第四章『愛、乱れて』(6)
「あ、あ……、『愛の言葉』やてぇぇ〜!?」
青年が消えてしまって随分と間を置いてから、やっと真の思考フリーズが解除され、言葉が口から出る。その声に、他の者達も我に返って。
「えっ、ウソッ、何て言ったのか気になるー!!」
「シカモ遼平クンの言葉に希紗チャンは顔を赤くして……嫌ダー!! ボクは……っ、ボクはこんなの認めないヨォォォー!」
思いっきり絶叫をあげてから、フェイズはよくわからない英語(たぶん、遼平への罵詈雑言)を嗚咽の憐れなメロディーに乗せながら、涙を振りまいてどこかへ走り去っていってしまった。……情報屋フェイズ、ショックのあまり、戦線離脱。
「フェッキー……あの人結局、何がしたかったのかしら?」
「何だったんやろなァ……」
泣き叫んで走っていく目立つ外人は、何度も地面に転びながらやがて人波に消えていく。その後ろ姿を、夫婦は少しの同情の眼差しで見送っていた。
「くしゅんっ」
「おいおい、今度はお前か? お前が風邪ひいたんじゃねーの?」
「ち、違うもん! ちょっと寒くて……」
薄暗い空を見上げ、希紗は北風に身を震わせる。露出した小さな両肩をさすり、自分の両腕を抱いて、白い息を吐いていた。
「ったく、そんな肩出した服なんか着てくるからだ。…………コレ、羽織ってろ」
「え、でもコレ……」
遼平は自分の着ていた革のジャケットを脱いで、希紗の両肩に羽織らせる。代わりに、遼平はラフなシャツだけ。
「本当に遼平が風邪ひいちゃうわよっ、そんな格好で……」
「いーから黙って羽織ってろ。お前の格好を見てるだけで寒いんだよ」
遼平から借りたジャケットは、確かに温かかった。外気を通さない厚い革と、残された彼の体温と、不器用な彼の優しさで。
「ありがと、遼平。…………あ」
恥ずかしそうに男物のジャケットを羽織った希紗は、不意に鼻先へ触れた冷たい感覚に、空を仰いだ。
「雪だ……」
こんな時期に……しかも数年ぶりの、雪。ほんの微かで、小さな小さな、粉雪。
「今年は厳冬だってニュースで言ってたっけ……ホワイトクリスマスになるのね、今年は」
「…………」
「遼平?」
口を微妙に半開きにしたまま、遼平は呆然と舞い落ちる白を見ていた。まるで、雪に……雪の何かに、心を奪われてしまったように。
「……希紗、悪ぃ、ちょっと急用を思い出しちまった。俺、帰るわ」
「え、ちょっと遼平っ、このジャケット!」
「ホントに悪い! また明日なっ!!」
いきなり焦ったように走っていく男の背を、希紗は心底不思議そうにいつまでも見つめていた。
「シンっち、なんか急に遼平くんが帰っちゃったわよ!?」
「どういうこっちゃ!? デートを途中で放棄するなんざ、男として許せんで!」
独り残されてしまった希紗を遠目に見ながら、夫婦は混乱と驚愕に慌てる。何なのだろう、あの、遼平の不安と焦燥が混じった顔は。
「まさにこれから、って感じだったのに……『急用』って何かしら?」
「わからんなァ…………、って、おい澪斗!? どこ行くん!?」
今まで沈黙していた澪斗が、やはり何も言わないまま踵を返して歩き出していた。背を向けた彼に、思わず真は声をかける。
「……俺は確かに、最後まで見届けた。これでもういいだろう? ……帰らせてもらう」
「澪斗……なァ、あんたは、本当にこれでエエんかっ?」
立ち止まった男は、ふと粉雪舞う白い空を仰ぐ。そして、ゆっくりと、己に言い聞かせるような声で。
「希紗が幸福ならば、俺はそれでいい。仲間が笑顔でいられるのならば、俺は」
――――何も、不快ではない。
あの氷見谷の一件以来、澪斗の中で何か変化があったのだろうか。『仲間』への、想いが。
また脚を踏み出して、もう男は振り返らなかった。ただ、微かに小さな言葉を。
「……もし希紗を泣かせるような真似をすれば、俺は蒼波を殺すかもしれんがな」
それが彼なりの冗談だったのか、本音だったのか、真にさえわからなかったが。
黒のロングコートの肩から僅かな粉雪を払い落とし、澪斗はこの場から立ち去っていった。
「…………ホンマ、ウチのヤツらは不器用なアホばっかや」
真の呆れと笑みが入り交じった白い吐息は、寒風にさらわれていく。