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不可思議村怪奇ノート  作者: 天塚
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幽霊

『えー、緊急の連絡です。先程、村内に熊が出現し、農作業をしていたお年寄りが襲われ、怪我をして病院に運ばれたという情報が入りました。尚、その熊は今も逃走中とのことなので、生徒の皆さんは速やかに自分の教室に入り、ドアを閉め窓を施錠してください。また、教員の皆さんは、一階の昇降口前に集合してください。会議を行います』

 ブチッ、と最後に大きなノイズを響かせて、教頭先生による校内放送は途切れた。その放送が入ったのは、ちょうど昼休み、カイトと共に廊下で適当におしゃべりをして過ごしていたときのことだった。

「うっわ、マジで? 小学校んときもこういうことあったよな」

「たしか四年のときだっけ? そのときは集団下校になったよね」

 なんだか楽しそうな調子で言うカイトに、僕も記憶を手繰り寄せてそう答える。この村は山が近いから、数年に一度はこういうことが起きてしまうのだ。とりあえず放送の指示通り、僕達は自分たちの教室である一年一組へと向かう。中にはすでに多くの生徒が集まっていて、この思わぬハプニングに大盛り上がり、といった様子だった。グラウンドが見える窓際に殺到して、熊の姿が見えないかとガラスに顔をくっつけている。

「なあ、熊が校内に入ってきたらどうする?」

「とりあえず、机でバリケードは作らないとね」

「だよな。そんで、箒を剣にするだろ? あと、掃除用のバケツ熊に被せて目隠ししてー」

 カイトと僕も周囲の生徒同様に、そんな妄想じみた会話をしてぷくく、と笑う。学校に異形の生物が襲来するなんてまるで漫画やドラマでありそうなシチュエーションで、不謹慎ながらも少しわくわくしてしまう。

「学校なんて鉄筋なんだから、熊がそう簡単に入って来るわけないじゃん」

 すると、僕達の会話に突如割り込んでくる声があった。声のするほうに顔を向けると、不機嫌そうに腕を組んでこっちを見ているマシロと目が合う。

「いやでもさ、万が一ってこともあるじゃん。対策を考えとくのは重要だって」

「だとしても、結局その時になったらカイもアキも真っ先に逃げそうだよね」

「……」

 そのマシロの言葉に、カイトも僕も何も言い返せない。たしかに本物の熊なんて、絵本に描かれている可愛らしいものとは似ても似つかないような凶暴な生き物だ。いざ目の前にしたら、きっと戦う気なんて起きずに逃げ出してしまうだろう。

「う、うるせーなー。つーか、マシロ、そういうお前はああいう女子を見習えよ」

 カイトは馬鹿にされたようで悔しかったのか、すっ、と人差し指を立てて教室の隅のほうに向ける。そこでは三、四人の女子が輪になって、「こわーい……」「もし本当に熊が来たらどうしよう……」なんてことを言いながら、互いに頭を撫でたり抱き合ったりして慰め合っていた。か弱い女の子らしいその姿は、たしかに不遜な態度で僕達に悪態をついているマシロとは大違いだ。

「はあ? 何今更、山がすぐなんだから熊ぐらい出るでしょ。ぶりっ子してるだけじゃん」

「さっすが野生児、そういえば神社も山の中だしな」

「それを言ったらアキの家だって山奥じゃん」

「えっ」

 そうしてマシロとカイトが舌戦を繰り広げていると、突如矛先がこちらに向いたので僕はちょっと焦り出す。きろり、と僕を睨み付けるマシロの姿を見て、なんだよ、僕は別にマシロの気に障るようなことは言ってないだろ、という言葉が喉元まで出かかった。マシロはきっぱりした性格だからこうやって突っかかって来ることはわりとよくある事なのだけれど、それにしても最近は特に僕に対する当たりが強い気がする。その理由として思い当たることといえば、僕がユウ先輩と手を繋いでいたところを見られたあの一件以外に考えられない。きっと付き合ってもいない女の子の手をホイホイと繋ぐ僕が、マシロにはチャラいとかそういった風に映ったのだろう。あの手繋ぎには下心以外のれっきとした理由があるのだけれど、それを話したところで信じてもらえるかどうかは微妙だ。

「あ……」

 そんなことが頭の中をぐるぐると巡り次の言葉を紡げないでいると、ちょうど昼休み終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。教室の片隅でピリピリとした空気を漂わせていたカイトとマシロも、それを合図に他の生徒達同様各々の席へと散って行く。僕も助かった、なんていうふうに思いながら、教室の中央付近である自分の席へと腰を下ろした。五時間目の授業は数学なので、教科書とノートを机の中から引っ張り出す。

「……」

 そうしてぼうっとしながら、授業が始まるのを待つこと、五分、十分。しかし一向に、数学担当の先生は教室に現れない。すると段々と昼休みの時のように、教室内が騒がしくなる。これ午後の授業潰れるんじゃね、とか、もしかしてすでに校内に熊侵入してたりして、なんていう会話が端々から聞こえた。

「……あー、遅くなった! すまんな、委員長、とりあえず号令!」

 そして授業開始時刻から十五分程が経ったところで、ようやくガラガラ、と教室の扉が開いて大柄な男の先生が教卓の前に姿を現した。「あれ、いっしー?」と、生徒の誰からか声が上がる。今僕達の目の前にいるのは数学担当の先生ではなく、クラス担任である石柄(いしがら)先生だった。石柄先生は三十代前半くらいの年齢で、担当教科は社会。明るくて気さくな感じの性格なので生徒からは大いに慕われていて、親しみを込めて『いっしー』と渾名で呼ばれることもあった。委員長の号令で遅ればせながら始業の挨拶を済ませると、石柄先生は教卓にどっかりと両手をついて話し始めた。

「えーっと、放送があった通り、今日の昼頃に村で熊が出ましたー。幸い子熊だったらしく、襲われたばーさんも軽傷で済んだらしいけど、まあ危険なのには変わりないわな。つーわけで、今日は部活動停止、学内学外での活動に関わらず、六時間目終了後全生徒一斉下校ということになりました」

 その石柄先生の言葉に、教室内ではざわめきが起きる。急遽部活がなくなったことに喜ぶ声や、逆に悔しがる声など、その反応は様々だ。僕もぼんやりと、今日はユウ先輩との活動はなしかあ、なんてことを思う。怪奇倶楽部は正式な部活ではないけれど、まさかこの非常事態にのうのうと活動することはないだろう。僕としてはたまの休みはいいものだなと思うけれど、ユウ先輩の悔しがっている様が大いに想像できて、思わずぷっと吹き出しそうになってしまった。

「あー、それとだな、このままその熊が捕まらなかった場合、明日は休校になる可能性もあります」

「マジで?」

「やった!」

 そして続く石柄先生の言葉に、生徒達の興奮は最高潮に達する。部活動停止に関しては評価が二分していたけれど、この件に対しては満場一致で喜びの声が上がっているようだった。イエーイと言ってハイタッチをし始める生徒達を、石柄先生はため息交じりで窘める。

「おいおい、それってつまり夏休みが一日減るってことだからな。実質休みの数は変わってないぞ」

「それでも嬉しいっしょ! 急に来る休みって最高じゃん!」

 ヒュー! と、口笛が教室内に響き渡る。石柄先生はもう何を言っても無駄だと感じたのか、諦めたようにぼりぼりと頬を掻いてピラッ、と一枚の紙を背後の黒板へとマグネットで貼りつけた。突如出現したその紙に僕達の注目は集まり、歓喜の渦も一瞬治まりを見せる。

「それでだな、もしも休校になる場合、明日の朝連絡網が回るから。学校のホームページにも休校の有無は載る予定だけど、ちゃんと連絡網も回すように。というわけで、はい。急遽作ったから、前に出て自分の次の人の電話番号メモしろー」

「え? それ、印刷して配ったほうが早くないですか?」

 そう発言したのは、教室の後方の席に座るカイトだった。他の生徒達もカイトの意見に賛同するようにうんうんと頷いていたけれど、なぜだか石柄先生は困ったような表情を浮かべる。

「それがな、今は個人情報とかがうるさくてな、クラスの連絡網といえども印刷して配布したりできないんだよ。ほら、思い返してみれば、クラス名簿も配ってないだろ? 制服に名札も付けないし、鞄の外側にも記名する場所はないし。本当、嫌な世の中になったよなー」

 石柄先生はそう言って、がはーと笑い声を上げる。僕は顔を少し俯けて自分の着ている学ランの左胸に目をやるけれど、たしかにそこに名札の類は存在しない。うちの学校は人数が少ないから名札を付けるまででもないということなのかなと勝手に思っていたけれど、どうやら真相はそういう個人情報の関係だったようだ。まあでも名札や名簿がなくても学校生活を送っていればクラスメイトの名前なんて自然に覚えるし、特に支障はないのかもしれない。「ほれ、メモメモー」と言って手招きをする石柄先生に促され、僕は他の生徒達同様、ノートとシャープペンシルを片手に黒板前へと吸い寄せられていった。



「うん、じゃあそういうことだから。次の人によろしく。はーい」

 チャラララ、と背後のテレビから朝の情報番組の音楽が流れる中、僕はそう言って、ガチャリ、と受話器を置く。そして無事に連絡網を次の人に回すという仕事を終えた僕は、ようやく喜びを表に爆発させた。

「よっしゃー!」

「何? やっぱり休校だって?」

 電話機の前に立ってガッツポーズを決める僕を見て、エプロン姿の母さんがそう尋ねてくる。母さんは隣町の保育園で保育士として働いていて、平日の今日はもちろんこれから仕事である。なのでいつもの朝同様、母さんはどこかバタバタとした慌ただしい雰囲気を纏っていた。

「うん。やっぱりまだ、熊捕まってないんだって」

 僕はそう答えると、まだ食べかけだった朝食が母さんに片づけられてしまわないようにと素早くリビングのテーブルへと戻った。テレビ画面の左上には、午前七時三分と表示されている。本来なら七時四十分くらいには家を出ている僕だけれど、今日はもうその必要はない。カリッと香ばしいトーストを齧りながら、僕は臨時休校の喜びを大いに噛み締める。

「その熊ちゃんは、いったい今頃どこほっつき歩いてんだろーねぇー」

 そんなことを言いながら洗面所のほうからリビングへとやって来たのは、父さんだった。父さんは市内の外れにある山の上にある『自然の家』という宿泊施設で、指導員として働いている。そこは村にある山とはまた別の山なのだけれど、例に漏れずそちらも熊がよく出没するので、今回の件もあり僕はちょっと心配に思っていた。そしてそう思っていたのは僕だけではなかったようで、母さんも心配そうな目を父さんに向ける。

「パパも気を付けてよ。熊見かけてもちょっかい出したりしないでさ」

「子熊だったら勝てそうだけどな!」

「もう、馬鹿なこと言ってないで! 朝ご飯、食べないなら片づけますよ!」

「ま、待って、食べる食べる!」

 父さんはがつがつ、と、慌ててリビングのテーブルの上の朝食をかき込む。こんな感じで僕の両親は、母さんがしっかり者で父さんが自由人、といった具合である。いつもへらへらとしているだけの父さんがどうして母さんと結婚できたのか、それは僕が物心ついた頃からの大きな疑問であった。そして今現在も、残念ながら僕はその答えに辿り着けていない。

「アキも、熊が捕まるまでは絶対に外に出ちゃダメよ。それからいくら暑くても、絶対に窓も開けないこと。いいわね?」

「わかってるよ」

 そう母さんに答えつつも、僕はちらりと窓の外に見える空へと目をやった。雲の間に覗く空の色は綺麗な青色で、今日も良い天気になりそうなことを予感させる。今日の日付は五月三十一日で、明日からはついに衣替え、という時節だ。最近は汗ばむような暑さを感じることも度々あったので、一斉窓を開けられないのは中々にきついかもしれない。後で扇風機でも引っ張り出しておくか、と僕は頭の片隅でそんなことを考えた。

「それじゃあアキ、お昼はカップラーメンとか冷食とか、あるもので適当になんとかするのよ」

「アキー、留守番よろしくなー」

「うん。行ってらっしゃい」

 そして仕事へと向かう両親を玄関で見送り、二台の車のエンジン音が家から遠ざかったことを確認すると、僕はとりあえず二階にある自室へと向かい学習机の前に腰を下ろした。今日休校になった場合を想定して、あらかじめ学校側から宿題が設定されていたのだ。面倒なことはさっさと終わらせるに限るので、まず午前中にそれらの宿題を片づけてしまうことにする。丸一日休みになるわけだから結構な量が用意されていたのだけれど、取り掛かってみると意外とサクサク進み、三時間程で全てを終わらせることができた。こうして晴れて自由の身となった僕はごろんとベッドの上に寝転がり、しばらく漫画を読みふける。そして単行本を四、五冊読み終えたところでようやく時刻がお昼を回ったことに気付き、昼食をとるべく一階のリビングへと降りていった。

「おー、なんかやっぱり、給食とは違った美味さがあるな……」

 ずるずる、と箸で麺をすすりながら、僕はリビングのテーブルの前でそんな独り言を漏らす。僕が昼食に選んだのは、買い置きしてあったシーフード味のカップラーメンだった。料理なんてほとんどしたことがない僕でも簡単に美味しく作れる、超有能な食べ物である。食事の評価としては栄養バランスのとれた給食よりもはるかに劣るんだろうけれど、ジャンクな濃い味付けは僕の心をがっしりと掴んでいた。

「……ん?」

 そうして思う存分ラーメンを堪能し、最後の一麺をすすりごちそうさま、と言って箸を置きかけたときだった。ただなんとなく点けておいていたテレビの画面が、お昼のバラエティ番組から県内ニュースへと切り替わった。そしてそこには、見覚えのある景色が映っている。

「うっわ、これ、村役場じゃん」

 画面一杯に映る白い四角い建物は、間違いなく僕の住む夜宵村の村役場だった。続いてカメラは、その駐車場の片隅にズームアップする。役場の職員や村民と思われる人たちに囲まれた先にあったのは、檻の中に入れられた黒い毛むくじゃらの子熊の姿だった。子熊は濡れた瞳でカメラを見据え、鋭い爪の生えた手で檻の鉄柱を掴んではがじがじと黄ばんだ歯を立てている。アナウンサーによるナレーションで、昨日この子熊に村民のおばあさんが襲われて怪我をしたことや、本日近隣の小中学校が休校になっていることなどが伝えられていた。

「こりゃあ、明日の休校はなくなったな」

 僕はふっと、苦笑いを浮かべる。危険な熊が捕まったことは喜ぶべきことなのだけれど、どうせならもう少しこの非日常を味わいたかったような気がしないでもなかった。

 プルルルル……。

「!」

 すると突然、リビングの片隅にある電話の呼び出し音が鳴り響いた。現在この家には僕しかいないため、慌ててリモコンでテレビのボリュームを下げ電話を取るべく立ち上がる。

「……あっ」

 しかしそこで電話機の四角い画面に表示された文字を見て、僕は一瞬ぱちくりと目をしばたたいた。プルルルルと呼び出し音が尚も鳴り響く中、急いで一度深呼吸をしてから受話器を取り耳に当てる。

「……もしもし」

『もしもし、東海林と申しますけれど、アキテル君ご在宅でしょうか?』

「あ、僕です。ユウ先輩」

『……あは、だよねー。声でわかってたよ』

 受話器から聞こえるくつくつとした笑い声は、紛れもなくユウ先輩のものだった。実はいつだったか、僕達はお互いの電話番号を教え合いっこしていたのだ。とはいってもこうしてユウ先輩から実際に電話がかかって来たのは、これが初めてのことだった。ちなみにユウ先輩はさすが元都会っ子らしくスマートフォンを所持しているそうで、さっき画面に映ったのも080から始まる十一桁の番号だった。僕は高校生にならないとスマホを買ってもらえないので、本当に羨ましい限りである。

『ねえアキテル君、元気ー?』

「えーっと、まあ、元気ですよ」

 僕達はとりあえず、そんな中身があってないようなやり取りを交わす。この感じだと特に用があるわけではなく、ただ単に突然の休校ということでユウ先輩が暇を持て余しただけなのかもしれない。

『お昼のニュースは見た?』

「あ、見ましたよ。熊捕まってましたね」

 僕は受話器を耳に当てたまま、ちらりとテレビの画面へと目を向ける。しかしもう村役場は映っておらず、番組内容は再びバラエティへと切り替わっていた。

『そうそう。だからさー、もう出歩いても平気ってことだよね。というわけで、今から部活しようよ』

「……え?」

 ズウウゥン、と、僕の心に灰色の雲がかかったのが見えた気がした。せっかくの臨時休校なのだから、僕はこれから食後の昼寝でもしようかと思っていたのだ。

「……えーと、今からですか?」

 明らかに乗り気ではないことを誤魔化しきれていない声色で、僕は尋ね返す。しかしそんな億劫な気持ちは、次にユウ先輩が発した一言であっさりとひっくり返ることとなった。

『そうそう。アキテル君、私の家に来てよ』

「えっ……」

 ドキリ、と心臓が一度強く跳ねる。ユウ先輩の家、というキーワードに、僕はどうしようもなく惹かれてしまっていた。そういえばユウ先輩の家には行ったことがないどころか、そもそも外観すら見たことがない。

「えーっと、ユウ先輩の家って、引田(いんでん)のほうでしたっけ」

 僕は、いつぞやのユウ先輩との会話の記憶を引っ張り出してそう尋ねる。引田というのは隣町との境目にある、村の一番端に位置している地区である。小学校の学区でいえば、二小学区に位置するところだった。

『うん。ほら、学校出てすぐ右に曲がるでしょ? そのままずーっと真っ直ぐ進めば着くよ』

「……なんか、随分アバウトな説明ですね」

『だって本当にそうだし。いい頃合いになったら家の外に出てるからさ、とりあえず来てみてよ』

 じゃあ、待ってるからねー、と言う言葉を最後に、ユウ先輩との通話はそこで途切れた。「あっ……」と慌てて声を発するけれど、すでに受話器からはツー、ツーという音しか聞こえない。ちょっと、僕行くなんてまだ一言も言ってないんだけど。本当に強引な人である。

「……」

 僕は受話器を置くとテーブルの上にあったリモコンを手に取り、ブチッとテレビの電源を落とす。そして二階の自室へと上がり、部屋着から私服へと着替えた。……まあ、今回は行ってやるけどな。ユウ先輩の家、行ってみたいし。僕は普段遊びに行くときに使っている黒い斜め掛けの鞄を引っ掴むと、スニーカーに足を入れ玄関を飛び出す。そして自転車に跨り、自宅前の坂道をさーっと一気に駆け下りた。その途中でちらりと台座石が目に入り、否応なくユウ先輩の顔が思い出される。僕の家から学校までは自転車でおよそ二十分程かかるので、その先にある引田地区のユウ先輩の家まではおそらく三十分くらいかかるだろう。いつも通り変わり映えのしない田舎の風景の中を、汗をかきながらぐいぐいとひたすらペダルを漕ぐ。僕がつい最近まで通っていた小学校、神社へと繋がる交差点、川島商店、中学校……と順調に通り過ぎると、やがて引田地区へと突入した。そしてぽつぽつと民家が立ち並ぶ通りを五分程走ると、道の端に人の姿が見えた。背の高い灰色の塀の前で、長い髪を風に靡かせたユウ先輩がこちらに向けて手を振っている。僕はユウ先輩の目の前でキキッと自転車のブレーキをかけると、しばらくぶりに片足を地面に付けた。

「アキテル君、いらっしゃーい。ね、ずっと真っ直ぐだったでしょ」

「はい、そうでしたね」

 僕は着ているTシャツで首筋を伝う汗をぐっと拭うと、にこにこと機嫌が良さそうに笑うユウ先輩に目を向けた。ユウ先輩も僕と同じく私服姿で、パーカーにTシャツにショートパンツというカジュアルな格好をしていた。全体的にシンプルな印象だけれど、持ち前のスタイルの良さもあってやけにかっこよく見える。

「……ここが、ユウ先輩の家ですか」

「そうだよー」

 そして僕は、ちらりと塀の奥に見える日本家屋を見上げる。大きさはそこそこで築年数もそれなりに経っていそうな、村によくある感じの雰囲気の家だった。庭の面積が広めなのも、土地が安いここらへんではありがちな造りだ。

「……あれ、柴田(しばた)?」

 しかしそこですぐ傍にある灰色の塀の表札に目が留まった僕は、思わず浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。塀の上部に付けられている白い四角いプレートには、ユウ先輩の名字である『東海林』ではなく、『柴田』という文字が書かれていたのだ。

「ああ、ここ母方のおばーちゃん家だからさ、名字が違うんだよね」

「あ、そうなんですか」

 その説明に、僕は納得して頷きを返す。それからユウ先輩が「適当に庭に自転車停めちゃって」と言ったので、僕は自転車をカラカラと押して塀の中へと入り、邪魔にならなそうな庭の端のほうにスタンドを固定した。

「さー、どーぞー」

「お、おじゃまします……」

 そしてガラガラ、と引き戸を開けるユウ先輩に続いて、僕は少し緊張しつつ玄関へと足を踏み入れた。ぱっと目に入る色彩は木のあたたかみを感じる茶色やオレンジ色で、全体的に『和』の印象を強く感じるような内装だった。

「飲み物持ってくからさ、先に部屋に行っててよ。階段上がって突き当たりの部屋だから」

「え、あ」

 ユウ先輩は玄関で靴を脱ぐと、僕にそう言い残しすっ、と家の奥のほうへと消えていってしまう。え、勝手に入ってていいの? と一瞬逡巡した僕だったけれど、このまま玄関で突っ立っていてもなんだか手持ち無沙汰なので、言われた通りすぐ正面にあったこげ茶色の階段を登り二階へと向かうことにした。階段の先には短めの廊下があり、左側に洋風のドアが一つ、突き当たりの正面には和室の襖が一つ存在している。

「お、おじゃましまーす……」

 突き当たりの部屋がユウ先輩の部屋とのことだったので、僕は廊下を奥まで進むとそう呟きながらすっと襖に手をかけた。中は六畳ほどの畳の部屋で、中央には四角い白いテーブル、端にはパイプベットが見える。ベッドの反対側の壁際にはテレビやカラーボックスが置かれていて、窓には障子ではなく茶色のカーテンが揺れていた。家具の色は白や茶色など落ち着いた色が多いものの、なんとなく和室とのちぐはぐ感を感じる。そして基本的に物があまり表に出ておらずシンプルな印象なので、あまり女の子の部屋という感じもしなかった。女の子の部屋ってぬいぐるみとかアクセサリーとか服とかがわちゃわちゃしているイメージを勝手に抱いていたのだけれど、そういった類の物は一斉見当たらないし。

「はい、お待たせー」

「わっ!」

 そうしてつい部屋の隅々まで観察してしまっていると、ひょっこりとユウ先輩が両手にグラスを持ってやって来た。琥珀色の液体が注がれたそれらを部屋の中央の四角いテーブルの上に置くと、ユウ先輩はテーブルの奥側へと腰を下ろす。

「りんごジュース。好き?」

「あ、はい。好きです」

 僕もユウ先輩の向かいに腰を下ろすと、さっそくグラスを傾けてジュースを戴いた。自転車を漕いで渇きを感じていた体に、冷たくさっぱりとした甘さが染み渡っていく。

「……あの。ユウ先輩、今日はお家の人は……」 

 そうして一息ついたところで、僕はちょっと気になっていたことを尋ねるべく口を開いた。初めて遊びに来たのにお家の人に挨拶もせずに上がり込んでしまったことに、今更ながら思い至ったのだ。こういうのをきっちりしておかないと、今後もう二度と遊びに来るなみたいなことをユウ先輩のお家の人から言われてしまうかもしれない。

「ん? おじーちゃんは畑に行ってるだろうし、おばーちゃんは、んー、どこかな、庭いじりしてるか、近所の人と話してるか、そんな感じじゃない?」

「あ、そうなんですか……。それで、両親はお仕事、と」

 不在や所在がはっきりしていないのなら、挨拶したくてもできないな……なんてことを思っていたら、ユウ先輩がきょとん、と目をぱちくりさせた。その反応の意味がわからなくて、僕は「?」と首を傾げる。

「あれ……言ってなかったっけ。ほら、私この春東京からこっちに引っ越してきたじゃん? でもそれって私一人がこうしておばーちゃん家に来ただけで、両親は今も普通に東京に住んでるんだよね」

「え、ええええ、そうだったんですか?」

 初めて聞く衝撃の事実に、僕は驚きの声を上げる。えっと、ということはつまり、元々ユウ先輩の祖父母は夜宵村に住んでいて、不可思議村の噂を知ったユウ先輩が居候を望んだという構図なわけか。まあそれなら一からこの村に引っ越してくるよりは色々と簡単そうだれど、まだ中学生なのに両親と離れてまでこんな何もないところでの生活を望むなんて、ちょっとオカルトへの情熱と行動力が凄すぎない?

「寂しく……ないんですか、両親と離れ離れで」

「ん、全然。いてもうるさいだけだよ、親なんて」

 僕の問いかけに、ユウ先輩は本当に何でもなさそうにそう言う。まあ思春期の中学生が親に抱く感情なんてそんなものかもしれないけれど、親との仲が良くないという風にも捉えられたので、僕はこれ以上この話を深く聞くことはしなかった。

「それよりアキテル君、今日の活動内容なんだけどさー、せっかくアキテル君が私の家に来てくれたわけだし、ここ引田地区の噂を検証してみようと思います」

「あ、いいですね。近いですし」

 僕は頷きを返すと、ユウ先輩が手元でぱらぱらと捲る旧・怪奇ノートを覗き込んだ。ちなみに新・旧共怪奇ノートの所在は主に、こうしてユウ先輩が所持しているか、そうでなければ部室として勝手に利用している第二図書室に置いてあるかのどちらかであった。今回は休校ということもあって、ユウ先輩が昨日の下校前に図書室から回収したのだろう。まったく、部活する気満々じゃねーか。

「じゃーん、これなんてどうかな、『幽霊を見つめる人形』」

「場所は、引田公園……、ああ、あの気味の悪い公園ですね」

 怪奇ノートに書かれた文字に目を通すと、僕の頭には幼い頃に見た奇妙な公園の光景が朧気に浮かんだ。全然近所でもないけれど、実はその引田公園には幼稚園くらいの歳の頃に親に連れられて何度か遊びに行ったことがあった。

「なんか、たくさん案山子がいるって書かれてるけど、本当?」

「いますよ。確か十五年くらい前に、村おこしかなんかで公園内に大量に案山子を設置したんですよ。元々引田公園はブランコと鉄棒くらいしかないから子供もつまんないって言ってあんまり寄り付かなかったらしくて、そうやってなんとか人を集めようとしたみたいなんですけど……まあ、結果は悲惨ですよね。そもそも観光客なんてほとんどいないし、村民も特に興味を持たず。雨風に晒されてるからどんどん案山子はボロくなって、子供には怖がられるし」

「あー、だからこんな噂も生まれちゃったのかな……」

 ユウ先輩はちょっと同情するような苦笑いを浮かべながら、ノートに目を落とす。そこに書かれていた噂は、こうだった。『引田公園内にはたくさんの案山子が飾られていて、時折その目が青く光ることがある。そのとき、その案山子の視線の先には、幽霊が存在しているのである……』

「光ってるの、見たことある?」

「まさか、ないですよ。というかそもそも、光るなんて無理じゃないかな。だって、目ってボタンですよ」

 僕はそう言うと、自分の着ているジャケットに付いているボタンに手を掛けゆらゆらと揺らした。公園内の案山子の目の部分には、手芸用の大きめの黒いボタンが使われていることが多かった。鳥獣対策のためのものではないため、実用性よりもビジュアルを重視した意外と手の込んだ造りをしているのだ。一体一体にきちんと服が着せられていて帽子やかつらまで被っているため、遠目から見たら人間に見えることもある……いや、それは言い過ぎか。僕が小さい頃でも結構ぼろかったから、今はもっとぼろぼろだろうし。

「ふーん。でもまあ、それは実際行ってみれば明らかになるよね。というわけで、さっそく行こうか、アキテル君! ジュース全部飲んじゃって!」

「あ、は……はい!」

 そう言ってぐびぐびー! と残りのりんごジュースを飲み干すユウ先輩につられて、僕も慌ててグラスを傾ける。そして中身が氷だけとなったグラスを一旦台所の流し台へと置いてから、僕達は玄関をくぐり抜けぽかぽかした日差しの降り注ぐ庭先へと飛び出した。

「……っと、チャリの鍵部屋だった。アキテル君、ちょっと待ってて」

「あ、はい」

 しかしそこで、ユウ先輩は忘れ物を思い出し再び家の中へと引っ込んでいく。そっか、今は学校への通学ではないから、ユウ先輩も自転車で行けるわけか。二人乗りしなくてもいいのは楽で嬉しいような、ちょっと残念なような。そんなことを思いながら、僕は庭の隅に停めておいた自転車に鍵を差し込み、カチャリと回す。そして進行方向である道路側へとハンドルを向けておこうと思い、ガタンとスタンドを蹴った。

「!」

 と、そのとき、僕の視界の隅で何かが動いた。ユウ先輩が出て来るはずの玄関方向からではなく、家の裏手側から誰かが出てきたのだ。見るとそれは若草色のカーディガンを羽織りベージュの長めのスカートを身に纏った、髪の短いおばあさんだった。先程ユウ先輩がおばあちゃんは庭いじりをしているかもと言っていたこともあり、僕はきっとこの人がユウ先輩の祖母なのだろうと瞬間的に思った。向こうも顔を上げてこちらに気付いた様子だったので、僕は慌てて頭を下げる。

「あ……初めまして、おじゃましています。ユウ先輩と同じ学校の、府谷アキテルと申します」

「……っ!」

 しかし僕がそう挨拶をすると、おばあさんは何かに驚くような表情をして顔を引きつらせた。その反応はあまり意図していなかったものだったので、僕は思わず困惑して目を左右に泳がせてしまう。あ、あれ。僕、何か粗相をしてしまったのだろうか。

「あの……」

「は、はい!」

 するとおばあさんがぼそりと口を開いたので、僕は一早く反応して返事をする。ここでおばあさんに嫌われてしまったら、僕は二度とユウ先輩に近づくなと言われてしまうかもしれない。緊張でたらりと汗が流れそうになりながら、僕はおばあさんの次の言葉を待った。

「……その、お友達にあまりこんな風には言いたくないのだけれど、その呼び方は、やめてもらえるかしら」

「……え?」

「お待たせー、アキテル君、行こー」

 僕が聞き返したのと同時に、自転車の鍵を手にしたユウ先輩が玄関から出てきた。すると僕と話をしていたおばあさんはすっと歩き出し、ユウ先輩のすぐ脇を通って家の中へと入っていった。その際ユウ先輩もおばあさんも、互いの方をちらりとも見ない。

「アキテル君何してるの、行くよ」

「あ、は、はい……」

 そしていつの間にか自分の自転車に跨って準備万端となっていたユウ先輩にそう言われ、僕は慌ててサドルに腰を下ろしペダルに足を掛けた。すいーっと僕の体を自転車が運び、少しひんやりとした風が顔に当たり始める。車通りのほとんどないアスファルトの道路をユウ先輩と自転車で横並びになって走りながら、僕はついさっきのことを思い浮かべながら口を開いた。

「あの、ユ……、……東海林先輩」

「はあ?」

 僕がそう呼ぶと、ユウ先輩は瞬時に眉間に皺を寄せてこちらをぎろりと睨みつけた。うわっ、本当に表情がころころと変わる人だな。黙ってさえいれば、ただの美人なのに。

「何その呼び方」

「い、いや、ほら、さっきお会いしたのって、ユウ先輩のおばあさんですよね? あのとき、なんか怒られたんですよ。その呼び方はやめてほしい、って。きっと先輩相手なのに名前で呼んでるのが、馴れ馴れしいと思われたんだと思います……」

「……あー」

 僕が先程の出来事を自分なりに解釈した結果を伝えると、ユウ先輩は何か思い当たることがあるような感じで微妙な声を漏らした。もしかしたらユウ先輩のおばあさんはそういうマナーとかに厳しい感じの人で、過去に僕以外の相手ともこういう出来事があったのかもしれない。

「……わかった。じゃーさー、おばーちゃんの前でだけ呼ばなきゃいいじゃん。普段はいつも通りユウでいいよ」

「えっと、それでいいんですかね……?」

「私がいいって言ってるんだからいいじゃん。東海林なんて長くてめんどいだけでしょ」

 ユウ先輩はそう言うと、少し不機嫌そうに唇を尖らせた。まあたしかに既にユウ先輩で呼び慣れているし、僕としてはそっちのほうが助かるのは事実だ。くれぐれもユウ先輩のおばあさんの前では気を付けよう、と心に誓い、僕はペダルを漕ぐ足に力を込めるのだった。


「うーん……」

 僕は椅子の背もたれにぐっと体重を預けて、ふーっと溜め息を吐いた。目の前のデスクトップパソコンの画面の右下に表示されている時刻は、午後八時四十二分。周囲の景色は過ごし慣れた自室ではなく、落ち着いた配色の家具が多い父さんの部屋だ。夕食を終えた後、僕はかれこれ三十分程、こうしてここでパソコンにかじりついていた。僕の家にあるパソコンは父さんの持つこの一台だけなので、使用したいときには必然的にここへと赴くしかない。そんな自室と違って少し落ち着かない感じのする部屋で、僕は昼間ユウ先輩と検証した引田公園の案山子について調べるべく、ネットの海を泳いでいた。まあ案の定実際に案山子の目が光ったりすることはなく、もちろん幽霊に遭遇するなんてこともなかったのだけれど、あの後もしばし考えを巡らせていたら、『目が光る』という現象に関してのみ僕はある一つの仮説に思い至ったのだった。ポイントは、案山子の目の光る色が『青色』だということ。それは案山子の目、黒いボタンの表面に上手い具合で映り込んだ『空の色』だったのではないだろうか。そう考えた僕はそれを裏付けるようなものがネット上に転がっていないかと探してみたのだけれど、出て来るのは村役場のホームページの観光案内や、物好きな村民か観光客がSNSにアップした何の変哲もない案山子の画像ばかり。都市伝説系の記事をまとめたサイトもいくつか引っ掛かったけれど、そこには旧怪奇ノートのようにただ噂の文面が書かれているだけで、見解や真相に関しての言及は一斉見当たらなかった。

「ない、か。まあ、オカルト的な場所なら他に有名どころがごろごろあるしな……」

 僕はせっかく思いついた仮説の行き場を見失ったような気がして、ふーっともう一度息を吐く。まあでもよく考えてみれば案山子の目の光のカラクリを暴いたところで、その先の幽霊どうこうの話は手の付けようがない。実際今日一時間程公園をうろうろしていたけれど幽霊に遭遇することはなかったし、今回の噂は『はずれ』なのだろう。僕はそう結論付けて、インターネットブラウザを閉じようと×印へとカーソルを向かわせる。

「……あ」

しかしクリックする直前にある事を思いついて、僕は再びカーソルを検索窓へと移動させた。とうかいりんゆう、とキーボードを打鍵して入力し、変換ボタンを押す。そういえばユウ先輩の名前の漢字表記は知らなかったので、一発で出てきた『東海林優』表記で検索にかけた。一体なぜこんなことをしているのかというと、スマートフォン所持者であるユウ先輩が、もしかしてSNSとかをやったりしているのではないかとふと気になったからだった。画面は数秒のうちにぱっと切り替わり、検索結果が表示される。とりあえずざっと下までスクロールしてみたけれど、どうやらSNSのページなどは出てきていないようだった。僕は再びスクロールバーを上へと戻すと、改めてずらりと並ぶ検索結果を眺める。すると一番上に出てきている記事の内容が、下にもいくつか並んでいる記事と重複しているものだということに気が付いた。僕は軽い気持ちで、一番上のその見出しをクリックしてみる。

「なんだこれ、新聞記事か」

 画面に展開された文章は、新聞記事の一部を抜き出したもののようだった。……昨夜七時頃、東京都世田谷区の交差点で下校中だった中学生の列にトラックが突っ込み、数人が死傷するという交通事故が発生した。事故に遭った学生達はいずれも現場近くの鈴ノ(すずのき)学園中等部の生徒であり、数名が骨折などの怪我を負い、病院で手当てを受けた。また、同中学の二年生である東海林優さん(14)は事故の衝撃で頭を強く打ち、病院に搬送されたものの数時間後に死亡が確認された……。

「……えっ?」

 東京、中学二年生、そして東海林優という名前の一致に、僕は思わず画面に顔を近づけてその新聞記事の内容をもう一度頭から読み直した。だけど何度読んでもそれは中学生たちが巻き込まれた不幸な事故について書かれたもので、東海林優という人物が亡くなったことを静かに伝えるものだった。するとふいに僕の頭の中には、初めてユウ先輩を目撃したあの夜の光景が蘇る。周囲を暗闇に囲まれる中街灯のわずかな灯りの下に立ち尽くすユウ先輩は、まるで幽霊のように見えたものだ。

「いや……同姓同名だろ」

 僕は誰に聞かせるでもなく一人でそう呟くと、はは、と乾いた笑い声を上げた。暑いわけでもないのに、額にはいつの間にか汗が滲んできている。……同姓同名? でも東海林なんて、そうそういる名字じゃないだろ。ましてや東京に暮らしていて、ユウ先輩と同じ中学二年生だなんて……。

「……あっ」

 しかしそこで、僕の目は記事の左上に書かれた日付へと吸い寄せられる。そこに書かれていたのは、今から三年前の十一月の日付だった。……ということは、現在中学二年生のユウ先輩はその当時は小学五年生だ。名前と出身都道府県は一致していても年齢が異なるのだから、この記事の人物=ユウ先輩という図式はありえない。はい、これにて証明終了、一件落着。

「……」

 ……のはずなのに、なぜだか僕の心の中はまだすっきりとしなかった。なんでだろう。あの日の夜布団に包まって恐怖に震えた体験がよほどショッキングな出来事となっていて、尾を引いてしまっているのだろうか。たしかにあのユウ先輩の絵面は、幽霊感満載だったけれど……。

「っ!!」

 するとそのとき、僕は唐突に胸につかえていたものの正体に気付きびくん、と肩を跳ねさせた。遅れてぞわぁと背筋から冷たいものが上がってくる感覚がして、思わず自分の口元に手を当てる。僕の胸にわだかまっている違和感の正体は、今日の昼間、ユウ先輩のおばあさんが言った言葉だ。『その呼び方は、やめてもらえるかしら』。庭先で出会った僕に対し、ユウ先輩のおばあさんはたしかにそう言った。つまりは『ユウ先輩のことを名前で呼ばないでくれ』ということだ。僕はそれを馴れ馴れしいからやめてくれ、というふうに勝手に受け取っていたのだけれど、もしかしたら別の意味だったかもしれない可能性もある。ユウ先輩の名前を呼ぶのは、やめてくれ。それは、

 ……それは、死者の名前だから。

「……」

 いくらなんでも、発想が飛躍しすぎた。そう自分に言い聞かせて、僕は新聞記事の画面を消しパソコンをシャットダウンする。だけど真っ暗になった画面に映った自分の顔は、疲労にまみれたひどい顔をしていた。だって、僕は既に身を持って知っていた。ここはおかしなことがたくさん起きると言われている不可思議村で、文字が存在しない異世界へと飛ばされるなんていう常識では考えられないことがマジで起きてしまうヤバいところなのだということを。あのおかしな世界で、僕はなぜだかユウ先輩がどこかに連れて行かれてしまうような不安に苛まれて、ずっと手を握っていた。だけど今思い返してみれば、連れて行かれていたのは、僕のほうだったのではないだろうか。さっき証明が完了したと思い込んでいた年齢のズレも、死亡当時の姿のまま蘇ったと考えれば容易に説明が付く。

「……」

 僕はふらふらと父さんの部屋を後にすると、そのまま自室のドアを開けてばたりとベッドへと倒れ込む。こうして再び、僕に眠れない夜がやって来たのだった。



「……なあカイト。あれは誰だ?」

「あ? あれってどれ?」

 僕が遠くを見つめてそう呟くと、すぐ隣を歩いていたカイトはくるりと顔をこちらに向けた。熊騒動による臨時休校が明けた今日は、六月一日。朝の廊下を歩く生徒達の恰好は衣替えの為に一斉に冬服から夏服へと切り替わっていて、どこか浮き足だった落ち着かない雰囲気が漂っている。男子の上半身は、黒の学ランから眩しい白のワイシャツ姿へ。女子の上半身は、黒のセーラー服から爽やかな白のセーラー服へ。下半身は男女共に冬服と同じなのだけれど、それだけでもだいぶ印象が変わって見える。僕の視線の先にいるその人も、長い黒髪と白いセーラー服とのコントラスト効果で余計に人を惹きつける引力みたいなものが強まっているように感じられた。……惹きつけられてしまってもいい人なのかどうかは、今となっては怪しいところなのだけれど。

「ほら、浜田(はまだ)先輩の隣を歩いてる人。あれは誰だ?」

 僕は遠くの廊下に見えるその人物の後ろ姿へと視線を固定したまま、もう一度カイトに問いかける。ちなみに浜田先輩というのは、僕とカイトが職員棟に行ったときに絡まれた、あのお団子頭の女子の名前だ。あれ以来特に接点はないのだけれど、学校生活を送っていれば自然に名前くらいの情報は僕達の耳にも入って来ていた。

「いや誰って、ユウ先輩じゃん。アッキがいつもべったりの」

「……だよな。や、別にべったりではないけど」

 僕はそう言って、カイトの言葉の一部は肯定し一部は否定する。そこでちょうどユウ先輩と浜田先輩は廊下の角を曲がり、僕達の視界からいなくなった。……やっぱり、普通に僕以外の人にもユウ先輩の姿は見えてるよなあ。僕は顎に手を当てて、うーんと考えを巡らせる。ユウ先輩はあの新聞記事にあった事故で死亡した人物なのか、それとも、はたまたそれはただの僕の勘違いであるのか。それをはっきりさせるには、まだまだ情報が足りない。こうして普通にみんなに認識されて学校に通っているけれど、それも幽霊的な超常パワーの為せる業の可能性もあるし。

「おい、どうした? 大丈夫か、アッキ」

 突然おかしな質問をして難しい顔をし始めた僕を見て、カイトは心配そうにこちらを覗き込む。僕はそれに「なんでもないよ」と答えると、生徒達の流れに乗って廊下を歩き教室へと向かう足を進めるのだった。


「ユウ先輩、手の大きさ比べっこしましょう」

「んー? いいよー」

 僕がそう言ってすっと右手の手のひらを差し出すと、ユウ先輩もすぐに同じように手のひらを突き出してきた。放課後の第二図書室には、相変わらず僕とユウ先輩しかいない。重なった手のひらからは、仄かにユウ先輩のあたたかな体温を感じる。

「あれ、アキテル君身長のわりには手おっきくない?」

「そうかもですね。ほら、一応男の子ですし。っていうか、身長の話はやめてください」

 僕は台詞の後半部分で、ちょっと唇を尖らせる。僕の手は結構肉厚な感じだけれど、ユウ先輩の細くてすらっとした手のひらのほうが大きさとしては若干大きい。やっぱり身長が十五センチ程も違うから、手の大きさで勝つのは今のところ難しいようだ。

「……」

 比べっこを終えた僕はユウ先輩から離した手のひらをじっと見つめると、人知れず握ったり開いたりの動作を繰り返した。……触れる。異世界にトリップしたときにも手を繋いだからそれは既に明らかだったのだけれど、一応もう一度再確認。だけど幽霊=触れることができないとも限らないし、もっと決定的な情報を掴まなくては。

「あ、そういえば、昨日テレビで子供のお受験特集がやってたんですけど、都会って普通に小学校とか中学校受験があるんですよね。ユウ先輩は経験ありますか?」

「あー、一応、小学校受験したよ。私の意思っていうか、親の意思だけど」

 そこで僕は誘導尋問を仕掛けるべく、本当はそんなテレビ番組など見ていないけれどそう嘘の話を繰り出した。なんとなく「ユウ先輩って実は幽霊なんですか?」と直接尋ねるのは憚られたので、こうした回りくどい方法をとっていくしかない。幸いユウ先輩は特に疑問に思わずに話に乗ってくれたので、僕は慎重に自分の欲しい情報が得られるよう会話を組み立てていく。

「へえ、そうなんですか。それで、結果はどうだったんですか?」

「合格」

「! すごいじゃないですか! 頭いいんですね!」

 するとユウ先輩は、おもむろに目の前の茶色のちゃぶ台の上に頬杖をついた。そして少し呆れるような表情で、はあーっと溜め息混じりで言い放つ。

「あのねーアキテル君。あんな小さな頃に頭の良し悪しなんて判別できるわけないでしょ。合否なんて、問題の解答パターンを覚えさせたかさせてないかの違いでしかないわよ」

「え、そ、そうですかね……。でも、やっぱり十分すごいと思いますけど。……その、あれですか? 小学校受験っていうと、もしかして慶應の幼稚舎とか?」

 僕は唯一名前を聞いたことがある、東京にある私立の学校の名前を出してみた。するとユウ先輩は、ますます呆れるような表情になって目を細める。

「まさか。そんな有名所なわけないでしょ。鈴ノ木学園ってとこ。聞いたこともないでしょ」

「!!!」

 さーっと、自分の中から血の気が引いていく感覚がした。ユウ先輩が東京に住んでいた時に通っていた学校の名前は、鈴ノ木学園。それはあの事故に遭った中学生たちが通っていた学校名と、まったく同じだ。名前、死亡時の年齢、学校名の三つが一致している。これはもう、偶然や同姓同名とは思えない。まだ記憶に新しいあのおかしな異世界へと飛ばされたときに感じた恐怖と焦りに似たようなものが、じわじわと自分の中に差し迫ってくる。

「あ、それよりアキテル君、昨日の案山子の話なんだけどさー……」

 ユウ先輩はそうして僕が人知れずショックを受けているのに気付いた様子はなく、いつも通りにこにこと怪現象の話をしはじめる。生きている人間とまったく変わらないように見えるのに、目の前のこの少女は本当は既に死んでいるのだ。一体、なぜ? なぜ彼女は三年もの月日が経ってから蘇り、こうして田舎の中学校で怪奇倶楽部なんていうおかしな部活動に勤しんでいるのだろう? 村の教えに照らし合わせるとするなら、ただのイタズラ、つまり、ただ僕をからかって遊んでいるだけということなのだろうか?



「じゃー、また明日な、アッキ!」

 帰りの会が終わり放課後になると、いつも通り、カイトは通り過ぎざまにそう僕に別れの挨拶をしてくれる。普段はそれに手を振って応える僕だけれど、今日は机の上の通学鞄を引っ掴むと慌ててカイトの後を追った。

「待って、カイト。僕ももう帰るから、昇降口まで一緒に行こ」

「ん? そうなん? あれ、今日はユウ先輩と部活しないのか?」

 通学鞄を背負い部活用のスポーツバッグを肩に提げたカイトが、廊下の真ん中でくるりとこちらに振り返る。友達であるカイトは、連日僕がユウ先輩と放課後に何やら怪しい部活動をしていることを知っていた。

「や……、部活はもうしない……っていうか、そもそも僕、正式に入ったわけでもなかったし。体験入部、っていうか」

「あー、そうだったのか? じゃ、まあ、行こーぜ」

 僕はそんなちょっと歯切れの悪い返事をしてしまうも、カイトは特に気にした様子もなく、スポーツバッグに手をかけて廊下を歩き始める。僕もその隣に並んで、それからは他愛のない会話をしながら一緒に昇降口へと向かった。

「じゃあアッキ、ここでバイバイだな」

「うん、また明日」

 そして下駄箱で上履きからスニーカーに履き替え外に出ると、今度こそ僕達は手を振り合った。昇降口前の外階段にはたくさんの生徒たちがたむろしていて、校門付近では車の出入りが激しくなっている。これらはすべて、部活動の活動場所への送迎を行う保護者達の車だ。学校側がバスを出してくれたりはしないため、部活動がこの学校以外で行われる場合、生徒は自力で活動場所まで移動しなければならない。実はその点が、僕が帰宅部を選択せざるを得なかった理由の一つでもあった。活動場所はほとんどの部活が市内の遠方なのだけれど、両親が共働きの僕にはその移動手段が確保できない。公共交通機関はちょうどいい時間のものが存在しないし、事故などの危険性から自分の子供以外の送迎は禁止されているため友達の親に頼むわけにもいかず、実質諦めるしかなかったのだ。……まあ別に、どうしても入りたい部活があったわけでもないから、別にいいのだけれど。僕はそんなことを思いながら、駐輪場へと向かい自分の自転車を引っ張り出す。そして混雑する校門付近をなんとか抜け、自転車に跨りぐっとペダルを踏み込んだ。

「……」

 そのとき僕はちらりと、コンクリートの校舎の二階、第二図書室がある付近の窓へと目を向けてしまう。きっと今日もユウ先輩はあの畳の上に座り、ちゃぶ台の上で怪奇ノートを広げているだろう。だけど僕はそのイメージを振り払うようにぶんぶんと首を振ると、彼方に見える水平線だけを見据えてただひたすらにペダルを漕いだ。昨日の会話で、ユウ先輩が幽霊だということは完全に証明されてしまった。だからもう、僕は放課後今までのようにユウ先輩に会うことはしないと決めたのだ。村の教えでも『死者の相手をしてはいけない』とあるし、それにこんなことは思いたくないけれど、ユウ先輩が何か悪い霊だったりする可能性だってある。やっぱり、生者が死者に関わることは、しないほうがいいのだ。

 それから二十分程かけて、僕は坂の上にある自宅へと到着する。思えばこんなに早い時間に帰宅したのは、随分久しぶりのことだった。



「あ、いた、アキテル君!」

 教室のドアの付近からそんな声が響いたのは、昼休みのことだった。自分の席に座ってカイトとお喋りをしていた僕は、その聞き覚えのある声にはっとして顔を向ける。見ると教室のドアから、ユウ先輩がひょっこりと顔を覗かせているところだった。ユウ先輩はそのままずかずかと教室に入って来たので、僕は慌ててガタンと音を立てて自分の席から立ち上がる。

「ユ、ユウ先輩……」

「もー、アキテル君、なんで昨日図書室に来なかったの? 心配したんだけど」

 ユウ先輩はそう言って胸の前で腕を組み、唇を尖らせる。先輩がこうして教室に来るのは珍しいので、教室内にいる生徒達は皆一様にちらちらとユウ先輩のほうを見ていた。さっきまで僕とお喋りをしていたカイトも、気を利かせたのか今は少し離れた位置へと移動してこちらを見守っている。

「え、えっと……すみません。昨日は、ちょっと家の方で用事があって……」

「ふうん、そうだったの。だったら、事前に一言言ってよ。じゃなきゃわかんないじゃん」

 すると僕は咄嗟に、そんな口から出まかせを喋ってしまう。本当は僕はここで、『もう部活はやめます、すみません』とはっきり言うべきだったのだと思う。だけどいざユウ先輩を目の前にすると、その言葉はどうにも喉から出てこなかった。何の策もなしに舌戦に持ち込まれたら、ユウ先輩に押し切られてしまうような気も多分にしていたし。

「まあとにかく、今日はちゃんと遅れないで来てよ」

「あ……っ」

 するとユウ先輩はそう言ってこの場を立ち去ろうとしたので、僕は慌ててその細い手首を掴んで引き留めた。手のひらにはほのかに体温が伝わり、ユウ先輩がたしかな質量を持ってそこに存在していることを感じさせる。これが幽霊だなんて、信じられないくらいだった。

「そ、その。実は今日もちょっと用事があって、行けないっていうか……」

 僕はぱっと思わず掴んでしまった手を離すと、俯き加減になってそう言った。いつかはきちんと断らないといけないとわかってはいるのだけれど、とりあえずあと数日はこれで引っ張れるはずだ。しかしその考えは甘かったということに、数秒後、僕は気付かされることになる。

「……」

 ユウ先輩は僕の言葉を聞くと、さらりと黒髪を靡かせてこちらに振り返った。しかしその表情は『無』と形容すべきようなもので、僕は瞬時に不穏な空気を感じ取る。そしてユウ先輩はずかずかと再び距離を詰めて来たので、僕はつい反射的に一歩後ろへと下がってしまった。

「!」

 すると僕の左側で、ガタァン! と何か大きな音が響いた。音がしたほうに顔を向けると、いつの間にか僕が先程まで腰掛けていたプラスチック製の椅子が後方へと吹き飛んで倒れているのが見えた。その状況が理解できなくて、え、と僕は何度も倒れた椅子を見つめては目をぱちくりさせる。教室内にいた生徒達からも、ざわざわとしたどよめきが起きた。物理的に考えて、椅子が勝手に吹き飛ぶことはない。僕はおそるおそる、顔を正面へと向ける。視界に映ったのは、ユウ先輩がスカートから覗く白い足をすっ、と教室の床へと下ろす光景だった。

「……!」

 それを見た瞬間僕はたった今起きた出来事のすべてを察し、思わずまた一歩後退る。なぜ椅子がこんなことになってしまっているのかというと、間違いなく、ユウ先輩がその右足で蹴り飛ばしたからだった。

「なんでそんな見え透いた嘘吐くわけ? 来たくないならはっきりそう言えばいいじゃん。もうアキテル君なんて嫌い」

「……っ!」

 ぐさり、と、鋭い刃物で胸の中心をえぐられたような痛みが走った。もちろん本当に刃物でえぐられたわけではないから、体はなんともなっていない。痛むのは、僕の心だった。ユウ先輩は冷たい目でじろりと僕を一瞥すると、静かに教室を出て行く。僕は「あっ……」と言って咄嗟に右手を伸ばすけれど、それ以上の言葉が出てこない。僕の手は虚しく宙を彷徨い、やがてだらりと下に下ろす他なかった。

「……うっわ、怖っ! おいアッキ、大丈夫か?」

 張り詰めた空気の中、カイトが駆け寄ってきて僕の倒れた椅子を元の位置へと直してくれる。僕は「あ……、うん……」と、かろうじてそう返事をすることしかできなかった。そしてユウ先輩が教室からいなくなったことで、周囲の生徒達のざわめきの波は再び高まっていく。「修羅場だ……」「やべえ……」なんていうコメントが、聞くつもりはなくても勝手に耳に入ってきた。

「……」

 僕は今も痛みの残滓を感じる胸の中心を、ワイシャツの上からぎゅっと掴んだ。僕が嘘を吐いていることを、ユウ先輩は見透かしたのだ。これは百パーセント、僕が悪い。追いかけないと、謝らないと、という言葉が、ぼんやりと頭の中に浮かぶ。だけどそれと同時に、追いかけて、謝ってどうするんだ、という疑問も生じた。だって僕は、もうユウ先輩とは関わらないことに決めたのだ。向こうが僕に幻滅して離れて行ったのなら、それは結果としては好都合なのではないだろうか。

 キーンコーン、カーンコーンと昼休み終了のチャイムが鳴り、生徒達はバタバタと自分の席へと戻って行く。僕もすとん、と椅子に腰を下ろし、ただただぼうっと虚空を見つめた。……僕がもっとちゃんとしていたら、違う終わり方もあったのだろうか。だけど今更そんなことを思っても、もう遅かった。



 ユウ先輩とあの壮絶な衝突をしてからの僕の毎日は、色彩を一つ欠いたような、パズルのピースが一つ足りないような、そんなどこか空虚さを感じるものとなっていた。今まで通り学校では休み時間にカイトと楽しくお喋りをしているし、特に勉強が難しくて大変なわけでもない。だけど放課後直帰して自宅のドアを開けしぃんとした静けさを感じる度に、心にはうら寂しさが迫ってくる。ユウ先輩と出会うまではそんな生活が当たり前だったのだからそのうち平気になるとは思うのだけれど、その為にはどうやらもう少し時間が必要なようだった。

「おい、アッキ、何してんの。もう授業終わったぜ」

「え? あ……」

 ふいにトントン、と肩を叩かれ、僕ははっと我に返った。気が付くと六時間目の授業が行われていたはずの理科室は静まり返っていて、僕とカイト以外の姿は見当たらなくなっている。最近の僕は、こうしてふとした瞬間にぼうっとしてしまうようなことも多かった。いけない、しゃきっとしないと、と自分に言い聞かせながら、僕は慌てて黒塗りの机の上に広げられた教科書やノートを片付けていく。

「あっ……」

「あーもう、何やってんだよ」

 しかしその途中で口の開いたペンケースに指を引っ掛けてしまい、ガシャガシャァ、とペンや定規を床にぶちまけてしまった。カイトはそんな僕に呆れ混じりの声を漏らしながらも、しゃがみ込んでそれらを拾うのを手伝ってくれる。

「ありがと、カイト」

 僕は拾い忘れがないかペンケースの中身を確認しながら、カイトにお礼を言う。そしてどうやら全部きちんと揃っているようだったので、ペンケースのファスナーを閉めようと右手を伸ばした。

「……あれ、これもアッキのじゃね? この紙」

「え?」

 しかしその直前、カイトは何やら小さく折り畳まれた白い紙を発見し、それを掴むと僕に見せるようにゆらゆらと左右に振った。紙? 特にメモなどを入れていた覚えはなかった僕は、きょとん、と首を傾げる。するとそんな僕の反応を見たカイトは、指先でゆっくりとその紙を開いていった。何か持ち主に繋がる情報がないか、確かめようとしたのだろう。僕も気になったので、カイトの側に行き一緒に紙面に顔を近づける。

「あ……」

「……ぶはっ。何これ。ってかやっぱこれアッキのじゃね?」

 そしてそこに書かれていた文字に、僕の目は釘付けになる。隣ではカイトがぶっと吹き出し、にやにやとからかうような笑みを浮かべた。それは今から二週程前に、僕が悩み事を書いて職員棟の裏口のゴミ箱の窪みに挟み込んだあの紙だった。僕はどうやらそれを、ペンケースの中に突っ込んでいたらしい。あの時よりも少し傷んだ印象のするその紙には、僕の字で『身長がなかなか伸びません』、ユウ先輩の字で『可愛いからそのままで大丈夫!』と書かれている。

「……」

 それを見つめていると、ふいに胸の中心がじわりとあたたかくなり、涙が出てきそうになってしまった。僕はつい最近のはずなのに遠い昔の出来事のようにも思える、あのゴミ箱悩み事騒動を思い出す。あの時、僕は悔しいやら恥ずかしいやらで、ユウ先輩に散々文句言って喚き立てた。……だけど、だけど、本当は。

 本当は、嬉しかった。

 僕はふっと、しゃがんだ姿勢のまま膝に顔を埋める。隣ではカイトが心配そうな声を上げるけれど、僕はそれにすぐに応えることができない。頭に浮かぶのは、ユウ先輩のことばかりだ。ユウ先輩と過ごしたこの数週間は、今までの僕の人生の中でも物凄く濃い時間だった。センセーショナルな目撃から、偶然校内で再会を果たして、強引に部活に誘われた。初めて自転車で二人乗りをしたし、異世界に飛ばされるなんていうありえない体験もした。ユウ先輩はいつも勝手で僕の都合なんてお構いなしに物事を進めるし、ちょっとしたことですぐに怒って不機嫌になる。だけど怪現象の話をするときは、小さい子供のようににこにこ笑う。そんな風にころころ変わる表情は、見ていて飽きなくて。

 ……楽しかった。僕はそうやって、ユウ先輩と過ごす時間がすごく楽しかった。部活に付き合うのは暇人だからと言い訳していたけれど、それだけの理由であんなに毎日通い続けられるわけない。僕はユウ先輩と、一緒にいたかったのだ。

 帰りの会を終え放課後になると、僕はもう何度となく通った廊下を歩き、二階にある第二図書室へと向かった。相変わらず辺りには人の気配がせず、しん、と静まり返っている。そして扉の前まで来ると、僕は初めてユウ先輩に呼ばれてここを訪れたときよりもはるかに緊張しながら右手をすっと前に伸ばした。

「!」

 しかしドアは、ガタン! という音を立ててその場に留まり続ける。何度か力を入れてもガタガタと音を鳴らすばかりで、一向に開く気配はなかった。鍵が掛かっている? でもいくら利用者がほとんどいない第二図書室だとしても、こんなに早く閉まるなんてこと……。

「!」

 そこで僕ははっとして、ドアに付いているガラス窓の向こうに目を向けた。御馴染みの部屋の奥の畳のスペースには、ユウ先輩が座っているのが見える。ユウ先輩も僕の視線に気が付いたようで目が合ったけれど、すぐにぷいっと顔を逸らされた。その反応とユウ先輩が中に入れていることから、この現象の真相は明らかだ。放課後先に第二図書室に入ったユウ先輩が、部屋の内側から鍵を掛けたのだ。

「ユ……ユウ先輩っ、開けてください! ほ、ほら、このままだと、僕以外に利用したい生徒も入れないですよ!」

 僕はそう言ってドアをドンドンと叩くけれど、ユウ先輩は聞こえない振りといった様子であらぬ方向を向いたままだ。く……まずい。ユウ先輩は、想像以上に怒っている。とにかく会ってもらえないと、話もできないのに。僕は一度ドアの前を離れると、廊下を少し移動して第二図書室の後ろ側のドアへと手を掛けた。しかしここもガタン! とドアが突っかえ、それ以上開かない。ぬ、抜かりない。こっちも、鍵が掛かっている。

「ユウ先輩……!」

 僕はもう一度、ドアの前でユウ先輩の名前を呼んだ。だけどユウ先輩は尚もこちらを見ることなく、わざとらしくちゃぶ台に広げたノートに目を落としている。こ、これは……ちょっとやそっとじゃ開けてもらえなさそうだぞ。最悪下校時刻にならないと、ユウ先輩は出て来てくれないかもしれない。長い戦いになるのを覚悟しかけた、そのときだった。

「!」

 僕の目は、前側のドアでも後ろ側のドアでもない、第三の入り口を捉えた。それは高さおよそ五十センチ、横幅八十センチほどの、小さなドア。何の用途のために存在しているのかはまったく想像がつかないけれど、この学校の教室には前側のドアと後ろ側のドアを繋ぐ壁の下方にこういったドアが備え付けられていることが多かった。幸いここ第二図書室にも存在していたそのドアを、僕はしゃがみ込んだ姿勢になってガラリと開ける。

「ああっ……」

 しかしその先にあったのは、茶色の絶壁。ちょうどドアの先を塞ぐように、本棚が置かれてしまっているのだ。僕はぐっと両手で本棚を押してみるけれど、ピキッ、と木が軋む音がしただけで終わる。動かすのは、到底無理そうだ。

「……っ」

 しかし、諦めるのはまだ早い。この小さなドアは、まだ他に五つもついている。僕が今開けたのは、後ろ側のドアに一番近いドアだ。ならば前側に一番近いドアなら、本棚に突き当たっていない可能性もある。僕は廊下を走って移動すると、ガラリ、と望みを託してその小さなドアを開けた。その先に本棚は、ない。それを見るやいなや僕はすぐさま背負っていた通学鞄を廊下へと投げ捨てると、床に這いつくばって匍匐前進のような動きでそのドアから図書室内へと侵入した。ガンガンと腕の骨が冷たくて固い床に打ち付けられて少し痛かったけれど、なんとか全身を移動させ図書室内へと降り立つ。

「うっわ……普通そこまでして入ってくる? キモいんだけど」

 この僕のエキセントリックな入場方法に、ユウ先輩は虫けらを見るような目をしてドン引きしていた。その言葉に傷つかないわけではないけれど、これでようやく話ができるようになったのだ。僕はユウ先輩の正面、畳のスペースのすぐ前まで歩くと、膝を折って手を突きおでこを床へと擦り付けた。ジャパニーズ、土下座スタイルである。

「ちょ……」

「僕は、ユウ先輩に嘘を吐きました。ごめんなさい! そして、謝るのがこんなに遅くなってしまったことも、ごめんなさい!」

「ちょっと……なんでそこまでするの。プライドとかないわけ」

 顔を床に向けているから僕から表情は見えないけれど、台詞と声色から判断するにユウ先輩はまたもやドン引きといった様子だった。だけどユウ先輩に許してもらうためならば、僕はプライドなんていくらでも捨てる。僕は一旦顔を上げると、すっとズボンのポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。四つ折りにされていたそれを開き、ばっとユウ先輩に向かって突きつける。

「……何」

「入部届です。僕は、その、ちょっと怖気づいてしまったというか、そんな感じだったんです。だけどもう、大丈夫になったんで。その証明というか……その、全然正式なものでもなんでもないんですけど、これが僕の、覚悟です」

 ユウ先輩は突きつけられた紙面を、ぱちくりと大きな瞳で見つめる。B5のノートを切り取ったその紙には一番上に黒のボールペンで『入部届』と書かれ、その下には僕のクラスと名前、怪奇倶楽部に入部する旨と今日の日付を記してあった。ご丁寧に、日付のすぐ脇には拇印まで押してある。ここまでする必要はなかったのかもしれないけれど、これで少しでも、僕の本気度が伝わればと思った。ユウ先輩は何かを考えているように、無言で僕の持つ入部届の紙を見つめている。しぃんとしたその沈黙は僕にとっては落ち着かなくて、伸ばした右手はぶるぶると震えてきそうだった。

「……あーもー、アキテル君は怖がりだなぁ」

「!」

 するとやがて、ユウ先輩はやれやれといった様子ですっくと立ち上がった。そしてすたすたと床に膝を突いて座っている僕へと近づくと、ピッと入部届の紙を奪い取る。

「異世界に行ったときもさー、手繋いでくださいとか言ってくるし」

「え、ち、違、あれは……」

 ユウ先輩にそう指摘され、僕はかっと顔を赤くする。あれの理由の大部分を占めていたのは怖いという感情ではなくて……と説明しようと口を開きかけるも、それよりも一瞬早く、伸びてきたユウ先輩の右手が僕の頬に触れた。ユウ先輩はそのまま少し顎を上向けるように手に力を込めるので、思わず僕の息はぐっと詰まる。

「でも、いいよ。そんな怖がりなアキテル君は、私が守ってあげる」

 ユウ先輩は立った姿勢のまま僕の目を覗き込むと、ゆっくりと頬の上に親指を滑らせた。しん、と静まり返った第二図書室は、まるで僕とユウ先輩二人だけのために存在しているかのようだった。後方の窓から差し込む日の光が、ユウ先輩の顔の左側を照らす。絹糸のような黒髪が一房、さらりと真っ白なセーラー服の上を流れた。

 幽霊であるユウ先輩がなぜ現世に留まっているのか、僕にはわからない。だけど一般的に考えたら、まだ何かこの世に未練があるのだろう。だとしたらきっと僕がすべきことは、その未練を解消する手伝いだ。ユウ先輩の未練が何なのかは想像もつかないし、直接聞くのもなんとなく憚られるけれど、一緒にたくさんの時間を過ごしていればおのずとそれは見えてくるだろう。そして無事に未練が解消すれば、きっとユウ先輩は成仏できる。……まあ、そこらへんのことはいつだったかユウ先輩自身が言っていた『そもそも成仏ってする必要あるの?』という哲学的な問いかけが立ちはだかってくるような気もするけれど、未練があるよりはないほうがいいというのは、絶対だと思う。その上で成仏するかしないかは、ユウ先輩の選択次第だ。

 そしてもう一つ、万が一ユウ先輩が何か悪い霊で、僕を騙して何かを企んでいるのだとしても、特に問題はない。その場合は、僕がユウ先輩を改心させればいい話だ。僕は、ユウ先輩と一緒にいる。それはユウ先輩がどんな存在であっても、僕の中でもう揺らぐことは、ない。


「そうだ、ちょっと、見てよアキテル君このページ。ひどいと思わない?」

 こうして無事に仲直りを済ませた僕が畳のスペースへと腰を下ろすと、ユウ先輩はさっそく活動再開とばかりに、ちゃぶ台の上のノートをすっと突き出してきた。その一週間ちょっとぶりの感覚に、僕は思わず頬を緩ませる。そしてどこか懐かしさを感じる畳と本とユウ先輩の甘い匂いを胸いっぱいに吸い込むと、ノートの紙面に目を落とした。書かれていた字体はユウ先輩のものではなかったので、どうやらこれは旧ノートのほうのようだった。しかしまず内容うんぬんよりも、このページには明らかにおかしなところが存在していた。

「うっわ……八割方真っ黒ですね、インクでもぶちまけたんでしょうか」

「本当に迷惑な話。別のページに書き直してあるかと思って探してみたんだけど、見当たらなかったし」

 ユウ先輩はそう言って、ぷくうと頬を膨らませる。そのページは下方三分の二ほどが真っ黒なインクのようなもので染まり、そこに書かれていたはずの文章を読むことができなくなってしまっていた。一応顔をうんと近づけたり裏から透かして見てみたりもしたけれど、残念ながらその闇を突破することはできなかった。

「あー、最悪。これ日付が指定されてて、もうすぐだったのに」

 ユウ先輩がそう言ってはあ、と溜め息を吐くので、僕は無事である紙面の上方へと目を向けた。一番上には『死者たちが集う夜』と黒のボールペンでタイトルが書かれている。続いて、『六月二十四日の丑三つ時……』あ、本当だ。今から、二週間ほど後の日付が指定されている。

「……でも、なんで六月二十四日? 半端だし、別に特別な日でもないですよね」

「私もそう思ってググってみたらさ、なんかその日、村の山に隕石が落ちたって出来事があったらしいよ。明治時代だったかな」

「え、そうなんですか?」

 知らなかった。一応僕、村生まれ村育ちなのに。そんな風にちょっと衝撃を受けつつも、僕は気を取り直して文章の続きに目を向ける。『六月二十四日の丑三つ時、村のある場所に、死者が集うのだという。そしてその場所というのは、村に隠された五つの文字を組み合わせることで明らかとなる。その文字が隠された場所というのは、まず一つ目は、水沢(みずさわ)地区にある台座石であ……』ここから先は、インクで塗り潰されてしまっていて読めない。

「文字が隠されている場所の一つが、台座石だってことだけは読み取れますね。……あれ、でも、あの石に文字なんてありましたっけ」

「前に行ったときは、気付かなかったよね」

 僕達はうーんと、あの振動によって勝手に回転してしまう灰色の石の記憶を丁寧に思い出す。だけど上の丸い石にも、台座となる四角い石にも、文字が書かれていたりしたような記憶はなかった。

「……まあでももしあったとしても、それ一つじゃ意味ないし。もう四つの場所がわからないと」

 するとユウ先輩は、珍しくそんな弱気な発言をした。いつも最後の最後まで怪現象の可能性を追い求めているユウ先輩が簡単に諦めるなんて、なんだからしくない。そう思ってちらりと表情を窺うと、どうやら諦めているというよりもふてくされているといった雰囲気に近いような感じに見えた。そしてそれを見て、僕はちょっと安心する。諦めたようにして落ち込まれるよりは、そうやって怒って不機嫌になってもらったほうがいい。

「行ってみましょう、台座石」

「……え?」

 僕がにこりと微笑んでそう提案すると、ユウ先輩は驚いたように目を見開いた。今まで僕はあまり積極的に怪現象の調査をする素振りを見せたことはなかったから、珍しいと思われたのだろう。そんな反応をされるとちょっと照れくさくなってしまいつつも、僕はすっと立ち上がる。

「せっかく一つは場所がわかってるんですから、文字があるかどうかだけでも確かめる価値はありますよ。さあ、行きましょう」


「やっぱり石の表面に、文字は書かれてないですね……」

 前と同じく二人乗りで自転車を走らせること、約二十分。僕達は緑が生い茂る林の入り口部分に存在する、台座石の前までやってきた。薄く平べったい四角い石の上に楕円形の石が載っている台座石の光景は相変わらずだけれど、季節が変わって気温が上がったせいか、周囲からは前に来た時よりも緑の匂いを強く感じる気がした。とりあえずなめるように石の表面を見回してみるけれど、目に入ってくるのはざらざらとした灰色のみで、文字が書かれている様子はない。

「アキテル君、これ、上の石が外れたりするんじゃないの?」

 するとユウ先輩はすっと台座石のすぐ傍にしゃがみ込み、そう言って上に載っている楕円形の石を指差した。なるほど。たしかに上の石の中央には支柱が刺さってるんじゃないかと言われているから、持ち上げたら引っこ抜ける可能性もある。

「ちょっと、試してみますね……」

 僕はそう言うと、がっとスニーカーを履いた左足を下の四角い石の隅っこに乗せ、両手で上の楕円形の石の底の部分を掴み中腰の姿勢になった。そして腕の筋肉に力を込め、石を真上へと持ち上げてみる。

「ぐっ……!」

 しかし内部でどこかに突っかかっているような感覚がして、石は数ミリほど浮き上がったところで止まってしまう。石をごりごりと回転させて何度もトライしてみるけれど、結果は同じだった。

「じゃあ、台座の裏とかは?」

「ああ、なるほど……。ひっくり返してみましょうか」

 僕は少し汗が滲んでしまっていた額を手でさっと拭うと、今度はしゃがんだ姿勢になってぐぐぐ……と楕円形の石を向こうに倒すように力を込めた。すると下の四角い石と土の地面との間に空間ができたので、そこにさっと左足を差し込む。そしてその隙間を利用して四角い石の底に手を掛け、ぐぐうっとちゃぶ台をひっくり返すようにして向こう側へと押しやった。ドスッ、と鈍い音を立てて、台座石は地面へと倒れる。

「……あっ」

 僕がはあ、はあと息を吐きながら自分が無残に倒してしまった台座石に目を向けていると、ユウ先輩が声を上げた。見るとユウ先輩の視線は倒れた台座石ではなく、それが置かれていた土の地面へと向けられている。

「何かありました?」

「なんか……赤いものが見える」

 ユウ先輩はそう言うと、長年石が置かれていたせいで周囲よりも濃い色になってしまっている地面の表面を、さっさっと手で払い始めた。すると茶色の地面のところどころに、ぽつぽつと赤い何かが覗き始める。土の下に、何かが埋まっているみたいだ。

「ユウ先輩」

 僕は一旦台座石を離れると近くから適当に木の枝を二本拾ってきて、一つをユウ先輩へと差し出した。重量のある石が載っていたせいでその部分の土は大分固くなってしまっているようだったし、木の枝を使って掘ったほうが絶対に早い。僕とユウ先輩はがしがしと一心不乱に木の枝を動かし、余計な土を取り除いていく。するとやがてその正体不明の赤い物が、四角い板のような形をしているということがわかってきた。そしてそのマンホールみたいな素材でできた板の中心に、曲線のような窪みがあることにも気付く。

「……『ぬ』?」

「……『ぬ』だね。どう見ても。ひらがなの」

 僕とユウ先輩は土を掘る手を止めると、口々にそう呟いた。台座石が載っていた土の下に隠されていた、名刺より少し大きいくらいの赤い板。その中心には、『ぬ』と綺麗にひらがな一文字が彫られていたのだった。

「す、すごい……。ずっと近くに住んでたのに、こんなのあるなんて知りませんでした」

「多分、知ってる人なんてほとんどいないんじゃないかな……。めっちゃ土こびりついてたし、実際にこの文字が表に出たのなんて、相当久しぶりだよ、絶対」

 僕とユウ先輩は何か見てはいけない秘密を掘り起こしてしまったような気分になって、しばし呆然とその赤い板を見つめる。実際にたしかな物質として怪現象の手がかりのかけらが見つかるなんて、これはあのノートに書かれている噂は本物である可能性が高いのではないだろうか。ユウ先輩もそんな風に思ったのか、すっと立ち上がると近くに停めておいた自転車へと向かい、籠に放り込んであった旧・怪奇ノートを取り出し件のページに目を凝らす。しかし残念ながらその漆黒は、屋外の日の光の下で見たところで突破されるようなレベルではない。

「あーあ、悔しいな。私この噂、結構本命だったんだけど。せっかく文字は本当に存在するってわかったのになー……」

 そのユウ先輩が言った台詞の中の『本命』という言葉に、僕はぴくりと反応する。ユウ先輩は、何かこの噂に並々ならぬ思いがあるのだろうか? そしてもしかしてそれが、ユウ先輩の『未練』と何か関係している? 

「……ネットは、どうですか? 都市伝説系のサイトとかに、たまに不可思議村のことが載ってたりしますけど」

「もうとっくに調べたよ。だけど、出てこなかった」

 ユウ先輩は、そう言って溜め息を吐く。うーむ。ネットにもないとなると、これはたしかにお手上げかもしれない。だけど僕はユウ先輩の何か深い所に繋がる可能性のあるこの噂を諦めたくなくて、意味がないとわかってはいつつも再び怪奇ノートを覗き込む。

「……ん?」

 するとそこで、僕の目は無事である紙面の上方の左端に書かれている、星型に近いマークのようなものを捉えた。そのマークの内側には、点々と五つの小さな黒い丸も見える。……あれ。何か、何かこの形を見たことがあるような気が……。

「! 地図だ!」

「え?」

 僕が急に声を上げたので、ユウ先輩はちょっと驚いたように顔をこちらに向けた。僕はそんなユウ先輩から旧ノートを奪い取ると、指先で確かめるようにして一つの黒い点に触れる。おそらく台座石は、村の北部にあるこの点だ。

「何? アキテル君、どうしたの」

 ユウ先輩は困惑した表情で、僕を見つめる。僕はすっとノートの紙面をユウ先輩に見えるように突き出すと、今気付いた事実について説明するべく口を開いた。

「この、左側に書かれてる星みたいな形ありますよね? これ、おそらく村の地形です。この村って星に近い形をしていて、村の公式ゆるキャラであるヤヨイちゃんも、それにちなんで顔が星の形をしてるんですよ」

「……ふうん? そうなの」

 しかしユウ先輩はヤヨイちゃんを見たことがないのか、あまりピンと来ていないような反応だった。ちなみにそのヤヨイちゃんのビジュアルというのは東京スカイツリーのキャラクターにめちゃくちゃ似ているので、見たらきっとユウ先輩も東京に住んでいた頃を思い出してノスタルジーを感じてくれるだろう……って、今はヤヨイちゃんのことはどうでもいい。僕は気を取り直して、すっと人差し指を紙面に滑らせる。

「それで、この村の地形の中に、黒い点が五つ書かれてますよね。おそらくこれは、文字が隠されてる場所を示したものです。台座石は、ここ」

「!」

 するとようやくユウ先輩も僕の言いたいことがわかったらしく、先程までよりも前のめりになって黒い点達にじっと視線を向けた。

「じゃあ、この黒い点の場所がどこなのかを特定できれば、文字が隠されてる場所が全部判明するってこと?」

「そうなりますね。ただ、この地図はだいぶ簡略化されて書かれてるので、点の位置だけで場所を絞り込むのはちょっと難しそうです」

 僕がそう言うと、一瞬明るくなったユウ先輩の表情に再び陰りが差した。それを見た僕は慌てて、言葉を付け加える。

「だから、ユウ先輩。怪奇ノートに書かれている噂の中から、場所がはっきりしているものだけを抜き出してみましょう」

「……え? なんでそんなこと……」

 ユウ先輩は、不思議そうに目をぱちくりとさせて首を傾げる。僕はふっと、先程倒して転がったままの状態の台座石のほうへと視線を向けた。頭には、約一か月ほど前にユウ先輩とこの石の調査に訪れたときの光景が浮かんでいた。

「文字が怪現象にまつわるところに隠されているのだとしたら、それは怪奇ノートに書かれている場所の可能性が高いです。この、台座石のように。そこまで候補が絞り込めれば、点の位置に当て嵌めるのも、そんなに難しくはないと思います」

「!」

 僕の言葉を聞くと、ユウ先輩ははっとした表情になる。僕はこくりと頷くと、手にしている怪奇ノートの一番最初のページを開いた。そしてパラパラとページを捲り、僕達は場所がはっきりしている噂を次々とピックアップしていく作業へと取り掛かるのだった。



「ここ、ですね」

「……うわぁ、結構量あるねー」

 僕とユウ先輩はすとん、と自転車から降りると、そう言って道路の端、山肌に沿ってそびえ立つ灰色のコンクリートの壁を見上げた。この壁は近くにあるトンネル脇から八メートル程続いており、その高さは五、六メートルくらいあるように見える。壁には縦横に溝が走っていて、正方形がいくつも連なっている模様を形作っていた。怪奇ノートによればこの正方形は、縦にきっちり五十個ずつ並んでいるらしい。しかしその一定であるはずの正方形は時折五十一個に増えたり四十九個に減ったりすることがあるそうで、それを検証することが今日僕達がここを訪れた理由の一つであった。

「やっぱり普通に考えたら、この正方形のどこかに文字が書かれてるのかな」

「そうでしょうね。というか、そうじゃなかったらもうお手上げな感じがするんですけど。台座石と違って、この壁をを引っぺがすことはできないですよ」

 ユウ先輩の言葉に、僕はそう言って思わず苦笑いを返す。僕達がここに来た理由のもう一つは、この場所に隠されているはずの文字を探すためであった。文字が怪現象にまつわるところに隠されているのではないかという僕の予想はビンゴで、怪奇ノートに書かれている場所で黒い点の位置に当てはまりそうな場所を訪れてみると、次々と文字を発見することができていた。今までに見つけたのは、台座石の『ぬ』、そして他三箇所から、『ま』、『ち』、『て』の文字。なのでこの壁で文字を見つけることができれば、五つすべての文字が揃うことになるはずだった。

「よし、それじゃあ両端に分かれて、数を数えがてら文字がないかチェックしていこう……っと、あれ、アキテル君、あれって……」

「?」

 するとふいにユウ先輩が、ふっ、と視線をコンクリートの壁とは反対側の方向へと向けた。僕もその視線を追って、くるりと体を反転させる。

「あ……」

 すると目に飛び込んできたのは、トンネルのすぐ手前、壁とは反対側の道路の端にあるガードレールの根元に置かれた、黄色を基調とした花で構成された花束だった。そしてそれを見た瞬間に、僕の頭に昔聞いたある話の記憶が蘇る。

「……そうでした。えっと、たしか十年くらい前だったかな。ここで、車の転落事故があったんですよ。落石に巻き込まれて下の川に転落して、乗っていた一家四人が亡くなったんです。このガードレールができたのは、その事故があってからだったはずですよ」

 僕はそう言って白いガードレールの淵に手をかけると、眼下に見える景色を覗き込んだ。この場所はぐるぐると山を上って行く途中にある道路なので、道の片側は崖っぷちのようになってしまっていて、平地との高低差はおそらく十五メートル以上はある。すぐ下を流れる幅の広い川はそんなに深さはなかったはずだけれど、この高さから落ちたらやはり生存は厳しかったのだろう。僕はすっと置かれている花束の脇にしゃがみ込むと、手を合わせて目を閉じる。すぐ隣ではユウ先輩も同じ動きをして、しばしここで亡くなってしまった一家へと思いを馳せた。

「普通に集落の中を走ってる道路なのに、落石なんてあるんだね」

「まあ……山ですからね。しょうがないっちゃ、しょうがないですよ」

 僕はちらりと、トンネルの入り口の上方に張られた白い看板に書かれた『落石注意!』の赤い文字を見つめる。そう言われても、正直落石なんて注意しようがない気がするんだけど。せいぜいヘルメットを被るくらいだろうか、できることと言えば。まあそれも体の何倍もあるようなどでかい石が落ちてきた時点で、もうアウトだけど。

「ってことは、もしかしたら私達がここで正方形を数えている間に、落石が頭に直撃して死ぬ可能性もあるってことか」

「……いやまあ、絶対ないとは言いきれないですけど、なんちゅー縁起でもないことを……」

 ユウ先輩がさらりと言い放った言葉に、僕は思わず顔を引きつらせる。だけどユウ先輩はそんな僕の反応に抗議するように「えー」と言うと、さらに言葉を続けた。

「だってさ、結局のところ人間なんていつ死ぬかわかんないじゃん。落石じゃなくてもさ、もしかしたら今この瞬間に、私がうっ、て胸押さえてぶっ倒れて死んじゃうかもしれないよ。ねえ、そしたらアキテル君どうする? もし私が今ここで死んだらさ」

「……っ」

 そんな風にまったくなんでもないことのように自分の『死』の可能性について語るユウ先輩の真意が掴めず、僕は困惑する。ユウ先輩は本当は既に死んでしまっている幽霊だから、そんなことを言って僕の反応を見ようとしているんだろうか。

「……悲しいですよ」

 そうして少しの間黙り込んでしまってから、僕はぼそりと呟いた。その言葉に反応して、ユウ先輩が顔をこっちに向ける。ぶわあっとトンネルを抜けて吹き込んできた風が、僕とユウ先輩の髪の毛や制服の裾を容赦なく暴れさせた。

「だけどユウ先輩なら、そうなっても化けて出てきてくれそうです」

 そして風が治まったところで、僕はそう付け加える。するとそれを見たユウ先輩はぱちくり、と一つ大きな瞬きをした後、ふっと表情を崩した。そしてにっこりと弾けるような笑顔になって、こう言うのだった。

「あはっ、かもねー」


「……あ! アキテル君、見つけた、あれじゃない?」

「えっ……!」

 それからしばし黙々と正方形を数える作業に没頭していると、ふいにユウ先輩のそんな声が聞こえたので、僕は近くに落ちていた砂利の一つを拾い、目印になるように自分が今数えていた正方形の列の下の道路に置いた。途中で文字が見つかったとしてもここまで数えたからには最後まで全部の列を数える気でいたので、また最初からなんてことにならないための措置だ。そうしてから僕は、少し離れた所で同じように数を数えていたユウ先輩の元へと駆け寄る。ユウ先輩が指差しているのは壁の上方、僕達の身長よりも高いところにある正方形だった。

「あ、本当だ!」

「『ん』だね。最後の文字は」

 その灰色の正方形には、『ん』とひらがな一文字が彫られてあった。僕は無事に文字を見つけることができたことに、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。その文字が彫られていた正方形はかなり高い位置に存在していたため、普通にざっと壁を見渡しただけでは見つけるのは難しかっただろう。ひたすら数を数えるという作業は中々の苦痛を伴うものだったけれど、一つ一つをしっかりと確かめることで文字の見逃しを防げたのだから、結果的にはよかったのかもしれない。

「さて、アキテル君。この五つの文字を組み合わせた場所が、死者が集うって言われてる場所なんだよね。何か心当たりある?」

 ユウ先輩は胸の前で腕を組むと、期待の込もった眼差しで僕を見つめる。僕は顎に手を当ててしばし黙り込むと、顔を上げておそらく答えだと思われる単語を口にした。

「天地沼、だと思います」

「てんちぬま?」

 ユウ先輩はその名前も聞いても特にピンとは来ていないようで、ぎこちなく僕の言葉を復唱する。『ぬ』、『ま』、『ち』、『て』、『ん』。この五つの文字を色々と並び替える中で僕が聞き覚えがあると感じた単語が、今口にした『てんちぬま』だった。

「小学生の時に、校外学習で湧き水探検に行ったことがあるんですけど。その道中で、そんな名前の沼を見たような記憶があります」

「へえー。私はまだあんま村に馴染みがないからわかんないけど、アキテル君に一番にそれが浮かんだんなら、きっとそれが答えなんだと思うよ」

 ユウ先輩はそう言って、僕の考えを支持してくれる。そこで僕はちらりと壁の反対側へと目を向け、空に浮かぶ太陽の位置をざっと確認した。放課後、学校出たのが午後四時くらいで、ここに来るまでにおよそ十五分。それから三十分くらいはここで正方形を数えていたから、現在時刻は午後五時前ってところだろう。残りの正方形はもう三十分もあれば数え終わるだろうし、最近は日も高くなってきているから、時間的には大丈夫そうだ。

「残りを数え終わったら、行くだけ行ってみましょうか、天地沼」

 

 ガシャン、と、僕は自宅の庭先で、自転車のスタンドを立てた。そしてさっきまでユウ先輩が乗っていた自転車の荷台部分にバランスに気を付けながら自分の通学鞄を乗せると、たたっと走って家の前の道路まで出て行く。

「お待たせしました。こっちです、行きましょう」

「おー」

 そしてそんな呑気な感じの返事をするユウ先輩を引き連れて、僕は自宅のすぐ脇の小道へと入っていった。緑の生い茂る木々に囲まれた中を伸びる獣道は、山の奥へと向かって続いている。周囲の景色はどこも似たような感じに見えるけれど、所々に『クヤの湧水』という文字と共に赤い矢印の書かれた看板が設置されているため、その指示通りに進めば迷う心配はないはずだ。ちなみに『クヤ』というのは山の神様の名前だと、小学生の時に教わった記憶がある。たしか夜宵神社に祀られている神様にも、同じ名前のがいたはずだ。

「んー、多分、そろそろだったと思うんだけど……」

 僕はマイナスイオン全開といった自然の中を歩きながら、辺りをきょろきょろとし始める。湧水のポイントまでは山の入り口から歩いて四十分くらいと結構な距離があるのだけれど、僕の記憶では沼を目撃したのはその道中の結構序盤だったはずだ。

「あ、アキテル君。もしかしてあれじゃない?」

 すると隣を歩いていたユウ先輩が、すっと人差し指を遠くに向ける。その先に目を向けると、密集していた木々が少しまだらになっている部分があって、さらにその奥に隙間だらけの木の柵に囲まれた沼のようなものが見えた。

「あ、そうです。多分あれが、天地沼ですよ」

 僕は獣道を逸れ、沼らしきものが見えるそのぽっかりと開けた空間へと足を向かわせる。沼の傍らには古びた角材のようなものが突き刺さっていて、目を凝らすとそこに『天地沼』と黒のマジックで書かれた文字が見えた。

「……あれ、でもなんか、チェーン掛かってない?」

「え、あ、本当だ……」

 しかしそこでユウ先輩がそう呟くのが聞こえ、僕は遠くに見える沼付近を見つめていた視線を、自分の近くへと戻した。するとところどころずり落ちてしまってはいるけれど、まだらに生えている木々を利用するような形で、金属製のチェーンが掛けられていることに気が付いた。そして、そのチェーンの先に吊り下げられた看板へと目が留まる。そこには、『私有地 許可なく立ち入りを禁ず 夜宵神社』とレタリングされた文字で書かれていた。

「え、この一角って、神社の土地だったんだ。知らなかった……」

「ってことは、入れないってことだよね。でもここからだと遠すぎて、沼で何か起こっててもわかんないよね……」

 ユウ先輩は看板が吊り下げられているチェーンに手を掛けると、身を乗り出すようにして遠くの沼へと目を向けた。このチェーンで仕切られている位置から沼までは、五、六メートルはあるように見える。しかもあの噂が指定している時間は夜中だから今よりもますます視界が利かないわけで、ユウ先輩の言う通り、ここからでは調査にならないだろう。

「……でも、『許可なく立ち入りを禁ず』ってことは、許可さえとれば入ってもいいんじゃないかな」

 僕はそう呟くと、もう一度看板へと目を向ける。そこに書かれた『夜宵神社』という文字を見つめる僕の頭には、一人の女の子の顔が浮かんでいた。

「……ユウ先輩、僕に任せてください。なんとかしてみせます」



「マシロ、ちょっと、いい? 話があるんだけど」

「……え?」

 昼休み。僕は五時間目の体育の授業が行われるグラウンドへと向かおうとしていたマシロを、昇降口の下駄箱のところで呼び止めた。マシロも僕も上は白い半袖Tシャツ、下は側面に白いラインが二本入った青色のハーフパンツを身に纏っている。マシロと一緒にいた女子達と、僕と一緒に昇降口まで来ていたカイトは、先に行ってるよー、と言ってぱたぱたとグラウンドへと出て行った。僕は何事かと怪訝そうに首を傾げるマシロを、ちょいちょいと手招きして昇降口の隅のほうへと誘導する。そうして二人きりとなって正面で向かい合ったところで、僕は話を切り出した。

「僕の家の近くの山の中にさ、マシロん家の神社の私有地があるの知ってる?」

「山? ……ああ、あの沼の一角か」

 マシロは一瞬視線を斜め上へと向けると、そう言葉を返した。お、どうやら、マシロも天地沼付近の土地が自分の家の私有地だということは知っていたようだ。それなら話は早いので、僕は単刀直入に本題へと入る。

「それでさ、その私有地に、ちょっと入りたいんだけど……」

「ダメ」

「……っえ!? なんで!?」

 すると間髪入れずににマシロがノーと即答したので、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。マシロはそんな僕を冷たい目でじろりと睨むと、すっと胸の前で腕を組んだ。その仕草を見ただけで、今現在のマシロの機嫌が良くないということが明確に伝わってくる。

「その、一日だけでいいんだけど……!」

「ダメ」

 僕はそう言葉を付け加えるも、またしても、マシロの返事はノー。まさかこんなに頭ごなしに否定されることは想定していなかったので、次に出すべき言葉が思いつかず僕は口をぱくぱくさせる。マシロはそんな僕を再び冷たく一瞥すると、こつん、と近くにあったクリーム色の壁に背中をもたれかけさせて言い放った。

「だってそれ、どうせユウ先輩とやってる意味わかんない活動の一つでしょ。怪奇倶楽部、とか言う奴。悪いけど私、そういうオカルト的なのとか非科学的なこととか、大っ嫌いだから。うちの神社に神頼みに来る輩とかも、バッカじゃないのって思う。神なんていないのに」

 じ、神社の娘がそれ言うか……! と僕はちょっと衝撃を受けたけれど、まあ考え方は人それぞれだ。マシロの思想はおそらく一朝一夕では変えられないので、僕は違う方面からのアプローチを試みる。

「で、でも、土地の所有者は、マシロじゃなくてマシロのお父さんとかだろ? マシロがダメって決めつけられる立場じゃ……」

「どーだか。私があいつらは不良だからうちの土地で何しでかすかわかんないよ、って言ったら、お父さんも許可出さないんじゃないかな」

「うっ……」

 まずい。そのマシロの言葉を聞いて、僕の中には本格的に焦りが生じてくる。これはどうやら、マシロを説得しない限り僕達は天地沼へと一斉近づくことができなさそうだ。直接神社へと伺いを立てるよりもマシロを通したほうが何かと融通が利くのではと思ってワンステップ踏んだはずだったのに、それが裏目に出る結果となってしまった。だけど今更後悔しても仕方がないので、僕は何とかここから状況を立て直そうと躍起になる。

「……その、マシロがオカルトとかそういうのが嫌いなのはわかったよ。だけど、マシロがそれを嫌いなように、世の中にはそれが好きだっていう人もいるんだよ。頭ごなしに否定するのは、ちょっと違うんじゃないかな」

「その他人事みたいな言い方、やっぱり活動に熱心なのはユウ先輩のほうなんだね。アキは本当は、そんなに興味ないんでしょ。じゃあなんでユウ先輩が頼みに来ないの、おかしくない?」

「っ、それは、僕が任せてくださいって言ったから! ほら、同じクラスだし……」

 しかし説得しようと放ったはずの言葉は、ますますマシロの怒りを買ってしまったようだった。マシロはイライラとしているのを隠そうともせず、がっと乱暴に自分の顔に掛かるミディアムヘアの髪の毛を手で払う。ああもう、なんでマシロはこんなにピリピリしているのだろう。たしかに最近は僕に対する当たりが強かったけれど、今日のこれは中でも最高潮に達している。ただ沼の近くにちょっと入らせてほしいと言っているだけで、そんなに無理難題を言っているわけじゃないのに。

「……頼むよ。小学校からの仲だろ……」

 僕にはもう、そうして頼み込むことしか思いつかなかった。だけどマシロは攻撃の手を緩めることはなく、僕に鋭い視線を向け続ける。

「何それ。ただ小学校が同じってだけで、別に特別仲が良いわけでもなんでもないじゃん!」

「っ……!」

 しん、と一瞬、辺りが静寂に包まれた。マシロのその言葉を聞いた瞬間、僕の胸がきゅう、と締めつけられたのがわかった。僕は思わず左手を上げて、運動着のTシャツの上から自分の心臓の辺りを掴んでしまう。……わかってたよ、そんなこと。僕はふっと、顔を俯ける。わかってはいたけど、実際にそう言われると、こう、やっぱり、胸に来るものがあった。

「……そりゃ、マシロは僕と違って友達が多いから、そうかもしれないけど。だけど僕にとっては、クラスの中でも気軽に話ができるような女子なんて……マシロくらいだよ」

「!」

 僕は絞り出すような声でそれだけを言うと、すっ、と壁に背を付けているマシロの前を通って、下駄箱のほうへと歩き始めた。ついそんな捨て台詞を吐いてしまうなんて、まだまだ僕も子供だな、なんてことを頭の片隅でぼんやりと思った。あーあ。どうしよう。マシロとの仲は、これでますます険悪となった。頑張ってご機嫌取りを続ければそのうちどうにかなる可能性もあったかもしれないけれど、僕はそれを放棄したのだ。たぶん僕は、ちょっとふてくされてしまっていたんだと思う。僕が傷ついたということを、マシロも思い知ればいい。そんな風に思ったから、僕は最後に自分の本音をぶつけてしまったのだ。

「!」

 そうして自分の下駄箱まであと少し、というところまで歩いてきたところで、くいっ、と、僕の腰の辺りで何かが突っかかる感覚がした。後ろを向くといつの間にかマシロが追いかけて来ていて、僕のTシャツの背中側の裾を手で掴んでいた。

「……なに」

「ごめん」

 マシロは俯いたまま、小さな声でそう言った。「今のは、私が悪かった」と、マシロはさらに言葉を続ける。いつも毅然としているマシロがこんな風にしおらしい感じになっているのを見たのは、多分初めてのことだったと思う。すると僕の中には急に焦りのような感情が湧き上がって来て、あたふたと首を動かして周囲を確認してしまう。幸い近くに人がいる様子はなかったけれど、今のこの絵面はどう見ても僕が悪者だ。

「いいよ。私有地の件。お父さんに頼んでみる」

「……え?」

 するとマシロの口からそんな思いがけない言葉も飛び出したので、僕は目をぱちくりとさせる。それは先程から必死に頼み込んでいたことなので願ったり叶ったりなのだけれど、その変わり身の早さにいまいち頭が追いついていない僕は、つい今までとは真逆のような発言をしてしまう。

「……えっと、無理しないで……」

「別に無理なんてしてない」

 僕の言葉を聞くと、マシロは顔を上げて怒ったようにちょっと口を尖らせた。その表情の感じには元気さが少し戻っているような気がしたので、僕はほっと胸を撫で下ろした。男友達相手ならまだしも、女子相手に本気の喧嘩なんてするもんじゃないな。すっげーひやひやする。

「あそこは、小さい子供が沼に落ちて怪我したりないように立ち入り禁止にしてるだけだから。私達くらいの年齢ならたぶん、普通に許可下りると思う」

「マシロ……ありがとう」

 どうやら本気でマシロが口添えしてくれるようだと感じ取った僕は、ぺこり、と深く頭を下げた。思えば、マシロが理不尽に意地悪をするような子じゃないということは、昔からの付き合いである僕には重々わかっていたことだった。僕の至らなさとかのせいで色々とごたついてしまったけれど、この結果になることは、きっと最初から決まっていたことだったのだろう。

「……ほら、もう予鈴鳴るよ、行こ」

「あ、うん」

 マシロが下駄箱のほうへと歩いて行くのを、僕も追いかける。前を歩くマシロの身長は、僕よりも五、六センチ高い。……もしかしたらこの夏が終わる頃には、この距離は、もう少し縮まっているかな。マシロの背中を見つめながら、僕はそんなことを思うのだった。



「……きゃあ!」

 休み時間に廊下を歩いていると、ふいに背後から女の人の悲鳴が聞こえたので、僕は驚いて後ろを振り返った。見ると廊下の片隅に倒れ込んでいる、佐々(ささ)()先生の姿が目に入った。

「だ、大丈夫ですか、佐々木先生!」

「うぅ……あ、府谷君……。やだ、先生ったら恥ずかしい、こんな何もないところでつまづいちゃって……」

 周囲には僕以外に誰の姿もなかったので、慌てて駆け寄って声を掛ける。佐々木先生はむくりと体を起こすと、恥ずかしそうにしながら転んだ拍子に打ってしまったのであろう膝の辺りをさすっていた。佐々木先生は二年一組、つまりはユウ先輩のクラスの担任の先生で、歳は三十歳くらい。縁の細い丸い眼鏡を掛けていて、茶色のふわふわしたロングヘアを後ろで一つにまとめている。教科担当は英語で、僕のクラスの授業も受け持ってもらっていたため、面識があった。佐々木先生はぽわぽわしているというかちょっと抜けているというか、率直に言うとドジな感じの印象がする先生で、授業中も教材を間違えたりと結構ミスをしでかすことが多かった。廊下ですっ転ぶなんて、いかにもといった感じだ。僕は佐々木先生が大きな怪我をしていないようだということを確かめると、周囲に散らばってしまっていたプリントを拾い集め始めた。これらはおそらく佐々木先生が転ぶ瞬間に手に持っていたもので、どうやら二年生の英語の授業で使うプリントのようだった。僕は腰を曲げて一枚一枚拾っては、床の上でトントン、とプリントの束を揃える。

「……ん?」

 すると僕は、廊下にプリント以外のものも落ちていることに気が付いた。一旦立ち上がって、遠くに見えた透明のクリアファイルのようなそれに近付く。中に入っている紙には、たくさんの四角と、人の名前が書かれていた。

「!」

 それを見て、座席表だ、と瞬時に気付いた僕は、いけないとは思いつつもその紙に急いで目を走らせてしまう。そこに書かれていたのは佐々木先生のクラスである二年一組の座席表だったので、ユウ先輩の席がどこなのかを確かめようとしたのだ。

「……え」

 しかしそこで、僕は思わず小さく声を漏らしてしまう。

 ……あれ? これは、一体どういうことなんだ?


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