春の章
今日もここには、山頂に向かって心地良い風が吹いている。
風と共に、どこからか運ばれてきた桜の花弁が顔を横切った。
「……ふう」
今日は、日が落ちるだいぶ前に獲物を獲る事が出来た。
これなら家族に心配をかける事もない。
この前はすっかり暗くなってから帰って、妻に泣かれてしまった。
……もう二度と会えなくなるかと思ったのだろう、もうあんな可哀想な顔はさせたくない。
そんな事を考えながら家路についていると、前から元気な声が聞こえてきた。
「きゅー、きゅーんっ!」
「うぉっ!?」
顔をそちらに向けようとする前に、胸に黄色くてふかふかなものが飛び込んでくる。
危うくそれをがっしりと受け止めると、輝く毛並みをかき分けて頭を撫でてやった。
きゅんきゅんと嬉しそうに鳴きながら俺の腕に纏わりついてくる、愛しい狐。
その小さな獣を地面にゆっくり降ろしながら、『娘』の名前を呼んだ。
「……っと。危ないだろ、昏」
すると、一瞬にしてそのふかふかは可愛らしい着物を着た、まだ幼い人間の子どもに変身した。
「えへへっ。おかえりなさいおとーさん!」
にっこりと満面の笑みを浮かべた娘は、両手を上げて抱っこをねだる。
俺はその小さな身体を持ち上げ、目線の高さまで浮かせると、笑い返した。
「ただいま。迎えに来てくれたのか?」
「うん。おとーさん、まだおうちのばしょわからないでしょー」
……情けない話。
この子の言う通り、俺は妻と娘と暮らす家に、一人では入れない。
ある種の『結界』の中にあるからだ。
その『結界』の先へは、その存在を確信を持って知っている者では無いと正しい景色が見えなくなる。
昏は鼻が利くので、結界の中へと案内してもらえるというわけだ。
子はかすがい、という言葉を地で行っているなと自分でも思う。
「ありがとな、昏」
「ううん!……わぁ、おっきないのしし!おとーさん、おしごともうおわりー?」
「おう。今日は早く終わったから、一緒に何かするか?」
「ホント!?じゃあね、じゃあねー……おにごっこしたい!」
「鬼ごっこかぁ、……先に言っておくけど、狐になるのはズルだぞ?」
「え~」
そんな風に話しながら、娘の体を抱きかかえて山を登っていく。と。
「おとーさんちがーう、こっちこっち!」
昏が声を上げて、歩いていた方と違う所を指さした。
どうやら、結界の境目まで来たようだった。
「はいよー」
「おとーさん、ほんとにかあさ…おかあさんのにおい、わからないの?」
「あはは、分かれば良かったんだけどなぁ、俺には出来ないよ」
「ふーん……ねぇねぇ、かたぐるま!」
「はいよー」
昏が身軽に俺の首の後ろに回る。こういう所は狐の特徴が出ているなぁと思う。
「あっち、あっち~」
「はいはい」
・・・・・・
それから少しだけ歩くと、見慣れた我が家が見えてきた。
「とうちゃーく。……ほら昏、下りろ」
「やっ。このままいえのなかまでいってー!」
「えぇ、まったく……」
駄々をこねる娘に、俺は仕方なく家の中に入ろうと……。
歩みを進めた時、家の戸が開いた。
「暁さま?……あっ」
「あれ……月夜?」
「おかあさん、ただいまっ!」
……中から様子を伺うような形で姿を見せたのは、妻の月夜だった。
「お、お帰りなさいっ。今日は、早かったのですね?」
「ああ。ちゃんと獲物も獲って来た」
背中に背負っていた猪を下ろして、月夜に渡す。
捌き方は彼女も知っているので、安心して任せる事が出来た。
と、月夜が俺の頭に乗っかっている昏に向かって言葉を投げかける。
「昏、お父さんの邪魔になるから下りないと駄目ですよ」
「え~」
「『え~』じゃありません」
「まあまあ、良いよ、これから遊んでやるって約束したし」
諫める月夜を抑えるように、俺は昏を庇った。
「……暁さまは昏に甘すぎです。もっとしっかりと」
「おかあさん、こわいよぅー」
「うわっ」
すると昏は、しゅるっと俺の体を下りて、離れた原っぱに駆けて行ってしまう。
「あ、昏!……すまん、月夜。あと頼めるか。」
「あ……」
俺はその場を後にし、昏を追う事にした。
「……はい」
後ろから発せられた微かな声には、気付かずに。
・・・・・・
その後。
俺はひとしきり昏の遊び相手をしてやり、日が暮れてから二人で家に戻った。
月夜の作った暖かい夕飯を食べて……そのうち、昏は寝てしまった。
「よい、しょ……っと。よく寝てるな……」
満腹になったお腹をさすりながら眠る娘を、布団の中に運んでやる。
「沢山遊んで、疲れたのでしょうね。……暁さまも、こちらでお茶でもいかがですか?」
「ああ。ありがとう、月夜」
囲炉裏の前まで戻ると、月夜が沸かしたお湯を取って急須に注ぐ。
そして、それと湯飲みを持つと、俺の隣まできて座った。
「月夜?」
「……あ、あの……たまにはこういうのも、良いかと思いまして」
「こういうのって……ぁ」
月夜はお茶を目の前に置くと、身体をゆっくりと俺の方に預けてきた。
距離がなくなり、月夜の良い匂いが鼻をくすぐる。
「……」
「月夜……」
肩から伝わる温もりが心地よくて、思わず腕を回し抱き寄せた。
月夜は小さく声を上げたが、すぐに頭をこちらに傾けて押し当ててくる。
「ん……暁、さま……」
嬉しそうにする妻の反応を見て、最近こういった触れ合いが少なかった事、また、月夜の機嫌が良くなかった事を思い出した。
「月夜、もしかして……寂しい思い、させてた?」
「……っ!」
びくっ、と月夜の体が一瞬跳ねるが、直ぐに止まる。
そして、控えめな声で語り始めた。
「……昏の面倒を見てくれるのは、助かります。でも、わたしだって、あなたの妻です」
「暁さまが外に言っている間、とても心配ですし……不安で押しつぶされそうな時もあります」
この前、帰りが夜になった時の事だろうか。
「暁さまと、……もっと、一緒に、居させて下さい。お願い……」
腕を絡めて、ぎゅっと掴んでくる月夜。
「……っ」
「あ、っ……?」
堪らなくなり、腕を月夜の背に回して力を込めた。
身体どうしが密着し、妻の柔らかな感触が伝わる。
「あ、暁、さま……」
「……ごめん、そんな風に思わせてたなんて……知らなかった」
ぎゅう、と両腕に力を入れ、月夜を抱きしめる。
「でも、俺も……ずっと、こうしたかったんだ。月夜の事……」
「あ、ぅ……っ……ほんとう、に……?」
「嘘なんかつくもんか。……んっ」
「んん……っ!」
そして……妻の唇に、自分のそれを重ね合わせ、口づけた。
「ん、んんぅ……ふぁ……っ」
そうすれば、月夜も同じ様に優しく唇を押し付けてくれる。
暫くの間、重ね合って、それからどちらともなく顔を離しあって。
「っ、……はぁ……暁、さま……」
「ん……月夜……」
月夜の顔は真っ赤だった。
とろん、と蕩けたような目を見ていると、思わず押し倒してしまいそうになりそうなくらい、魅力的で。
「月夜、……なにか、俺にして欲しい事、無いか……?」
「そ、それは……」
恥ずかしがる顔もまた可愛い、と思ってしまう。
おずおずと話す月夜には、まだやりたい事があるようだった。
「……あのっ、暁、さま!」
「ああ、なんだ……?」
分かり切っている、次の言葉を待つ。
「―――狐の姿の私を、撫でては頂けませんか……?」
……。
……は?
「つ、月夜?」
「もう、我慢できないんです……暁さまに触られる感触が、ずっと頭に残っていて……!」
「……」
「だ、駄目でしょうか……?」
・・・・・・
「~~~♪」
……目の前には、真っ黒な毛並みの大人の狐が嬉しそうに喉を鳴らしている。
「気持ち良いか、月夜?」
「きゅー」
妻のもう一つの姿、黒孤。
そのふわふわな身体をさわさわと撫でてやっている。
これはこれで、楽しいものなのだけど……。
「きゅー……きゅーん……」
「月夜?おーい……?」
どうやら、奥さんの方も気持ちよくなって寝てしまったらしい。
「……やれやれ、俺も眠るか」
毛玉と化してしまった妻の体を抱き枕よろしく抱き寄せて、そのまま眠ることにした。
……次の朝、ぴったりくっついて眠っていた俺たちに、起きてきた昏が「ずるい!私も!」と飛び込んで来たのだった。