第五章『それは愛と呼ぶには儚すぎて』(2)
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「……お帰り、楽しんできたかい、シュン?」
とあるビルの、自分以外は誰も居ない社長室で、風薙老人は巨大な窓ガラスから裏東京を眺めながら言葉を発した。
「風薙様、甲賀瞬、只今帰還致しました。遅くなり申し訳ございませぬ」
社長室の扉は、開いていない。けれど、確かに社長机の前に、跪いた体勢のジャージの青年がいた。
「悪かったねシュン、せっかくの休日だったのに散々だったようだね。また梅に振り回されたのかい?」
「朽縄殿を私室に押し込めるのは大変苦労致しました。しかし、忍に休暇などあってはならぬこと。風薙様は拙者をいつでもお呼び下さいませ」
シュンに背を向けたままの風薙老人は、「相変わらずシュンは堅苦しいなぁ」と苦笑する。そんなところがまた、社長のお気に入りである理由なのだけれど。
「……それで、何か面白い収穫はあったかい?」
「はっ、実に久しゅうございましたが、かつての《三大側近》で戦闘を行いました。敵は三流以下の者達でしたが……朽縄殿、霧辺殿の戦闘技術は確実に上達しておりまする。拙者もより精進しなくては」
跪き、深く頭を垂れてシュンは報告を淡々と述べる。彼の声色には、一切の感情が無い。
「うん、梅の働きは最近ますますサディスティックに強烈になってるからね。そろそろ私から制止の声をかけておいたほうがいいかなぁ……無駄だろうけど」
クスクスと笑いながら、風薙老人は北風に舞い上がっていく粉雪を遠目に眺める。老人は、何も動じた感じを見せない。
「真のことだけど……シュン、君から見て、最近の彼はどうだい?」
「霧辺殿は一見、愛妻殿に現を抜かしているように見えまするが、部下の心情をよく把握し、いかなる時も広い範囲の状況判断を欠かしておりませぬ。まだまだ彼の成長も望めそうですな」
「そうかい」と実に嬉しそうな表情を老人が浮かべているのを、シュンは声色と気配で察する。君主である風薙社長が喜ぶことは、忠実なる家臣のシュンにとっても嬉しいことではあるが、まだ報告には続きがあるのだ。
「……君のことだから、きっと収穫はそれだけじゃないんだろう? 良かったら私にも教えてくれないかな、とっておきのやつを」
やはりこの老人には全て見抜かれているのだと、シュンは口元をほころばせる。……それでこそ、我が主。
「蒼波殿の技量も、観察して参りました。風薙様も気になっているのでございましょう? 彼の力を」
「そうだね、私も遼平のことは随時気になっているんだ。……彼の、本性が」
「《守護者》か《破壊者》か、ですかな?」
低められた青年の声に、やっと老人は振り返る。穏やかな微笑で、「ご名答」と囁いて。
「拙者にも……わからぬのです。あの者の肉体は、明らかに《破壊者》のモノ。しかも本人が自覚しているほど、天性的な。しかし、『護りたい』という強き意志、彼の瞳に時折映るあの優しき哀愁……何者よりも温かな漆黒の瞳。《残酷な破壊者》の肉体に宿ってしまった《優しき守護者》の魂が、拙者には見えるのでございまする」
「風薙様は、どちらだとお思いでございますか?」と、シュンの真剣な問い。それに、老人は「うーん……」と子供のような仕草で首を捻る。
「私は……それを見極めるために、彼を雇ったのかもしれないよ。蒼波の末裔が、幾度となく世界に絶望した彼が、どんな物語を紡ぐのか」
情報屋であるシュン以上に、この老人は遼平について何かを知っている。けれど、この老人にさえ、未来は見えない。……だからこそ、傍観を続けるのだろう。
「風薙様……貴方様は、どこまで真実をご存じで、何を望んでいらっしゃるのですか?」
「そうだねぇ……。私はただ、見届けたいのだよ。光の《破壊者》と闇の《守護者》が辿る、その数奇な運命の結末を」
わざとヒントを与えたような君主の言葉に、シュンはより深く頭を下げてから、その場から霧の如く消えていった。彼のことだ、これからより一層、中野区支部を……遼平の周囲を調べるつもりなのだろう。
「……遼平、君は救えるかい? 闇を背負った己の宿命を……破壊の光を宿す少年を」
風薙社長にしては珍しい、僅かな憂いを帯びた声だった。