不可思議村
「ん……」
ぱちり、と瞼が開き、視界には暗闇が映る。体を捩ると、ギシリとパイプベッドが軋んだ。ベッドサイドに置かれているデジタル時計の灯りを灯し表示を見てみると、時刻は深夜二時過ぎ。起床には、程遠い時間だ。変な時間に目が覚めてしまったものだ、と僕は溜め息を吐く。再びごろりとベッドに仰向けになるけれど、眠気は一向にやって来ない。仕方がない、トイレにでも行って時間を潰すか、と僕は体を起こし自室のフローリングの床の上へと降り立った。
「……?」
そのとき、僕はふいに部屋の窓で揺れるカーテンの隙間が気になった。窓辺に近寄りカーテンの隙間にスッと指を差し込むと、外の暗闇をちらりと窺う。すると眼下に広がる自宅前の坂道に、人の姿があることに気が付いた。ぼんやりと黄色く照らされている街灯の光の下に、髪の長い女の人が見える。遠く離れているから絶対とは言えないけれど、なんとなく若い年齢の人のような気がした。十代とか二十代とか、それくらいの。その人は若干下を向くようにして立っていて、こちらからは後ろ姿しか見えないのでその表情は窺えない。こんな夜中に、こんなところで何をやっているんだろう? 僕は、首を傾げる。ここら辺にあるのは僕の家と、あとは緑豊かな山だけだ。何か用事があるような場所には、とても思えない。
「あ」
すると女の人が歩き出したので、僕は思わず声を上げてしまい慌てて口元を押さえた。僕は室内にいるしこれだけ離れているから、聞こえているわけはないんだけれど。女の人は街灯の下から離れ、夜の闇が広がる暗がりへと向かって歩いて行く。そしてしばらく進んだところで、その姿はふっとかき消えた。
「……」
見てはいけないものを見たような気分になって、僕は窓から顔を離すとカーテンをピッと閉めた。消えた? いや、闇にまぎれて見えなくなっただけで、本当に姿が消えたわけではないだろう。僕は、自分にそう言い聞かせる。だけどこんな時間に人が来るような場所ではないし、髪の長い女の人なんて、いかにもすぎる。それにこの村には、そういった類の噂はごまんとある。
「……っ」
ぶるり、と寒気がした。僕はトイレに行くのを中断し、再びベッドの中へと戻る。ドク、ドク、と自分の心臓の音がやけにうるさい。さっきの女の人は、幽霊だったのだろうか。それとも、ただの僕の勘違い? そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡って、結局ろくに眠れないまま、僕は朝を迎えてしまったのだった。
僕が暮らす夜宵村は、人口四百人程の小さな村だ。村の面積は結構大きいのだけれど、そこはコンビニはもちろんスーパーさえ一件もない正真正銘のド田舎である。観光名所や名産品も皆無で、誇れるものといったら緑豊かな自然くらいだ。……まあ山が近いと野生動物の被害とかがあるから、手放しで誇れることではないんだけれど。
そんな村生まれ村育ちの僕はこの春から中学生となり、村唯一の中学校、夜宵中学校の一年生となった。夜宵中学校は村にある二つの小学校の出身者が集い、全校生徒は六十人弱。クラスは各学年一クラスしかない。新たなクラスメイトや先生との出会いに緊張や期待を感じた四月が過ぎ、現在は五月。中学校生活にも、もう大分慣れてきたところだった。
「おーすアッキ、眠そうじゃん」
「……カイト」
昼休み。自分の席に腰掛けてふわぁ、とあくびを噛み殺していた僕に、黒い学ランを着たツンツンヘアの男子が話しかけてきた。鷲尾快斗。小学校からずっと一緒で、僕が特に仲の良い友達の一人だ。ちなみに僕の名前は府谷暁輝というのだけれど、カイトを始め仲の良い面々は、僕を『アッキ』とか『アキ』という渾名で呼ぶことが多い。
「昨日あんま眠れなくてさ、寝不足なんだよ」
「マジでー? 授業中もうとうとしてたもんな」
ははっ、と、カイトは声を上げて笑う。そしてスッと右手を上げると、親指を立てて教室の外を指差した。
「そんなとこ悪いけどさ、ちょっくら職員室付き合ってくれよ。沢部に呼ばれてんだ」
「あー、サッカー部の顧問の? カイト何かしたの?」
カイトは小学校の頃からサッカーをやっていて、中学でも当然サッカー部に入部したスポーツ少年だった。
「いや、特に覚えはねーよ。だけどなんか呼ばれてんだよな」
そう言って、カイトはぼりぼりと頭を掻く。その顔にはなんとなく不安の色が浮かんでいる気がして、僕は椅子から腰を浮かせた。ガガガ、と教室のリノリウムの床に椅子の脚が擦れて音を立てる。
「いいよ。僕は昼休み特にやることもないし」
「やった。うーし、じゃあ行こうぜ!」
そう言って顔を輝かせるカイトに続き、僕は教室を出た。そしておしゃべりをする生徒の姿がちらほらと見受けられる廊下を進み、昇降口へと向かう。この学校はちょっとおかしな造りになっていて、職員室が教室のある本校舎とは別の建物にあるのだ。『職員棟』と呼ばれる一階建てのその建物に行くためには、こうして一旦昇降口で靴を履き変える必要がある。上履きを脱ぎスニーカーに足を入れた僕達は、グラウンドを突っ切ってしばらく歩き続ける。すると二分程で、古い赤茶けた木造の建物へと辿り着いた。ここは土足OKなので、そのまま中へと入る。本校舎よりも随分と年季の入った様子の職員棟は、床や壁の所々が砂やほこりで白く汚れていた。
「じゃー、行ってくるわ」
「おー」
カイトが職員室の中へと吸い込まれていくのを見送ると、僕はすぐ前の廊下の壁に背中をもたれかけさせた。廊下には僕以外に人の姿はなく、職員室内から洩れ聞こえてくる話し声の他には何の音もない。僕はぼうっと職員室の扉のガラス窓を見つめながら、カイトの帰りを待った。
「失礼しましたー」
するとガラガラ、と目の前の扉が開き、中から黒いセーラー服姿の女子生徒が出てきた。お団子頭のその女子生徒の手にはプリントの束が握られていて、きっと先生のおつかいだろうな、と僕は推測する。その際開け放たれたドアの向こうにちらりと目を向けてみるけれど、カイトの姿は見つけることができなかった。
「!」
しかしそのときもう一人女子生徒が中から出てきて、僕は思わず息を呑んだ。その女子生徒は先程のお団子頭の女子同様に、プリントの束を手に抱えている。おそらく、二人は同じ仕事を頼まれているのだろう。ガラガラ、と職員室のドアを閉めると、並んでお喋りをしながら玄関の方へと廊下を進んでいく。それは何の変哲もない、職員室前ではよくある光景だ。だから僕が先程から目を離せないでいるのは、その行動が気にかかるからではない。その女子生徒の、容姿だった。
さらさらと流れる、長い黒髪。それがどうしようもなく、僕が夜中に見た幽霊疑惑のあるあの女の人を彷彿とさせたのだ。もちろん、黒髪でロングヘアの女子生徒なんて他に何人もいる。だけどなぜだか、僕はこの人こそが昨夜見た女の人だったのではないか、という思いに駆られて仕方がなかった。すらっとした長身で、上下共に黒いセーラー服に身を包む彼女の後ろ姿。隣を歩くお団子頭の女子生徒と談笑しているようだけれど、どこかその雰囲気はミステリアスな感じがして……。
「よー! 待たせたなアッキ。やービビった、てっきりお説教かと思ったらさぁ、なんか入部するときに提出した書類に不備があっただけだった……」
「っ、カイト! ねえ、あの人知ってる?」
僕は用事を終えて出てきたカイトの言葉を途中で遮り、廊下の先を歩く黒髪の女子生徒の後ろ姿を指差した。カイトは僕の必死な様子に少し面食らったようだったけれど、顔をそちらへと向けてくれた。
「……いや、知り合いではないな。なんとなく二年生っぽいけど。二小出身の人じゃねーの?」
「……うん、そうだよね……」
この中学は、二つの小学校の出身者が集まっている。自分と同じ夜宵第一小学校出身の生徒なら顔見知りだけれど、そうではない夜宵第二小出身の生徒に関してはまったく知らない人という位置付けなのだ。僕とカイトは同じ一小出身なので、よく考えてみれば僕が知らないのだからカイトも知っているはずはない。
「あの先輩達がどうかしたのか?」
「達っていうか、その、あの髪が長い方の人。ほら、僕あんま寝てないって言ったじゃん、その理由がさ……」
カイトと僕はそんな言葉を交わしながら、職員室前の廊下をゆっくりと歩き始める。僕達の前方を歩いていた二人の女子生徒はすでに廊下の角を曲がり、姿は見えなくなっていた。僕はカイトに例の幽霊疑惑事件について話そうとするも、玄関へと繋がる角に差し掛かったところで慌てて自分の口にストップを掛けた。隣ではカイトも、げっと顔をひきつらせている。角を曲がったそこにはまるで僕達を待ち構えるように、あのお団子頭の女子と黒髪の女子が立っていたのだ。
「おい一年、さっきからアタシ達のことコソコソなんか言ってるだろ。なんなの?」
お団子頭の女子はキッと僕達を睨み付けると、数歩前へ出て距離を詰めてくる。やばい、聞こえていたのか、と僕の顔は青ざめる。僕が中学校に入学して一番感じた小学校との違いは、先輩との上下関係だ。先輩に対して逆らうことなどまず許されないし、自分の過失にせよこんな形で絡まれるなんて最悪としか言いようがなかった。
「い、いや、先輩達の話はしてないですよ。部活の話とかはしてましたけど」
「誤魔化すなよ。そういうのって雰囲気でわかるから。一体なんなわけ?」
カイトがそうとぼけるも、お団子頭の女子は一斉逃がす気はないらしい。僕は思わず助けを求めるように、お団子頭の女子の少し後方に立っている黒髪の女子の方を見た。大きな黒い瞳でこちらにじっと視線を向ける彼女の姿は、間近で見れば見るほどやっぱり夜中に見た女の人だ、と思わずにはいられなかった。彼女はお団子頭の女子のように僕達を積極的に責める様子はなさそうだったけれど、かといって助けてくれる様子もなさそうだった。特に興味がないといった感じで、ぼうっと成り行きを静観している。
「あ、あの……すみません。えっと、僕が夜中に見た女の人に先輩が似ていたので、その話をしていただけなんです、ごめんなさい」
僕はお団子頭の女子の前に身を滑り込ませ、ぺこりと深く頭を下げた。実際こそこそと噂話をするようにしてしまったのは事実だし、それに僕が発端だとわかればカイトはお咎めなしにしてもらえるかもしれない。
「えっ」
そう言葉を発したのは、目の前のお団子頭の女子ではなかった。僕はその声に反応するように目線を上げ、お団子頭の女子やカイトも一斉に黒髪の女子のほうを見る。
「ねえ君、それっていつの話?」
「え、えっと、今日の夜中の二時くらい、たまたま窓の外を見たら……」
黒髪の女子はずかずかとこちらに近寄って来て、僕の顔を覗き込む。そして僕の言葉を聞くと、ぱあっと顔を輝かせた。
「それさ、君が見たっていうのきっと私だよ! もしかして君の家って、めっちゃ山に近いところじゃない?」
「あ、はい。すごい山の近くです……」
僕はこくこくと、頷きを返す。どうやら僕の直感は正しかったようで、やはり目の前の先輩=僕が夜中に見た幽霊疑惑の女の人だったらしい。ということは幽霊でもなんでもなかったわけで、僕が恐怖に震えて布団に包まっていた時間はまさしく不毛な時間だったわけだ。
「えっと、でも、そんな夜中にあんなところで何をしていたんですか?」
そして僕は、当然湧き上がるそんな疑問を投げ掛ける。
「んー、それはねー……」
しかし黒髪の女子は、そこで言葉を止めた。そしていたずらっぽい笑みを浮かべると、僕の瞳をまっすぐに覗き込むようにして再び口を開く。
「あはは、ねえ、気になるの?」
「っ、え、まあ、何してたのかなって、その、気にはなりますけど……」
僕はなんだか急に恥ずかしくなって、ぷいっと顔を逸らす。こうして何度か言葉を交わしてわかったけれど、目の前の先輩はその身に纏っているミステリアスな雰囲気とは裏腹に、意外とくだけた感じで話す人みたいだった。多分僕は今、からかわれているんだろう。
「あは、気になるんだったらさー、放課後第二図書室においで。そしたら教えてあげる」
「え」
「っ、ちょっとユウ、もしかしてこの子誘うの?」
そこで言葉を挟んだのは、お団子頭の女子だった。お団子頭の女子は先程までは怒り心頭といった様子だったけれど、その内容が自分には無関係な話だと判明してからはいくらかクールダウンしていた。まあそれでも肩透かしを食らった感があったのか、今も尚不機嫌そうではあるけれど。
「うん。だってさ、気になるって言ってるし」
「それはそういう意味じゃないでしょ……。はあ、まあ、別にどうでもいいけど」
女子二人の間で、よくわからない会話が繰り広げられる。思わずぽかんとした顔になってしまう僕だけれど、そういえばさっきから置いてけぼりのようになっているカイトなんてもっとわけがわからないだろう。男二人で困惑したまま突っ立っていると、黒髪の女子が再び僕に目を向けた。
「じゃーね、放課後、第二図書室で待ってるよ」
そう言ってひらひらと手を振ると、長い黒髪を靡かせて先輩はお団子頭の女子と共にグラウンドへと出て行った。僕達も本校舎へと戻る道のりは一緒なのだけれど、なんとなくすぐに後を追う気にはなれず、しばしその場で立ち尽くす。
「っおい、なんか話がよく見えねーんだけど!? 何そのお誘い!?」
ハッと我に返ったようになって、カイトががくがくと僕の体を揺さぶってくる。そう言われても、正直僕もこの目まぐるしい展開に頭がついていっていない。揺れる視界の中で、ただただぼんやりと黒髪の先輩が最後に言った言葉を思い出していた。
『放課後、第二図書室で待ってるよ』
……僕は、どうすべきだろう?
僕の学校には、第一図書室と第二図書室が存在する。第一図書室は部屋の中央にずらりと長机と椅子が並べられていて、その場で本を読んだり、はたまた勉強をしたりすることもできる。一般的な学校の図書室といった雰囲気で、貸出用のカウンターの前にはいつも司書の先生か図書委員の生徒が腰掛けている。僕も昼休みなどに、何度か利用したことがあった。
一方第二図書室というのは、第一図書室のすぐ隣に位置する部屋だ。しかしそこは主に人気のない古い本などが押し込められている場所で、広さも第一図書室の四分の一ほどしかなく、実質生徒はほとんど利用していない。だから僕がこの部屋を訪れるのは、入学直後に行われた学校案内以来だった。
「……」
『第二図書室』と書かれたプレートを見上げ、僕はふうっと息を吐く。放課後、僕は黒髪の先輩の言葉通り、第二図書室の前へとやって来ていた。周囲はしんと静まり返っていて、人がいる様子は感じられない。ほとんどの生徒は部活をするために、校外へと出て行ったのだ。僕の学校は人数が少ないから、部活は他校と合同でやるものが多い。だけど僕がこうして今ここにいることができるのは、僕が帰宅部だからだった。つまりは、暇人なのだ。たしかにあの夜中の出来事は気になるし、別に取って食われやしないだろう。そんな半ば軽い気持ちで、僕はガラリと目の前の引き戸を開けた。
「あの……すみませーん……」
「あ、来たね」
すると部屋の奥の方から、返事が聞こえた。正面にある本棚の群れから視線を左にずらすと、少し開けたスペースが目に入る。四畳ほどの畳の上に茶色のちゃぶ台が載った、およそ学校には似つかわしくないその場所で、黒髪の先輩はちょいちょいと僕を手招きしていた。僕は一旦後ろを向いて引き戸を閉めてから、ふうっとそちらの方へ吸い寄せられていく。
「どうぞー、上がってよ」
「お、おじゃまします……」
その畳のスペースは床よりも一段高くなっていて、靴を脱いで上がらなければいけないようだった。すでに揃えられていた黒髪の先輩の靴の隣に自分の靴を寄せ、靴下の状態になって畳を踏みしめる。そして茶色のちゃぶ台の前にすとん、と腰を下ろした。
「あは、鞄も下ろしなよー」
「あっ、はい、そうですね……」
そう指摘され、僕は慌てて背負っていた通学鞄を畳の上に下ろした。そして改めて、黒髪の先輩とちゃぶ台を挟んだ正面で向かい合う。大きな瞳に、すっと通った鼻筋。透き通るような白い肌に、漆黒の髪。間近で見れば見るほど、綺麗な人だな、と思った。僕と歳が一つか二つしか違わないなんて思えないくらい、大人っぽい。
「私は東海林ユウ。二年。よろしくね」
「あ……僕は府谷アキテルです。一年です。よろしくお願いします」
僕達はまず互いに、そうして自己紹介を交わす。すうっと息を吸い込むと、畳の匂いと古い本のカビたような匂い、そしてユウ先輩のものと思われる甘い香りが混じり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
「えっと、ユウ先輩は、二小出身ですか?」
そして僕は入学直後に初対面のクラスメイト相手にも繰り出した、常套句を口にする。一小出身でなければ二小出身以外にないのだからわざわざ聞くことでもないのだけれど、話のタネの一つとしては優秀なのだ。
「ん? ああ、それがさ、私この村出身じゃないんだよね。転校生なの。この春に越してきたばかりだから、一年生の君とタイミングとしては同じだよ、この中学に来たの」
「え、あ、そうなんですか?」
しかしユウ先輩から告げられたのは、まさかの新事実だった。でもそう言われてみると、たしかにユウ先輩はどこか垢抜けている感があって、こんなド田舎で暮らしてきた人達とは違う雰囲気を纏っている気がする。
「前はどこら辺に住んでたんですか?」
「東京。だけどね、ワガママ言ってこっちに来させてもらったんだ」
「?」
僕は、首を傾げる。この村から東京に引っ越したいというのならわかるけれど、東京からこんな何もない村に来たいと思う理由が思い当たらなかった。
「ここ、不可思議村って呼ばれてるんでしょ? そんな面白そうな所、来ないわけにいかないじゃない」
「あー……」
にこり、と笑みを浮かべるユウ先輩を見て、僕はそういえばそんなのあったな、と頭を掻く。
不可思議村。夜宵村は別名そう呼ばれることもあり、その理由というのは怪現象が度々起こると言われているからだった。たしか数年前には、都市伝説系のテレビ番組のワンコーナーで取り上げられたこともあった。
「その反応を見ると、アキテル君も何か思い当たることがあるみたいね」
「まあ……噂はよく聞きますけど」
「実際に何か体験したことは?」
「あるっちゃありますけ……」
「あるの!?」
ユウ先輩は僕の言葉が言い終わらないうちに、ぐっとちゃぶ台の上に身を乗り出して目をキラキラと輝かせた。う……ち、近い。僕は、思わず顔を逸らす。ていうかこの人、オカルト大好きみたいな人なのかな。せっかく綺麗な人なのに、なんかもったいない気がする。
「……怪現象っていっても、大したものじゃないですよ。遠くに見えていた人が忽然と消えたとか、全部食べたと思ってたお菓子が一個復活してたとか。今にして思えば、全部見間違いとか勘違いで済むような話です」
「えー、でも火のない所に煙は立たないって言うじゃない。私は本当だと思うけどなー」
僕のしょぼいエピソードを聞いても、ユウ先輩は尚楽しそうにしている。多分この人は、盲目的にそういうのを信じきっているのだろう。
「……あー、もしかして、夜中にあんなところにいた理由は、『台座石』ですか?」
「お、さすが地元民。アキテル君も知ってるんだ?」
そしてこの一連の話をしているうちに、僕の頭にはピンと思い浮かぶものがあった。夜中にユウ先輩を見かけた場所、つまりは僕の家の近くは本当に山しかないのだけれど、一つだけ、人によっては興味を惹かれるかもしれないものがあった。『台座石』と呼ばれる、怪現象が起こるとされている石だ。
「このノートに書いてあったからさ、これは調べないとって思って」
そう言うとユウ先輩は、スッと一冊の古びた大学ノートを僕に差し出した。
「……不可思議村、怪奇ノート?」
僕は、ノートの表紙に書かれていたタイトルを呟く。その下には今から五年前の年度と、『夜宵中学校 怪奇倶楽部』の文字があった。
「この第二図書室で見つけたの。昔はそういう部活があったみたい。この村で起こる怪現象に関する噂がたくさん書かれてる」
「へえ……」
僕はぺらりと、ノートのページを捲ってみる。黒のボールペンで紙面いっぱいに書かれた文字からは、否応なしに書き手の熱量が伝わってきた。基本的に僕の学校は人数が少ないから、部活なんてメジャー中のメジャー所しか存在しない。そんな中で『怪奇倶楽部』なんて変わった部活を成立させて活動していたなんて、それだけでちょっとロックだ。
「それで、じゃーん、こっちが新ノート」
「え?」
すると僕の目の前に、にゅっと新たなノートが出現した。表紙のタイトルには、『新・不可思議村怪奇ノート』と書かれている。
「旧ノートに書かれている噂を実際に検証して、新たにまとめるの。まあ、まだ二、三個しかできてないんだけどね」
新たに手渡されたノートを開いてみると、先程の古びたノートとは違う几帳面そうな綺麗な文字がずらりと並んでいた。しかしそれは二、三ページで途切れ、後は真っ白なページが続く。
「ここまで言えばもうわかるでしょ? 今年私が復活させた怪奇倶楽部に、アキテル君を勧誘してるの。今なら特別に副部長のポジションをプレゼントしてあげるけど」
その言葉にノートから顔を上げると、にこりと笑みを浮かべるユウ先輩と目が合った。だけど僕はその表情に、一抹の胡散臭さを感じざるを得ない。
「ちょっと待ってください……。それってもしかして、今のところ部員はユウ先輩一人ってことですか?」
「うん」
「いやいやそれって、そもそも部として成立してないじゃないですか! というか、もしかしてこの部屋も無断使用なんじゃ……」
「え、だって私この学校の生徒だし。生徒が図書室を利用するのに、いちいち許可なんていらないでしょ」
「いやまあ、それはそうですけど……」
僕があたふたと取り乱しても、ユウ先輩は一斉動じない。部屋の使用については若干屁理屈のような気もするけれど、そもそも普段誰も利用していない第二図書室なのだから、こうして有効活用してくれる生徒がいることは学校側にとっても喜ばしいことなのかもしれない。
「でも……その、怪奇倶楽部っていうのは、やっぱりちょっとどうかと思います」
「?」
しかし僕の中には、部活が正式でないこと云々の他にも引っ掛かることがあった。この村で起こる怪現象について、大人達が口を揃えて言う言葉があるのだ。
「その、この村で起きる怪現象って、生前この村の住人だった人が原因だって言われてるんですよ。元村民が死後幽霊の姿になって、現世に留まってイタズラをしてる、って。だから、相手にしちゃいけないそうです。構うといつまでもここに留まり続けて、成仏できないから、って」
この教えの存在もあり、村民達は怪現象らしきものが起きても特に騒ぎ立てることはない。例外として、好奇心旺盛な子供が時々盛り上がっていたりするくらいだ。だからそういった意味でも、五年前にこの中学で『怪奇倶楽部』というものが存在していたというのは驚くべきことだった。
「……私はそれも含めて、この村の不思議なところだと思う」
「え?」
しかしユウ先輩の目からは、未だ光が失われていなかった。愛おしそうに古びたノートの表紙を指で撫でるユウ先輩の姿に、この話をすれば退いてくれるのではないかと思っていた僕は若干面食らう。
「だって普通そういった脅し文句って、深入りしたら呪われる、とか、悪霊に憑りつかれる、とかが相場でしょ。それが怪現象は元村民の霊のイタズラで、相手にすると成仏できなくなるからやめましょう、なんて、すごく優しい世界じゃない。心霊スポットとかいわくつきの場所なんて世界中にごまんとあるけど、こういう言い伝えがあるところって珍しいと思う」
「それは……そうなんです、かね……」
そのユウ先輩の指摘は、僕が今までまったく意識していなかったことだった。怪現象といえば怖いイメージがつきものだけれど、たしかにこの村では他に比べてその印象が弱い気がする。
「まぁ、その村の教えも一理あると思うけど。でもさー、アキテル君。そもそもの話なんだけど、成仏ってする必要あるの?」
「え……それは、やっぱりしたほうがいいんじゃないですか? できるならば」
そして続くユウ先輩の突拍子もない言葉に、困惑しつつも僕は答える。死後の世界とかに明確な信念やこだわりがあるわけではないけれど、一般論として成仏することは良しとされていることだと思う。
「だって、ほら。成仏しないと、生まれ変わったりもできないじゃないですか」
「ふーん。というかそもそも、生まれ変わる必要ってあるの? 来世が草とかゴキブリかもしれないのに」
「え、や、そう言われると……」
そこで僕は、もごもごと口ごもってしまう。ユウ先輩はそこで勝利を確信したようで、にやりと口元から白い歯を覗かせて言った。
「ほらね。死者にとって何が良しとされるのかなんてのは、明確に決められないの。相手にしないってことも正しいし、相手をしてあげるってことも時には正しかったりする。つまり、どうせ他に誰もやってないんだから、私一人くらい怪現象に積極的に関わってもいいでしょ、って話」
「……なる、ほど」
僕はそう相槌を打ちながら、頭の中でユウ先輩の言葉を反芻する。理屈としては通っている気もするけれど、なんだか釈然としない気持ちもあるのはなぜだろう。なんていうか、言いくるめられてるというか、押し切られてる感を多分に感じてしまうのだけれど。
「まぁでも、いきなりそう言われてもアキテル君も決心がつかないでしょ」
「! ユウ先輩……!」
しかしそこで僕の心情を察してか、ユウ先輩はふっと表情を柔らかくした。ああ、なんか初対面の相手にいきなり図書室に来いって言ったり色々と強引な感じの人だったけれど、どうやらそういった配慮はきちんとできるようだ。
「だから、まずは体験入部から始めましょう。丁度これからまた台座石に行ってみる予定だったから、アキテル君も一緒に来て」
「ええ……」
しかしその配慮の内容は期待とは少し違ったベクトルだったので、僕は思わず落胆の声を上げてしまった。僕としては村で起きる怪現象に特別興味も感心もないし、体験入部をするほどのエネルギーは持ち合わせていないのだけれど。どうしよう、ここではっきりと断るべきか……とも思ったけれど、考えてみれば台座石は僕の家のすぐ近く、つまりは帰り道の途中にある。どうせそこを通るのだから、一度くらいユウ先輩の活動に付き合っても、いいか。
「ちょっと待っててください。僕自転車取って来るんで」
昇降口の階段を降りたところで、僕は隣を歩くユウ先輩にそう声を掛けた。僕もユウ先輩も通学鞄を背負っていて、このまままっすぐ家に帰れるように準備してある。すぐ脇に広がるグラウンドは部活が行われていないため無人で、しん、とした静けさが漂っていた。
「え、アキテル君自転車通学なの?」
そうして昇降口から少し離れたところにある駐輪場に向かって足を進めていると、ユウ先輩も興味を持ったようで後を追ってきた。この学校の生徒は基本的に徒歩通学で、自転車通学は家が遠い生徒に限定されている。その対象となっているのは全校生徒合わせても五、六人といった具合で、つまり僕の家はこのド田舎な村の中でもかなり山奥のほうに位置しているのだった。
「鞄、載せますよ」
「お、いいの? ラッキー」
そして二、三台しか自転車が停められていないこじんまりした駐輪場に辿り着くと、僕はユウ先輩から通学鞄を受け取った。いつもは自分の鞄を入れている自転車の前かごに、今日はユウ先輩の鞄を入れる。通学鞄は結構な大きさがあるため自分の鞄は入れられなくなるけれど、背負ったまま自転車に乗ればいいので問題はない。鍵を差し込み開錠し、カラカラ、と車輪が回る音を響かせながら自転車を駐輪スペースから引き出した。
「あ、この自転車荷台ついてるじゃん。ねー、後ろ乗っけてよ」
「え?」
するとユウ先輩の視線が、いつの間にか自転車の後方部分に吸い寄せられていた。たしかに僕の自転車には、荷物を紐や何かでくくりつけて載せることができるような平らなスペースが存在している。それこそ、二人乗りをするとしたらここに座るしかないのだろう。……でも。
「いや、二人乗りは、道交法違反だし……」
僕の頭には、ドラマや映画で二人乗りのシーンが出てきたときに必ず最後に流れるテロップの光景が浮かんでいた。父さんが言うには昔はそんな法律はなかったから自由に乗れたらしいけれど、とにかく現代では違法行為なのだ。
「まぁそうだけどさー、車なんて全然通んないじゃん。危なくないって」
「あー、まあ……」
ユウ先輩の言葉に、僕はちらりと学校の敷地内を囲む塀の向こうに目を向けた。この村周辺の道路は、通勤ラッシュの時間でもない限り滅多に車は通らない。だから、ユウ先輩の言い分ももっともといえばもっともだ。
「……わかりました。でも、乗るのは学校から少し離れてからにしましょう。先生に見つかって怒られたら嫌ですから」
「りょうかーい」
にかっと笑顔を浮かべるユウ先輩を引き連れて、僕は自転車を押しながら校門をくぐり抜けた。そしてすぐに、ハンドルを左へと切る。基本的にこの村の景色は、田んぼor畑or林or山or民家といった有様だ。今現在もその例に漏れず、何が植えてあるのかは不明だけれど所々に緑が見え隠れする畑がすぐ脇に広がっている。そんなつまらない風景に加え、堆肥か何かの泥臭い匂いが漂う中を僕達はしばし歩き続ける。そして学校から百メートル程離れた辺りに来たところで、満を持して僕は自転車のサドルに跨った。
「どうぞ。この辺なら多分もう大丈夫です」
「やったー、おじゃましまーす」
ユウ先輩も待ってましたとばかりに、自転車の荷台へと跨る。距離が近くなったことで、ユウ先輩の持つ甘い香りをふわりと濃く感じた。あ、あれ。なんか、緊張してきた。思えば、二人乗りなんてこれが人生初めての経験だし。
「ねーアキテル君。これどこ掴めばいいのかな。二人乗りとかしたことないからよくわかんないや」
「え? や、僕もよくわかんないですけど……適当に、掴みやすいとこ掴んでいいですよ」
「うーん……」
僕はどきまぎしたまま、ユウ先輩が自転車や僕の鞄など色々なところをぺたぺたと触って試す様子を見守る。やがてユウ先輩が心に決めたのは、僕の着ている学ランの裾の部分だった。くいっとユウ先輩の手に引っ張られ、肩の辺りに若干の重みがのしかかる。
「よーし、おっけー。アキテル君、漕いでいいよ」
「い、いいですか? じゃあ、出発します」
ユウ先輩の準備が整ったようなので、僕はぐっとペダルに載せた右足に力を込めた。するとその瞬間、ミシミシミシィ、と自転車が軋む音が聞こえたような錯覚がした。
「!!!」
お、重い!!! 普段感じることのない異様な重みに困惑し、僕は目を白黒させる。ユウ先輩が太っているというわけでは決してなく、むしろ華奢だと思うのだけれど、人一人を乗せるということはここまでの負担になるものなのか。僕は額に脂汗を滲ませながら、変速のギアをカチリと一つ落とした。そうでないと、自転車のチェーンが切れてしまいそうな気がした。
「おー、すごー。漕いでないのに進むー」
ただ幸いだったのは、後ろに乗るユウ先輩は居心地の悪さを感じてはいなさそうだということだった。ユウ先輩はまるで何かのアトラクションにでも乗ったかのように、僕の後ろで楽しそうに吹き付ける風を浴びている。
「……」
僕は必死に、ペダルを漕ぎ続ける。重いから降りろなんてことは、口が裂けても言えない。なんだよ。映画とかドラマじゃ優雅な感じだったのに、実際はかなりの苦行じゃないか。一体どうして二人乗りなんて文化がこの世に生まれ……。
「……!!」
そのとき僕は、ある一つの重大な選択ミスをしたことに気が付いてしまった。二人乗りをただの体力吸収装置としてしまっている戦犯は、僕が背負っている通学鞄だ! この鞄が、僕とユウ先輩の間に余計な空間を生み出してしまっている。それさえなければ僕とユウ先輩の体は密着し、絶対、胸とか当たってたあぁあ!!
「く……っ」
おのれ通学鞄、僕は貴様を一生許さない。そんな怒りの感情をどうにか運動エネルギーへと変換し、僕はひたすらペダルを漕ぎ続けるのだった。
「やっぱ昼間はいいねー、見通し良くて」
ユウ先輩は額に手でひさしの形を作って、坂の上を見上げる。僕はその脇を、疲労感たっぷりの体でカラカラと自転車を押して歩いていた。道の両脇に林が立ち並ぶこの坂の中ほどのところに、僕達の目的地である『台座石』は存在する。しかしこの坂はかなりの急斜面のため、ここだけはユウ先輩に自転車から降りてもらった。正直二人乗りのままこの急斜面に突っ込んで行ったら、転げ落ちる自信があった。
「というか、なんで昨日は夜中に出歩いてたんですか? 危ないですよ……」
僕はまだ荒れてしまっている呼吸を整えつつ、ユウ先輩に尋ねる。そもそも時間帯が夜中だったせいで、僕はユウ先輩を幽霊だと勘違いしたのだ。これが昼間や夕方だったら、そんな馬鹿な発想には至らなかっただろう。
「や、なんか昨日寝付けなくてさー。予定を前倒しにしたというかね? まぁ、田舎だし、大丈夫でしょ」
そう言ってユウ先輩は、あっけからんと笑う。たしかに家に鍵を掛ける習慣すら根付いていないようなド田舎だし、治安は良いどころではない。
「不審者の心配はないかもしれませんけど、ここらへん熊出ますよ」
「クマ?」
僕はひゅっ、と体を少し揺らして、背負っている通学鞄の側面がユウ先輩に見えるようにした。その動きに合わせて、リン、と鞄に付いている白い鈴のキーホルダーが音を鳴らす。これはおしゃれでもファッションでもなく、熊除けの為に付けているものだ。熊はあんなでかい図体をしているけれど実は人間を恐れているから、こうして存在をアピールしておけば寄ってくることはない、と言われている。
「狸とか狐も出ますけど、とにかくヤバいのは熊です。下手したら死にますから」
「……ふうん」
しかしユウ先輩は、特に興味を持たなかったようでぷいっと僕の反対側へと顔を逸らした。都会の人だと馴染みがないから、野生動物の恐ろしさにピンと来ないのかもしれない。今のところ幸いこの村で死人は出ていないらしいけれど、二、三年に一回くらいのペースで村民が熊に襲われて怪我をする事案が発生しているから、わりと他人事ではない話なのだけれど。
「あ、発見。あれでしょ? 台座石」
そんな話をしていると、いつの間にか目的地である坂の中ほどまで辿り着いていた。ぱたぱたと道の端へ駆け寄るユウ先輩を横目で見つつ、僕は足でスタンドを動かし自転車を停める。道路と林の境目にほど近いその場所に、『台座石』は鎮座していた。僕が背負っている通学鞄よりも少し小さいくらいの楕円形の石が、薄く平べったい石の上に載っている。それがまるで台座の上に載っているように見えることが、この石が『台座石』と呼ばれる所以だった。
「あ、ほら! 見てアキテル君、やっぱり動いてる!」
ユウ先輩は台座石の前にしゃがみ込み、しきりに石と地面を指差す。見ると台座石のすぐ下の土の地面の一部には、色濃い線が引かれてあった。おそらく、夜中にユウ先輩がつけた印だ。そしてこれは何の印かというと、その答えは視線を上げれば明らかになる。実は台座石の楕円形の石の上部には、スッと一筋の短い傷がついている。ユウ先輩は、この傷のあった位置を地面に書き記しておいたのだ。しかし今現在、その傷の位置と地面の印には若干のずれがある。角度として三十度くらい、石の傷のほうが右にずれているのだ。
「怪奇ノートに書いてあったとおり。石が勝手に動くというのは、本当だったということね」
ユウ先輩は道の端に停めてある自転車に駆け寄ると、籠の中の通学鞄から古い方の怪奇ノートを取り出した。その顔には笑みが浮かんでいて、本物の怪現象に遭遇して嬉しくてたまらない、といった様子だ。
「……ユウ先輩、その石、動かしてみてください。こう、力入れて、回す感じで」
「え?」
さて、そんな幸せそうなところ悪いけれど、ここからは種明かしの時間といこうか。普段は台座石の存在なんてすっかり頭から抜け落ちている僕だけれど、家のすぐ近くにあるものだ、当然その噂は知っていたし、幼い頃にはユウ先輩のように騒ぎ立てた経験もある。そしてこの石のカラクリも、僕は知っている。図書室で言ってしまってもよかったのだけれど、百聞は一見に如かずというし、実際に現場に来た方が実感しやすいはずだと思って黙っていたのだ。ユウ先輩は一瞬怪訝そうな表情になったけれど、言われた通り、台座石の上の部分、楕円形の石に手を掛ける。
「あ……」
するとゴリゴリ、と石同士がこすれる音が響いて、楕円形の石は右方向へと回転した。ユウ先輩が地面に付けた印と石の傷の位置とのズレが、ますます大きくなる。
「上の石の中央に、支柱みたいなものが刺さってるんじゃないかって言われてます。元々、回転するような構造になってるんですよ」
僕がそう説明すると、ユウ先輩はあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「じゃあ、何? 誰かがこうして手で動かしたってこと? 何の為に?」
「えーっと、それは、半分正解で半分不正解、って感じです」
「?」
僕はすっと台座石から離れ、すぐ目の前を通るアスファルトの道路へと移動した。ユウ先輩は僕のはっきりしない物言いに歯がゆそうにしながらも、黙ってついて来てくれている。
「この道路、一応舗装はされてるんですけど、めちゃくちゃデコボコしてますよね」
「……うん。所々、穴とか開いてるし」
僕とユウ先輩はその場にしゃがみ込み、ざらざらしたアスファルトの地面に手で触れる。手抜き工事なのか単に仕事が粗かったのかは不明だけれど、この坂道は所々出っ張っていたり陥没していたりと、かなり状態の悪い道路だった。まあでも、そもそも僕の家に用事のある人以外は通らないような田舎道だ、舗装してもらえただけでも感謝するべきなのかもしれない。
「……それで。この道路を車とかが通ると、その振動がダイレクトに台座石に伝わるんですよ。しかも、ちょうどそれが石が動くのに適してる感じの振動みたいで、石が回転しちゃうんです。他に、強い雨風にさらされたときなんかも回ります。怪現象でもなんでもないですよ」
「……えー」
ユウ先輩は僕の説明を聞き終えると、しゃがんだ姿勢のままがっくりと肩を落とした。そして『不可思議村怪奇ノート』、五年前の先輩達が作成した旧バージョンのほうのページをぺらり、と捲る。僕も覗き込んで見てみると、『台座石』について書かれているそのページには、今言ったようなカラクリについての記述は一斉ないようだった。おそらく昔の怪奇倶楽部の面々はただただ噂をデータベースのようにまとめただけで、こうしてユウ先輩のように現地調査などは行わなかったのだろう。少なくともこの『台座石』に関しては、ちょっと調べれば真実に辿り着くことは造作もなかったはずだし。……いや、待てよ? もしかしたら真実を知っても尚夢を与えるために、わざと噂部分しか記さなかったという可能性もあるか。なんて、そこらへんのことは、本人たちにしかわからないのだけれど。
「……」
ユウ先輩は今度はノートから目を離し、ぼんやりと道路端にある台座石へと目を向けていた。その名残惜しそうな様子を見ると少し悪いことをしてしまったかなという気持ちにもなるけれど、いかんせんこれが現実である。
「こんなもんですよ」
僕は半ば独り言のように、ぼそりとそう呟いた。学校を出たときは青かった空も、今はオレンジ色や黄色が大部分を占めている。沈みゆく夕日の光が、坂の上と周囲の山々を幻想的に照らしていた。
「……そうね。『台座石』は、怪現象でもなんでもなかった。認めましょう」
ユウ先輩は、そう言ってふらりと立ち上がる。僕の位置からだとちょうど逆光になっていてあまり表情は窺えなかったけれど、その様子だと、どうやら怪現象への情熱は少し削がれてしまったように感じ……。
「!」
すると次の瞬間、ズビシイィッ!! と勢いよく僕の目の前に何かが突きつけられた。反射的に閉じてしまった瞼を開くと、それはつい先程まで僕達が見ていた、不可思議村怪奇ノート、旧バージョンだった。
「残念ながら今回はハズレだったわけだけど、ハズレだということがわかっただけでも大きな収穫だから。この調子で、ここに書かれてる噂を一個一個検証していきましょう。大丈夫、これだけたくさん噂があるんだから、そのうちのいくつかは本物の怪現象に違いないでしょ」
「え、えぇ……」
僕は思わず、じゃりっ、と足元の小石を鳴らして後ずさる。そう語るユウ先輩の目は、後ろから照りつける夕日に負けず劣らずメラメラと燃えていた。どうやらちょっとやそっとのことでは、この人の怪現象に対する情熱は失われないらしい。そんなユウ先輩を見ていると、台座石の真実を伝えたことに対する責任を感じてしまっていた数分前のことを、ちょっと後悔してしまう僕だった。
「さぁアキテル君、今日検証する怪現象は、これよ!」
「……はぁ。こんなとこにゴミ箱なんて、あったんですね」
ユウ先輩と僕は、目の前にいくつも置かれている色とりどりの金属製のゴミ箱を見つめる。今僕達がいるのは古い木造の建物である職員棟の一角、『裏口』と呼ばれる部分だった。僕がこの前カイトと職員棟に来たときに利用したのは『正面口』と呼ばれる入り口で、裏口はその正反対、この建物の中でもっとも本校舎から遠い位置にあった。そんな立地のため職員も生徒もこちら側の出入り口はほとんど利用していないようで、辺りにはほこりが真っ白に積もっているし、天井や床の角には立派な蜘蛛の巣がかかっている。ただでさえ古くて汚い建物だというのに、輪をかけてひどい有様だ。僕は雑然と並ぶゴミ箱の中の一つに手をかけ、蓋を開けてみる。だけど中身は空っぽで、どうやらこのゴミ箱達は現在は使われていないようだった。
「……」
ぱたり、とゴミ箱の蓋を閉めつつ、僕は何でこんなことをしているんだろう、という気持ちに一瞬駆られる。あの台座石の一件以来、僕はこうして主に放課後にユウ先輩の活動に付き合うようになっていた。とはいっても、決して僕まで怪現象に対する情熱に目覚めたわけではない。ただ単に、放課後特にやることがなくて暇なのだ。結局、あの日第二図書室を訪れたときと動機としては一緒である。
「えーっと、緑色のゴミ箱があるでしょ? アキテル君、その蓋開けてみて」
「あ……はい」
旧・怪奇ノートに目を落とすユウ先輩に促され、僕は色とりどりのゴミ箱の中から、一番奥、床の隅に位置しているゴミ箱へと手を伸ばした。ところどころにへこみのある年季の入ったゴミ箱の蓋を、上へと引き上げる。先程開けてみたゴミ箱と同様、中身は空だった。
「その蓋の裏に、何か挟めそうな窪みがあるらしいけど……」
「あ、ありますね」
ユウ先輩と僕は、揃って蓋の裏を覗き込む。よくロッカーの上部とかにある、名前の書かれた紙を入れるような四角い窪みが、なぜかゴミ箱の蓋の裏に存在していた。利用意図が、まったく意味不明である。
「そこに悩み事を書いた紙を挟んで1234分待つと、幽霊からの返事がその紙に書き加えられているんだって」
「……そうですか」
あ、絶対ないな、というのが、この噂を耳にしての僕の率直な感想だった。石が勝手に動くという、ともすればありえそうな現象である台座石でさえ科学的に証明できる出来事だったのだ。それが、幽霊から返事が来る? ない。絶対ありえない。しかしそんな風に早くも見切りをつけ始めていた僕の前に、ぺらり、と罫線の入った白い紙が舞った。驚いて体を少し横にずらすと、ボールペンを片手ににこり、と笑みを浮かべるユウ先輩と目が合った。
「というわけでアキテル君、さっそくこの紙に悩みを書いて」
「え? い、いや、それは、調査に乗り気なユウ先輩がしたほうがいいんじゃないですか」
僕は、至極最もな主張をしたつもりだった。だけどユウ先輩はなぜか恥ずかしそうに、視線を斜め下へと逸らす。
「でもさぁ、いくら幽霊相手とはいえ、自分の悩みを書くのってなんか恥ずかしくない?」
「っそ、それは、僕も同じですよ!」
その指摘に、僕の顔はかっと赤くなる。ていうかユウ先輩なんでいつもは豪快な感じなのに、こういうときだけ恥ずかしがってんの? 普段見せることの少ないその表情に、ちょっとドキッとするんだけど!
「と、とにかく、アキテル君にだって悩みの一つや二つあるでしょ! いいから、さっさと書いちゃって!」
「え、ええええ」
しかしユウ先輩は僕の意見などおかまいなしに、紙とボールペンをぐいぐい押しつけてくる。始めは抵抗していた僕だったけれど、やがて諦めてそれらを受け取ってしまった。たぶん僕が何を言っても、ユウ先輩を説得することはできないだろう。
「……」
僕は赤茶色の壁に紙を押し付けて、ユウ先輩に内容を見られないように警戒しながら渋々ボールペンを走らせた。そしてゴミ箱の蓋の裏の四角い窪みに収まるように、その紙を小さく折り畳む。
「なんて書いたの?」
「秘密です。絶対見ちゃダメですよ。……でも、もし幽霊から本当に返事が来たら、そのときは教えてあげます」
もちろん、そんなこと絶対にありえないんだけど。僕は紙を窪みにしっかりと押し込んで、ぱたん、とゴミ箱の蓋を閉めた。
「えっと、1234分後でしたっけ? ってことは、二十時間半後くらいですか」
「今が五時ちょっと前だから、明日の一時半くらいかな? ギリギリ昼休みに見に行けそうだね」
どうやら、明日の活動は珍しく放課後ではなく昼休みになりそうだ……と思ったとき、僕の頭に何か引っ掛かるものがあった。あれ、僕明日の昼休みに、何か用事があったような……。
「あーっ。ユウ先輩、僕明日昼休み無理です。委員会の仕事あったんでした」
「えー、委員会? アキテル君何委員なの?」
「掲示委員です。掲示物の張り替えをしなくちゃいけなくって」
正直僕も面倒くさい気持ちがあるけれど、まさか仕事をサボるわけにはいかない。いつも通り、部活動のほうは放課後に行えばいいだろう。しかしユウ先輩は、にこりと笑みを浮かべて僕に視線を向ける。
「わかった。それじゃあ仕方ないから、昼休み私が一人で確認しておくよ!」
「え、ちょっ、待った、ダメですそれは! 見ちゃダメだって言ってるじゃないですか!」
僕は慌てて、ユウ先輩にそう訴える。自分の悩み事を他人に見られるなんて、そんな死ぬほど恥ずかしい思いをしてたまるか! 完全に面白がっている様子のユウ先輩に、僕は鬼気迫る表情で再び詰め寄った。
「放課後! いつも通り放課後です! 僕が自分で確認しますから! いいですね、それまで、絶対にゴミ箱に近づいちゃダメですよ!!」
ユウ先輩はそれでも尚聞く耳を持ってくれなかったけれど、僕が何度も同じ言葉を繰り返すとさすがに面倒くさくなったのか、「あーもー、わかったって」となんとか承諾を取り付けることができた。ふう。職員棟の裏口なんて誰も近寄らないから、ユウ先輩の動きさえ封じておけば僕のプライバシーは安心だろう。あとは、明日の放課後を待つのみだ。僕の中には依然『ありえない』という気持ちが大半を占めているのだけれど、実はほんのわずかに『もしかしたら』という気持ちも存在してしまっていた。だってそんな期待を少しでも持っていたからこそ、僕はガチの悩み事をゴミ箱の蓋の裏に投入してしまったのだから。
「さぁアキテル君、お待ちかねの、オープン・ザ・アンサーの時間ね!」
「……はぁ。そうですね……」
翌日の放課後。僕達は昨日と同じく、雑然と並ぶゴミ箱の前に立った。ぱっと見た感じ、辺りの様子に何か昨日と違うところは見受けられない。ユウ先輩もおとなしく放課後まで我慢してくれたようだし、今も隙を見てゴミ箱に飛び掛かったりする気配はなさそうだ。僕は一歩前に出て、件の緑色のゴミ箱に手を伸ばす。キイ、と金属同士がこすれる音を響かせながら蓋を開けると、裏の窪みには僕が昨日挟んだ白い紙がそのまま収まっていた。スッ、とその紙を取り出し、緊張の面持ちで折り目を開いていく。
「……! っ、え!?」
「! どうしたのアキテル君! まさか、返事が書かれてたとか!?」
紙を開くなり僕が素っ頓狂な声を上げたので、ユウ先輩はこちらに期待の眼差しを向ける。僕の瞳は、長方形の白い紙の下半分に釘付けだった。
「っ、そうです! 返事が書かれてます! う、嘘……、本当にこんな……」
僕は興奮して、ユウ先輩に手の中の紙をぺらりと見せようとした。だけどその寸前、僕の頭の中をスッ、と冷静な思考が走る。そしてそれが僕の熱をいくらか落ち着かせ、その動きを止めさせた。
「……」
「……アキテル君? おーい、どうしたの」
急に黙り込んだ僕を不審に思い、ユウ先輩が顔を覗き込んでくる。そこで僕ははっとして、急いでにこりと笑みを形作った。
「……いえ、なんでもないです! それよりユウ先輩、早く図書室に戻りましょう! ここだとほこりっぽくて空気も悪いですし、詳しい話はそっちでしましょう! このことを、新・怪奇ノートにも記さなきゃいけませんし!」
「……あは、アキテル君、なんかやる気満々だねー」
ユウ先輩は僕の思いがけない熱意に若干戸惑う様子を覗かせたものの、どうやら悪い気はしていないようだった。僕達は揃って職員棟を後にし昇降口で靴を履き変えると、階段を上り普段から勝手に部室として使用している第二図書室へと向かう。
「……」
そしてガラリ、とドアを開けるなり、僕は我先にと部屋の奥へ進んで行った。そこには他よりも一段高くなっている畳のスペースがあり、その中央には茶色の丸いちゃぶ台が載っている。いつもよりも乱暴に靴を脱ぎ捨ててそこへと上がった僕は、ちゃぶ台の上に載っていた長方形のノートを引っ掴んだ。
「……やっぱり」
そしてぼそりとそう漏らすと、僕は続いて畳の上に上がろうと後ろで靴を脱ぎかけていたユウ先輩のほうを勢いよく振り向いた。右手には僕が悩み事を書いた紙、左手には『新・不可思議村怪奇ノート』をページの開いた状態で握り締め、まるで印籠を突きつけるかのように両手を前に伸ばす。
「……っ、この返事っ! ユウ先輩が書いたものじゃないですかあ!! 字が新ノートの字と一緒ですよ!!!」
僕は若干涙目になりながら、ユウ先輩に向かってそう喚き立てる。僕の右手に握られている紙には、まず上半分に『身長がなかなか伸びません』と書かれている。これは紛れもなく、昨日僕自身が書いた僕自身の悩み事だ。昔から背が小さかった僕は背の順でもいつも一番前で、中学生になった今でもその身長は150センチに届いていない。下手したら下の学年や下の下の学年の子よりも背が小さいことは、僕にとって一番のコンプレックスだった。一方紙の下半分には几帳面そうな綺麗な字体で、『可愛いからそのままで大丈夫!』と書かれている。これは、僕が書いたものではない。噂通りなら幽霊からの返事、ということになるんだろうけれど、僕はこの字にどこか見覚えがある気がしたのだ。そしてそれを確かめるために、こうして第二図書室に戻りユウ先輩が記している新・怪奇ノートを引っ張り出してきたというわけだった。
「え、何? アキテル君って筆跡鑑定士なの?」
「違いますけどっ!! でも、見比べればわかりますよ! こんなの!」
ユウ先輩はそんなことを言って、尚も白を切ろうとする。ちなみにユウ先輩の身長はすらっと高く、おそらく160センチ以上あるだろう。僕はもう怒りとか恥ずかしさとか悔しさで、感情が沸騰しそうだった。
「見ちゃダメって言ったじゃないですかぁ……。なにしてんですかぁ……」
「あー、ごめん。でもさー、なんか気になったからさぁ。で、見てみたら、随分可愛い悩みが書いてあったから、つい……ね?」
「ああああああぁあ」
ね? じゃないよおぉおお! 粋なことしておきましたっ、じゃないよおぉおお!
「でも、書いたことは本音だよ? アキテル君可愛いから、全然そのままでいいって」
「ああああああぁあ」
もうダメだ、恥ずか死ぬ……! 僕はぱたりと、畳の上に前のめりに倒れ込んだ。するとどこか懐かしさを感じる畳の匂いがより強く鼻腔をくすぐるけれど、残念ながら僕の精神状態はその程度のヒーリングでは回復しない。なんだよ。ていうかまた今回も、怪現象なんて起こらなかったじゃないか!
「アキテル君、次は三段上がる」
「……あ、はい」
僕はそう返事をすると、隣で旧・怪奇ノートを手にしているユウ先輩と共に、いち、にい、さん、と階段を上った。するとユウ先輩は再び手元のノートに目を落とし、次の指示を読み上げる。
「次は、二段下がる、ね」
そしてまた僕達は揃って、いち、にい、と階段を降りた。この日の放課後、僕はこうしてユウ先輩と共に、美術室脇にある階段の昇降を繰り返していた。これは運動部がよく行う練習メニューの一つである階段昇降トレーニング、というわけではなく、いつも通り怪現象の検証実験である。なんでも旧・怪奇ノートによると、この美術室脇の階段を手順通りに昇降すると、異世界へと行くことができるという。……って、絶対ねーよ! 僕は意味があるとは到底思えない階段の昇降を繰り返し、げっそりとした表情になる。今まで色んな噂があったけれど、今回のは群を抜いて『ありえない』と思うようなものだった。だけどユウ先輩は真剣そのもので、ノートの指示を読み上げるときの目はキラキラと輝いている。一筋も疑う気持ちを持たずこんなことをしているユウ先輩はちょっとどうかしているし、それに付き合っている僕も十分どうかしている。暇人も度を超すと、こんなことになってしまうのだ。
「よーしアキテル君、次が最後の指示! 最後は、一段上がる! せー、のっ」
「え、わっ」
ぐいっ、とユウ先輩に手を引かれ、僕は今いるところから一段上の階段に、タン、と右足を乗せた。そのまま体を持ち上げると、目線がわずかに高くなる。
「……」
しぃん、と、一瞬静寂が辺りを覆った。噂通りだとこれで異世界に行けるはずなのだけれど……うん、やっぱり何の変化もない。僕達の目の前には先程と同様に、オレンジ色のリノリウムの階段が続いているだけだ。
「今回も、ハズレみたいですね」
「えーそんなぁ、……ん?」
僕は、すぐ隣に立っているユウ先輩にそう声を掛ける。するとユウ先輩は何かに気が付いたように声を上げ、手に持っているノートに顔を近づけた。……もしかして、手順を間違えていたりしたんだろうか。ユウ先輩の仕草を見て、僕は思わず顔を曇らせる。あの作業をまた最初からやるのは、正直きつい。
「見て、アキテル君! なんか、旧ノートが真っ白になってるんだけど!」
「……えっ?」
しかしユウ先輩から発せられた言葉は、僕の懸念とはまったく違う類のものだった。ユウ先輩はほら、と言って僕に近づき、旧ノートをパラパラと捲って見せる。そこにはこの村で起こる怪現象に関する噂が、大量に書かれているはずだった。
「ええ……っ?」
だけどユウ先輩の言葉通り、そのノートにはどのページにも文字一つ見当たらない。紙の質感が古いままでなかったら新品のノートと言ってもいいくらいに、ごっそりとすべての書き込みが消えてしまっていたのだ。
「……」
しかしここで一旦、僕は冷静さを取り戻す。ついこの前、ゴミ箱悩み事騒動があったばかりだ。今回の件も、ユウ先輩が僕を驚かせようと思って仕組んだことなのかもしれない。そう、例えば、僕が見ていない隙にユウ先輩が旧ノートを別のまっさらなノートにすり替えた、とか。
「……あの、お腹とかに本物のノート隠してませんか」
僕は、じとっ、とユウ先輩に疑いの目を向ける。するとそんな僕の様子を見たユウ先輩は即座に、イラッ、とした表情になった。
「はあ? 隠してないし! ほら!」
そう言ってユウ先輩は、ばっと着ているセーラー服の裾を捲り上げて僕に見せる。その際中に着ていた下着と思われる布地がばっちりと目に入ったので、僕は慌てて手で顔を覆った。
「わ、わあああああ、わかりました、わかりました、ごめんなさい!」
僕は逃げるようにして、階段を一気に下まで駆け下りる。そして階段下の壁に手をつき、ぜーぜーと荒い呼吸を繰り返した。ユ、ユウ先輩の突拍子もない行動で僕の仮説は打ち砕かれたわけだけれど、ユウ先輩、あんなことして恥ずかしいと思ったりしないのかな。僕はユウ先輩の様子を窺うべくとちらりと階段の上へ目を向けかけるけれど、この位置からだとスカートの中を覗くような構図になってしまうことに直前に気付き、慌てて顔を下に向けた。そしてなんだかじっとしているとさっきの光景を思い出してしまいそうで落ち着かなかったので、階段すぐの曲がり角を右へと曲がった。
「……えっ」
その異変に僕が一瞬で気付けたのは、この前委員会の仕事をしたのがちょうどこの区画、美術室前の廊下だったからだった。あの時僕は掲示委員の仕事で、古い掲示物を新しい掲示物に張り替える、という作業を行ったのだ。
「アキテルくーん? あ、いた」
「ユ、ユウ先輩! ちょっと、どんだけ手の込んだことしてるんですか! 僕を驚かせるためだけにこれはやりすぎですよ!」
ちょうどそこへ階段を降りてユウ先輩がやって来たので、僕はビッと人差し指を立ててすぐ脇にある美術室前の壁の掲示物を指差した。そこには僕がこの前画鋲で一枚一枚丁寧に張ったポスターやお知らせの紙は跡形もなく、まるでその代わりのように白紙の紙がずらりと並んでいた。
「はあ? だから、私じゃないって言ってるじゃん!」
「まだ認めないんですか! その、ノートすり替えのトリックは今ぱっと証明できないですけど、こんなことするのユウ先輩以外にいないですよ!」
ユウ先輩と僕は、廊下の真ん中でバチバチと睨み合う。この前のゴミ箱悩み事事件は主に僕のメンタルへのダメージだけの問題だったけれど、今回の掲示物すり替えは学校に迷惑がかかる問題だ。もうすでに気付いた人がいるのかどうかはわからないけれど、急いで元に戻さないと。先生たちにバレたら確実に怒られるどころか、全校朝会とかでも話題に上げられそうなレベルの事案だ。ユウ先輩と僕はしばらく無言で睨み合って膠着状態となっていたけれど、やがてふっ、とユウ先輩のほうが目を逸らした。そして斜め上方向へと視線を向けたユウ先輩は、静かに口を開く。
「ふーん、アキテル君は、私がノートや掲示物をすり替えたって思ってるんだ」
「だ、だから、さっきからそう言ってるじゃないですか」
そのユウ先輩の口調になぜだか自信のようなものが含まれているように感じて、僕はちょっとたじろぐ。で、でも、それしか考えられないじゃないか。こうして僕を驚かせた後にその反応を見ることができるのは、この場にいるユウ先輩だけなのだから。
「じゃあさ、あれも私がやったって言うわけ?」
「あれ……?」
ユウ先輩は、スッ、と右手の人差し指を上に向ける。その先を目で辿ると、美術室の入り口のドアの上部に貼りつけられている、部屋の名称が記された御馴染みのプラスチック製のプレートへと辿り着いた。
「……!」
しかしそのプレートを見て、僕ははっと息を呑む。本来ならば『美術室』と書かれているはずのそのプレートには、まったく何も書かれていなかったのだ。そんな僕の反応を見たユウ先輩は、やれやれといった様子で言葉を続ける。
「さすがにあんなプラスチック製のプレートは、簡単に用意できないと思うけど。ていうか掲示物張り替えだって、あんなちまちました作業私が律儀にやるわけないでしょ。せいぜいやるとしたら、ノートすり替えくらいよ。してないけど!」
「そ、そうです、ね……」
そのユウ先輩の主張は、もっともだと僕も思った。あのプレートは用意もそうだし、剥がしたり張ったりするのも一筋縄ではいかなさそうな代物だ。しかしユウ先輩の仕業じゃないとなると、この不可解な現象は一体何なんだ?
「異世界に行くことができる、って噂でしたよね? 文字が消えるって噂じゃなくて」
「うーん。もしかしたら、文字がない世界に来ちゃった、とか?」
そのユウ先輩の指摘は、なるほど的を射ているように思えた。もしそうだとすれば、異世界に行くことができるという噂とこの不可解な現象は矛盾しない。だけど、異世界というにはここはあまりにも僕達が元いた現実に近すぎる気がした。階段や廊下の感じ、窓の外の景色も普段の学校そのままだし、違うところといえば文字がないこと、ただそれだけ……。
「……っ」
しかしそこで、僕の背筋にぞくりと寒気が走った。何か、違和感を感じる。
「……ユウ先輩、なんか……静かすぎませんか? この廊下」
「え、そう? うちの学校の放課後なんて、いつもこんなもんじゃない?」
ユウ先輩は特に異常を感じてはいないようで、あっさりとそう答える。たしかに放課後この学校で部活動をしている生徒は少なく、ほとんどの生徒は他校に出払っている。だけど、違う。そういった普段通りの静けさとは、何かが違う。僕は思い立って、ガラリ、と勢いよくすぐ近くにあった美術室のドアを開けた。美術部は校内で活動している数少ない部活の一つで、普段通りであれば今日も美術室には部員たちがいるはずだった。
「い、ない……」
「ん? 外に写生にでも行ってるのかな」
しかし部屋一杯に木の長机が並ぶ美術室内は、まったくの無人だった。今日は天気がいいから、ユウ先輩の言うように外で活動をしている可能性もある。だけど僕には、ひたひたと焦りのようなものが込み上げてきていた。なんなんだろう、この静けさは。まるで学校全体から、人というものが消滅してしまったかのようにさえ感じられた。
「……っ、ユウ先輩、職員棟に行ってみましょう。そこなら、どんな時でも誰かしらいるはずです」
「職員棟? んー、まあいいけど」
どうやらユウ先輩に僕の焦りは伝わっていなさそうだったけれど、とりあえず了承はしてもらえたので昇降口へと向かって廊下を歩き出す。その道中にある教室のプレートや掲示物の紙もすべてまっさらになっていたので、僕は思わず眩暈がしてきそうだった。おかしい。これはもはや、科学的に説明できる範囲を超えている。
「嘘、だろ……」
「うわ、誰もいないね」
そして昇降口で靴を履き替え、グラウンドを突っ切って職員棟へとやって来た僕達は、職員室内の様子を見てそう声を漏らした。人が、いない。職員用の机がずらりと並んでいるその空間はいつも通りなのに、なぜかそこから人の存在だけがごっそりと消えている。まるで、災害か何かで人が一斉に避難した後かのようだった。
「まずいですよ、ユウ先輩……。これはちょっと、しゃれになってないです……」
僕は顔を真っ青にして、ユウ先輩を見つめる。がくがくと、足が小刻みに震えている気さえした。
「うーん、どこ行っちゃったんだろうね、先生たち。ここにある本も、文字がなくなってるし……あ、写真とか絵も消えてるっぽいね。ほら、これたぶん教科書なのに」
しかしユウ先輩はこんな状況でも特に動じる様子を見せず、すぐ傍の机の上にあった本を引っ張り出して眺めていた。一体、その度胸はどこから来るのだろう。僕は恐怖と混乱に支配されそうになる頭を必死に振って、これからどうすべきかを考え始める。
「怪奇ノートに、帰り方は書いてないんですか?」
「んー、なかったと思うけど。まああったとしても、もうわかんないけどね。読めないし」
そう言ってユウ先輩は、右手に持っている旧ノートをひらひらと振る。そうだ。頼みの綱である怪奇ノートは、すべて白紙になってしまったのだった。僕はうーん、と再び頭を悩ませる。とりあえず、文字が消えている現象に関しては一旦置いておこう。それよりもまずいのは、人がいなくなっているという現象のほうだ。とにかく誰でもいいから、人に会いたい。
「……学校を出ましょう。もしかしておかしくなってるのは、学校の敷地内だけかもしれません」
「ふうん? まあたしかに、外の様子も気になるしね」
こうして僕達は、職員棟を後にし校門へと向かうことにした。白い雲が流れる青い空も、風に揺れる木々も、普段とまったく変わらないように見える。だけど確実に、この世界はおかしい。元いた世界へと戻れることを期待して、僕はぎゅっと拳を握りしめながら石造りの校門をくぐり抜けた。
「……」
「変わってないね。ノートの字も戻ってないし」
僕の隣で、ユウ先輩が旧ノートをぺらりと捲る。ページは相変わらず白紙のままで、残念ながら学校の敷地外もおかしいままである可能性が高そうだった。
「もしかして、村全体がおかしくなってるんじゃないですか?」
「そうかもね。不可思議村っていうくらいだし、その効果は村全体に及んでるんじゃない?」
僕の意見に、ユウ先輩も同意を示す。となると、村の外へ出れば元の世界へ戻ることができるのかもしれない。それならばとさっそく町のほうへと移動しようとした僕だったけれど、そのとき、もしも村の外へ出てもおかしいままだったらどうしよう、という思考が頭をよぎった。そしてその思考は、どんどん悪い方へと向かう。町を出ても、市を出ても、県を出ても、国を出ても。もしかしたらどこまで行っても、この世界はおかしいままなのかもしれない、と。
「……神社に行ってみましょう」
「……神社?」
僕がぼそりと突然呟いた言葉に、ユウ先輩はきょとん、と首を傾げた。僕はすっ、と人差し指を伸ばし、遥か向こうに見える赤い鳥居の方へと向ける。
「ほら、見えますよね? 赤い鳥居。ここから十五分くらい歩いたところにある山の上に、『夜宵神社』っていう神社があるんです。……その、なんか、神社ってすごいパワーとかがありそうじゃないですか。そこへ行けば、このおかしな状況もなんとかなるかもしれません」
そしてそれでもダメだったら、今度こそ村を出よう。僕は、そう考えたのだった。
「……ふーん」
しかし、ユウ先輩の反応はあからさまにわかるくらいにいまいちだった。じとーっと胡散臭いものを見るような目で、こっちを見ている。う。ユウ先輩はオカルトとかは大好きのようだけれど、もしかしたら神社とかの神聖な力についてはあまり信じていないのかもしれない。まあ、それを言ったら僕も別に滅茶苦茶信じているというわけではないのだけれど、こんな状況ではもはやいるかどうかもわからない神様とかいうものに頼るしかない。
「……そーだね、他に行くとこもないし、行ってみよっか。その神社、行ったことないし」
しかし幸いしばらく考え込んだ結果、ユウ先輩は僕の意見に賛成を示してくれた。ほっとした僕はそのまま、すっ、と右手をユウ先輩に向かって差し出す。
「……何?」
「ここから先は、手を繋いでいきましょう」
するとユウ先輩は、にやり、と唇の端を吊り上げて意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あは、何アキテル君、怖いの?」
「そうです。僕は怖がりなので、手を繋いでください」
僕がそう答えると、ユウ先輩は満足そうに笑って僕の手をぎゅっと握った。手のひらにユウ先輩の体温を感じ、僕はふう、と小さく息を吐く。これでとりあえず、ユウ先輩を繋ぎ留めておくことには成功した。ユウ先輩、何か見つけたら一人でばーっと走って行っちゃいそうだし、こんなおかしな状況で離れ離れになったらそれこそ死活問題だ。もちろん怖いという気持ちがまったくないわけではなかったけれど、僕の中の大部分を占めているのはそういった思惑だった。……それに、なんでかわからないけれど、こうしてちゃんと手を握っていないと、ユウ先輩がどこかに連れて行かれてしまうような気がしたのだ。本当に、どうしてそんなことを思ってしまうのか、わからないのだけれど。
「……なんか、自転車で来たほうがよかったかもね」
手を繋いだまま五分程歩いたところで、ユウ先輩はぽつりとそう呟いた。道の両脇には民家や畑が点在していて、いつもと変わらない田舎の風景を形作っている。しかしやはり表札や看板の文字は消えてしまっていて、この世界がおかしいことを否応なく物語っていた。
「あー……、でも、自転車だと小回りきかない気がするし、徒歩最強じゃないですかね」
そう答える僕の頭に浮かんでいたのは、外国の映画やハロウィンの仮装などでよく目にする、土気色の肌を持つゾンビの姿だった。僕はこれまで人の姿が見当たらないことに激しく焦りを感じていたけれど、よく考えれば得体の知れない異世界人に遭遇するよりは誰にも会わないほうがましだ。異世界人というものがいたとしてそれがどのような姿なのかはまったく見当もつかないけれど、最悪ゾンビのように襲いかかってくる可能性もある。その場合二人乗りの自転車よりも、徒歩のほうが素早く動けるだろう。……というか、もしそういう場面に遭遇したときを想定して、何か武器のようなものを調達するべきだったかもしれない。スコップとか、学校を探せば何かしらあっただろうし。僕は今更ながらそんな考えに至り、近くに都合よく何かないかと辺りをきょろきょろし始める。
「あ」
と、そこで、少し先にある小さな木造の建物に目が留まった。一階建ての古びたその建物は、川島商店という村唯一のお店だ。例に漏れず店の屋根にかかっている大きな看板の文字は消えてしまっているけれど、どうやら中にはいつも通り商品が並んでいるようだった。
「ちょっと、ここに寄って行きましょう」
僕はそう言うと、ガタガタ、と立てつけの悪い店のガラス戸を開けた。六畳程の店内には、必要最低限の食料品や日用品、文具などが所狭しと並べられている。僕は店内をぐるりと回りスコップや箒など何か武器になるような物がないか探してみるけれど、残念ながら良さそうなものを見つけることはできなかった。仕方がないので武器の調達を諦めた僕は、店の奥にある小さな和室へと続くガラス戸へと手を掛ける。川島商店の店主であるおばあさんはいつもこの部屋でテレビを見ていて、会計のときだけ店先へと出て来るスタイルだった。だけど今そこに、おばあさんの姿はない。四畳ほどの和室の中央には茶色のちゃぶ台があり、部屋の角には小さな薄型テレビ。壁際には背の低い棚と、給湯用の電気ポットがコンセントに刺さった状態で置かれていた。
「ポチッとな」
するとユウ先輩がちゃぶ台の上に載っていたテレビのリモコンらしきものを手に取り、電源の赤いボタンを指で押した。それを見て僕はテレビの画面に目を向けるけれど、いつまで経っても画面は真っ暗なままだ。
「テレビ、点かないですね」
「……ん? でもさ、緑色のランプは点いてるから、少なくとも電気は通ってるっぽいね」
その言葉に、僕は改めて部屋の隅の薄型テレビへと目を向ける。するとたしかに、テレビの下部で小さな緑色のランプが点灯していた。電気が通っているということは発電所が稼働しているということで、つまり発電所には人が存在しているということになる。たしかここらへんに電気を供給しているのは隣の市にある火力発電所だったはずだから、そこまで行けば確実に人に会うことができる……とそこまで考えたところで、僕の頭にはゾンビの姿をした異世界人たちが発電所を執り仕切っている様が浮かんでしまった。あぁ。
「……」
こうして何の希望も得られないまま、僕達は川島商店を後にした。そしてすぐのところにある曲がり角を、右へと曲がる。ここからはずっと、周囲を田んぼに囲まれたあぜ道が続く。じゃり、じゃり、と細かい砂利を踏み鳴らしながら歩く中で、僕は、少なくとも一人じゃなくてよかったな、なんてことをぼんやりと思い、繋いでいる右手にそっと力を込めた。こんなおかしな状況だけれど、ユウ先輩がこうして動じずにいてくれるからこそ、僕もいくらか冷静さを保っていられるような気がした。
「あー、やっぱりアキテル君一緒で良かったな」
「えっ」
するとふいに、ユウ先輩が空を仰ぎながらそんなことを口にした。ま、まさか、以心伝心ってやつだろうか。僕はちょっとドキドキしながら、すぐ傍にあるユウ先輩の横顔を見つめる。くっきりとした二重の目に、通った鼻筋。透き通るような白い肌に、桜色の唇。絹糸のような黒髪が風に靡いてさらさらと揺れて、本当に、綺麗だった。
「だってこの噂複数人指定だったからさぁ、アキテル君付き合ってくれてよかったよ。一人じゃできなかったし」
「……は?」
しかしその後告げられた新事実に、僕はさっきまでデレデレとユウ先輩に見惚れてしまっていたことを激しく後悔した。え、何? 複数人指定? 噂って、そんな制限がついているものもあるの?
「……えっと、それはつまり、僕が参加を表明しなければ、ユウ先輩はこの噂を試すことが出来ず、こうしておかしな世界に飛ばされることもなかったということですか」
「うん。だから、アキテル君一緒で良かったよー。マジで異世界に来れたじゃん」
「……」
僕はわしゃしゃと、頭を思いっきり掻き毟りたい衝動に駆られる。『一緒で良かった』の意味が、ここまで食い違うことなんてあるだろうか。にこにこと楽しそうな様子のユウ先輩と僕との、心の温度差にもはや絶望感すら感じる。今の状況ではユウ先輩が唯一の仲間なはずなのに、はたして仲間と信じきっていいのだろうか。なんかユウ先輩、異世界を楽しむ気満々じゃないですか?
「あれ、アキテル君大丈夫? 疲れちゃった?」
「……くそう……早く、神社、神社に……」
ユウ先輩は心配そうに顔を覗き込んでくるけれど、僕はただ一点、遠くに見える赤い鳥居だけを見つめ足を前に動かし続ける。ユウ先輩のことは引きずってでも、元の世界に連れて行かないと。辺りに障害物のないあぜ道にさーっと強い風が通る中、僕は改めてそんな決意を固めるのだった。
「わー、すごいね」
「たしか、全部で百段あるはずですよ」
眼前にそびえる白い石造りの階段を見上げ、ユウ先輩は感嘆の声を漏らす。長いあぜ道を抜けた僕達はようやく、目的地である夜宵神社へ続く石段の前へとやって来ていた。両脇に木々の緑が生い茂るこの石段は山の斜面に沿うように続いているので、傾斜も大きく段数も多い。これを登ることを考えるとつい辟易してしまうけれど、そうしなければ神社へと辿り着けないのだからやるしかない。
「……行きますか」
僕とユウ先輩は石段の先に続く赤い鳥居を目指して、一歩前へと足を踏み出す。石段一段一段の幅は狭く手すりなども存在しないため、かなり登りにくさを感じた。
「……」
はぁ、はぁと短い呼吸を繰り返して石段を登りながら、僕はちらりと隣を歩くユウ先輩が右手に携えている怪奇ノートの表紙を確認する。ここはもう神社の敷地内のはずだけれど、ノートの表紙は相変わらず文字が消えたままだった。後ろを振り返り眼下に広がる村の景色にも目を向けてみるけれど、人の姿や動いている車は一斉見つけることが出来ない。
「……」
まあでも、神社と言えば鳥居の内側からが本番のような気もするし。そう自分に言い聞かせ、僕は弱気になりそうな気持ちを必死に振り払う。
「……っ、着いた……」
そして時折休憩を挟みながら黙々と石段を登り続けること、数分。ついに僕達は最上段、天高くそびえる巨大な赤い鳥居の目の前まで辿り着いたのだった。
「へぇ、ここが村の神社かー。初めて来た」
「僕も、初詣以来かな、ここに来るのは」
ユウ先輩と僕は、そう言って鳥居の先の景色へと目を向ける。正面には賽銭箱の置かれた拝殿があり、左手には手や口を清めるための水場、右手にはお守りなどが売っている小さな建物が見える。なんとなく、それらからは神社らしい厳かな雰囲気が感じられる気がした。僕はぎゅっ、とユウ先輩と繋いでいる右手に強く力を込める。ここ数年は初詣や夏祭りなど行事のときくらいしかここを訪れることはなくなっていたけれど、今この瞬間だけはフルパワーで神を信じることにしよう。
「……行きますよ、ユウ先輩」
「ん、そうだねー」
ユウ先輩の返事は、相変わらず僕と違って軽い感じだ。まあでも、とにかく鳥居をくぐってくれさえすればもうそれでいいや。僕とユウ先輩は互いに目を合わせると、同時に一歩前へと踏み込む。二つの影が、同時に鳥居の下を通過した。
「……っ!?」
するといきなり、ぐにゃり、と目の前の視界が歪んだ。頭の中ではキィィイィン、という耳鳴りのような音が駆け巡り、僕はその場にしゃがみ込みそうになるのを必死でこらえる。体感で五秒程そんな気味の悪い時間が続いたのち、ゆっくりと視界は元に戻り、耳鳴りの音も静まっていった。
「っ、ユウ先輩!」
僕ははっとして、共に鳥居をくぐったユウ先輩へと勢いよく顔を向ける。先程の異常を体感したのは僕だけではなかったのか、ユウ先輩は少し苦しさの残るような表情をしていた。だけど繋いだ手の先にたしかにユウ先輩が存在していることに、僕はひとまずほっと胸を撫で下ろす。
「……は? アキ? え、ちょっ、あんたらどっから現れたの」
「!?」
するとすぐ後ろで聞き覚えのある声が響いたので、僕は驚いて振り返る。見ると石段を登りきってすぐの辺りに、いつの間にか黒いセーラー服を身に纏ったミディアムヘアの少女が立っていた。
「あ、マシロ……」
僕はクラスメイトである、その少女の名を呼ぶ。千賀真白。マシロとは出身小学校が同じで、たまに教室で世間話をする程度には仲が良かった。マシロは初めぽかん、とした表情で僕を見つめていたけれど、やがてその視線はすすす、と下のほうへ吸い寄せられていく。そして何かに気付いたような反応を見せると、今度はやや不機嫌そうにぼそりと言い放った。
「え……何、アキって先輩と付き合ってんの」
「……え?」
マシロの言っている言葉の意味がうまく頭に入って来なくて、僕は少しの間固まる。しかし数秒ののちに、マシロの視線が僕とユウ先輩の手の繋ぎ目に注がれていることに気が付いた。
「や、ち、違うよ!」
僕は焦って、ばっとユウ先輩の手を振りほどくような形で離してしまう。そしてそうしてしまってから、いくらなんでも今の仕草は失礼すぎたと激しい後悔の念が押し寄せてきた。ユウ先輩は特段気にしてはいないようだったけれど、後でちゃんと謝らなくては。
「つ、つーか、マシロ今日部活は?」
そんなこんなで動揺しつつも、僕はこれ以上追及されないように適当に思いついた話題をマシロへと持ち出した。マシロはバドミントン部に所属していて、放課後はいつも他校に出向いて練習をしている。こんな時間に村内にいるのは、珍しかった。
「指導の先生が体調不良で、急遽休みになった。だから今日はまっすぐ帰ろーかと」
「な、なるほど……」
そんな簡潔なやり取りを交わすと、僕はちらりと無意識に視線を神社の奥の方へと向けてしまう。この位置からだと様々な建物の陰になってしまっていて見えないけれど、一般の参拝客が入れる所よりもさらに奥に、マシロの暮らす大きくて立派な日本家屋は存在している。そう。マシロは、この夜宵神社の家の子供なのだった。
「……それで、アキ達は家に何か用」
「え、えーっと……」
マシロにそう問い掛けられ、僕は言葉に詰まってしまう。部活動をしていたと言っても具体的に何をしていたのか聞かれそうだし、聞かれたところで一言二言で答えられるようなことでもない。
「……アキテル君」
すると、くいっ、と、今までずっと黙っていたユウ先輩が僕の学ランの裾を引いた。見るとユウ先輩の視線は、自分の手元に開かれた怪奇ノートへとまっすぐに向けられている。
「あ……」
そして、僕も気付く。さっきまで真っ白だったはずのページに、黒のボールペンで書かれた文字がびっしりと埋まっている。それは僕らの記憶にある、『旧・怪奇ノート』の姿そのものだった。
「……」
僕は再び、正面で若干不機嫌そうに首を傾げているマシロへと目を向ける。文字が復活して、今まで忽然と姿が見えなくなっていた『人』が存在している、ということは。
どうやら僕達は、あのおかしな『異世界』から『元の世界』へ戻って来られた、ということのようだった。
「……催眠術だったんじゃないかと思うんです」
僕は、ばんっ、と、御馴染み第二図書室の畳のスペースの真ん中に存在する茶色のちゃぶ台の上に手を突く。ユウ先輩はそこに新・怪奇ノートを広げ、さっそく先日僕達が異世界へと迷い込んだ出来事について書き込んでいる最中だった。僕が手を突いた際にちゃぶ台がわずかに揺れたので、ユウ先輩は少しイラッとしたような表情になる。だけどユウ先輩がそういう顔をするのはわりとよくあることなので、僕はあまり気にすることなく言葉を続ける。
「きっとあの階段昇降が、催眠術の手順になっていたんです。そうして催眠術にかかった僕達は、文字や人の姿を認識することができない状態になってしまった。つまり、世界は現実のまま、何も変わってなかったんですよ。ただ、僕達がおかしくなってただけなんです」
「えー、そう? ただ単に異世界にワープしただけでしょ、ノートに書いてあった通り」
これが僕があの衝撃的な体験を経た後に、散々考えて導き出した一番合理的だと思われる結論だった。 だけどユウ先輩は相変わらずで、僕の発言などただの戯言だとでも言わんばかりの態度だ。
「ねぇそもそも、アキテル君はどうして異世界をそんなに否定したいの?」
「え、や、別に否定したいわけじゃないですよ。でも、やっぱり何かしらで説明はつく出来事なんじゃないかと」
正直図星を突かれたと思った僕がたじろぐと、ユウ先輩はシャープペンシルのノック部分を顎に当てて、ふーんといたずらな笑みを浮かべた。ユウ先輩がそういう表情をするとただでさえ大人っぽいのにますます大人びて見えて、僕は論戦を繰り広げている最中だというのについ目を奪われてしまう。
「じゃあわかった。アキテル君の言う通り、私達は催眠術にかかっていたとしましょう。でもそしたら、あの子のことはどう説明するの」
「あの子?」
「ほら、神社で会ったでしょ。アキテル君のクラスメイト」
「あ、ああ……マシロ」
僕の脳裏に、鳥居の前に佇むマシロの姿が浮かぶ。ユウ先輩と手を繋いでいたところを目撃されてしまった件もあったりして、実はあの日以来マシロとの間にはなんとなく微妙に気まずい空気が漂っている。まあマシロはそういうことを誰かに言いふらしたりするようなタイプの子じゃないから、そこらへんは心配することはないんだけれど。……それはさておき、どうして今ここでマシロの話が出て来るのだろう。マシロに会ったのは僕達が鳥居をくぐって催眠術を解除した後なのだから、今回の騒動にはまったく無関係の人間なのに。
「あの時あの子、私達を見てすごく驚いた様子だった。『どっから現れた』みたいなことも言ってたし。つまりあの子には、すぐ前を歩く私達の後ろ姿が見えてなかったってことでしょ。それっておかしくない? 私達がすぐ後ろを歩いていたはずのあの子を認識できなかったことは催眠術で説明がつくけど、あの子が私達を認識できていなかったのはなんでなの」
「あ……」
そのユウ先輩の指摘に、僕は思わずぽかんと口を開けて間抜け面を披露してしまう。言われてみれば、そうだ。あの神社の石段は直線で見通しが良いから、たとえ少し距離があったとしても僕達の姿はマシロに見えていないとおかしい。あのマシロの反応がある限り、僕の催眠術説は完全に破綻してしまうのだ。……でもそれじゃあ、いったいあの一連の不可解な出来事はどう説明すればいいのだろう。実は、僕達の見ていた夢だった? いや、ダメだ。それもマシロの存在で再び論破される。じゃあ、それじゃあ……。頭を抱えて苦悩する僕を見て、ユウ先輩ははーっと溜め息を吐く。そして聞き分けの悪い子供を相手にするように、にこりと柔らかい笑みを浮かべて言った。
「しょうがないなー、ここまで言ってもアキテル君が信じないなら、もう一回行ってみようか? 異世界」
「行かねえぇえよおぉおお!!!!」
思わず先輩相手にタメ口になってしまいながらも、僕は心からの叫びを口にする。静かに読書をするはずの場である図書室でこんな絶叫が響き渡ったのは、おそらく学校創立以来初の出来事だったのではないだろうか。
ユウ先輩と出会い、一緒に調査活動をするようになって、およそ三週間。
こうしてついに僕は、本物だと認めざるを得ない怪現象に遭遇してしまったのだった。