みんなの幸せ
みんなの幸せ
清一
「田無さん、すみません。もうお帰りになったのはわかっているんですけど、ちょっと急ぎで確認させていただきたいことがあって、家の近くのどこかでお時間いただけませんか?」
僕が電話をかけると、田無さんはちょっと驚いていた。
「今から……ですか?」
「すみません。その、明日まで待てないんです。急ぎ確認したいことがあって」
田無さんの指定した店へ行くと、私服の彼が奥の方にいた。
「飲みに行きましょうって言ってたのが意外と早く実現しましたね」
彼は穏やかに笑っていた。僕は笑えなかった。
「個室になれるようなお店のほうがいいですか?」
「いや……」
周りを見渡す。日本人はいない。それに、もしこれから入ってきても、フロア全体が見渡せるから分かる。
「ここで大丈夫です」
僕は彼の向かいに腰かけた。
「何飲まれますか?」
「ウィスキー、ロックで」
田無さんがオーダーしてくれる。僕はぼんやりとそれを見ている。
「どうされました?」
「あの、五十嵐さんがいなくなった事情について、詳しいことを教えてくれませんか?体調不良としか聞いていなかったんですけど」
田無さんはじっと僕を見つめた。
「誰かに何か聞かれたんですか?」
僕は、今日和田君が口にしたことを話した。
「そうですか。あの和田君が……。そんな口にしにくいことを支社長に話すなんて、和田君はあなたのことを信頼してるんですね」
「あの、本当なんですか?彼だけじゃなくてみんなそんなふうなひどいことを言われてたって……」
田無さんはふと斜め上を見上げながら言った。
「わたしは何だったかなぁ。そうそう、出世しそこねても会社にしがみついている老人、お前なんかいつでもさっさとやめてしまえ、みたいな感じでしたかね」
何も言えなかった。心が痛んだ。まるで自分が言われたみたいに。僕はここへ来てから一番お世話になっている人だったからなのだと思う。
「そういう人だったんですよ。罵倒することで、人を鼓舞して奮い立たせるのが……」
僕たちは窓際に座っていて、道路を車が通るたびにライトがあたりを照らして、通り過ぎる音がして、通り過ぎると静かになって、そして、店内のざわめきが僕らを包んだ。
「マネージメントだと真剣に信じていたんです。自分に対しても他人に対しても非常に厳しい人だった」
「そんなのは、そんな方法は……」
マネージメントでもなんでもない。ただの、八つ当たりだ。罵倒されて育った自分の腹いせを他人にぶつけているだけだ。
「マネージメントとは呼べませんよね。わかりますよ」
田無さんは軽く目を閉じて、優しくうなずいた。まるで泣いて怒っている幼い子をなだめるように。
「でもね、彼があそこまで厳しくなくて、ほどほどに厳しくて、それで問題も起こらず、会社の数字があがっていたら、会社は何も言わずに、やっぱり五十嵐さんを重宝したと思いますよ。だって、やっぱり一定の効果はありました。わたしたちはそれこそ、必死に働きましたから」
「問題って?」
田無さんは口をきゅっと結んで、少し厳しい顔をした。
「うつ病になってしまったんです。1人の社員が重度の。日本へ帰国して今休職中です」
外をまた、車が通りすぎる。いつの間にか小雨が降っていて、タイヤは湿った道路の上をざわざわと進む。
「清水さんが慌てて、専門家に頼んでメンバー全員のメンタルヘルスをチェックして、かなりの人数の人が重度まではいかないまでも、何等かの強い精神的ストレスにさらされているのが分かって……」
田無さんは一口水割りを飲んだ。
「会社は五十嵐さんを簡単に外しました。方法は間違っていたかもしれないけど、あそこまで会社に身も心もささげた人だったのに。それで、今度はもともと不安定だった五十嵐さんが精神的に参ってしまったようです。まあ、いろいろあって自主都合の退職をされたそうです」
僕はため息をついた。田無さんは弱弱しく笑った。
「驚かれたでしょう?清水統括に口止めされてたんです。しばらくの間は話さないようにって。わたしから下にも言うようにってね」
僕だけ、知らなかったんだ。
「他意はなかったんです。統括が、事情を知っているその人から優しくされるのと、何も知らない人から優しくされるのは違うってね。何も知らないそのままの支社長を見て、みなさんが信頼できる人なのかそうではないのかを判断してくださいと言われました。ご本人がいらっしゃって、驚きました……」
田無さんはふきだした。
「下を笑わせて喜ぶ方なんて、今まで上司になったことがありませんでしたから。直前までの五十嵐さんとのギャップもすごかったですし」
「はぁ」
そのあとしんみりとした顔をした。
「まあ、でも、五十嵐さんと全く違う方を指名されたってことは、清水統括も今回のことはずいぶん反省されたのだと思いました。また、それを上も認めたってことはね」
「パワハラとして報告しようとは思わなかったんですか?」
田無さんは下を向いた。
「わたしが悪いんですよ、それは。みんな、どんどん五十嵐さんについていけなくなって、わたしがどうするかに注目していた。本来なら、わたしがあそこでみんなの意見をまとめて、あげるべきだったんです。でも、五十嵐さんに対する、変なものですがひどい扱いを受けていても情のようなものもあったし、自分自身はとにかく打たれ強い人間だったので、我慢が美徳と我慢してしまった。みんなもわたしのマネをしたんです。誰もが同じ強度の心を持っているわけでもないのに……」
田無さんはじっと黙った。
「支社長、わたしは彼がうつ病と診断されて帰国してから、毎朝、出社前に彼のために祈っているんです。全快とまではいかないまでも、元気になってほしいってね。普通のいい子でしたよ。まじめで、温厚で、これからいくらだって元気に働けたはずなのに」
少し声をつまらせた。
「おそらくもう、以前携わっていたような内容の仕事はできません。それどころか、もっと軽い仕事だって無理かもしれない」
それから、ゆっくりと長く息を吐いた。田無さんのこんな悲しそうな顔は初めて見た。
「きっとこの後悔の気持ちは一生消えません。お墓に持って入ると思います。おそらく清水統括もこの件に関してはかなり気にされてると思います」
何も言えなかった。ただ、だまってウイスキーを少し飲んだ。
「もし、今回のような問題がなくて、あなたのような考えの人に会ったら、わたしは支持できなかったと思います。若い世代の人はワークライフバランスなんて新しい考え方、抵抗ないんでしょうけど、我々世代はね、ずっと習慣にしてきたやり方と違い過ぎる。仕事ってやっぱり、苦しさの先にあるものだと思うのでね。だけど、今回の件は…」
田無さんは両手を組んでその上に額を載せて、軽く目を閉じた。
「わたしの今までの価値観や概念を根底から覆しました。みんなも多かれ少なかれ、そういう気持ちはあったんだと思います。だから、そんなときだから、支社長のことばや考え方のひとつひとつやなされ方が、正しいと思えました」
「でも、僕の言ってることはやっぱりきれいごとだと思います」
田無さんがちょっと驚いて僕を見た。
「おっしゃってるご自身が否定されるんですか?」
「理想論です。やっぱり会社は数字をあげないと……。僕は、きれいなことは言いましたが、今、数字をあげられる自信がありません」
思わず言ってしまった。本音を。
「今日も黒田君に偉そうなこと言っている僕の中で、一体何を偉そうに言ってるんだ?お前だってついこの前まで黒田君と同じような地位で働いてただけなのに、って話すもう一人の僕がいるんです」
支社長になってからずっと気を張っていたのが緩んだ。
「ついこの前まで ほんの10人にも満たないチームの主任だっただけなのに、気がついたら、一つの支社任されて……。みんなの前でいろいろ言ったり、田無さんに話して今進めていることも、全部僕の本当の考えだし、嘘ではないけれど、こんなの絶対うまくいきっこないって思ってる自分も同時にいるんですよ」
僕はため息をついた。
「どうして、みんなの前であんなことを話し、田無さんに相談してこんなことをしているんだろう?よく疑問に思います。最近」
もっと無難な態度ややり方があったはずなのに。
「それは、支社長。やっぱりあなたに素質があって、それが成功すると信じているご自身もいるからだと思いますよ。ただ」
「ただ?」
「あなたに足りないのは実績だけですよ。誰にだって初めてはあるんです」
自分の足元にあった地面が、今日は抜けてしまったみたい。1人の心の中に閉じ込めていた思いが浮き上がってくる。ただ、不安で、不安に飲み込まれそう。
「いつもだったら、不安でたまらないときは、僕、適当にやっちゃえって思うんです。真正面から受け止めるのをやめて、身をかわすんです。ずっとそうやってきた」
そう、だって僕の生きがいは仕事ではなくて、家族だから。真正面から向かうのは家族だけでよかったんだ。
「でも、清水さんに、今年はノルマを必ず達成しろって言われました」
「はあ、そうですか」
「僕を統括にしたいっていうんですよ」
田無さんはちょっと目を瞠った。
「参りました。退路が断たれた。僕、仕事でこんなに追い詰められたの初めてかもしれません」
「自信がないですか?」
「尾藤さんがなったほうがいいとおもうんですけど、僕よりふさわしいと思う」
支社長自体、戸惑っているのに、更に上にいくなんて。
「わたしはそうは思いませんが」
僕はじっと田無さんを見た。
「僕を励ますために、そんなこと言ってるんですか?」
「いいえ」
「……」
「尾藤さんは、五十嵐さんと似ています。あそこまでとはいかなくても、尾藤さんがみている支社は似たり寄ったりの雰囲気になるでしょう。わたしはね、支社長。ここ2、3か月の和田君と高田君の変わり方に驚いているんですよ」
「2人の変わり方、ですか?」
「ええ。高田君はあんなに一生懸命まっすぐ頑張る子じゃなかった。というか、本当はそういう子だったけど、誰も彼がまじめな子だなんて知らなかったんですよ。和田君は、必死で自分の殻を破ろうとしている。この前まで会社を辞めることばかり考えてたのに。五十嵐さんにも尾藤さんにもできないと思いますよ。2人を変えることは」
「……」
「模索されていることは、きっと正しいことなんだと思いますよ。ただ、まだ、実績がないから自信がないだけですよ」
田無さんはそっとそう言ってくれた。
***
「ただいま」
家に帰るとなつがソファーの上で体育座りをして、膝をぎゅっと抱えて、部屋の電気もつけずにテレビを見ていた。彼女のすぐ横に座って、柔らかい体を抱きしめた。
「あれ?お酒飲んできたの?」
ギャーという声がテレビからわきあがる。1人でホラー映画か何か見てたみたい。
「そんなにたくさん飲んでない」
彼女は僕に抱きしめられたまま、画面に視線を戻す。
「ねえ、なつ」
「ん?なに?」
「慰めてよ」
もう一度テレビから僕を見た。
「なんかあった?」
「……うん」
「それで、お酒飲んだけど癒されずに、女の人が欲しいの?」
「だめ?」
ギャーという声と、ちしぶきが飛んでいる。画面の中で。彼女はテレビの青い弱い光の中で笑った。そして、テレビを消した。家が真っ暗になってしまった。
「おいで」
彼女が僕の手を取った。寝室へ行って、上着を脱いで、スーツやワイシャツを脱いで、ベッドに横たわった彼女の上に覆いかぶさると、彼女は片手で僕の髪をなでた。
「大丈夫?」
彼女の目は澄んでいて、声は僕の心の奥の方に響いた。たったそれだけで、今日受けたたくさんの衝撃や、徐々に大きくなってきていた不安のほとんどが、消えて行った。本当に。彼女の唇にキスをして、それからくびすじに唇をつけた。彼女の両手が僕の背中に回って抱きしめられると、今まで何度となく彼女のこの腕の中で安らいできた記憶が僕の中に浮かんでくる。ここが僕の家だった。彼女の腕の中が、僕の本当の。
何か嫌なことがあると、僕はここに帰って来たくなるんだ。
人が人を傷つけ、傷つけられた人の話は、僕の古い傷を刺激して、もともと不安定になっていた僕をゆさぶった。自分がどこに立っていて、どっちを向いているのかがよくわからなくなって……。
そういった不安定さがなつと肌を重ねて、彼女と触れ合っているうちに収まっていく。
「何があったの?」
済んだあとに、彼女はまた僕の髪を指で梳きながら聞く。
「言えない話?」
ぽつりぽつりと今日知ったことを話す。彼女は驚かなかった。
「もしかして、知ってたの?こういう話?」
「ごめん。詳しくじゃないけど、ちょっと知ってたわ」
「……」
「中田さんの奥さんにちょっと聞いてた。前、いろいろ大変で病気になった人が出たって」
「なんで、俺に言わなかったの?」
彼女は僕のほうに顔を向けた。
「よくわからない話だったから、ほんとのとこ、何があってどうなったのか。ちゃんとわかっている人がきちんと話したほうがいいんじゃないかと思ったのよ」
僕はため息をついた。
「なんか、いつのまにか偉くなっちゃって。困っちゃったな、正直。もっと上に行けなんて人もいるしさ。どうして俺なの?って思っちゃうよ。他にもいるだろうに」
「ねえ、せいちゃん。この前、中田さんの奥さんと話しててね。最近ご主人が朝ネクタイしめながら鼻歌歌ってて、それで奥さん、ご主人が出かけたあとに泣いちゃったんだって」
「なんで?」
「あのね、会社に行く前に鼻歌歌うなんて、今までだったら絶対にありえなかったんだって。朝、ときどきこっそり吐いてたらしいよ。ご主人。地獄へ行くような顔で毎朝出てったって」
「……」
「あのままの生活続けていたら、次に倒れたのは絶対にご主人だっただろうって。わたしも話聞きながらもらい泣きしちゃったわよ。だって、わたしたちはさ、自分の愛する人が、どんなに会社で辛い目にあっていたって、見送ることしかできないんだもの。毎日、心配でさ、かわいそうで、本当はもうやめてって言いたいんだよ。もうやめちゃおうって。だって、お金があったってさ、自分の大切な人を傷つけて得たお金なんて、女の人は欲しくないんだよ」
はー。なつはため息をついた。
「どうして、会社ってそういうところなの?」
「いや、会社がそういうところなわけじゃない。だって、会社が求めているのは純粋にただ利益なんだよ。別にその利益が血のにじむものでなくたっていいんだ」
「だから」
「ん?」
「そういうことが分かっている人がやればいいのよ」
「なにを?」
「あなたみたいな人がやればいいのよ、上に立って」
「……」
「中田さんの奥さん、泣いてあなたに感謝してたわよ。あなた、いつもちゃかして、自分は出世なんかしたくないって言うけど、ほんとうは人と競争して奪い合うことにどうしても興味が持てないのよね。だってあなたの欲しいものは肩書きじゃないんだもの。それはわかってる。でも、あなたは優しい人でしょ?あなたが上に立つことで、みんなが笑顔になるんなら、泣く人が減るなら、そういうことのためなら頑張れるんじゃないの?」
「なつ……。他のご主人がネクタイ結びながら鼻歌歌う代わりに、君のご主人が鼻歌歌えなくなったらどうするの?」
「あなた、そんなに弱くないわよ」
「嘘だ」
彼女はにっこり笑った。
「本当よ。あなたふざけて弱いふりしてるだけ。強いわよ」
参ったな、この人は。本当に。
「ねえ、なつ。別に僕が偉くなってばりばり仕事しなくたって、僕たちもう十分じゃない。今、幸せなのに、どうしてこれ以上がんばらなきゃだめなの?」
「ねえ、人ってさ。自分たちが幸せだったらそれでいいのかな?」
僕は何も言えなかった。いいんじゃない?とは。
「あのね、わたしたちって今までいろいろな場面でね、自分たちのことだけじゃなくてみんなの幸せを考えてくれる人たちに助けられて来たんじゃない?だって世の中の人全員が自分と家族さえ良ければいいって考えていたら、きっとうまくいかないと思うのよ」
「うん」
「だから、人に分けてあげられるくらい幸せになったら、大人はもうちょっと頑張んなきゃ。自分たちだけじゃなくてさ、みんなのために」
僕はしばらく黙った。
「君がそういうことをいうとさ」
「うん」
「君の言うことだけは僕は聞くじゃない」
「うん」
「……。本当にひどい人だね」
「でも、仕事ができるあなたってやっぱりかっこいいわよ」
ああ、もう……。
「初めて俺のこと、仕事ができるって言った」
「え、そうだっけ?」
「ずっと待ってたけど、なんでよりによって今日なの?」
「ずっと待ってたって……」
彼女は僕の顔を見直す。
「会社が評価してくれてるんだから、奥さんの評価なんていらないでしょ?」
わかってないな……
「あのね、男の子はお母さん。男の人は奥さんにほめられたいものなの。会社なんかどうでもいいの」
「そうなの?」
「どんなに頑張っても、一回もほめたことないだろ。今まで」
「……ないわね」
わかってないな。ほんとに。
「言えばよかったのに。ほめてって」
「あのさ、そういうのはやなんだよ。プライドが許さないの」
ふふふとなつは笑った。
「年は取ったけど、みんなのために責任果たしてる今がいちばん素敵よ。だから、頑張ってくださいよ」
「大変なときは君が支えてくれるの?」
彼女は笑った。昔から僕が好きな笑顔で。
「もちろん」
僕もずるいけれど、この人はときどき本当に僕よりずるい。