ふたり
真っ暗な視界が開けた先に、長い長い髪の毛があった。はっとして目を見開くと、小さな可愛らしい女の子が男の顔を覗き込んでいた。女の子は男が目を覚ましたことに気付いたようで、ほっとしたようにその表情を緩めた。
「君は……誰?」
男はそう呟いた。女の子が、少し悲しそうな顔をした。
口元が動いている。何事かを伝えようとしているようだが、音声が届いてこなかった。
「聞こえないよ、どうしたの?」
女の子が男に言った。今度はやけにはっきりと聞こえた。
「――助けて、」
男はそこで夢から覚めた。辺りは真っ暗だった。妙な夢を見たせいで、どくどくと心臓の音が聞こえた。ふと見ると、傍らに白い猫がいた。ふさふさした尻尾が顔に当たる位置にある。あんな夢を見たのは、そのせいだろうか。
確か、斑模様のある位置からハナという名前を付けられた猫だ。男はふっと笑った。猫の背中を撫でようとした手の平が、すっと空を切った。
「え?」
猫をすり抜けた腕の感覚が無くなっているのに気付いた。慌てて何度か擦り合わせているうちに、また元の様に感覚が戻ってきた。よくわからないが、とりあえずほっとした。
男は部屋の中を見回した。陽人は居ない。どうも出掛けているらしかった。時計を見た。針は午前2時を指している。幾らなんでも仕事には早すぎるだろうなどと考えている内に、入口の方で音がした。がちゃん、と、鍵のかかったままのドアを思い切り引いた音がした。
「……っけねえ、忘れてた」
かち、と音がして、ドアが開いた。陽人は使用した鍵をまたいつもの様に引き出しの奥に放り込んだ。靴を脱ぎ、顔を上げた陽人が体を起こしていた男に気付いた。
「なんだ、起きてたんか」
「陽人、」
それを見て、陽人は部屋の灯りをつけた。眩しさに目を細めて、男は陽人を見た。
「外は、雪が降ってんだなあ」
「ああ」
陽人は自分に積もっている雪を払った。
「陽人さあ、どうしたんだよ?」
「何?」
「鍵なんか掛けてさ、それも思いっきり忘れてんじゃねえかよ! だっせえなあ」
「なんだよ、お前寝てるしよ、一応ってか気い使ったんだよ!」
男は慌てた様子の陽人を見て、可笑しくて堪らなくなった。
「でもさ、窓開いてんじゃんか」
陽人はああ、と言って、きまり悪そうに頭を掻いた。
「忘れてた」
「ありがとうな」
男がそういうと、陽人は何やら聞き取れないような小声で答えを返した。陽人はコンビニのビニール袋をテーブルに置き、中身を取り出した。
「寝付けねえんだ、コンビニまで行ってきた」
陽人はファンヒーターのスイッチを入れた。
「雪かあ。どーりで寒いと思った」
陽人は缶ビールを1口飲んだ。やはり寒そうな様子を見て、男には温かいコーヒーを淹れて差し出した。
「なあ、」
男がぼんやりと外を見ている陽人に言った。なんだ、と言いたげな顔で陽人が振り返った。
「さっき、言いかけてたことあっただろ。あれ、もしよかったら聞かせてくれよ」
「……あんま面白れえ話じゃねえよ」
「お前さ、何か……辛そうに見えるんだ」
男はそう言って、陽人の隣に腰を下ろした。陽人の腕の中で、ハナがにゃあ、と鳴いた。猫の背中を撫でながら、しばらく黙り込んだままだった陽人がようやく口を開いた。
「……ここいらじゃあ、海は見えねえよなあ」
何事かを考えながら、陽人は缶ビールを1本飲み干した。
「俺はさ、ここに来る前は、海の近くにある町で暮らしてたんだ。アパートから歩いてすぐの所に浜辺があってな。そっか、もう10年も前になるんだな」
「海かあ、いいなあ」
男は温かいコーヒーを1口啜った。陽人が男をちら、と見てから続けた。
「……俺には、ずっと探してる奴がいるんだ。そいつは高校からの友達でさ、体が弱くてな。ほとんど病院で暮らしてるような奴だ。それが何でか、急に居なくなっちまった。周りの奴らも何も知らねえ。病院が変わったんかと思ったけどそんなこともねえ。まるで神隠しにでもあったみてえに消えちまったんだよ」
陽人は手持無沙汰に、ビールの空き缶を弄った。
「そいつ、寧々っていうんだけどさ。俺、寧々がなんかやべえ事に巻き込まれてんじゃねえかって思ったから、警察が手を引いた後もずっと捜してたんだ。手掛かりも何もねえから、そういうのに詳しい奴から情報集めてさ。自分でもロクでもねえ連中の中に混じって、後ろ暗れえことも色々やってきたんさ。でも、」
陽人は持て余していた空き缶を床の上に置いた。
「俺は今でも諦めたわけじゃあねえよ。でも、海の匂いも、波の音を聞くんもキツくなって、あの町からは逃げ出したんだ。……俺はバカだから、今でもアイツはどっかで生きてるんだなんて思ってる。アイツがどっかで助けを待ってるような気がしてさ。……俺は、……そうだ。今ここに居る、そう、お前みたいにさ。誰かんとこで世話になって、案外平和に暮らしてんじゃねえかって思いたかったから、お前のことを助けた。そう、思いたかったんだ」
男は途中から陽人が泣いているのに気が付いていた。酔っぱらっているせいなのかもしれない。気付かないフリをしておいた。陽人はまた黙り込んだままになった。それから、ごろんと冷たい床に体を横たえた。
男は何も言わずに傍らに座り込んでいた。陽人が、小さな声で歌うのが聞こえた。
「……クリスマスかあ」
男がそう言った。陽人は顔を上げ、男を振り返って見た。
「案外、そうなんかもなあ。今、ここに俺が居るってのはさ。そういうのもアリなんじゃねえかなあ」
「……すまねえな、変な話聞かせちまった」
男はにや、と笑って言った。
「クリスマスの日くれえはさ、そんな奇跡みてえなことを祈ったってもいいんじゃねえ? なあ、神様、夢ぐらい見たっていいんだよなあ?」
陽人はふっと笑った。それからまた、続きから歌い始めた。お世辞にも褒められたものではなかった。
「ヘタだよな、本当」
「ほっとけ」
男はそう意地の悪いことを言ったが、どこか、幼い頃に聞いていたような歌声が心地よかった。
陽人は、自分の歌を気に入ってくれたのは、ヒナタ位だったことを思い出して笑った。




