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第五章『それは愛と呼ぶには儚すぎて』(4)

     ◆ ◆ ◆


 どれだけ走ってきただろう。時間の感覚も無く、どこをどうやって走ってきたのかさえよく思い出せない。

 ただ、いろんな回想が頭をめぐった。


 雪の中で倒れていた、少年。


 警戒心など欠片も無い、透明で無邪気な笑み。


 ただひたすらに、自分のことを信じて名を呼び続ける声。


 そして遼平の《定め》に呑み込まれ――――化け物となっていく小さな身体。



 ……全てが終わった時、少年は心も身体も壊されていた。



 粉雪は勢いを増し、一人の男の願いなど嘲笑うかのように降り続ける。シャツはもう濡れきっているのに、遼平は全力疾走で熱くてしょうがない。

 ようやく自宅のアパートが見え、階段を駆け上がって、部屋の扉を乱暴に開いて。


「純也! 純也ぁっ!」


 玄関に、靴がある。純也は家に居る……けれど、返事がない。自分の靴を脱ぎ捨て、リビングへ向かう。嫌な鼓動の早鐘が、鳴りやまない。

 とっさに二年前と同様に窓を見たが、ちゃんと閉まっている。室温も、そこまで寒くはない。純也は――――ソファに横たわって瞳を閉じていた。


 ゆっくりとソファまで歩み寄り、純也の顔を覗き込むと、少年は静かな寝息を立てている。



「……はぁぁー……」


 安堵と、拍子抜けの声。それと同時に全身の力が抜け、今までの全力疾走の疲労が一気に襲ってきて遼平は絨毯じゅうたんにしゃがみこむ。


「俺……バッカじゃねーの……」


 己に呆れている声色を出しながら、内心では本気で『良かった』と。そして疲れきって重たい身体で立ち上がり、毛布を出してきて少年にかけてやる。


「ったく、そのままで寝たら風邪ひくだろうが…………あ?」


 ふと、純也が何かを抱きながら眠っていることに気付き、ソレを覗く。紺色の髪に、いかにも目つきの悪いこの人形は……。


「これ……俺?」


 取り上げてよく見ようとしてみたが、純也が大切そうに強く抱きしめているのでやめた。その代わり、ソファ前の小さな卓上にある、もう一体の人形を手にとってみる。こっちが、純也の人形らしい。

 遼平には、こんな少女趣味のある人間が一人しか思い当たらない。純也も朝に「診察に行く」と言っていたし、絶対に獅子彦だ。

 相変わらずよく出来た人形だと感心していると、不意に微かなうめき声が聞こえた。あぐらをかいた遼平の前のソファで、純也が苦しそうな寝顔をしている。


 ……純也が夢にうなされているところを、何度か見たことがある。目覚めると本人はすっかり忘れているが、本当に苦しそうに。


 腕を伸ばし、右手で優しく純也の白銀の髪を撫でる。何故かはわからないが、純也は頭を撫でられると精神が安定するらしい。『人肌を求めるのが幼い子供の本能だ』、と以前獅子彦に教わったが。




「お、と……う……さ…………ん」



「――――っ!」




 瞬間、柔らかな髪を撫でていた手が、止まる。少年の閉じられた瞼から、一筋の雫が頬を伝って流れていく。途切れ途切れの声でもう一度、弱々しく「おとうさん」と口にして。

 二年前、獅子彦に告げられた言葉が、今更になって強く蘇る。


『……本当に、あの子を引き取るのか?』


『もう決めたんだよ。純也は俺が預かる』


『遼平……前も言ったと思うが、純也の記憶喪失の原因はおそらく精神的ショックだ。そして記憶喪失患者が何らかの出来事で記憶を取り戻せた時、稀に反動が起こる』


『反動?』



『記憶を失っていた時のこと……お前と共に過ごした時間のことを、忘れる可能性がある。完全に記憶を取り戻した時、純也は、お前を覚えていないかもしれない。……それでもあの子を、引き取るか?』



『それでも……かまわない。記憶が戻れば、それに越したことはねぇじゃねえか。俺が純也を傷つけたんだ、償う義務が、俺にはある』



 ……あれから、随分と長い時間が経ってしまった。今、純也の記憶が少しでも戻ってきているのなら、覚悟をしなければならない。

 純也の中から、『蒼波遼平』という存在が消える。だが、それで純也は、親元へ帰れる。


 頬を伝っていく純也の涙は、止まらない。一筋の跡を残して、ゆっくりと雫は人形へ落ちていく。


「泣くんじゃねーよ……純也……お前には帰れる場所があるんだろ……?」


 誰にも聞かれたことのない悲痛で弱った遼平の声音は、狭いリビングに響く。

 純也の失われた過去が全て明るいモノだとは思っていない。

 記憶を消したいほど辛い出来事があったのだと、わかっている。


 けれど。


 けれど、純也を育てた人物が純也を心の底から愛していたことは、確証が持てる。

 そうでなければ、こんなにも純粋で心優しい性格にはならないだろう。温かな愛情に包まれて育ったのだろう、この少年は。



 ――――愛されたのなら、幸せに生きてくれ。



 遼平は、自分が幸せに生きる必要は無いと思っている。……両親に、愛されなかったのだから。

 だが純也は、愛されたのだ。なら、この少年に不幸があってはならない。苦しませてはならない。




「ん……、りょう……?」


 寝ぼけてとろんとした眼をこすって、純也は起きあがる。本人は眠りについた自覚が無かったらしく、「僕寝ちゃってたんだ〜」などと呑気なことを言いながら。


「お帰り、遼。……どうしたの、服濡れてるし……」


 紺色の髪からシャツまで濡れきっているのは一目でわかるし、疲労しているのだって純也は気付ける。きょとんと不思議そうに首を捻っている純也に、「人の気も知らねぇで……」と小声でぼやく遼平。


「……なんでもねーよ、ジョギングだ、ジョギングっ!」

「遼がジョギング〜? じゃあなんでそんなに濡れて…………あ……」


 窓に振り返った少年の瞳に、白が映る。舞い落ちる白を見て、聡明な少年は全てを悟ったようだった。


「……ごめん、遼」


「別に、傘持ってなかったから帰ってくるのに少し濡れただけだ。それに、また家ン中に雪が入ったら面倒だからな」


「前……僕が窓を開けたまま倒れちゃったことがあったんだよね。あの時僕、遼の青い――――」




 ……青い?




 苦笑だった純也の顔が、急に呼吸も忘れたように呆然と止まる。

 そう、二年前のあの夜、純也は何かをしていた。遼平の青い……《何か》で……。


 青い……何?


 思い出せない。とても大切なモノだったはずなのに。とても大好きだったモノのはずなのに。




「おい、純也? どうしたんだよ、俺の何だって?」

「あ、ご、ごめん、なんでもない。なんでも……ないんだ」


 いい加減冷えてきたシャツを着替えようと私室に戻りかけていた遼平は、震える少年の肩に気付いていない。襟付きのカジュアルシャツに着替えてきた遼平は、まだ窓に背を向けたまま純也が俯いて立ち尽くしているのを不審げに見た。



「あのさ、遼……」


「あ? なんだよ、どうした?」


 純也が目覚めるまでの弱った調子は隠して、いつも通り遼平は口元をにやけさせて問う。少年はぎゅっと腕の中の人形を抱きしめて、意を決して顔を上げ、言う。






「もし、もし僕が遼のことを忘れても……それでも遼は、僕の傍に居てくれる?」



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