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みんなの幸せな結末へ  作者: 汪海妹
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浮気よりまずいやつ













浮気よりまずいやつ













清一













木曜の午後、僕は一人で彼女の会社へ行って、2人で車の後部座席に並んで座って、マレーに入った。隣の席で僕たちはさまざまなおしゃべりをした。僕は彼女の表情を堪能した。ときどき、彼女はあの女の子みたいな顔をした。工場を見学して、夕方になった。


「わたしは今日はこちらに泊まりますので」

「そうですか。すみませんでした。長い時間、お手をわずらわせてしまって」

「工場の車手配しますので、そちらでお戻りください」


みつめあったまま、2人とも動かなかった。僕はもう少しだけ彼女と一緒にいたかった。体の芯がずっと今日、彼女と会ってから熱かった。


「あの、また、営業に来ていただけますか?」


僕は息を吸った。夕方の田舎の空気の中に、かすかに彼女の女の人の香りが混じっている気がした。


「高田に伺わせます」


彼女はその後ためらった。少しためらった後に言葉を続けた。


「じゃあ、ときどき、いっしょにごはんたべたりはできませんか?」

「すみませんが……」


すごく言いにくかった。今までこんなこと一度もなかったのに。


「僕は結婚していますので、2人で食事というのはちょっと……」

「友達としてでも、だめですか?」


僕は笑った。


「あなたは僕を友達だと思えるかもしれませんが、僕はあなたのような素敵な人を友達だとは思えない」


こんなきれいな人を前にして、友達だと思う男がはたしているんだろうか?彼女はため息をついた。


「ごめんなさい」


彼女は両手で頬を包んだ。ほんのりと赤くなった頬を。


「誤解しないでくださいね。わたし、普段はこんなことをする女じゃありません。中條さんが素敵だったんで、だめもとで言っただけ。気にしないでください」

「あなたみたいなきれいな人が結婚していないの?」


彼女は笑った。


「わたしは仕事と結婚したようなものなので」

「恋人はいるんでしょう?」

「いません」


きっぱりと言われてしまった。後から思った。聞かなきゃよかった。聞いてしまった。恋人がいなくても、自分にはどうしようもないのに。


「もったいないですね。高嶺の花だから、みんな、手、出せないのかな?」

「いいな、と思う人はみんな結婚しているだけですよ」


彼女はじっと僕を見つめた。


「わたしが遅すぎたんです。自分も結婚したいって思うのが」


本当にこんなきれいな人を世の中の男たちはほっておいているんだろうか。その後つい、口が滑った。


「あの、ゴルフはされますか?」

「少しなら、以前してましたけど」

「週末、たまにプライベートでやるんです。仕事がらみじゃなくて。お声おかけしてもいいですか?誰かいいやついたら紹介しますよ」


絶対うそだった。紹介したいなんて。彼女の目がきらきらした。


「ええ。ぜひ」


ただ、もう一度会える口実がほしかっただけ。


***


そして、それからしばらくの間、僕はおかしくなった。寝ても覚めても十和田さんのことを考えている。彼女みたいな人は自分の男の前では、どんなふうに話すのだろう?どんなふうに甘えるのだろう?服を脱がせたらどんな体をしているのだろう?ああいうときはどんな声をあげて、どんな表情をするのだろう?きっとあの普段の上品な様子とは違うんだろうな。


そして、僕の手の中には彼女の名刺があって、連絡したければただ電話一本かければいいだけだった。もう一度、ただ、もう一度2人で会ってしまえば、止められる自信がなかった。僕は、電話をかけてしまいそうになる自分と闘っていた。


僕はひとつ、自分のことでわかっていなかったことがあった。僕はなつ以外の女の人を好きになったことがない。彼女がいたことはあるけれど、心を開いた女性はなつしかいなかった。だから知らなかった。人は恋に落ちるというけれど、本当に人と人が惹かれあうときは、時間も言葉も要らない。ただ、一瞬目を合わせるだけで十分なんだって。頭で抑えて止めようとする前に、心に飛び込んでしまった。


仕事中も、食事中も、通勤途中でも、家へ帰っても。気づけばぼんやりと彼女の面影を思い浮かべた。まるで10代の男の子のように。何日経ったころだろうか、家へ帰ってきたら、なつが書置きを残して消えていた。


「しばらくアメリカの千夏のところでお世話になります。 夏美」


そして、その書置きを読んだときに気づいた。僕はここ何日か、なつの存在をすっかり忘れていた。彼女と何を話したかさえ、一言も思い出せなかった。


***


次の日昼前に高田君が深刻な顔をして入ってきた。


「支社長、ちょっといいですか?」


僕はぼんやりと窓から外を見ていた。


「なに?」

「今日十和田さんとこに営業行ったとき、支社長は元気かと聞かれました。元気と答えときました」

「うん」

「それから、ゴルフに誘ってくれるって言ったけど、やっぱり社交辞令かなって聞かれました。適当に答えときました」

「うん」

「ゴルフの話なんていつしたんですか?」

「工場行った日」


高田君が目を丸くした。


「工場なんていつ行ったんですか?聞いてないですよ」

「うん。言ってなかったね」


なんとなく言いづらかった。なんで行くのか聞かれたら答えにくくて。


「ねえ、高田君。そんなことよりさ」

「はい」

「なつがね。夏美がいなくなっちゃった」


高田君はぽかんとした。


「書置きがあってさ。娘のところに行くって」

「じゃあ、別にいなくなってないじゃないですか」

「でもさ、普通は行く前に相談するじゃん。家に帰ったら書置きだけあっていないなんて初めてなんだ」

「それは、やっぱり、まずくないですか?」

「なんで、急に?」

「だから、十和田さんとのことなんじゃないですか?」

「なんで?だって彼女とは2回会っただけだし、何もしてないし。第一なつは知らないだろ?会ったことすら」


ため息が出る。


「俺、浮気なんかしてないんだけど」

「支社長、たしかに浮気はしてないかもしれないけど、もっとまずいやつしてますよ」

「なに?」

「本気ですよ。支社長も十和田さんも会ったときから、なんかおかしいじゃないですか」

「おかしいって?」


高田君はため息をついた。


「夏美さんの手前こんなこと言いたくないけど、2人で立って並んで話している姿がお似合いでしたよ。十和田さんも妙に支社長のこと気にしてるし、いいなって思ってるんでしょ?」


僕は目を閉じた。軽く。


「思ってるだけで罪なのか?」

「ゴルフ誘おうとしてるじゃないですか」

「……」

「会ったらまずいやつですよ。絶対引き返せなくなりますよ。泥沼ですよ。泥沼」

「……なつが急にいなくなったのはどうしてだろう?」


高田君はまゆをひそめた。


「女の人って結構勘鋭いから、何か気づいちゃったんじゃないですか?とにかく、電話したほうがいいですよ」


なつの電話は電源が入ってなかった。僕は千夏に電話した。


「なに?お母さん?何の話?」


なつはアメリカにいなかった。時間的に考えて、もう着いてないとおかしい。念のため太一にも電話したが、やっぱりいなかった。


結局本人にかけることしかできなくて、10分ごとに電話かけて、10回目か11回目にやっとつながった。


「なつ?」

「ああ、せいちゃん」


声が遠かった。


「どこにいるの?」

「2人の思い出の場所めぐってた」

「……」

「心配しないで、最後はアメリカに行くから」

「なんで急に千夏のところにいくの?そんな話してなかったよね」

「それは、電話ではちょっとうまく話せないかな」

「迎えに行くから、帰ろう」

「……」

「どこにいるの?」


彼女は電話を切った。そして、その後は何度かけても電源が入っていなかった。


東京か香港にいると思った。どっちかわからない。そしてふと思いついた。なつは家族カードを使っているはずで、オンラインで使用履歴を確認できる。やっぱり香港のホテルの名前が出てきた。


***


「下にいるからおりてきてよ」


相変わらずスマホの電源が入っていないので、フロントに頼んでつなげてもらった。


「ストーカーみたいじゃん」


見慣れた彼女が下りてきた。


「ここまで来ても、まだ、アメリカに行っちゃうの?」

「チケット取っちゃったもの」

「じゃ、アメリカからいつ戻るの?」

「未定」


僕は両手で顔を覆った。


「なんで急にアメリカへ行っちゃうのかは、やっぱり教えてくれないわけ?」

「それはあなたはなんとなくわかってるんじゃないの?」

「わからない」

「あなた、ここんとこおかしかった。三日間くらい」

「……」

「わたしのこと、全然見てなかった」


そう、僕は彼女が同じ家の中にいることを忘れていた。


「何かあったんだよね。教えてよ」


なつにはどうしても教えたくなかった。


「好きな人でもできたんじゃないの?」

「僕には君以外に好きな人なんていないよ」


彼女は冷たい目をしていた。


「嘘をつかないのがとりえだったのに」


そういって、目を伏せた。


「まぁ、嘘をつかなきゃいけないようなことがあるってことだよね」


僕は彼女の伏せられた目の睫毛が生み出す小さな影を見つめた。


「わたし、わたしの勘違いってほうにかけてたんだけどなぁ」


伏せたまつげの間から涙が流れた。


「彼女のことはほんの少しの間、気になってただけだよ」


ほんとうにほんの少しの間。なつと僕の間に流れた時間に比べたら、本当に短い。


「でも、あなた、心全部持って行かれちゃってたわよ。わたしと暮らす家の中であなたは他の女の人のこと考えてた。前のドラマのセリフでこんなのあったじゃない。人生には3つの坂がある、上り坂、下り坂、まさか。まさかこんなに長い間いっしょにいて、最後の最後にあなたを失うことになるなんて思わなかった」


僕は心の中にずっしりとした重い衝撃を受けた。


「失ってなんていないだろう?」

「あなたは恋をした。浮気なんかじゃないわ。わたしずっとあなたのこと知ってる。あんな顔してぼんやりしたことなんて今までなかったもの」


彼女は僕をにらんだ。


「わたし以外の人に恋をした」


たった3日だった。ほんの少し心を奪われた。それだけでも僕の大切な人は許してくれないんだろうか。


「ずっと昔にあなた自分で言ったこと、きっと覚えていないと思うけど。『君がそばにいてもいなくても、もし君より好きな人が現れたら、そういうのは止められないと思う。』人生って怖いわね。本当に起きちゃったじゃない」

「なつ、彼女とのことは本当に何でもないよ」

「わたしのいる家で、あんな顔をされて、それも3日よ。何でもなくはないよね。恋ってさ、自分でしようと思ってするんじゃなくてさ。飛び込んでくるものじゃない。頭でするんじゃなくて、心にふってくるものだと思う。あなたは頭ではわたしといたいと思っていても、心では他の女の人を求めてる。頭で心をつぶすのはやめて、心の声に従ってみたら?」

「彼女となんかうまくいくわけないじゃないか」

「でも、惹かれたんだよね。じゃあ、精一杯がんばってみなよ。簡単にあきらめないで」

「冗談だろ?たった3日の想いが君との長い時間に勝てるわけないじゃないか」


彼女は涙のたまった目で何も答えなかった。


「本気じゃないよね?」


彼女は上を向いて、零れ落ちた涙を指でぬぐう。


「わたし無駄にまっすぐだから、だめなんだよね。心の中に別の女の人がいる人とは一緒に暮らせないな。融通きかないけどさ。だから、わたしはわたし。わたしらしい」


彼女はそれから笑った。涙にぬれたままの目で。


「それに、これでもちょっとわくわくしてるの。運命があなたに新しい出会いを与えたってことはさ、わたしにも新しい好きな人ができるんじゃないかな」


彼女は笑えた。泣きながらでも笑えた。でも、僕はちっとも笑えなかった。そしておそらく今日を境に僕は笑えなくなる。きっと昔みたいに。


「せいちゃん、離してよ。わたしもう行くから」


僕は彼女の手をつかまえた。逃がさないように。


「とりあえず離れて暮らそう。だから、離して」


嘘だろ?嘘だよね。誰か嘘だと言ってください。


「離してよ。わたし、もう3回言いました」


僕は手をそっと開いた。彼女はゆっくりとその手を離した。


「さようなら」


なつはそう言って僕に背なかを見せるとエレベーターホールのほうへ歩いていった。


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