〜国東半島殺人事件〜
4部作の第3話。第4話の古代史の真相推理に続いていく古代の話が登場する。
大和太郎事件帳:第3話 《 豊後の火石 》−前編−
〜国東半島殺人事件〜
豊後の火石1
プロローグ;2006年 6月19日(月)
新潟脱出! 新潟県柏崎市米山付近の国道8号線・芭蕉が丘トンネル
伊勢正三 作詞・作曲の『なごり雪』が車内に流れている。女性ボーカリスト/イルカの
静かで甘みのある歌声が、ハンドルを握っている恵明の心を揺さぶっていた。
♪ 汽車を待つ君の横で ぼくは時計を気にしてる 季節外れの雪が降ってる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・ 落ちては融ける 雪を見ていた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
去年よりずっと綺麗になった 去年よりずっと綺麗になった♪
去り行くものへの郷愁と切なさが、次郎の心にも痛みとなって響いている。
長らく関係し、暮らしたこともある新潟を去っていく二人は、しみじみと、歌に聞き入っていた。
「今までの悪い事も、善い事も雪のように融けて、消えてくれればいいのに。過去は忘れてしまいたい。身も心も綺麗になりたい。そして、新しい人生を始めたい。」と思いながら・・・。
曲が終わって、李恵明が北山次郎に訊いた。
「次郎は映画『なごり雪』を観たことがある?」
「いや、ないけれど?」
「以前、埼玉県川口市にある映像産業拠点『スキップシティ』の映像ホールで無料の映画会があり、この映画を見たわ。毎年、夏休みなどに無料で映画会を行っているみたい。この曲を作った伊勢正三とか言う人の郷里が大分県津久見市ということで、大林宣彦監督が隣町の臼杵市を舞台に三浦友一を主演に物語を創作したみたい。ヒロインの思いが主人公に通じないところが、ちょうど、当時の次郎への私の思いが通じない事と同様だったため、思わず泣いてしまったわ。あの時は、切なかったわ。ねえ、これから大分県臼杵市で生活してみない?海が美しい町みたいよ。」と恵明が言った。
「俺はどこでもいいよ。」
「取り合えず、上越市の越後高田城跡近くにある父の所有になっている隠れマンションに行って、新しい名前を決めましょう。そこはKISSの人間も知らない、父だけのプライベートハウスよ。何か重大なことがあったらこの場所に行け、と父から教えられていた場所よ。父から預かっている鍵と住所書を持ってきたわ。私も住所名しか知らないから、地図で探しましょう。過去にK国が拉致したり、行方不明人を調査したりした、いろいろな人の戸籍、免許証などの資料がまとめてあるはずよ。それは、KISS要員がその人に成り代わるため情報収集した人たちの名前よ。その中にある名前の偽造免許証に私たちの写真をはめ込みましょう。書類偽造用の機器はそろっていると思うわ。」と恵明が言った。
「ああ、わかった。しかし、免許証は、その人の名前で、K国秘密諜報機関KISSの要員が正式に免許試験合格したものだから、免許番号と名前、本籍は正式のものだろう?」
「そうよ。だから、スピード違反でパトロールカーに捕まって、警察本部に無線で免許番号を紹介されても大丈夫よ。顔写真を確認されない限りはね。臼杵に着いたら、新しい名前で免許証を取り直すことが必要になるから、別の名前の戸籍謄本も探しましょう。」
「しかし、これからは真っ当な生活に入る予定だろう、恵明。」
「ええ、臼杵市で仕事をみつけて、穏やかな生活をしたいわ。出来れば子供の面倒を見る仕事がしたいわ。たくさんの子供たちを幸せにしてあげたい。それと、罪滅ぼしができれば、もっと、いいのだけれど・・・・。」と恵明が口ごもった。
「ああ。罪滅ぼしができればいいね。」と次郎も相槌を打った。
豊後の火石2
埼玉県東松山市、大和探偵事務所1;6月23日(金)
東京池袋から出ている東武東上線の東松山駅改札を出て西口階段をおりると正面に『大和探偵事務所 〜よろず相談、調査を安価でお請けいたします〜』の看板が目にはいる。
『事務所ココ→』と看板にかかれた矢印の方向にある3階建ての小さなビルの2階に、大和探偵事務所とかかれた小さなドアーがある。
事務机の上にある電話のベルが鳴った。と同時に、首から吊るしている携帯電話の呼び出し音楽も鳴った。
「おいおい、どっちの電話を先に取ればいいんだ。うーん。先ずは、お客様優先だから、事務机の電話に出るか。」と考えて、卓上の電話に出た。
「はい。大和探偵事務所でございます。」
「Hello. This is Steve Callahan speaking. Is this Taro Yamato’s office?」
(もしもし、スティーブですが、そちらは大和太郎の事務所ですか?)
アメリカに帰国したばかりのスティーブ・キャラハンからの電話であった。
スティーブと話ながら、携帯電話の液晶画面に出ている相手の名前を確認すると、学生時代からの友人である平山重夫からであった。スティーブを待たせて、平山には電話中だから後で掛けなおすと断ってから、スティーブと話を続けた。
「無事の帰国おめでとう。スティーブ」と太郎が言った。
「太郎、今回のテロ防止活動への手助けありがとう。大いに感謝しているよ。ところで、CIAの太郎に対する評価はAAA(最上)になったぜ。仕事前はBBB(中)だったから、大出世だ。 また、仕事の依頼が来るかもしれないぜ。」とスティーブが言った。
「ありがとう。ところで、山形三郎という人物を知っているかい、スティーブ。」
「どういう事かな?」とスティーブが訊き返した。
「俺の推理では、山形三郎はCIA要員であり、かつ日系三世で日本に親戚がいるはずだ。こどもの頃、何年か日本で暮らしていないとあそこまで流暢に日本語は話せないはずだ。スティーブは日本に来る前、CIAとの打ち合わせで、俺に協力させようとCIAに俺を紹介した。俺の実力調査を兼ね、大沢和彦の身上調査を通じて、弟の大沢弁護士に俺を近づける計画をCIAは発案した。たぶん、CIAは?マシンテックを見つけてマークしはじめたところであった。そこへ、大沢弁護士が賠償問題で?マシンテックに現れた。彼から内部情報入手を試みるために、兄の和彦が仕事を探していることを利用して、日本政府に働きかけて、元勤めていた銀行から推薦をもらう形で大沢氏を雇用し、俺を大沢家へ近づけようとした。しかし、大沢弁護士が拉致され、殺されたのでどうしようかと迷ったが、俺が山形三郎に調査報告電話した時に殺人の継続調査を依頼することを思いついた。おかしいいと思ったぜ、その時は。普通なら、大沢和彦の辞退をうけて、新しい人物の再調査を依頼するはずなのに、『気に入っているから、もう少し待ちます。殺人犯人がみつかればボーナスを出します。調査してください。』なんて山形三郎が言ったのだからな。俺も、探偵根性が頭をもたげたものだから、その気になったけれどな。まんまとCIAとスティーブの狙いに乗ってしまったところが、俺としてはチョッピリ悔しいだけだ。どうだい、おれの推理はあたっているかな?」と太郎が訊いた。
「太郎は俺が見込んだとおりの人物だ。俺の目に狂いはなかった、とだけ答えておこう。俺の口から回答を言う訳にはいかない。顧客のCIAに対する守秘義務があるからな。分かってくれ、太郎。」
「いや、スティーブを責めるつもりで言ったのではない。事実を知りたいと思っただけだ。面白い仕事を紹介してもらって、本当に感謝しているよ、スティーブには。又、機会があったら、一緒に仕事をしたいと思っている。いいコンビだと思うぜ、俺たちは。」と太郎が言った。
「ああそうだな、同感だ。又、一緒に仕事をしようぜ。とりあえず、お礼を言うよ。」と言ってスティーブは電話を切った。
依頼;埼玉県東松山市、大和探偵事務所2;6月23日(金)
スティーブとの電話を終えて、平山重夫に電話を掛けた。
平山は、京都のD大学時代からの友人である。太郎は神学部神学科の学生であったが、平山は工学部機械工学科であった。知り合った経緯は、神学科の同期女性から誘われ、D大学の軽音楽部定期演奏会のチケットを購入したのがきっかけであった。演奏会の後で平山を紹介され、友人として付き合うようになった。平山は軽音楽部ではジャズのベースギターのパートを受け持っていた。現在でもジャズ喫茶やレストランの生演奏のアルバイトをジャズ仲間としている。お金を稼ぐのが目的ではないので、アルバイトというより趣味で演奏しているといったほうが適している。その女性と平山は結婚して、現在に至っている。大学卒業後、平山はK大学医学部を受験し直し、現在は精神科医として、福岡県春日市に住み、大きな病院の精神科の医師をしている。元々、九州博多の出身であるので、地元に帰って仕事をしていると云うことである。
年に一回は精神科の学会に出席するため、東京に出て来る。そのとき、飲みながら食事をするのが常であった。
「やあ、電話ありがとう。また、学会で東京に出てくるのかな?」と太郎が訊いた。
「いや、今回は違う。俺の患者が失踪したんだ。どうも奈良県方面にいるのではないかと、ご家族が心配している。その人は大分県にあるB大学文学部史学科の教授だ。住居は別府市にあるのだが、世間体もあって、福岡県春日市の俺の勤めている病院に週に2回通っていた。入院するほどの症状ではなく、軽いうつ病だった。投薬治療を行っていたところだ。まだ、警察に捜索依頼は出していない。家族が心配して俺に相談してきたのだが、太郎は奈良県出身だったから土地勘があると思って電話した。どうだろう、探してもらえないだろうか?」
「現在、ひとつの仕事が終わって、依頼待ちの状態だから、いつでもOKだ。詳しいことを聴きに、九州を訪問するよ。久しぶりに食事でもしようぜ。」
「OK。じゃ、教授のご家族のスケジュールを確認して再度連絡するよ。」と平山が言って電話を切った。
「しかし、同時に遠方の友人ふたりからの電話だとは、驚いたな。『友あり、遠方より来る、また、楽しからずや。おやまあ!』おまけに、仕事も付いてくるとは。雪でも降るかな?春先の雪なら『なごり雪』だが、今は夏だから、『びっくり雪』かな?しかし、九州に行くのは、高校時代の修学旅行以来だな。」と訳の分からない事を考えながら、今後の行動計画を思い描いている大和太郎であった。
豊後の火石3
越後高田城址のお堀端;2006年6月25日(日)午前8時30分頃
越後高田城址公園の池堀にはたくさんの蓮の花が咲いている。蓮を見ながら、二人はベンチに座って話をしている。
「ここに来てから7日目になるが、監視されている雰囲気はないな。恵明は何か気づいた事があるかい?」と次郎が恵明に訊いた。
「私もないわ。尾行も、監視もされている気配はないわ。大丈夫ね。新しい名前で呼び合う練習をもう少ししないといけないけれどね。」と恵明が返事した。
「それでは、荷物などを整理して、明日、出発しようか?」と次郎が言った。
「いよいよ、本当に新潟ともお別れね。」と恵明が涙ぐんだ。
豊後の火石4
大分空港到着ロビー;6月25日(日)午後1時ころ
大分空港は、国東半島にある国東市の海を埋め立てて造られている。
別府市街からは30Kmくらい離れているが、大分空港道路、日出バイパス、大分自動車道と乗り継いで30分あれば、別府市街に着ける。
「やあ、久しぶり。」と平山重夫が大和太郎を迎えた。
「昼食は済ませたか?」と太郎が訊いた。
「いや、まだだ。空港内のレストランで軽く食事してから、俺の車で別府市内の依頼人の家に行こう。」
「約束の時間は?」
「3時ころと言ってあるから、時間は充分ある。午前中に一度訪問してから、空港に来たから道順も分かっている。」
「福岡からここまでは、だいぶ時間がかかっただろう?疲れていないか?」
「いや、大宰府インターから高速道路に乗って1時間半くらいで別府インターに到着できるから、楽なものだ。学生時代、京都の途中越えから琵琶湖への夜路をバイクの二人乗りで飛ばした頃の事思えば、どうと言うことはない。今でも、元気なものさ。」
別府市扇山のB大学教授、曽我健三宅;6月25日(日)午後3時ころ
曽我健三の自宅は、大分自動車道の別府インターを降りて車で5分くらいの扇山団地にある。平山の勤める福岡県春日市にある病院へは自家用車で通院していたらしい。もちろん、B大学にも車で通勤している。年齢53歳、文学部史学科の教授である。妻の和江と娘一人、息子一人の4人暮らしをしている。二人のこどもはすでに就職しており、大分市内の企業に通勤している。
妻和江は、週3回、別府市内の病院事務のパートタイムで午前中だけ外出する。
「今年の3月下旬に京都の国際会議場であった日本古代史学会の発表から帰宅してから、時々、ふさぎ込むように成りました。それで、4月から平山先生に診てもらいましたところ、軽いノイローゼとの事で、お薬を毎日2回飲むようになってからは、元気を取り戻すことが多くなりました。大学への主人の送り迎えや平山先生の病院へ行くときは、私が車を運転していました。大学には私が事情をお話し、授業は助教授の神山先生と交互に行っていただき、何かあった場合に備えていただきました。神山助教授は主人の講義内容にも目を配って頂いておりましたので、現在、大学の講義は神山先生にお任せしております。主人が失踪したのが、6月10日です。6月15日に奈良の大和高田市に住む親戚に問合わせたところ、6月11日に突然訪問して来た、との事でした。その後の行き先は不明です。」と和江が説明した。
「奈良へ行った目的はご存知ですか?」と太郎が訊いた。
「主人の学会での論文発表の内容が東大寺建立に関係したものだったようです。これが、その発表原稿のコピーです。失踪と何か関連があるでしょうか?」と和江が太郎に書類を渡した。
「『奈良東大寺修二会と国東半島天念寺修正鬼会の関係についての研究』ですか?天念寺というのは何処にあるのでしょうか、ご存知ですか?」と原稿のコピーを見ながら太郎が訊いた。
「国東半島の豊後高田市にあります。大分県では有名です。」と和江が言った。
「学会の模様を訊ける方をご存知ですか?」と太郎が訊いた。
「神山助教授が学会に同行されていたらしいです。」と和江が言った。
「私がコーチング療法で曽我教授と会話したとき、京都にいるノンフィクション作家からの質問にショックを受けた事を話されていましたね。作家の名前は忘れましたが。以前から研究に関して、ある種のストレスはあったようですが、この時のショックが教授のうつ病の直接原因と判断しました。症状は軽いので投薬療法で時間経過とともに回復するはずです。」と平山が和江と太郎に説明した。
「とりあえず、神山教授と大和高田市のご親戚の連絡先を教えてください。あと、天念寺の場所も教えてください。それと、教授の顔が判る写真を3枚拝借したいのですが。調査料は当面の活動実費として25万円頂きます。あとは成功報酬と云うことでいかがでしょう。」と太郎が言った。
「結構でございます。銀行振り込みでよろしいでしょうか?」と和江が言った。
※ 修二会、修正会はお寺で行われる「無病息災」や「五穀豊穣」などを願う法要である。修二会は旧暦の2月、修正会は旧暦の正月に行われる行事である。奈良東大寺の場合は「十一面悔過」ともよばれ、十一面観音に向かって懺悔をささげ、悪霊退散を願う事により「万民快楽」の実現を発願するものであるらしい。国東半島天念寺の場合、目的は同じであるが、悪霊(鬼)を追い払うのではなく、鬼に姿を変えたご先祖に悪霊を追い払ってもらい、先祖と楽しく一夜を過ごすと云う意味合いがあるらしい。いずれも大きな松明を振り回して悪霊退散を願う行為が付随している。東大寺の場合は水天、火天の二人が松明を振るうが、天念寺の場合は赤鬼と黒鬼が松明を扱う。東大寺の場合は「お水取り」として知られている。東大寺の場合、過去帳を読み上げる行為によって先祖を呼び出す行為も付随している。
日出町(国東半島入り口)のホテルロイヤル内レストラン;6月25日(日)午後6時
海の見えるホテルのレストランで平山と太郎は食事をしながら話している。
「教授の奥様には言わなかったが、曽我教授に渡してある薬がそろそろ無くなる頃だ。」と医師の平山が言った。
「薬が切れるとうつの症状が出てくるのか。」と太郎が訊いた。
「病状は回復してきているので以前ほどではないと思うが、うつの状態にはなる。食欲がなくなったり、注意力が散漫になる。また、食事を取らないと体に力が出なくなって、ふらついてくるので道路などを歩いていて車に撥ねられる可能性がある。回復が進んでいればいいのだが、ちょっと心配だ。ただ市販の精神安定剤でも購入して飲んでいれば、うつの程度は軽減されるのだが。どこかで、処方箋薬局でも見つけて薬袋を見せれば、俺の病院に電話が掛かってくるのだが。」
「とにかく、早く見つけないといけないな。そろそろ、警察への捜索願いも出したほうがいいな。」
「どこかの知り合いのところにでもいればいいのだが。」と平山も心配そうに言った。
「しかし、奈良県大和高田市の親戚に現れていると云うことは、誘拐ではなさそうだから、失踪の目的は何か、と云う事になるのだが?連絡がないと云う事は、本人の意思で身を隠している可能性がある。うつ症状で連絡電話する意欲がないか、事故で記憶喪失になっていると云う事も考えられるか。」と太郎が言った。
「ところで、今日はこのホテルに泊まるが、明日は神山助教授にインタビューをしてから天念寺などを見てくる。この学会発表文の内容を読むと、八幡大神を祭る宇佐神宮も関係しているようだからそちらも回る予定だ。ホテルに頼んでレンタカーを申し込む事にするよ。」
「俺は明日、仕事だからこの食事を終えたら、今日は自宅に戻る。九州を去る前に時間があれば連絡をくれ。福岡でもう一度、食事でもしようぜ。今度は飲みながら話そう。」
「ああ、わかった。奥さんにもよろしく。」
豊後の化石5
天念寺殺人事件;豊後高田市長岩屋 天念寺近くの文化伝承施設「鬼会の里」 6月26日(月)正午
太郎がレンタカー「カローラ」のナビに従って天念寺に着くと、数台のパトロールカーや乗用車、大勢の人が道路を塞いでいた。とりあえず、道路に車を止めた。
「何があったのですか?」と太郎が歩行者に訊いた。
「男の人が殺されていたみたいですね。警察が現場検証しているようです。」
太郎はすぐ近くに見えた長岩屋川沿いの駐車場に車を移動させた。ポツンと離れたところに1台だけ止まっている車の隣に自分の車を止めた。その乗用車のガラス窓が半分開いていて、ドアーロックも解除されている。
「無用心な人だな。」と思いながら、カローラから降りて、その車の中をのぞいた。
『第○○回 日本古代史学会 研究発表論文予稿集 於;京都国際会議場』と書かれた表紙の小冊子が助手席に置かれているのが目に留まった。
「京都ナンバーの車か。京都の人が観光に来ているのかな。しかし、学会論文ということは、古代史の研究家だろうか?ちょっと会って話してみようかな。」と太郎は考え、警察官と思しき人を除いて、10人くらいいる見物人の方を見た。
「観光客らしい人は3人くらいだな、あとは地元の人か。」と思いながら見物人に近づいて声をかけた。
「京都ナンバーの乗用車でこられている方。車のドアーと窓が開いていますよ。」と大きな声で呼びかけた。しかし、全員が振り向いたが、名乗り出る人はいなかった。
「あのー、すいません。今大声で叫ばれた方。どちらですか?」と白い手袋をした刑事と思しき人が、立ち入り禁止のロープの内側から叫んだ。
「私です。」と太郎が手を上げて答えた。
「京都ナンバーの車は何処でしょうか?高田署の棚橋といいます。」と刑事が警察手帳を見せながら言った。
「あちらの駐車場です。案内します。」と太郎が刑事を案内した。
棚橋刑事が車のドアーを開けて、ダッシュボード下の物入れの中や、小冊子をパラパラとめくったり、車検証を調べたりしている。太郎も刑事の後ろから車検証を覗いて見た。
京都市上京区寺町今出川上ル西入ル○○○町 立木源次郎 の文字が目に入った。
「この刑事は被害者の持っていた運転免許証から京都の人物であるとわかっていたな。」と考えながら、太郎はこの名前と住所をすばやく手帳にメモした。
「きょうの朝、神山助教授が言っていた、立木源幽というノンフィクション作家と関係があるかな?学会で曽我教授を追い詰める質問をしたという人物と同じ苗字だが。」と太郎は考えていた。
「はーい。この車に触らないようにしてください。皆さん下がってください。」と棚橋刑事が見物人に向かって言った。
「鑑識さん。こっちの車の指紋検出をお願いします。」と大声で叫んだ。
「横の車はあなたの車ですか?別の場所に移動してください。」と棚橋刑事が太郎に言った。
太郎はカローラを移動させてから立木の車のところに戻って、棚橋刑事に質問した。
「刑事さん、被害者はこの車の持ち主ですね。」
「ん?あなたはこの車の持ち主を知っているのですか?」
「ええ、私が探している人物の知人と同じ名前です。京都に住んでいます。」と太郎は、いかにも知っているそぶりをした。
「立木という人はどう謂う人ですか?」と棚橋刑事が訊いた。
「古代歴史に関するノンフィクション作家です。歴史雑誌などによく記事などが載っていますよ。新しい視点から歴史的事実を推理することを得意としている作家です。」と太郎は神山助教授から聞いた内容を話した。
「失礼ですが、あなたのお名前は?どちらからお越しですか?お探しの人物とは誰ですか?」と棚橋刑事が立て続けに訊いた。
「埼玉県東松山市から来た大和太郎と申します。B大学の曽我教授を探しています。」
「ああ、曽我教授ですか。教授を探しているとはどう云うことですか?別府市のご自宅にはいらっしゃらないのですか?私も教授のことはよく知っていますよ。交番の巡査をしていた時に、古代遺跡の調査などで交通整理をやりましたから。その時いろいろと歴史のことを教わりました。あとで豊後高田署に来ていただけないでしょうか?大和さんとか謂いましたっけ。」と棚橋刑事が言った。
「いいですよ。このあと宇佐神宮にお参りしますので、そのあとに夕方にお寄りします。」と太郎は、「しめしめ」と思いながら答えた。
「しかし、頭の斬れそうな刑事だな、棚橋とか謂ったな。」と太郎は思った。
豊後の火石6
宇佐神宮の参拝者駐車場近くのみやげ物店『かした旅館』;6月26日(月)午後5時ころ
「いや、神社の境内が広くて、いろいろと巡るのに思ったより時間が掛かったな。朝から食事をしていないからどこかで食事をしよう。」と太郎は思いながら、食事処『かした旅館』とかかれたガラスドアーを開けて中に入った。
「天ざるそばの大盛をください。」と太郎は注文した。
「承知しました。」と女店主が返事して、板前に注文を繰り返した。
「こちらは旅館もやっているのですか?」と太郎が訊いた。
「ええ、お泊りですか?」女店主が訊き返した。
「今晩、一泊できますか?」
「ええ、大丈夫です。お部屋は2階になります。お車でしたら、裏に駐車場があります。」
「これから、豊後高田市の警察行って来ますので夕食は結構ですが、朝食だけお願いできますか?」
「わかりました。お戻りの時間は分かりますか?」
「8時頃には戻れると思いますが、話の内容が長くなる様でしたら電話します。こちらの電話番号を後で教えてください。」
「食事のあとレシートをお渡しします。そのレシートに電話番号が書いてありますので、その番号にお願いします。ところで、豊後高田市の警察へ行かれるとのことですが、今日、天念寺と云う所で殺人事件があったんですよ。その件で警察に行かれるのですか?」
「ええ、そうです。よくご存知ですね。」
「いえね。私の母はこの旅館の女将をしているのですが、たまたま車で通りかっかって、現場を見物してきたんですよ。母の話では、一昨日の泊り客の方が被害者らしいのです。いえね、お泊りのお客様の自動車が京都ナンバーで、その車を警察が調べていたらしいのです。」
「そのお客の名前は、立木という名前でしたか?」
「ええ、そうです。お客さんもご覧になったんですね、天念寺の現場を。お客さんは新聞記者さんですか?」
「いえ、記者じゃありません。探偵です。その客と何か話でもされましたか。」
「宿泊代のお支払いのときに、私がこれからどちらに?と訊きましたら、『イカロスの羽を探しにいきます』といわれました。イカロスというのは、なんでもギリシャ神話に出てくるひとの名前らしいですね。大分でギリシャ神話なんて聞いたことがないと申し上げたら、『たとえ話ですよ、あっははは。』と笑われましたね。」
「『イカロスの羽』と言ったのですね?『イカロスの翼』とは言わなかったですか?」
「いえ、『羽』だったですよ。私が冗談で『孔雀の羽』ならうちの床の間にかざってありますと言ったら、笑われましたから、よく覚えています。」
豊後の化石7
大分県警豊後高田警察署;6月26日(月)午後6時30分ころ
太郎は、入り口に『天念寺・川中不動前殺人事件捜査本部』と書かれたドアーを開けて中に入り、棚橋刑事を呼んでもらった。棚橋刑事ともう一人の若い刑事が現れ、応接室に通された。
「ご足労おかけします。」と棚橋刑事がいった。
「で、御用向きは?」と太郎が訊いた。
「先ず、運転免許証で身元確認させてください。」
太郎が免許証を棚橋に渡した。
「埼玉県東松山市・・・この字は何と読みますか?」
「『やきゅうちょう』です。箭弓町二丁目です。近くに有名な箭弓神社があります。江戸時代には歌舞伎役者の7代目市川団十郎もお参りした由緒ある神社です。」と太郎は、地元の観光PRをした。
「そうですか。本籍は奈良県ですか。」
「ええ、そうです。」
「で、お仕事は?」と棚橋刑事が訊いた。
「もう、お調べになったのではありませんか?」と太郎がやや憮然として言った。
「どうして、そう思われるのですか?」と棚橋が訊いた。
「天念寺の駐車場で、私に立木の車検証を見えるようにわざわざ車外まで持ち出し、私に背を向けて読ませてくれましたよね。よして、車の持ち主を確認させた後に、『持ち主を知っているか?』と私にたずねた。『もし、知らないといえば、それでよし。知っているといえば、重要参考人がひとり見つかったことになる』と考えましたね。」と太郎が問い詰めた。
「はっはっは。これでは、どちらが刑事かわかりませんね、大和さん。あなたが被害者のことを知りたそうにしていたので、ちょっと様子を見ただけです。駐車場で曽我教授を捜していると言われたので、もしかしたら私立探偵かと考え、埼玉県警の東松山警察に問合わせてみました。林刑事が電話でいろいろとあなたの事を教えてくれました。事件解決への貢献実績がすごいですね。いや、敬服いたしました。」と棚橋が言った。
「よろしければ、死因を教えていただけませんか?」
「解剖所見はまだですが、我々は、後頭部を撲打されて長岩屋川に倒れこみ、意識不明のままでの水中窒息死と見ています。石仏の前で何かをしていて事件に遭ったと思われます。頭部の毛髪や衣服に焼け焦げた部分がありますが、原因は不明です。我々が現場検証した時点で、死後8時間以上は経っていたでしょう。殺害現場が遺体の発見場所とすれば、真夜中に川中不動の石仏の前で何を行なっていたのでしょうかね?財布の中に現金8万円とクレジットカードが残っていましたから、単なる物取りの犯行ではないようです。まだ、今後の捜査がどのような展開になるかは判りません。ところで、立木源次郎と曽我教授の関係をお訊ねしたいのですが?」
「なぜ、曽我教授と立木が関係していると思うのですか?」と太郎が訊いた。
「曽我教授を捜している貴方が立木に興味を示していれば、関係ありと推察するのが当然でしょう。」
「なるほど、そうですね。今年3月の日本古代史学会で立木が教授の発表に対して質問をし、教授を困らせたみたいです。それが原因で教授が軽いうつ病になり、失踪した。といったところです。失踪の原因はうつ病とは限りませんが。」
「なるほど。それで、立木の車内に学会の予稿集があったのですね。」
「その予稿集を見せていただけませんか?」
「それはできません、証拠物ですから。何故、論文を見たいのですか?」
「教授の論文の中に、立木が文章のどこかに傍線でマーク(印)をつけていないかと思いまして。」
「さすがですね、大和さん。推理が冴えていますね。『仁聞菩薩』の文字に傍線が入っていました。それと、『焼き仏』の文字にも傍線が入っていましたね。」
「仁聞菩薩?焼き仏?それは何ですか?」と太郎が訊いた。
「仁聞菩薩は宇佐神宮の神様の成り代わりで、国東半島の六郷満山文化の創始者といわれています。素性や出自ははっきりしない様です。天念寺を始めとして、国東半島一体で修行を行なったらしいです。鎌倉時代、豊後高田市にある西叡山の中腹にあった天台宗高山寺が繁栄し、比叡山延暦寺がその影響力低下を心配して、隠密の尼僧を派遣した。この尼(比丘尼)が高山寺に火を放ち、そのために燃えた木彫の観音像のことでしょう。焼け残った仏像が何体かこの地方に保存されています。風の強い日に火を点けた為、周辺の村里も三日三晩燃え続けたらしいです。焼けた仏像が風に乗って空を飛んで来たと云う民話伝説があります。高山寺は江戸時代に燃えたという説もありますが、真実は良くわかっていません。」と棚橋刑事が説明した。
「私が泊まる予定の宇佐神宮参道前『かした旅館』に、一昨日、立木が泊まっていたようです。そのときに、立木は『イカロスの羽』を探しに行くと言っていたようです。」
「ギリシャ神話の『イカロスの翼』のことでしょうかね?太陽に向かって上昇し、太陽の火熱のため蝋が溶けて、蝋で固めた翼の羽が飛び散り、イカロスが海に落ちたと謂う話でしょう?焼き仏と関係があるのかどうか?」と太郎に言ったあと、棚橋刑事が考え込んだ。
「じゃ、よろしければ私はこれで失礼します。明日は大分空港から大阪の伊丹空港に飛び、レンタカーで奈良へ教授を探しに行きます。用事があれば、私の携帯に電話ください。」と太郎は言って、高田署を後にした。
「もう一度、教授の家族からもらった発表論文のコピーを読み直して、国東半島や宇佐神宮関連の古代史を勉強しないといけないな。それと、立木源幽の著作物を調べる必要もあるな。」と考えながら、太郎は『かした旅館』に向けて車を走らせた。
太郎が帰った後、棚橋刑事はこれからの捜査活動の事を考えていた。
「大和太郎の頭と行動力を利用しないとこの事件の解決は難しいかも知れないな。俺は警察組織の足かせの為に自由な捜査活動はできない。しかし、大和は自由に活動できる。京都府警や他の県警に協力を依頼しても、依頼した内容の情報入手だけになる。これでは新しい発見はできない。立木源次郎の過去の行動調査は大和太郎の活動に依存するしかないな。奴にどう情報を提示するかがキーポイントになるな。取り合えず、俺たち豊後高田署は曽我教授の周辺を洗い出すこと、目撃証言の探査に重点を置こう。あとは、京都府警からの立木に関する調査報告をみてから行動を考えよう。」
※比丘尼;放浪、遊行している女僧侶。半分俗世、半分僧侶の尼。
豊後の火石8
福井県敦賀市の気比神宮近辺;6月26日(月)午後4時頃
午前8時頃に上越市の越後高田を出発した恵明と次郎は黒のワンボックス車で一般道の国道8号線を下って来た。敦賀バイパスには入らず、敦賀市街に入る道を選択し気比神宮前の交差点に近づいていた。
「今日は、夕食のあと、敦賀市内のラブホテルに泊まろうか。サングラスと野球帽で顔を隠していても怪しまれないからな。万一、指名手配されていたら危険だから。」と次郎が言った。
「次郎、スピードを落として。信号待ちをしている男がふらついているわ、轢き殺さないでね。酔っ払いね、昼間から。いやね。」と恵明が言った。
「おいおい。倒れこんだぞ。頭を打たなかったかな?大丈夫かな。おおっと、信号が赤になった。」
「大丈夫かしら?ちょっと様子をみてくるわ。」といって助手席の恵明が車を降りた。
「父親に似て、恵明は面倒見のいい性格があるから、深入りしなければいいのだが。」と心配しながら、信号が青になるのを待って、次郎は車を交差点で左折させ、歩道寄りの路肩に車を移動させた。
恵明は、リュックサックを背負った中年男性を起こしながら言った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。ちょっとふら付いただけです。」と弱弱しく、中年男性が言った。
「お酒の匂いはしないけれど、酔っ払っていますか?元気がない様ですが。」と恵明が訊いた。
「いえ、ちょっと疲れただけです。すぐ回復しますから、お構いなく。」
「自宅までお送りしましょうか?私たち、車ですから。」
「いえ、自宅は九州の大分県ですから、結構です。」
「では、どこかのホテルにお泊りですか?」
「まだ、宿は決まっていません。これから探すところです。」
男性の自宅が大分県と聞いた恵明はこれから行く大分県臼杵市のことを思い、この男性に興味が湧いていた。
「とにかく、このままにしておく訳には行きませんので、病院にでもお連れしますわ。」と言って、やや強制的に男性を車にのせた。男も疲れのせいか、さほど抵抗もせず、車に乗った。
「申し訳ないですが、どこか薬局に連れて行ってもらえませんか?」と男性が運転中の次郎に言った。
「判りました。私たちも地元の人間ではないですが、探してみましょう。」と次郎が言った。
繁華街の入り口付近で車を止め、衣料品店の従業員から薬局の所在を聞きだし、恵明が中年男性を薬局に連れて行った。
恵明は薬局でホテル・旅館のある場所を聞き、気比の松原近くにある小さな旅館『旅荘立石』に3人で宿泊することにした。薬局で購入した薬を飲んだ中年男性も2時間くらい後には少し元気を取り戻していた。
3人別々の部屋を取った後、旅館での夕食時にお互いの自己紹介した。
中年の男性は大分県別府市の曽我健三と名乗った。B大学教授であり古代史研究のため、気比神宮を参拝訪問した帰りに倒れたと話した。明日は石川県白山市の白山比め(しらやまひめ)神社を参拝訪問する予定であることも話した。
次郎と恵明は新しい名前で、新潟県の山上清と太田秀美と名乗った。
この食事の時、曽我教授は山上、太田と名乗る二人に白山比め神社への同行を依頼した。体調の不安から列車による移動より、車での移動の方が安全と思ったのであろう。
山上(次郎)と太田(恵明)は急ぐ旅ではないのと、大分県臼杵市で生活する時のため、曽我教授と懇意になっていれば何かと便利であろうと判断し、石川県白山市への同行を了承した。
※以後、本小説では北山次郎は山上清、李恵明は太田秀美として登場する。
豊後の火石9
石川県白山市三宮町の白山比め(しらやまひめ)神社境内;6月27日(火)午後1時頃
加賀一宮の白山比?神社は奈良時代(718年)に泰澄大師が白山山頂に奥宮を開いたのが創建とする人もいるが、社伝では、もっと以前の崇神天皇の時代(崇神7年、2090年前)に北陸鉄道『加賀一宮駅』の裏手にある手取川沿い(安久涛ヶ淵)に白山崇拝所(遥拝殿)を設けたのが始まりとされている。泰澄がこの淵で修行しているとき、白馬に乗った女性が現れ、その指示に従って白山山頂で修行した時に十一面観音(白山神社本地仏)が現れ、これを当時の天皇に報告し、翌年に天皇の命により奥宮が創建されたらしい。何ゆえに、崇神天皇が白山の遥拝を行なったのかは不明である。現在の本殿鎮座地は山の手(三宮町)にあるが、初めの頃は、加賀一宮駅の裏手にあったらしい。1480年の大火の後、摂社のあった三宮の地に遷座されたらしい。この地(一宮)から祭祀に使用したと思われる素焼の小皿が多数出土している。平安時代末期には舟岡城が出来、後年には舟岡城の一部になったと考えられており、古宮公園(親水公園)とも呼ばれ、以前は鶴来町が管理していた。公園内には小さな水戸神社があり、イザ那岐、イザ那美の子供である速秋津比子、速秋津比売の二柱の神様が水門の神として祭られている。舟岡と呼ばれるのは、この地の東側にある獅子吼高原から眺めると手取川に浮かぶ船の形をした浮島のように見えるかららしい。白山比め神社の祭神は菊理媛大神、イザ那岐大神、イザ那美大神である。日本書紀には、菊理媛大神はイザ那岐命が黄泉の国に入ったイザ那美命を追いかけた時にふたりの言い分を聞き、喧嘩の仲裁をした神様であると書かれているだけらしい。この故事から菊理媛をキクリヒメと読む人もいる。また、イザ那岐がイザ那美の放った悪霊に追いかけられて黄泉の国から逃げるとき、イザ那岐に何かアドバイスした神様であるとも書かれているらしい。それ以上の詳細ははっきりしないらしい。
地球の白山神界の日本支部であるとする霊能者もいる。この霊能者曰く、全国八幡神社の総元締の宇佐神宮は白山神界に属しているらしい。江戸時代の『本朝怪談故事』という文献に「按ずるに、宇佐縁起には白山は八幡大菩薩也」と書いてあるらしい。これは、著者の厚誉春鶯が宇佐託宣集の中にある比め大神が宇佐神宮の奥宮のある御許山に現れたという話から推測したのではないかと思われる。この著書は日本の神社に関する奇談・奇説を取り上げ、和漢の文献を引用して自身の意見を加えた書物で、著者を現代風にいえば、推理ノンフィクション作家であったらしい。また、大和国来迎寺の僧侶でもあったらしい。ちなみに、現在の鎮座地で白山祭殿(本殿)のある白山市三宮町(旧鶴来町)の隣に八幡町がある。八幡町には獅子吼高原に登るゴンドラ乗り場がある。獅子頭の製作はこの地方の伝統との事である。
「教授のご祈祷が終わるまで、この近辺を散策してきます。1時30分頃ここに戻ってきます。」と山上清が曽我教授に言った。
「申し訳ありません。ご一緒にご祈祷を受けてはどうですか?」と教授が山上と太田秀美にもう一度訊いた。
「いえ、遠慮しておきます。あまり、神道には馴染んでいませんから。」と太田秀美が言った。
神社の境内を散策しながら、山上清は子供の頃、家族でよくお参りした会津高田市の伊佐須美神社のことを思い出していた。
「これからは名前を変えて生きていかなければならない。北山次郎の名前に未練はない。故郷の思い出も忘れてしまわなければいけない。会津の親戚には迷惑はかけられない。さらば、北山次郎。」と種々の想いが山上清の頭をよぎり、新しい人生に対する心構えと覚悟を自分自身に言い聞かせていた。
神社近辺の散策を終えて、約束の時刻に境内に戻ってきた。
数人の人が集まっている場所に近寄った。
「清。あの人、何をしているのかしら?」と太田秀美が訊いた。
山上は白山奥宮の遥拝所の前で正座し、相対している二人の方を見た。
ひとりは神主装束の男性。もうひとりは白装束の女性である。
「さあ、判らないな。何か神業をしているのだろうが知らない。」と清が言った。
すると、二人の後ろから声がした。
「鎮魂帰神法という神術だよ。」と、祈祷を受けて戻って来た曽我教授が言った。
「青森恐山の『いたこ』の話を聞いたことはありますか。それに似ているのだが、神主装束の人が、白装束の女性に神懸かりを行なっているのです。こんな場所で行なうのは珍しいね。神懸かった女性が何を喋るか、興味があるね。白山の大神が出てくるとは思えないが、奥宮遥拝所だからそれなりの話が聞けるかもしれないね。狸が憑く場合もあるらしいがね。狸といっても人の化身だがね。審神といって、術を施している神主装束の人は、相手に懸かった神が本物かを判断できる能力が必要になる。施術している審神者の判断能力が不十分であると、嘘を聞く事になるので注意が必要である。しかし、昼間のアウトドアーで行なうとは異例ですな。精神統一が必要な業だから夜の密室で行なうのが通例です。成功するのか疑わしいですな。単なるパフォーマンスに終わるのではないでしょうか。」と教授が説明した。
「へえ、そんな事ができるのですか。」と山上が驚いたように言った。
男性の方が唄を歌ったり、笛を吹いたりしていたが、やはり、教授が言ったように直ぐには神懸りは起きなかった。そうこうしている内に、神社の管理者と思われる人が現れて、二人の業は中止させられた。どうも、無許可で行なっていたようである。教授が言ったように、単なるパフォーマンスを目的としていた節がある。
「このあと、滋賀県経由で京都まで送ってもらえないでしょうか?そこで、お二人とはお別れいたします。」と、見物人が居なくなってから曽我教授が山上と太田に言った。
「大丈夫ですか、お体の具合は。京都のあと、九州までお送りしますけど。どうせ、大分県の臼杵市まで行く予定ですから、別府市は通過点です。遠慮はいりませんよ。」と山上が言った。
「いや、昨夜の旅館での食事の時や、ここに来るまでの車内でのお二人の話を聞いて元気が出てきました。お二人の夢や決心を聞いて、若いときの事を思い出して、元気が甦ったみたいです。日本書紀の中で、黄泉の国から現世に逃げ帰ってくるイザ那岐の命と同じで、文字通り『よみがえり(黄泉帰り)』と成ったみたいです。それと、白山比め神社の神様は菊理媛大神と云うのですが、人間の肉体と魂をくくり着け、結び付けるお役目をされる神様です。ですから、精神的に弱っていた私には肉体と魂の結びつきが弱く成っていたのです。それを、ご祈祷で直していただくように『よみがえり(黄泉帰り)のお手伝いについて』菊理媛の神様にお願いしましたから、もう大丈夫です。奈良の親戚にも寄りたいので京都でお別れしましょう。九州に着たら別府の自宅にも来てください。」と教授は自身満々で二人に言った。
「それは良かった。それでは、このまま滋賀県経由で京都に向かいましょう。」と太田秀美が言った。
「その前に、加賀一ノ宮駅裏の『安久涛ヶ淵』を見ておきたいので、ちょっと寄っていただけますか?」と曽我教授が言った。
「はい、わかりました。」と山上清が言った。
古宮(親水)公園前駐車場 ;6月27日(火)午後2時ころ
北陸鉄道「加賀一ノ宮」駅から50メートルくらい北に行ったところの踏切りを渡ると小さな駐車場がある。この駐車場の前の親水公園入り口には小山良左衛門と枝権兵衛の紀功碑が建っている。この二人は江戸時代末期、安久涛ヶ淵の岩盤を掘って稲作用に手取川7ヶ用水の水門を建設する為の資金調達に大きな功績を残した人であるらしい。
曽我教授たちが黒色のワンボックス車に乗って駐車場に入った。すでに神戸ナンバーの付いた白色のワンボックス車が駐車している。その車のサイドパネルには大きな文字で『剣先真理修験会』と書かれている。
教授たち3人が車をから出ると同時に、白色の車からも2人の男性と1人の女性が洋服姿で出てきた。
「あら、あの美しい女性は、先ほどの奥宮遥拝所で神業を行なっていた人だわ。」と太田秀美が言った。
そして、曽我教授がこの3人に近づいて行った。
「先ほどの『鎮魂帰心法』を見せていただきました。昼間で、尚且つ公衆面前で業を行なうには精神統一に相当の自信をお持ちとお見受けしましたが、どちらの宗教団体の方でしょうか?」と教授が男性に聞いた。
「いえ、宗教団体ではありません。修験道を志す人たちの全国的な同好会です。会員は全国で1000名近く居ります。各県に支部がありますが、本部は兵庫県の西宮市にあります。」と男性が答えた。
「ああ、甲子園球場のある西宮市ですか。で、本日は西宮市から来られたのですか?」と教授が訊いた。
「ええ、私たち男性2人は、西宮本部の人間ですが、こちらの女性は大賀美登璃さんと謂って、九州の大分県から来ていただきました。巫女さんです。失礼ですが、貴方はどちらの方ですか?」と男性が訊き返した。
「失礼しました。大分県のB大学で古代歴史の研究をしております、曽我健三と申します。」と名刺を出しながら、教授が言った。
「大分県ですか。こちらの大賀嬢と同郷ですね。本日は白山比め神社には研究調査でお越しですか?」と、もうひとりの男性が訊いた。
「いえ、『甦り』のご祈祷を受けに来ました。」と教授が答えた。
「はっはっはー。さすがは、古代史の研究をされているだけはありますね。『甦り』のご祈願とは。菊理媛の由緒を良くご存知ですね。これから、古宮公園の見学ですか?」と男性が言った。
「ええ、そうです。安久涛ヶ淵を見ておこうと思いましてね。昔は『阿久斗ヶ淵』という文字であったと想像しています。第3代安寧天皇の皇后である阿久斗比売との関係を調査中です。」
「私たちも最初は、泰澄大師に倣って、ここで神業を行なおうとしたのですが、木々が生茂っていて、白山や手取川が見えないので、止む無く奥宮遥拝所に行ったのですが、無許可で行なったのが良くなかったですね。事前に神社にご挨拶して承認をもらうべきでした。急遽の変更で手を抜いたのが失敗でした。迂闊でした。他人から見れば、単なる芸人のパフォーマンスに見えたでしょうね。しかし、短い時間でしたが、奥宮遥拝所前で神業が行なえたので良しとしています。」と、頭を掻きながら男性が言った。
「しかし、事前の申し込みでも承認はもらえなかったかもしれないですね。余程の理由がないと承認は出ないでしょう。」と教授が言った。
「そうでしょうね。私たちはこれから公園内の水戸神社にご挨拶したら帰ります。関西に来る機会がありましたら、西宮市の本部にお立ち寄りださい。越木岩神社が近くにあり、この神社には六甲山菊理媛が祭られている六甲山石宝殿の遥拝所があります。白山と因縁がありそうな神社です。1656年以降、現在は蛭子大神を祭る恵比寿神社と知られていますが、ご神体の大きな岩の前には市寸嶋比売が祭られています。」と男性は言いながら、甑岩『剣先真理修験会』 兵庫県西宮市獅子ヶ口町○○ 副会長 武庫茂と書かれた名刺を教授に渡した。
「武庫さんですか。変わった苗字ですね。私たちは、先に、手取川に架かっている橋を渡りますので、ここで失礼します。」と教授が言った。
教授と山上清、太田秀美の3人は、目の前に見える橋に向かって歩いていった。
豊後の火石10
奈良県大和高田市、曽我教授の親戚宅;6月27日(火)
朝8時頃の飛行機で大分空港を立ち9時には伊丹空港に到着した。
空港でレンタカーを借り、池田市から中国自動車道に入り、近畿自動車道、第二阪奈道路を経由し、大和郡山の抜け道を通って大和高田市東雲町の曽我教授の親戚宅に入ったのは11時を過ぎていた。
「確かに、健三は元気がなかったですね。今までは、何処に行くかを決めて奈良に来ていましたが、今回は目的の場所は無いような事を言っていましたね。研究対象の取材ではなかったようですね。それに、奈良はほとんどの場所には行ってしまってますから、改めて訪問するような場所はないと思いますよ。」と曽我教授の姉が話した。
「そうですか。行き場所の心当たりはありませんか。ありがとうございました。」と言って、親戚宅を辞した。
「どうも、奈良が目的の地ではなかったようだな。何処へ行ったのだろう?さて、さてどうするか。」と太郎は今後の行動の思案に暮れた。
「取り合えず、立木が質問した宇佐八幡の件でも勉強でもするか。そこから、教授の行き先が推定できるかもしれないな。京都のD大学での卒業論文指導の藤原先生は聖書研究の他、八幡神社の研究もされていたから、何か教えてもらえるかもしれないな。それに、立木源幽の自宅が京都だから、そこにも寄ってみるか。藤原先生の電話番号はわからないが、今年の年賀状では俺の学生時の住所と変わっていなかったな。確か、京都市左京区修学院○○町だったな。」
京都市左京区修学院離宮近く;藤原教授の宅;6月27日(火) 午後4時
太郎は、レンタカーを白川通りの有料駐車場に停めてから、修学院道を歩いて来た。
修学院周辺は道が狭いので駐車余地が無い。学生時代は京福電鉄(現在は叡山電鉄)の一乗寺駅近くの下宿から詩仙堂に出て、そこから曼殊院を経て修学院へ抜ける道を行き、藤原教授宅まで徒歩で訪問した事を思い出していた。曼殊院は秋の紅葉が綺麗であったのを懐かしく思い出しながら、太郎は修学院道を修学院離宮方面に向かって歩いて行った。
藤原大造と書かれた表札の掛かった木戸門の柱にある呼び鈴のボタンを押した。
「はい、どちら様でしょう。」と婦人の声がした。
「D大学時代に藤原教授のお世話になった大和太郎と申します。」
「ああ、神学部の生徒さんですね。お待ちください。」
1分くらいして木戸の門が開いて、60歳くらいの婦人が出てきた。
「お入りください。ただいま、主人が書斎から降りてきますので、応接でお待ちください。」と婦人が、太郎を玄関から応接間に案内した。古風な木造2階建ての建物である。
しばらくして、藤原大造が現れた。
「やあ、よく来てくれましたね。何年ぶりかな。今日は授業が午前中に終わったので、ちょうど自宅で文献を読んでいたところです。毎年、年賀状を頂いてありがとう。大和君は何年の卒業でしたかね。」と大造が訊いた。
「1986年の卒業です。卒業論文の時はいろいろご指導ありがとうございました。」と太郎が言った。
「いやいや。確か、聖書研究の件では君とかなり議論をしましたね。君もなかなか頑固だったな。懐かしい思い出ですな。おかげで、私もおおいに勉強させられましたよ。」と大造が言った。
「いや、私も若くて、教授にはご迷惑をお掛けしました。」と太郎が言った。
「いや、意見の主張は大切です。でも、科学的な視点での分析を忘れてはいけません。学問は科学ですから。しかし、我々の研究は証拠となるべきものが消滅していたり、もともと存在していなかったたりで、どうしても推理と想像に頼よる場合がでてきます。時には、霊的能力の話から証拠探しに走る場合もあります。でも、科学的視点を忘れると、間違いを起こします。私も常に自戒しながらの研究人生です。ところで、本日は何か用件でも?」と大造が訊いた。
「はい。確か、先生は聖書研究の他に、八幡神社の研究もされていたと記憶しておりますが?」
「ええ。良く覚えていますね。宇佐八幡神宮を中心にいろいろと調べましたよ。」
「今年の京都国際会議場での日本古代史学会の研究発表には参加されましたでしょうか。」
「ええ。宝ヶ池ですからね。ここから車なら5分で行けますから、もちろん参加しましたよ。」
「B大学の曽我教授の発表は傍聴されましたか?」
「ええ。聴きましたよ。ノンフィクション作家の立木が質問して、場内が騒然としましたから、よく覚えていますよ。それが、何か?」
「その立木源幽が殺されたのはご存知ですか?」
「ええ。京都在住の作家が殺されたと言うので、今日の新聞の京都地方版に大きく出ていましたね。曽我教授が関係しているのでしょうかね?君はこの事件に関係しているのかね。確か、私立探偵をしているのでしたね。」
「ええ。実は、立木の質問が原因と思われるのですが、曽我教授が軽いノイローゼになり、現在、行方不明です。ご家族から捜索依頼を受けました。」
「それはいけないね。で、八幡神社と何か関係でも?」
「論文から推察すると、曽我教授は八幡神社に関係する何かの調査に出て行ったのではないかと想像しているのですが。藤原教授が論文を読まれて、何処か思い当たる場所はありせんでしょうか?」と太郎が訊いた。
「論文と作家の立木の質問から、私が感じるのは、神功皇后と菊理媛に関する事がポイントだね。あの時の立木の質問には『神功皇后が実在したかどうかが不明であり、神功皇后が実在しなかったとしたら論文の内容は意味を成さなくなる』という意味合いがあったと記憶している。質問の仕方が特異だったので、直接の質問内容をよく覚えていない。神功皇后の実在を疑う研究者がいるのも事実だね。天皇家が日本書紀や古事記の編纂を命じたが、事実を捏造したのではないかと言う発想がある。神武天皇の実在を疑う学者もいる。まあ、神武天皇の場合は明治23年に橿原神宮が神武天皇を祭る為に造られたのだが、それまでは神武を祭る神社など無かったから、実在を否定するのも判るが、神功皇后は八幡神社のほか、多くの神社で祭られている。ただ、宇佐神宮でも神功皇后を祭神としたのは平安時代823年の淳和天皇の時代だからね。神功皇后が生きていたとされる西暦200年ころの文献は中国にあるくらいだろう。曽我教授の論文に関する時代背景から考えると、神功皇后に関しては福井県敦賀市の気比神宮、兵庫県西宮市の広田神社、大阪市の住吉大社、福岡県宇美町の宇美八幡神社があるね。それから滋賀県近江八幡市の比牟礼八幡宮は神功皇后と比売神と関係ありそうだ。菊理媛に関しては、石川県白山市の白山比?神社がある。白山比?神社と比牟礼八幡宮には左義長祭という火祭りがある。兵庫県の六甲山の石宝殿も菊理媛と関係があるね。石宝殿は神功皇后も関係ありそうだね。と言うのは、応神天皇が生まれる前、神宮皇后のお腹に居るときに神の託宣に従って朝鮮へ出兵している。この時、お産を遅らせる為にお腹に大きな石を巻いていたと云う話がある。このときの石が六甲山石宝殿にあると云う風説がある。事実は不明だがね。曽我教授がこの話を知って居れば、石宝殿に立ち寄る可能性はある。京都では、858年創建の石清水八幡宮があるが、論文の時代背景からみて新しすぎるから、ここには立ち寄らないだろう。」
「京都に来るなら、立木の自宅を訪問する可能性があります。」と、教授の話をメモしながら太郎が言った。
「立木はこの家にも時々来ていたね。私から、古代史の話をよく聴いていったよ。私の話をそのまま自分の著書に載せる場合もあったね。ちょっと、厚かましいところがあって、同様の盗作で立木を恨んでいる学者もいるらしいよ。私の場合は、立木からの情報で新しい研究を始める場合もあったから、持ちつ持たれつの関係だったがね。ああ、こんな事もあったな。いえね、10年くらい前かな。私が東大寺大仏開眼式の件で薬園八幡宮の研究をしているとき、立木が自宅に来たんだ。薬園というのは平城京の南側に広がっていた薬草園にちなんだ名前だ。かなり広い範囲にあったようで、朱雀門の南から現在の大和郡山の中心部くらいまであったと想像できる。奈良時代には東大寺の清澄荘園と薬師寺の薬園村での土地の所有権訴訟があったみたいだ。私が書斎から出て行った隙に、立木は私が書きかけていた薬園八幡宮の論文を盗み見したらしい。私の発表前に、自分の著書に無断で引用したことがあったな。自分が発見したように書いていたね。『続日本紀』によると、大仏開眼式の時749年に宇佐神宮から八幡大神が行幸され、この時の奈良での御旅所・奉斎場所が薬園新宮内の神殿で、後の薬園八幡神社だったようだ。」
「その薬園八幡宮は何処にあるのでしょうか?」
「今は、奈良県大和郡山市材木町32番地にある。大仏開眼供養の前の749年当時は、平城京の南門にあたる朱雀門の近くにあったらしい。私の研究では、近鉄奈良線の『新大宮駅』近くにある史跡文化センター横にある貴族の別荘跡と謂われている特別史跡・宮跡庭園が最初の薬園八幡宮が存在した場所と推定している。729年暗殺された長屋王の邸宅跡に関係する土地とも謂われている。大仏開眼供養は752年だから、749年の勝宝天平元年12月、ここ薬園に八幡神社の元宮が建立された可能性がある。翌年には清澄荘薬園内に遷っている。清澄荘は大和郡山市筒井にある菅田比売神社の近くにあったらしい。菅田比売神社の灯籠には何故か、八幡神社の文字が入っている。この菅田比売神社は以前には現在の丹後庄町にあったらしいので、清澄荘はこのあたりにあったと思われる。清澄荘は大和郡山の名前が出来る前の時代のこの地の名称であろう。その後、足利幕府の時代に南薬園村の現在地に遷座されたようである。聖武天皇の時代に疫病が流行した時、宇佐八幡大神の託宣で薬園の薬草を患者に服用させたところ、流行病が治った事があったらしい。以前、史跡文化センターはホールの業績不振で閉鎖になるかもしれないと謂われていたから、よく調べてから行ったほうがいいよ。そこは奈良市の管理になっている。曽我教授が当時の私の論文か立木源幽の著書を読んでいれば、大和郡山の薬園八幡神社と新大宮の宮跡庭園に行く可能性もあるね。ところで、立木の自宅の住所を教えましょうか?」と藤原教授が言った。
「いえ、豊後高田の警察から住所は聞いていますから、判っています。」と太郎が返事した。
「豊後高田に行ったのかね。私も、以前は調査研究で、国東半島はよく巡ったな。曽我教授の論文に出てくる仁聞菩薩の正体も私なりに研究したが、はっきり判らなかったね。今回の殺人事件の現場は天然寺川中不動だったね。川中不動の石仏と仁聞菩薩の関係で推理できる事は、宇佐の神様の託宣が関係しているはずなのだ。宇佐神宮託宣集には載っていないが、仁聞菩薩が国東半島で修行をしたのは、神託があったからと謂われている。どのような託宣であったかがわかれば面白いのだがね。立木もその事を調べていたと思われるね。立木の著書を2冊くらい持っているから、後で書斎から持ってきて、貸してあげるよ。著者紹介欄に顔写真も載っているから参考になるだろう。それから、曽我教授は和気清麻呂に関する調査で奈良に来る可能性もあるね。岡山の和気町の和気神社にも行く可能性がある。和気町は清麻呂の故郷だ。清麻呂は天皇の代理で神託を受ける為、宇佐神宮に何回か行っている。」と藤原大造が大和太郎に説明した。
学生時代の雑談をしながら藤原邸とD大学の藤原研究室の電話番号をそれぞれ確認した。藤原邸を辞した太郎は立木源幽の自宅を確認する為、白川通りを南に下り、銀閣寺前に出て、今出川通りを西へ寺町今出川に向かった。時刻は午後5時の少し前であった。
「しかし、訪問すべき神社が多すぎるな。取り合えず、優先順位を考えてから巡るかな。曽我教授になったつもりで考えるとして、どこから行くかだが。やはり、神功皇后を追いかけてみるか。とすると、大阪市の住吉大社は子供の時から正月に何回も参詣しているから省略して、西宮市からスタートだな。今日は久しぶりに、修学院近くの八瀬比叡山口にある『平八茶屋』で窯風呂にでも入ってから川魚料理で夕食とするか。古代人になったつもりで釜風呂を味わうのも久しぶりだな。藤原教授も好きだったな。昔は、茶屋の亭主が傍を流れる川で鮎を釣ってきて、そのまま塩焼きにして食べさせてくれたな。それから、明朝は久しぶりに京都三条粟田口の『美濃吉』で朝がゆでも食べたいな。予約できるかな?宿泊は京都八条口のビジネスホテルを予約しよう。」と、レンタカーを運転しながら太郎は思った。
豊後の火石11
寺町今出川上ル西入ル○○町、立木源幽宅前路上;6月27日(火)午後5時40分ころ
太郎は、京都御所の寺町通りに面した清和院駐車場に車を止め、寺町通りを北に向かって10分くらい歩いた。寺町今出川の交差点に出て、そこから更に一筋北に上がって西向きに歩いていくと同志社女子大の裏にでる。立木源幽の自宅はその近くであった。
太郎が行くと、朝読新聞・京都支社と書かれた腕章をしたカメラマンと記者が門前に居た。
「立木さんのご家族は不在ですか?」と太郎が記者に訊いた。
「あなたは?」と記者が訊き返した。
「私立探偵の大和太郎と申します。」と記者に名刺を渡しながら、太郎が言った。
「立木源幽の殺人事件と関係でも?」と記者が訊いた。
「ええ。依頼人との関係で国東半島の現場を見てきました。」と、太郎は記者が興味を示すように仕向けた。
「現場の状況を教えてください。依頼人と立木氏の関係は?」と記者が聞き返してきた。
「その話の前に、記者さんはここで何を待っているのですか?」と太郎が訊いた。
「ああ。うちの社の九州支社から、遺体確認で大分県に行っていた立木氏の奥様が今日の夕方ころには京都の自宅に戻るとの情報がはいって、取材に来たところだ。立木氏はこの筋ではそれなりの著名人だから、私としては、全国版の記事を書きたいと思っている。それで、現場の状況はどうだった?」と記者がせっついた。太郎は、この記者と繋がりを持っておけば、今後の京都での情報が得られやすいと考えた。
「豊後高田警察の刑事さんの話では、後頭部を撲打されて、長岩屋川に落ちての水中で窒息死だそうです。ああ、これは正式な解剖結果ではなく、刑事さんの推定です。それから、衣服や髪の毛が焼けていたようです。川中不動といって、石仏が彫られている岩がある近くでした。現場状況から警察は殺人事件と断定して、その日の夕方には捜査本部を豊後高田署に設置していました。立木氏の自家用車が近くの駐車場に停めてありました。車内に何か文献があったようですが、何かは知りません。」と太郎が要所はぼかして話した。
「それで、貴方の依頼人はだれですか?」と記者が訊いた。
「それは申し上げられません。まだ、この殺人との関係ははっきりしていません。今後の活動でそれを見極めていきます。ところで、立木氏のご家族の状況は?」
「ご婦人ひとりで、子供はいないようです。この家には、親の代から住んでいるようです。ご両親はすでに他界しています。」と記者がいった。
「奥様はほんとうに今日帰って来られるのですか?」と太郎が言った。
「いや、確定情報ではないから、出直しになるかもしれないですね。」
「記者さんの名刺をもらえますか?」
「いいですよ。何か情報が判ったら教えてくださいよ。」と記者が太郎に名刺を渡した。
名刺には、『朝読新聞京都支社、社会部 記者 中山隼人』と書かれていた。
「ところで、先ほどの刑事からの話とは、警察の公式発表だったのですか?」と記者が訊いた。
「いえ、担当の刑事さんの見解でした。参考人としてその刑事さんに呼ばれたので、個人的な面談の中での話しです。警察の正式発表は遺体解剖後でしょう。」と太郎が言った。
「その刑事の名前は?」と記者が訊いた。
「棚橋刑事です。」と太郎が答えた。
「大分県警のナンバーワンエースの登場か。この事件は早期解決になるな。これから忙しくなるぞ。何とか全国版に記事を載せて、金一封を貰いたいな。特種が欲しいな。」と記者が独り言をつぶやいた。
「棚橋刑事はそんなに優秀なんですか?」と太郎が訊いた。
「ああ。事件記者仲間では有名ですよ。わが社、すなわち朝読新聞の豊後高田支所の散弾ライフル襲撃事件を覚えていますか?」と記者が言った。
「ええ。覚えています。迷宮入り直前に殺人犯が逮捕された事件ですよね。」
「そうです。あの事件は、棚橋刑事が当時交番の警ら巡査をしていた時代に、彼が解決した事件です。」
「どう謂うことですか?」
「捜査の進展が無いまま、事件発生後14年が経過していて、捜査本部も迷宮入りを覚悟していたころ、棚橋巡査が、事件発生一ヶ月前の交番日誌を勉強の為読んでいて、ある発見をしたのが発端です。ちょうど、その交番の駐在として移動してきたばかりで、今後の警ら活動の参考にしようと警ら管轄圏内の過去の事件を勉強していたらしいのです。その日誌には、事件の一ヶ月前くらいに、新聞販売店と市民との間に新聞購読契約の件でトラブルが発生していた事が書かれていたようです。両者が揉めているところに、定年直前の警ら中の巡査が出くわした事が記載されていた。この時、散弾ライフルで殺害された記者がちょうど警官といっしょに巡回していて新聞販売店主を非難したようです。この日記を見て、以前に『朝読新聞豊後高田支所殺人事件捜査本部』の調書でみた内容を思い出し、組み合わせてみたようです。犯人が逃げる時、支所の出口で滑った跡があり、その近くの壁から、新聞販売店主の指紋が採取されていた。これは、犯人の指紋と普段出入りしている人間の指紋を区別する為に、朝読新聞高田支局に出入りした過去の人間の指紋を警察が集めた結果判明していたものでした。しかし、この新聞販売店主は普段から支所に出入りしていたので、事件以外の時に付いた指紋と判断されていました。しかし、棚橋巡査は、その指紋の付いていた位置が壁の低いところで、小柄な店主でも、立った状態で指紋が付く高さではないと考え、逃げる時に滑った際、壁に手を衝いたための指紋と判断したようです。そこで、この店主を自主的に監視したようです。また、動機としては、偽契約の件で赤恥を欠かされたと販売店主が感じ、その報復で新聞支局襲撃したと判断したようです。販売店を監視中に、事件当時に一般市民に目撃されていたのと同様な暴力団風の大柄な男が新聞販売店に出入りするのを見つけたようです。この販売店主は、新聞購読契約書を市販の三文判の印鑑を利用して偽造し、勝手にその家に新聞を配達し、6ヶ月を過ぎた頃に集金にこの男を派遣し、強制的に新聞代金の支払いを求める手口を繰り返していたようです。この手口のため、購読者とのトラブルが発生し、交番日誌に記載される事態になった。ライフル襲撃事件が発生した時には、日誌を書いた警官は定年退職して、このトラブル事件のことは警察内部で知っている人間は居なかったため、新聞販売店主を襲撃犯人と思った刑事はいなかったようです。それを、棚橋巡査が発見し急遽事件解決につながったようです。この結果、棚橋巡査は大分県警豊後高田警察署の捜査一課の刑事に抜擢され、その後も多くの事件を早期解決した実績があます。大分県警のエースとして自他共に認める実力派刑事です。普通の人間なら事件と関係ないと思われる場所から調査を始めるのが彼の捜査活動の特徴です。そこから、事件解決への道筋が見えてくるから不思議なんです。頭が斬れるのでしょうね。棚橋刑事の初動捜査の方向が的確であると云ううわさです。」と記者が説明した。
「棚橋刑事か。頭が斬れるだけでなく、打つ手も早い男だからな。奴にどんな情報を与えれば曽我教授の発見が早まるかだな。しかし、棚橋は全国の警察に事件の参考人として曽我教授の捜索依頼を出しただろうな。やはり、警察の方が先に教授を発見するだろうな。探偵報酬はあきらめるか。俺に運があれば、先に見つける可能性もあるが・・・・。」と考えながら、太郎は今後の行動について思いを巡らしていた。
豊後の火石12
大分県警豊後高田署・捜査会議;6月27日(火)午前10時ころ
「B大学の神山助教授から曽我教授のことを聴いて来ました。今年3月の京都国際会議場での日本古代史研究会で立木被害者が曽我教授に発表内容について、歴史的観点からの実証性について疑問を投げかけたようです。曽我教授が返答に困って、かなり慌てたようです。立木が所持していた学会の予稿集の論文では、42ページにある内容です。神功皇后の実在性についての疑問点を、古代文献を引用しながら立木が追求したようです。古代文献の『日本書記』や『古事記』では実在した人物として登場しているのですが、生存年代が特定しきれていないようで、その点を追求したそうです。立木も古代史にはかなり精通していたようです。過去に数十冊の著書を発刊しています。『立木の論理の構築が巧妙で、事前に論文を入手して反対意見を考えていた節がある。』と神山助教授は言っていました。これが事実なら、立木の情報入手経路を追いかける必要があります。立木は、殺害される前日の夜は、宇佐神宮参道にある『かした旅館』に宿泊しています。立木が『イカロスの羽を捜しに行く』と言ったのを旅館の若女将が聞いています。
現在のところ、この意味は不明です。近郊での目撃証言はまだこれだけです。他の場所での宿泊情報が無いところを観ると、自家用車の中で睡眠を摂っている可能性があります。その場合、入浴は日帰りの温泉湯に入る可能性があります。豊後高田市内の日帰り温泉、入浴施設は、『スパランド真玉』、『温泉 花いろ』、『ほうらいの里 仙人湯』、『夷谷温泉』、『海門荘』、『旅庵 蕗薹』などあります。ここに聞き込み調査を掛けたいと思います。京都府警からの立木に関する身辺調査はこれからとのことです。遺体確認で来られた立木婦人の話では6月23日の午前10時頃、大分県内を周ってくるといって、車で京都を出発したようです。今年の10月に出版予定の著書に関して、現地調査をするのが目的だったようです。二人の間に子供が居ないので、立木婦人は京都の西陣織のデザイン製作手伝いをしているそうです。立木は宿泊先を決めずに出たようです。一週間くらいで戻る予定だったようです。ところで、私見ですが、殺害現場は天念寺ではないと思います。川中不動の石仏前にあった、火の燃えかす跡は何か、取ってつけたと云う感じがしてなりません。何らかの事情で遺体に焼け跡がついてしまったので犯人が細工したと考えています。犯人は殺害場所が判明するのを恐れて、細工したのでしょう。なぜ、殺害場所を隠したいのかが、不明ですが。私の想像通りに、本当の殺害現場が見つかれば、犯人像が浮かんでくると考えています。」と棚橋刑事が報告した。
鑑識結果や遺体解剖の結果がまだ出ていないので会議は捜査員の意見交換が中心であった。その他、目立った報告もないので、捜査会議は30分くらいで終了した。
大分県警豊後高田署、捜査一課;6月27日(火)午前10時30分
捜査会議の後、自分の席に戻った棚橋は『イカロスの羽』について考えを巡らせていた。
「立木は『イカロスの羽』にどのようなイメージを持っていたのだろう?イカロスは鳥の羽を蝋で固めた翼を身体につけて、太陽に向かって上昇した為、太陽の熱で蝋が溶けて、海に落下したのだったな。当然、羽はバラバラになって飛び去って行っただろう。太陽の熱か?太陽と関係する遺跡か、または場所が国東半島にあるだろうか?確か、ひとつあるな。ストーンサークルのある猪群山だな。ストーンサークルは、古代人が太陽崇拝で利用した遺跡で、『火継ぎ神事』『日嗣神事』の行なわれていた場所だと高校時代の歴史の先生が言っていたな。そういえば、雨乞いのときには火を焚いたらしいな。しかし、飛び去った羽と結びつくかな。あそこのストーンサークルの石は完全に円形になっていなかったな。円形ではなく、渦巻き状に配置されていると謂う人も居たな。古代にはちゃんと16個の巨石が、現在のように東西33メートル、南北42メートルの楕円ではなく円形に配置されていたのだろうかな。その外側の直径70メートルの円周上にある24個の石はどんな役目なのだろう。中央には斜めになったご神体の巨石の他にも幾つかの大きな岩があったな。周囲に巨石がバラバラに散った理由を立木は追いかけていたとしたら。このバラバラの巨石が飛び散った『イカロスの羽』か?なんとも言えないな。取りあえず、ストーンサークルを調べに行くとするか。」と棚橋刑事は発想した。
「おい、直人。猪群山に登るぞ。ついて来い。」と棚橋が相棒の橘直人刑事に声をかけた。
豊後の火石13
豊後高田市真玉町、猪群山;6月27日(火)午前11時30分
猪群山登山口の道標前の道路端に車を停めて、飯牟礼神社の鳥居をくぐったところで棚橋刑事が橘刑事に言った。
「神社にお参りしてから山に登ろう。ストーンサークルは神域だから、身を清める必要がある。潔斎の替わりにお参りをしておこう。」
「へえ。棚橋さんも神頼みをするのですか。」と橘が驚いたように言った。
「神頼みではなく、ご先祖への礼儀かな。神様の存在を信じるかどうかは別にして、多くの先人が敬っていた存在に対する礼儀と思っている。神様が居るとすれば、穢れを避けてあげるのが礼儀であろう。この霊域・国東半島に生まれた人間として、神様の存在を否定することは出来ない。科学的な確認は出来ていないがね。」と棚橋が言った。
石で彫られた牛の像の近くにある拝殿にお参りした後、二人は山を登り始めた。
飯牟礼神社から40分くらいで猪群山山頂についた。
猪群山頂から更に東へ300メートルくらい下ったところにストーンサークルがある。見晴らしは山頂よりもいい。
陰陽石と呼ばれているストーンサークルの入り口にあたると云われている二つの巨石の間を通ったところで棚橋刑事が叫んだ。
「そうか、猪群山か。猪が群れている状態。弓削道鏡の放った刺客から和気清麻呂を守ったのは猪の群れという伝説があったな。立木源幽は『イカロスの翼』が猪の群れとイメージしていた。では、『イカロスの羽』は一匹の猪のことか、あるいは、猪の群れの中にいる和気清麻呂のことを意味しているのでは。そうか、立木源幽は和気清麻呂に関する何かの秘密をここに探しに来たのだ。」と棚橋が橘に言った。
「和気清麻呂ですか?」と橘直人がキョトンとして言った。
「おい、直人。おまえ、宇佐神宮の上宮(本殿)の横にある神功皇后と和気清麻呂の絵巻展示室に行ったことがあるか?」と棚橋が訊いた。
「ええ、高校時代の日本史の授業で、学外研究と云う事で宇佐神宮を訪問しました。その時、クラス全員で見学しましたが。」と橘が言った。
「絵巻の説明に和気清麻呂の出身地が書いてあっただろう。どこの県だったか覚えているか?」と棚橋が訊いた。
「確か、備前の国でしたから、岡山県でしょう。確か、和気町があります。そこに和気神社があって、和気一族が祭られていると授業で聴いた記憶があります。」と橘が言った。
「そうか、岡山県か。判った。それでは、このストーンサークルの神域の中で火を焚いた跡があるかどうか、探してみてくれ。おれは、西の方半分を探すから、直人は東半分を当たってくれ。」
しばらくして、神体石の近くにある巨石の傍の草むらにやや大きな焼け跡があるのを橘が見つけ、棚橋を呼んだ。
「単なる焚き火跡ではなさそうだな。」
「ええ。小さな焼け跡が五箇所、10メートルくらいの円周上に等間隔で並んでいますね。」
「直人、現場を確保する。鑑識に電話して至急ここに来てもらえ。」と棚橋が橘刑事に叫んだ。
豊後の火石14
兵庫県西宮市大社町 広田神社;6月28日(水)午前11時ころ
大和太郎は京都三条粟田口にある『美濃吉』で朝粥を食べた後、山科の京都東インターから名神高速道路に入り、西宮インターで降りた。車のナビゲーションに従って運転しながら西宮インターから国道43号線を神戸方面に向かい、5分くらい走ったところの西宮本町交差点を右折し、国道171号線を京都方面に15分くらい北上したところにある西宮市立体育館前の交差点を左折して5分くらいで広田神社に着いた。
広田神社の由諸は、神功皇后が朝鮮出兵から凱旋してきた時、茅沼の海(現在の大阪湾)を船で通過中、天照皇大神の荒御霊がこの広田の地に鎮座したい旨の託宣があり、神社創建となったようである。葉山姫命が伊勢より斎宮(天照皇大神に仕える巫女)として来所したようである。風説には、神社の北にある甲山を船上から見て霊気を感じた神功皇后が請け霊を行なったところ、先の託宣をうけたと謂われている。甲山の麓には『神呪寺』がある。
創建者は淳名天皇の第4后とされる如意尼である。3年間の出家修行を弘法大師空海が手伝い、尼となったようである。この時、和気清麻呂の孫娘二人(如一、如円)が如意尼に同行したらしい。この第4后は真井御前とも呼ばれ、京都府の丹後半島の海部族の出身であるらしい。甲山は武庫山とも呼ばれた時代があり、神功皇后が武器などを納め埋めたとされる山である。
広田神社にお参りした後、神社社務所に立ち寄った大和太郎は巫女さんに訊いた。
「こちらには、宝物展示館は無いのですか?」
「ええ、ありません。」と巫女が答えた。
「この写真の人が最近、この神社に来ませんでしたか?曽我教授という人で神功皇后の調査で来所した可能性があるのですが。」と太郎が訊いた。
「さあ、私は見ていませんが、ほかの人に訊いて見ましょうか。」といって巫女が奥のほうに入っていった。巫女さんがしばらくして戻って来たが、曽我教授を見た人が居ないとのことで、ガッカリしながら神社の駐車場へ向かっている時に携帯電話のベルが鳴った。豊後高田署の棚橋刑事からであった。
「大和さんにお願いがあって電話しました。まだ、奈良ですか?」と棚橋が訊いた。
「いえ、兵庫県に来ていますが、何でしょうか?」
「岡山県の和気町にある和気神社に行ってほしいのですが?」
「何を探しに行くのですか?」
「実は、立木が殺されたのは天念寺ではなく別の場所ではないかと思われます。国東半島にあるストーンサークルという遺跡で何か神業を行なった焼け跡がありました。私は『イカロスの羽』に関係すると想像しています。この場所で殺されたかどうかは疑問がありますが、このストーンサークルは和気清麻呂と関係する可能性があり、立木は九州に来る前に岡山県の和気神社に立ち寄ったのではないかと考えたのですが。如何でしょう、調べていただけますか?曽我教授の学会論文の中にも和気清麻呂の関係項目がありましたから、教授も立ち寄っている可能性があると思いますが。」と棚橋が言った。
「判りました。これから岡山に向かいます。こちらも何か手がかりが欲しいところだったので、渡りに舟です。」と太郎が答えた。
−後編につづく−