記憶のない男
もう一度男が目を覚ました時には、もう日は高く昇っていた。足元に、何か温かいものの感触があった。体を起こしてみると、足の間で猫が丸くなって眠っていた。
陽人は居なかった。男はまだぼんやりする頭でとりあえず起き上がった。
ジャージはイスの背に引っ掛けられていた。手に取ってみると、それは所々に穴が開き、固く乾いた茶色い染みが全面を覆っていた。
「……これ、俺んか? ぜんっぜん覚えてねえよ」
男は頭をがりがりと掻きむしった。今は代わりに陽人のシャツを着せてもらっている。ジャージを当ててみた。引き裂かれたような穴に当たる部分には、擦り傷一つ見当たらなかった。気味が悪くなって、取りあえずまたイスに掛けておいた。
部屋の中は狭く、服や雑誌の類が整理されずに散乱していた。とはいっても物自体はそれほどないといった状態だった。寒々しく、妙に冷え込んでいる。よく見ると窓が開けっ放しになっていた。閉めようとして窓に近づくと、そのタイミングで玄関のドアが開いた。
「ああ、起きてたんか。良かった」
陽人は何でもないことのようにそう言って、コンビニのビニール袋をテーブルに置いた。その足元を、同時に入ってきたと見える一匹の猫がまとわりついている。餌をねだっている様子だ。元々部屋の中に居た猫もそこに加わった。陽人が流し台の下に置かれたキャットフードの袋を開けて、空になったトレーの中にざらざらと入れた。猫が喉を鳴らしてトレーに顔を突っ込んだ。屈み込んで猫を見つめる陽人が、何か鼻唄を歌う声が聞こえた。
それから思い出したように男の方を振り返って陽人が言った。
「そういやさあ、ああ、お前の名前もなんもわかんねえや。俺さ、昼から仕事に行かなきゃなんねえんだよ。腹減ってるだろ? なんか適当にあるもん食っといていいから」
「え、あ、あのっなんつーか、ちょっと待てって!」
陽人がまた出ていこうとするのを、男は慌てて引き留めた。
「何?」
「何って、あんたさあ、あんまり不用心じゃねえの? 窓開きっぱなしだったじゃねえかよ。それに」
陽人はうーん、と唸るように声を上げた。その間に食事を終えた猫が悠々と窓をすり抜けて出て行く。お互い黙り込んだまま、先に口を開いたのは陽人だった。
「まあいいじゃねえか」
言い淀んだままだった男に、陽人が随分と能天気な答えを返してきた。
「俺んちが気に入らねえなら出て行きゃいいし、行くとこねえならいりゃいいさ。好きにしろ」
その間にも陽人は荷物をまとめて、また玄関で靴に履きかえた。
「あの、……そーいう意味じゃあなくってなあ……。そういや俺、アンタの名前聞いてなかった」
「陽人。黒谷陽人ってんだ。まあ好きに呼んでくれや」
陽人はふっと笑った。
「俺は、残念ながらまだなんもわからねえ、ゴメン」
「いいって」
陽人はそう言って、また鍵も掛けずに出かけて行った。
その姿を見送った後で、男はまた一人、取りあえずベッドに腰を下ろした。
開けっ放しの窓からはまた、違う模様の猫が中を伺うようにして入ってきた。
「俺は猫じゃねえっつうの。……泥棒だったりしたらどーすんだよ。まあ、なんも覚えてねえけどさ……」
そう、一人声に出して呟いてみた。
「ありゃあ、どうした? 今日は休みか?」
外でまた違う人の声がした。男はびく、と体を強張らせ、反射的に身を隠そうと辺りを伺った。しかしそんな場所はどこにもなかった。そうこうしている内にがちゃん、とドアが開いた。中に入ってきたのは、背の低い老人だった。その老人は男を見つけ、驚いたような声を上げた。
「なんだ、陽人がまだ居るんかと思うとったら、違うんか。こりゃあ失礼」
「……あの、すみません。あなたは陽人って人とは知り合いなんですか?」
老人は何だ、というような顔を上げた。
「知っとるよ、わしゃあここの管理人をやっとる。お前さんはなんだい、あの男の友達じゃあないんかい?」
「いや、そういうわけじゃあ……俺、昨日の晩に陽人に助けてもらって、その」
男は上手く答えられなかった。男が困ったような顔をしているのを見て、なにか思う所でもあったのか、老人は部屋に上がりこんできた。部屋の中は風が吹き込む所為で外と大差なかった。男の冷たく冷えた手を、老人がしわの寄った両手で握りしめた。
「この部屋は寒いだろう。おまえさん、暇ならウチに上がっていかんか。まあ、すぐ隣やから」
老人の手は温かかった。
隣の管理人室に案内され、勧められるままに男は炬燵に入らせてもらった。さっきまでの冷たさが嘘の様に温かい空間だった。
「すみません。なんか、俺他人の世話になってばっかりだ」
「ええよ、暇でなあ。陽人が居るんなら話でもしようと思うとったところでなあ」
老人は立ち上がると、台所からお茶の入れて戻ってきた。
「……俺は、昨日の晩に公園で倒れてたらしいんです。陽人が見つけて、介抱してくれて。……信じてもらえないかもしれないけど、俺、その前とかの記憶がないんだ。だから、名前もなんも、自分の事わかんねえし、どうしたらいいんかって思ってたんです」
男の話せることは、今はそれで全部だった。とても少なかった。
「また、今度は何を拾いこんできたんかと思うたら、まあ人間様とはなあ」
老人は件の男の姿を思い浮かべて、可笑しそうに笑い出した。
「すみません。あなたにもご迷惑をお掛けして」
「何を言うとる。なんも迷惑なんかしとらんよ。面白い話が聞けたもんだ」
男の近くに、斑模様の猫が寄ってきてにゃあ、と鳴いた。
「全く、ウチは動物禁止じゃというとるのに」
老人がそう呟いた。しかしその顔はどこか嬉しそうに見えた。
「何も思い出せんのんは辛いなあ。わしなんぞ、最近は物忘れが酷うなって、さっきしたことも忘れてばっかりじゃ」
老人は壁に据え付けられた時計を見上げると、慌ててテレビのスイッチを入れた。中途半端な時間帯で、番組はスタジオ内の笑い声から画面内に表示された。どうやらこれも、忘れていたことの一つであるらしい。
男は温かさにぼんやりしたまま、老人と一緒になってしばらくテレビを見ていた。
「いや、そんなことはないだろ、ああ、なんだ。ようわかっとらんわあ」
老人はいちいち、テレビに向かって何事かを呟いていた。
男の方でも老人とはまるで昔からの知り合いか何かのような気分になってきた。
「じいちゃんは、ここで一人なんか?」
「ああ、もう何十年もなあ。一人は気楽でええよ」
「陽人とは昔っからの知り合い?」
「いやあ、5年か、6年位か? そういえば、アイツのヘタクソな唄を聴いたら年末じゃって気になるわい」
「へえ」
話すうちに、男は自分が見つかったという、その公園へ行ってみたくなった。自分の手掛かりはそこだけだったからだ。
「なあ、じいちゃん。その公園ってこっから近いの?」
老人はテレビから意識を男に向けて、ああ、と答えた。
「どうしたんだ? 太郎さんはどっか行きたいんかい?」
「太郎さんって……」
「ありゃあ、間違ったかいなあ」
老人は悪びれもせずにそう言って、またテレビの画面に見入っていた。
「うん。じいちゃん、俺もう行くわ。ありがとうな」
「ああ。またいつでもおいで」
老人の部屋を出てから、男は陽人の部屋に戻った。そこで自分のジャージを手に取ると、まじまじと見つめてみた。茶色くなったそれが血の染みだと考えると、たまらなくイヤな気分になった。ジャージを掴んで、男は部屋を後にした。
公園には、幸い他に人は居なかった。遊具が置かれているわけでもなく、ただ周囲を植え込みで囲っただけの場所だ。ベンチが4つ、中央の時計台の台座も座ることが出来る作りになっていた。
男は聞いたところの、自分が倒れていた場所を見てみた。特に何か、わかるようなことは何もなかった。屈み込んでよく見てみても、落ちている血の跡一つ見つからなかった。男はふう、と息を吐き出して、ベンチに座った。
しばらくして、男は自分の空腹に気付いた。老人に出されたお茶を飲んだだけだ。いつから食べていないのかもわからない。男は何だか惨めな気持ちになって、ベンチに横になった。シャツ一枚では少し寒さが身に沁みたが、まだ日差しが十分暖かく感じられた。
男は陽人から、自分が病院に行くのを嫌がったのだと聞かされた。それがどうしてなのかは自分がわからない。それが後ろ暗いことの証明のようで、考えれば気が滅入るばかりだった。
いつのまにか日が暮れて、辺りは急に薄暗くなった。見上げた時計が午後の4時を指していた。ひゅう、と吹き付ける風が冷たくて、男はベンチの上で蹲った。
辺りが真っ暗になった。街灯が、かちかちと点滅を繰り返している。男は一人、訳も分からずに震えていた。今までの間に、立ち寄る人は一人もいなかった。
陽人に、警察に行こうと聞かれたならどうしただろうか、と男は考えた。同じようにイヤだと答えただろうか。男は自分がどこかの町で厄介ごとを起こして逃げてきたのではないかと考えた。腕の中に、それを裏付ける物の存在がある。暗くなってしまえば気にならないだろうと、丸め込んでおいたジャージを広げて、シャツの上から羽織った。幾らか寒さはマシになった。それでも男は寒さと空腹と、訳の分からない恐怖心から、次第に居てもたってもいられなくなってきた。
気が付けば、陽人の家の前まで戻っていた。
「……何やってんだ、俺は」
自分から出て行っておいて、何をしているのだろうと男は思った。ためらいながら玄関のドアを見つめていると、猫がその隣をすり抜けて行った。窓に飛び上がって、中に入って行った。
男はドアノブに手を伸ばした。それより先に、ドアが開いた。陽人だった。
「ああ、おかえり」
なんて事のない調子で陽人が言った。男は顔を上げて見た。陽人は笑っている。
「寒いだろ、中に入んな。……まあ外とそんな変わんねえけどさ」
男はほっとした。本当に心の底から、安堵したようにふうと息を吐き出した。
「……ただいま」




