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第4話 まず寝なさい

第3話を投稿したあと、少しだけ気が抜けた。




ジュネーブの会議室。


地図。


書類。


勝ち取らずに済む方法。




そんな言葉をずっと頭の中で転がしていたせいで、投稿ボタンを押した瞬間、部屋が急に静かになった気がした。




いや、実際には静かではなかった。




LINEは鳴っていた。


メールも来ていた。


朝の現場からは写真が届いていた。


Googleドライブには、SaveActionで保存された画像がちゃんと増えていた。




便利だった。




ちゃんと動いていた。




システムがちゃんと動いていると、少し安心する。


人間よりずっと素直だ。


決めた通りに動く。


余計なことを考えない。


夜中に急に不安になったりしない。




その代わり、気を利かせてもくれない。




そこが良いところでもあり、怖いところでもある。




スマートフォンの画面に、友人からのメッセージが届いた。




本好きの友人だった。


昔から、やたら変なところをちゃんと読んでくれる。




第3話を読んだよ、と書いてあった。




新渡戸稲造の日記があるとリアリティが出そう。


北欧の寒さが、短い文章と改行の空間から伝わってくる。


現代パートの画像は、ビルとか高速道路も良さそう。


あと、ハッスルらーめんが美味かった。




最後だけ急に現実だった。




僕は笑った。




重い話を書いている時ほど、こういうどうでもいい報告に救われることがある。




国境。


戦争。


言葉。


文化。


AI。


分断。




そういう大きな言葉を並べていると、自分まで大きなことを考えている人間みたいな顔になってくる。




でも実際には、眠いし、腹も減るし、ラーメンの話で普通に気分が変わる。




人間はそんなものだと思う。




たぶん、それでいい。




僕は友人のメッセージをもう一度読んだ。




新渡戸稲造の日記。




なるほど、と思った。




新渡戸本人を真正面から書くのは、少し怖かった。


偉人の内面を、こちらの都合で勝手にしゃべらせすぎると、急に安っぽくなる。




でも、日記やメモのような断片なら、いけるかもしれない。




会議のあとに、彼が短く書き残した言葉。


誰にも見せるつもりのない、整っていない文章。


そこに、少しだけ人間が出る。




もちろん、実際にそんな日記が残っているわけではない。


少なくとも、今の僕は知らない。




だから本物の史料みたいな顔をして書くのは違う。




けれど、小説の中で「彼がそう書いたかもしれない」と思える断片を置くことはできる。


史実を壊さずに、人の息づかいだけを足す。




それはたぶん、歌を足すことに似ている。




記録には残らないけれど、そこにあったかもしれない声。




僕はそういうものを探しているのかもしれなかった。




「まだやってるの?」




妻がキッチンから声をかけた。




「いや、もう投稿した」




「じゃあ寝れば?」




「まだちょっと考えたいんだよね」




「出た」




妻は短く言った。




「出た、って何」




「考えたい、って言って寝ないやつ」




何も言い返せなかった。




だいたい当たっている。




僕は昔から、大勢の前で話すのは得意ではない。


でも、一人で考え始めると、なかなか止まれない。




考えているというより、頭の中でずっと音を鳴らしている感じに近い。




ジャズのアドリブみたいに、決まったコードの上で、同じフレーズを少しずつ変えながら吹いている。




新渡戸。


オーランド。


AI。


SaveAction。


歌。


名前。


線。




同じテーマの上をぐるぐる回っている。


たまに変な音が出る。


でも、その変な音の方が気になって、また追いかける。




効率は悪い。




かなり悪い。




でも、効率の良い考え方だけでは、たぶんここには来られなかった。




「散歩行く?」




妻が言った。




「今から?」




「寝ないなら歩いた方がいいでしょ」




たしかにそうだった。




考えすぎて寝られない時は、横になるより歩いた方がいいことがある。


身体を動かすと、頭の中で絡まっていたものが少しだけほどける。




完全にはほどけない。


でも、少しだけ空気が入る。




僕たちは近所の神社まで歩くことにした。




夜の道は、昼間より少しだけ正直だった。




店の看板は明るい。


マンションの窓にもいくつか灯りが残っている。


コンビニの前には自転車が並び、どこかの部屋からテレビの音が少し漏れていた。




世界は大きな問題でできているわけではない。




実際には、帰り道の明かりとか、コンビニの袋を持った人とか、信号待ちの沈黙とか、そういう細かいものでできている。




大きな問題は、その上にのしかかってくる。




神社に着くと、境内は思ったより暗かった。




鳥居の向こうに、石畳が薄く続いている。


木の葉が少しだけ揺れていた。


街の音はまだ聞こえるのに、鳥居をくぐると急に音が一枚遠くなる。




神社は不思議だ。




完全に日常の中にあるのに、少しだけ日常から外れている。




妻は賽銭箱の前で軽く手を合わせた。




僕もそれに倣った。




何を願えばいいのかわからなかった。




商売繁盛。


家内安全。


連載継続。




最後だけ少し違う気がした。




参拝を終えて、境内の端にある掲示板の前を通った時、紙の札が目に入った。




新渡戸稲造の言葉だった。




信実と誠実をなくしては


礼儀は茶番であり


芝居である




僕は足を止めた。




妻が少し先で振り返った。




「どうしたの?」




「いや」




僕は札を見たまま答えた。




「新渡戸稲造」




「また?」




「また、って」




「だって、ずっとその人のこと考えてるじゃん」




たしかにそうだった。




僕は掲示板の前に立ったまま、もう一度その言葉を読んだ。




信実と誠実をなくしては、礼儀は茶番であり、芝居である。




礼儀。




その言葉は、第3話を書いたばかりの頭には、妙に引っかかった。




ジュネーブの会議室には、礼儀があった。




丁寧な挨拶。


整った服装。


決められた手続き。


順番に発言し、通訳を待ち、相手の言葉を遮らない。




それはたぶん、とても大事なことだ。




礼儀がなければ、会議はすぐに喧嘩になる。


喧嘩になれば、最後は力の強い者が勝つ。




だから礼儀は必要だ。




でも、新渡戸の言葉は、その先を言っていた。




礼儀だけでは足りない。


そこに信実と誠実がなければ、茶番であり、芝居である。




きれいな会議室。


正しい言葉。


丁寧な手続き。




それらは必要だ。




でも、そこに本当に相手の暮らしを残そうとする誠実さがなければ、ただの上手な芝居になる。




僕は急に、ヨハンの顔を思い出した。




いや、顔なんてまだちゃんと決めていない。


僕が勝手に作った人物だ。




でも、彼がジュネーブの会議室で感じていた違和感は、たぶんこの言葉に近い。




礼儀正しい場所ほど、少し怖い。




みんなが丁寧に話していると、何か大事なものまで丁寧に処理されてしまう気がする。




それは仕事でも同じだ。




丁寧なメール。


丁寧な説明。


丁寧な依頼。


丁寧なお断り。




正しい。


でも、正しいだけ。




第1話で書いたあの感覚が戻ってきた。




「……仕事の顔になってる」




妻が言った。




「え?」




「今、完全に仕事の顔」




「そう?」




「そう。なんか、眉間がシステム開発してる」




「眉間がシステム開発って何」




「知らない。そう見える」




僕は笑った。




でも、言われてみればそうかもしれない。




散歩に来たはずだった。


気分転換のはずだった。


なのに神社の掲示板で新渡戸稲造を見つけて、また物語の続きを考えている。




我ながら少し面倒くさい。




「これ、第4話に使えるかも」




僕が言うと、妻は深いため息をついた。




「やっぱり」




「やっぱり?」




「まず寝なさい」




「いや、でもこれめちゃくちゃ繋がるんだよ」




「そういう時こそ寝なさい」




「なんで」




「寝ても残ってるなら、本当に大事なことだから」




それは妙に説得力があった。




メモをしないと消えてしまうアイデアは、たぶん消えてもいいアイデアなのかもしれない。


いや、そんなことはない。


たくさん消えてきた。


絶対に消してはいけないアイデアも、たぶん何個か消した。




でも、寝ても残っているものには、たしかに少し信用がある。




僕はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。




写真を撮りたかった。


メモもしたかった。


この言葉をそのまま第4話に入れる方法を考えたかった。




でも、妻が横でこちらを見ていた。




「撮らないの?」




「撮る」




結局、撮った。




妻は笑った。




「そこは撮るんだ」




「忘れたら困るから」




「寝ても残るんじゃなかったの?」




「写真は別」




「都合いいね」




「人間だから」




そう言うと、妻は少しだけ笑った。




帰り道、僕たちはたいした話をしなかった。




明日の予定。


子どもの学校。


冷蔵庫に何が残っているか。


週末にどこか行くか。


そんな話をした。




そのどれもが、オーランド諸島とも、国際連盟とも、AIとも関係なかった。




でも、そういう関係ない話がないと、人は大きな話に飲み込まれる。




たぶん、物語にもそういう時間が必要なのだ。




全部の場面が意味を持ちすぎると、息が詰まる。




無駄な会話。


寄り道。


散歩。


冷めないうちに飲むコーヒー。


ハッスルらーめん。




そういうものが、重い話を支えている。




家に戻って、僕はもう一度だけスマートフォンの写真を見た。




信実と誠実をなくしては


礼儀は茶番であり


芝居である




次のジュネーブの場面で、ヨハンはこの言葉を知らない。


たぶん、新渡戸のこの言葉にも出会わない。




でも、彼は似たものを見るはずだ。




礼儀正しい会議室。


整った言葉。


丁寧な手続き。




その奥に、本当に誠実さがあるのか。




それを見ようとするはずだ。




そして新渡戸は、たぶんそこにいる。




声を荒げずに。


刀も持たずに。


でも、茶番にしないために。




僕はスマートフォンを伏せた。




今度こそ寝ようと思った。




布団に入ると、さっきの神社の暗さが少し残っていた。


鳥居の向こうの石畳。


木の葉の音。


掲示板の紫色の紙。


妻の呆れた顔。




そして、新渡戸の言葉。




寝ても残っていたら、本当に大事なこと。




たぶん、残る気がした。




それが少し嬉しくて、少し困った。




翌朝、目が覚めると、最初に思い出したのは仕事のLINEではなかった。




礼儀は、芝居になることがある。




その一文だった。




僕は起き上がり、コーヒーを淹れた。




今度は、冷める前に飲むつもりだった。



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