其の一
午後11時59分55秒、23時59分55秒
時計の針が正確なリズムを刻みながら進む、その中で秒針は休むことなく時を刻む。
56、57、58、59‥
そして長針、短針、秒針の全てが盤に刻まれた12の文字を指そうとした時‥。
「来るぞ、舞独楽」
「うっす師匠」
十二辰刻における、子の刻が正刻を迎える瞬間、先ほどまで動いていた秒針は59秒の位置でその動きを止め、時計は11時59分59秒、23時59分59秒でその動きを止めた。
全ての刻が止まる。
先ほどまで聞こえていた虫の声、頬を撫でていた湿った風、か細く闇夜を照らし出していた月明かり。
音が消え、温度が消え、色が消え、空も、地も、風も消え、周りに生い茂っていた木々も全て白く塗り替えられ、朱色の玉垣に囲まれた縦36メートル、横33メートルの区切られた空間以外は全て白の空間へと変わる。
今、白く染まった空間の中で、目に見えるのは朱色の玉垣と敷き詰められた白い玉砂利と碁盤の目に仕切られ等間隔で並んでいる60センチ四方に切られた81個の御影石。
全ての刻が止まってしまっている中、動くことが出来る物がある。
朱色の玉垣で区切られた空間は空間だけが刻を刻み続けている、そこに立つ、真っ白な浄衣に身を包んだ大柄な男と小柄な男。
大柄な男は顔に子の面をかけ、左手に六尺(約1.8m)の八角棒の先に神楽鈴がついた杖を持ち、小柄な男は顔に申の面をかけ、右手に六尺(約1.8m)の八角棒の先に神楽鈴がついた杖を持つ。
朱色の玉垣の中で、もう1つだけ白く塗り潰されてない物がある。
それは二人の男の背にある神明造の本殿だ。
2人は杖を×印を作るように重ね合わせ、本殿へと上る5段の階段の前に陣取り、まるで通せん坊をするように構える。
「歯を食いしばって丹田に力入れろ、来るぞ」
「うすっ!」
申の面をかけた小柄な男が何かを警戒するように声をかける。
それは突然、どこからともなく湧き出た。
白が支配する空間の中で浮かび上がる黒い点。
黒い点は1つだけではない、2つ、3つと地に敷き詰めらた白い玉砂利の隙間から湧き出て人の形を作る、それはまるで影だ。
「相手は『歩』が5、『香車』が1、横一文字の陣っす」
子の面をかけた男が影の数を見定めると、2人の背後にある本殿の閉ざされた扉の向こうから、女性の柔らかい声が聞こえてくる。
申の面をかけた小柄な男が背後の本殿を気にし始める。
「どうやら祝詞が始まったようだな、今日も全てを終えるまで御守りする」
子の面をかけた男が×印を作るように重ねていた杖を、両手で握りなおし、腰を少し落とし、神楽鈴が影に向くように構えを取る。
「舞独楽、推して参る!」
一足飛び、影との間合いを詰めるように突進していく。
止まった刻を再び動かすために、刻卸の儀が始まる。
刻卸の義が始まる少し前に刻は遡る、時計の針が止まる約1時間前。
午後11時2分、23時2分、子の刻は初刻。
細い三日月と満天の星空の下、誰もいない人気が感じられない神社の駐車場に、エンジンがかかったままで車幅灯をつけて停車している銀と黒のツートンカラーのSUV車が1台止まっている。
夜とは言えまだ気温が高いのか、車内には強い冷房がかかっており外部との温度差によりフロントガラスが少し結露してしまっている。
フロントガラスの向こう、運転席のアナログメーターの光に照らされた車内には人影が見える。
その姿は運転席のシートを倒し、顔に無地のタオルをかけて横になっている。
両手を頭の後ろで組み、カーオーディオから聞こえてくる音楽に耳を傾け、流れているのは今流行のアイドルユニットの歌、その歌を鼻歌交じりで歌っており、その曲がちょうど終わりを告げると。
「そろそろ行くか‥」
倒していた運転席のシートを起こし、顔にかけていたタオルを右手に取り、シフトレバー横に設置されてあるカップホルダーに置いてあった飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干し、車のエンジンを切ると、重い足取りで車らから降りると、右手に持っていたタオルを首にかけ、右肩を大きく回しながら歩き出した。
5歩6歩と、車から数メートルほど離れると。
「おっと、忘れてた」
何かを思い出したかのようにその場に止まると、ジーンズの左ポケットからから車のキーを取り出し、キーを車に向けてボタンを押すと、車のドアをロックする音とハザードランプが1回点滅をする。
車のドアがロックさえれたのを確認し、車のキーを再び左ポケットにしまうと、額の汗を首にかけたタオルで拭いながら再び歩き出す。
「まだ蒸し暑いな」
歩くその先は、一面真っ暗闇。
駐車場には地面を照らす灯りはなく、お世辞にも整備が行き届いてるとは言えない荒れたアスファルトの駐車場を躓かないように、慣れ親しんだ庭のごとく歩く。
15メートルも歩くと、さっきまで自分が乗っていたSUV車の姿も暗闇に隠され、その姿を目視で捉えるのは難しい。
遠くに見える小さな明かりを頼りに駐車場内を横断し、歩みを進め先ほどの小さな明かりがはっきりと見える位置まで来ると、木が弾けるような音を立てて篝火が燃え上がっている。
神社の入り口である鳥居の前へと到着したようだ。
篝火によって照らし出されたのは大柄な男だ。
身長は180センチを超え、黒髪のカジュアルベリーショート(前髪が短い刈り上げ)に少し堀の深い顔の顎に無精ひげがうっすらと伸びている。
黒の半袖のTシャツに、紺の年季が入ったジーンズは裾がロールアップされている、足元は有名メーカーの赤いランニングシューズを履き、Tシャツの下に隠されたは厚い胸板と鍛え上げられた腹筋は、袖から見えている太い腕と均整の取れた体つきなのがTシャツを着た状態でも解る。
鳥居の前で一礼をし、いざ境内へ入ろうとした時い何者かにより後ろから臀部を平手で叩かれた。
「遅いぞ、昭吾!」
昭吾と呼ばれたこの男の名前は畑中昭吾、歳は31歳で独身。
「あっ児玉さん、どうもこんばんわ」
児玉さんと呼ばれたこの男の名は児玉修二、歳は62歳で既婚。
どうやら2人は顔見知りのようだ。
「いきなり尻を叩くのはやめてくださいよ児玉さん」
「お前は背がデカイから尻が一番叩き易いのと、お前のケツが何時までも青いからな、こうして一喝を入れとるのだよ」
身長180センチを超える省吾からすれば児玉は頭1つ分ほど小さい。
2人が鳥居をくぐり抜けると、等間隔に置かれた篝火が左右対称になるように設置されており、明るく足元を照らし出す。
駐車場とは打って変わり、整備が行き届いてる石畳の参道を拝殿へと歩みを進める。
月明かり、星明りによってか、篝火の光によってか石畳の周りに敷き詰められた白い玉砂利がほんのりと赤白い光を放っているように見える。
一の鳥居から拝殿までは100メートル以上あるであろうか。
参道を包み込むように樹齢100年を超える木々がいくつも生えており、新鮮な空気が多く、酸素量が多く感じられる。
「児玉さん、今日は俺らだけっすかね?」
「まあ、そうだな」
「そうかー、俺らだけかー、なるほどなぁ」
会話が続かない、会話が続かないまま歩みは進むが、昭吾の方が歩幅が広く児玉に合わせるようにゆっくりと歩く。
その中で話の種を探そうとあたりを見回すが、真夜中の神社ほど薄気味悪いといえる場所もない。
神橋を1つ超えると、手水舎が右手側に見えてくる。
「そういえば、手水舎の修繕の話ってしまってますかね?」
「役場の管轄ではないだろうに」
「いやぁ、それがですね、何故か修繕に俺が借り出されてるんですよ」
「どこも人手不足は否めないな、ワシの所にも神社から漆塗りの仕事が回ってきているが‥」
2人の会話がつながり始めると、すぐに二の鳥居が見えてきた。
二の鳥居の前で2人は立ち止まり、一礼をし二の鳥居をくぐると。
「こんばんわぁ、今日はお二人の当番なんですねぇ」
社務所のある方から聞こえる、ちょっと抜けた口調の声。
顔には狐の面をかけ、白衣に緋袴と言う、所謂で言うところの巫女装束に身を包んだ黒髪で小柄な女性が小走りで駆け寄ってきた。
その声に先に気がついたのは昭吾の方だった。
「紙屋さん、こんばんわ」
「も~、苗字で呼ばないで、心愛って下の名前で呼んでくださいっていつも言ってますよぉ」
名前の呼ばれ方に少し機嫌を損ねたのか、腕を組んでちょっと怒ったそぶりをしているが、狐の面の下の表情は解らない。
「それにですよぉ、面をかけてる時は夜雉と言う歴とした名前があるんですよ!」
「そ、そうですね」
児玉より更に小柄な体格の夜雉、その圧に押され昭吾は少し困った顔をしながら、タオルで額の汗をぬぐい始めた。
それを見て、慌てる昭吾の態度を見かねた児玉がうまく話しに加わってきた。
「今日も暑いね、巫女装束は暑くないかい夜雉ちゃん?」
「あっ!、児玉さん、こんばんわぁ、この衣装ですか?大丈夫ですよ、私はなれてますからぁ」
機嫌を取り戻したのか、次から次へと少し抜けた声で話し続ける夜雉。
しかし。
「夜雉ちゃん、ワシらは今から清めがあるから、また後でな」
「あっ、は~い、じゃあ先に内拝殿の方にいってますねぇ」
夜雉は両手を大きく上げて手を振ると、外拝殿の方へと小走りで消えていった。
まだタオルで額の汗をぬぐう昭吾を見て児玉はため息を漏らしながら。
「女の子の扱いぐらいしっかりせい」
「面目無いっす‥」
そのままの足で社務所へと向かう2人。
普段は御守りが頂けたり、おみくじが引ける社務所だが、今は明かりだけが点いている無人の社務所。
社務所内の更衣室に入ると、2人は着ていた服を脱ぎ下着1枚になり、そのまま社務所の外へと出る。
昭吾の鍛え抜かれた肉体と、60代にしてはしっかりと絞られた肉体を持つ児玉。
社務所の裏手には普段観賞用として使われている、落差3メートルほどの滝がある、その滝に打たれ身を清めてから、社務所の入り口で濡れた体を拭き、再び更衣室へ戻ってくると、用意されていた無地の白い単衣を着る。
その上に生絹で作られた無地の白い奴袴をはき腰で帯を締める、更にその上に同じく生絹で織られた真っ白な浄衣に袖を通す、袖には袖括り(そでくくり)と呼ばれる紐が通してあるので、紐を引けば巾着のように袖口が狭まる仕組みになっている。
最後に昭吾は子の面をかけ、児玉は申の面をかける。
2人の身支度が整うと、低くいトーンの児玉の声が昭吾の耳へと届く。
「舞独楽、準備はいいか?」
舞独楽と呼ばれた昭吾、面をかけたら元の名は伏せなければならない。
「いつでも行けます、釣鐘師匠」
桐材をくりぬくようにして作り漆で黒く塗られた、浅沓を履き社務所を後にする。
石畳の上を歩くと木で出来ている浅沓の足音が真夜中の神社に響き渡り、社務所から拝殿までに敷かれた道を2つの足音が進んでいく。
拝殿は2つに分かれており、一般的に目にすることが多い外拝殿と呼ばれる所に立ち寄り、賽銭箱の前で一礼をする、一礼を終えると内拝殿へと向かう廻廊を通り抜ける途中で。
「お待ちしておりました、釣鐘殿、舞独楽殿」
2人を待っていたのは夜雉だった。
先ほどまでの抜けた口調の夜雉ではなく右手に松明を持ち、背筋がピンと伸び、凛とした声で話す夜雉が2人を先導するように歩き出す。
廻廊に響き渡る浅沓の音、遠くから聞こえてくる不思議な音色を聞きながら内拝殿へと到着する。
廻廊を歩いていた時に聞こえてきたのは、笙、篳篥、龍笛の音合わせが行われていた音だった。
夜雉が持っていた松明を篝火へとくべると、三方の前に立つ夜雉とは違う狐の面をつけた神主の横に寄り添うように立つと、先ほどまで音合わせをしていた笙、篳篥、龍笛の演奏者が静かに楽器から手を離す。
狐の面をかけた神主が1歩前に出ると。
「宵、刻卸の儀を執り行う、払師は‥」
呼吸を合わせるように
「此れ、釣鐘、舞独楽なる者」
夜雉の声が響く。
その声を合図に笙、篳篥、龍笛の和楽器独特の音を奏で演奏が始まる。
祈祷が始まると同時に鞨鼓の打ち出す音が段々と速度を上げていき、追随するように太鼓と鉦鼓と打物の音が混ざり合っていく。
釣鐘、舞独楽は椅子に座り、その頭の上を神主が大幣を振り祈祷が始まる。
時間にして15分程であろうか、時刻は午後11時41分、23時41分になっていた。
全ての儀が終わり、椅子から立ち上がる2人に夜雉から形代と六尺(約1.8m)の八角棒の先に神楽鈴を取り付けた杖を手渡される。
形代と杖を手渡されたのを確認した神主は。
「これより清めし身にて、刻卸の儀を始める」
そう神主が告げると、夜雉を先頭に歩き出す。
しかし夜雉がついていけるのは内拝殿の出口までで、出口で神主に先頭を譲ると夜雉は右手で小さく手を2人に向けて振る。
内拝殿を抜けて1度外で出る神主の後に続き釣鐘、舞独楽の2人は歩き出す、そして今から3人は本殿へと向かうのだ。
本殿へと続く階段、ゆっくりとした歩み。
時刻は午後11時55分、23時55分。
階段を上りきると神主が立ち止まり。
「影を落とし、全てを清めて挑むこととなり」
神主が道を2人に譲ると階段の最上段には手水舎が設置されていた。
2人が手水舎に一礼をし、右手で柄杓を取り、手水を掬い最初に左手を清めるのだが、肝心の水盤には水は張られておらず、まるで空を掬っているように見える。
しかし空を掬い取り、そのまま柄杓を左手に持ち替えて右手を清め、もう一度右手に柄杓を持ち替え、左の手のひらに少量の空を溜めるような動きをし、身につけている面を少しずらしてから、その空を口に含み、音を立てずにすすいで口を清めた後、左手で口元を隠してそっと吐き出す。
するとどうだろうか、吐き出したものが空気かと思ったら黒い物が口から吐き出された。
この吐き出された黒いものは影だ。
光や日光が当たると出来る影。
実は影は日が無くても自分の体の中に潜んでいるものである。
子の面、申の面をもう1度しっかりかけり直し、全ての準備が整った。
時刻は午後11時57分、23時57分。
手水舎の更に奥にある、閂で施された朱色の門が神主の手により、閂をはずされゆっくりと開けられると、釣鐘、舞独楽の2人は門をくぐりぬけ神明造の本殿前まで歩みを進めた。
子の刻が正刻を迎えるのを待つ。
そして刻は戻る。