう言ってシーラにお茶を注ぎ足してくれる従者を見ながら、
いや待てよ、とシーラは眉を寄せた。
その頃に、妙に綺麗な字で書かれた差出人不明の怪しい手紙を受け取った覚えがある。
内容はお悔やみ云々で全く普通だったが、最後に一言、仇を取るのは危ないからするなと書いてあった。
しかしその頃のシーラは殺伐モードだったので「名無しの誰かの忠告など聞かない、仇は自分一人で絶対に取る」とその手紙を握りつぶしたのだが。
そういえば、父含め多くの騎士たちを殺したその魔物は未だ討伐されていない。
奴はもうこの辺りにはいないのだろう、とシーラは思っている。
「それから、シーラ様のお父様が亡くなって数年後先代が亡くなりまして、旦那様は急遽当主として家を背負う立場になりました。
そして家のことが落ち着いた頃に、シーラ様をまだ想っているなら縁談の申し込みをしたらどうだと私どもは提案したのですが、どうも自分で縁談を申し込むことができないようでしたね。あともう一回話しかけてからだとか部屋を綺麗にしてからだとか、春になってからだの冬になってからだの言いだして、ウジウジウジウジしておられました」
「…」
シーラは無言で遠い目をする。
「それで、一年前ですよ!シーラ様がサクッとよそ様と婚約してしまわれました。ああ、あの時は屋敷中が毎日お通夜のようでした。その間にも好意を寄せてくださるご令嬢も、お屋敷に通ってくださる熱烈なご令嬢もいたのですが旦那様はいつも居留守を使っていましたね。
ともかく私どもは、ずっと家のために頑張ってきてくださった旦那様にはどうにか幸せになってもらいたいと思い続けていましたから…今、あんなに嬉しそうにソワソワアワアワしている旦那様を毎日見ることができて、私共は嬉しいのです、本当に!」
ソワソワアワアワを強調した従者は、胸に手を当てて頭を下げてくる。
シーラはもっともっとと頭を下げたがる従者をまっすぐ立たせて、改めて首を傾けた。
「…しかし私、益々分からなくなってきました。昔少し会っただけなのに、テオドール様は私のどこがそんなに良かったのでしょうか」
「なんといいますか、そうですね…シーラ様がお願いすれば、旦那様はきっといつかは教えてくれますよ」
従者は少し言い澱んで、目を細めて微笑んだ。
対するシーラも目を細めている。微笑んではいないが。
「いいえ、絶対に教えてくれなさそうで…クシュン、クシュンクシュン」
何故かこのタイミングでいきなり鼻にコショウをつっ込まれたような衝撃に襲われた。
シーラは堪え切れず顔を覆って従者に背中を向ける。
クシュン、クシュン。
書庫は特に埃っぽい訳でもないし、寧ろ落ち着く快適な空間なのに何故だろうと考えながらシーラはクシャミをする。
「あれあれ。大丈夫ですか、寒いですか?」
従者は手品のようにハンカチを出してきて心配してくれた。
「あ、大丈夫で…クシュン…特に寒くない筈なのに…クシュン」
シーラはハンカチを受け取って次のクシャミに備えたが、それからクシャミが出てくることはなかった。