第10話 世界はこの島をひとつだと思っていた
「だから、その旗を下ろせと言ってるんだ」
「なぜだ。ここでは昔から掲げてきた」
「今はフィンランドの領土だ」
「それで昨日までの暮らしが変わるのか」
朝の港に、男たちの声が響いていた。
漁を終えた小舟が岸へ戻り、濡れた網が引き上げられていく。木箱の中では、銀色の魚がまだ小さく跳ねていた。
魚の匂い。
海水に濡れた木の匂い。
網を引く男たちの息。
いつもの朝だった。
ただ、港の端に掲げられた旗の下だけ、昨日までとは違う空気が流れていた。
ラーシュは、破れかけた網を膝の上に広げ、太い指で結び目を直していた。
「朝からよくやるな」
男の一人が振り返る。
「これは島の将来に関わる話だ」
「そうかい」
ラーシュは木箱の中から魚を一匹持ち上げた。
尾をつかまれた魚が、わずかに身体を反らせる。
「こいつは、どっちの国へ行きたいんだろうな」
「ふざけるな」
「魚に聞いただけだ」
「今は魚の話をしているんじゃない」
ラーシュは魚を箱へ戻した。
「魚の話をしないなら、港でやるな」
「お前には分からないのか。これは島の意思の問題なんだ」
「島の意思ねえ」
ラーシュは再び網へ目を落とした。
切れた箇所へ紐を通し、強く引く。
「国の話で魚が売れるなら、俺も少しは聞くんだがな」
「本件は、北欧秩序全体に関わる重大な問題であります」
高い天井の下に、代表者の声が響いた。
長机の上には地図と資料が広げられていた。
島の位置。
人口。
言語。
航路。
軍事上の重要性。
小さな群島の周囲を、数字と線が取り囲んでいる。
ヨハンは代表者の言葉を速記した。
北欧秩序。
その下に、重大な問題。
ペンは止まらなかった。
「この問題を、一地域の帰属問題としてのみ捉えることはできません」
別の代表者が資料をめくる。
「ここで示される結論は、周辺諸国の安全と、今後の国際協調にも影響を与えるでしょう」
周辺諸国の安全。
国際協調。
ヨハンは、その言葉も書いた。
書かれていることに誤りはなかった。
島は海上交通の要衝に位置している。
どの国に属するのか。
武装を認めるのか。
自治をどこまで保障するのか。
どれも小さな問題ではない。
地図の上では。
*
「おはよう、ラーシュ!」
坂道から、少年の声が飛んできた。
鞄を斜めにかけたマッティが、息を弾ませながら港へ下りてくる。
「おう。今日は学校へ行くのか」
「行くよ。昨日は母さんが休めって言っただけだ」
「そうか。先生に忘れられてなくてよかったな」
「忘れられるわけないだろ」
マッティは得意そうに胸を張った。
背後で、男たちの口論が続いている。
「島の意思を無視するのか」
「お前一人が島の意思なのか」
マッティが振り返った。
「島の意思って何?」
「学校に遅れないことよりは、つまらない話だ」
「じゃあ、聞かなくていい?」
「今はな」
「帰ってきたら教えて」
「覚えていたらな」
マッティは港の時計を見た。
「あっ」
そのまま走り出し、途中で一度振り返った。
「帰りに寄るから!」
「魚を一匹買って帰れ!」
「お金ないよ!」
「なら見るだけにしろ!」
マッティは笑いながら坂道を駆け上がっていった。
ラーシュは、その背中が見えなくなるまで目で追った。
旗は朝の風を受けて揺れていた。
男たちは、その下でまだ「島の意思」について話していた。
*
学校では、エリンが出席簿を開いていた。
「アンナ」
「はい」
「カール」
「はい」
「マッティ」
「はい!」
返事が大きすぎて、教室に笑いが起きた。
エリンも笑った。
「今日は元気そうですね」
「昨日も元気だったよ」
「元気でも休む日はあります」
「母さんにもそう言われた」
また子どもたちが笑った。
授業が始まれば、教室はいつも通りだった。
足し算を間違える子がいた。
読み方の分からない言葉を尋ねる子がいた。
マッティは隣の子に消しゴムを貸し、そのまま返してもらうのを忘れた。
窓の外を海鳥が横切るたびに、何人かの視線が黒板から外れた。
午前の授業が終わると、子どもたちは一斉に校庭へ飛び出した。
エリンは教室に残り、机の上の紙を揃えていた。
窓の外から、子どもたちの声が聞こえてくる。
「お前が鬼だ!」
「なんで僕なんだよ」
「フィンランド人だから!」
「違うよ。僕はスウェーデン人だ!」
「じゃあ、あっちへ行け!」
笑い声が上がった。
エリンの手が止まった。
窓を開ける。
「その言葉は、人を分けるために使うものではありません」
「島民の民族意識は、すでに明確であります」
代表者は、資料から顔を上げた。
「言語、文化、歴史的な結びつき。いずれを見ても、その意思に疑いの余地はありません」
ヨハンは速記帳に書いた。
島民の民族意識。
明確。
ペン先が、ほんの少し止まった。
止まったというほどの時間ではなかった。
インクが紙にわずかに滲み、「明確」という文字の右側に、小さな余白ができただけだった。
「もちろん、島内にさまざまな意見が存在することは承知しています」
代表者は続けた。
「しかし、全体の傾向を判断する上で、例外的な声を過度に重視することも適切ではありません」
全体の傾向。
例外的な声。
ヨハンは書いた。
議論は整っていた。
資料には数字がある。
請願書には署名がある。
新聞には主張がある。
そこから全体の傾向を読み取ることは、必要な仕事だった。
ヨハンのペンは再び動き始めた。
*
「どうして?」
校庭で、マッティがエリンを見上げていた。
さっきまで笑っていた子どもたちも、窓の下へ集まっている。
エリンは窓枠に手を置いた。
フィンランド人。
スウェーデン人。
大人たちは毎日のように使っている。
新聞にも書かれている。
港でも、店でも、食卓でも聞こえてくる。
子どもたちは、ただ覚えただけなのだ。
意味を理解したわけではない。
誰かを傷つけようとしたわけでもない。
覚えた言葉を、そのまま遊びの中へ持ち込んだ。
「鬼を決めるために使う言葉ではないからです」
「じゃあ、何に使うの?」
別の子が尋ねた。
エリンは少し考えた。
「人が、自分のことを話すときに使うことがあります」
「先生はどっち?」
エリンは答えようとした。
けれど、校庭の反対側から声が飛んだ。
「早く始めようよ!」
子どもたちは、もう問いを忘れて走り出していた。
今度はじゃんけんで鬼を決める。
マッティが負けた。
「先生、じゃんけんで負けても人を分けてるよ」
エリンは思わず笑った。
「それは構いません」
マッティは仲間を追いかけて走り出した。
子どもたちは、もう別のことを考えていた。
エリンだけが、しばらく窓辺に残っていた。
*
学校が終わると、子どもたちは坂を駆け下りた。
港へ向かう道は、彼らにとって遊び場の続きだった。
石を蹴る。
塀の上を歩く。
誰が一番早く海へ着くかを競う。
マッティは先頭を走っていた。
「待てよ!」
「遅い方が悪い!」
「鞄を持ってるからだ!」
「僕だって持ってる!」
港が見えてきた。
朝よりも人が増えていた。
旗の周囲に男たちが集まり、互いに声を張り上げている。
旗を下ろそうとする者。
それを止める者。
言い争いを見守る者。
少し離れた場所には、腕を組んだ女たちが立っていた。
ラーシュは魚を並べる手を止め、男たちの間へ入った。
「もうやめろ。朝から何時間やってる」
「お前には関係ない」
「港で騒いで魚が売れなければ関係ある」
「まだ魚の話をしているのか」
「少なくとも魚は、殴り合いを始めない」
一人の男が旗の紐を引いた。
別の男が、その腕をつかむ。
「触るな!」
「この旗を掲げることが、島の意思だ!」
「勝手に決めるな!」
子どもたちは足を止めた。
さっきまで走っていた勢いが消えた。
マッティは、港の端から人だかりを見つめた。
朝よりも声が怖かった。
何を争っているのかは分からない。
どちらが正しいのかも分からない。
ただ、誰かが誰かを嫌っていることだけは分かった。
ラーシュが振り返った。
「おい、子どもが見てる」
「子どもの未来の話をしてるんだ!」
「現地の感情は、概ね安定しているものと考えられます」
代表者は、落ち着いた声で述べた。
「一部に感情的な対立が見られるとの報告もありますが、治安上の重大な懸念を示すものではありません」
ヨハンは書いた。
現地の感情は安定。
ペンが止まった。
代表者は次の資料へ手を伸ばした。
「行政機能は維持され、住民生活にも大きな混乱は生じておりません」
行政機能。
住民生活。
重大な混乱なし。
ヨハンは、自分が書いた「安定」という文字を見つめた。
誰にも気づかれないほど短い時間だった。
書かれていることに誤りはなかった。
役所は開いている。
学校も動いている。
漁も続いている。
大規模な暴動が起きているわけでもない。
報告書の上では、生活は維持されていた。
「したがって、我々は個別の出来事に左右されるのではなく、長期的かつ合理的な判断を行う必要があります」
個別の出来事。
長期的。
合理的。
ヨハンは発言どおりに書き続けた。
*
港では、人の輪が大きく揺れた。
男の肩が別の男にぶつかる。
押し返される。
旗を支えていた木の棒が傾いた。
「危ない!」
ラーシュが手を伸ばした。
後ろにいた男がよろけ、子どもたちの方へ倒れ込んだ。
マッティは避けようとした。
けれど、背後に積まれた木箱へ足を取られた。
乾いた音がした。
鞄が地面へ落ちる。
マッティの身体が、石畳の上に倒れた。
一瞬、港から声が消えた。
マッティは何が起きたのか分からない顔をしていた。
ゆっくりと額に手を当てる。
指に赤いものがついた。
それを見た途端、泣き声を上げた。
「マッティ!」
ラーシュが駆け寄った。
男たちは動かなかった。
傾いた旗だけが、風に煽られていた。
*
母親は、知らせを聞いて走ってきた。
息を切らし、髪も乱れたまま、人だかりをかき分ける。
「マッティ!」
「母さん」
額の傷は深くなかった。
ラーシュが布を当て、血もほとんど止まっていた。
それでも母親は、息子を強く抱きしめた。
「痛い?」
「少し」
「頭は?」
「分からない」
「分からないって何」
「びっくりしただけだ」
ラーシュが言った。
「医者に見せた方がいい。大きな怪我ではないと思うが」
母親は頷いた。
マッティの顔を両手で包み、何度も確かめるように見た。
周囲の大人たちは、まだその場にいた。
誰も旗に触れようとはしなかった。
ラーシュが立ち上がる。
「あんな小さな子まで巻き込んで、こんな争いに何の意味があるんだ」
返事はなかった。
一人の男が目を伏せた。
別の男は何かを言いかけ、口を閉じた。
誰も自分が悪いとは思っていなかった。
誰もマッティを傷つけようとはしていなかった。
島のため。
未来のため。
子どものため。
その言葉を、誰も口にできなくなっていた。
マッティの母親は、息子の肩を抱いたまま言った。
「どこの国でもいい」
声は大きくなかった。
けれど、港にいた全員に聞こえた。
「この子だけは守りたい」
旗が風に鳴った。
誰も、その布を見なかった。
*
夕方、ラーシュは売れ残った魚を木箱へ戻していた。
いつもより、箱を置く音が大きかった。
近くにいた客が言った。
「今日のことは、すぐ広まるな」
「広まって、また誰かが都合よく使う」
「お前はどちらなんだ」
「何が」
「フィンランドか、スウェーデンか」
ラーシュは魚の尾をつかみ、箱の中へ放り込んだ。
「魚はスウェーデン語もフィンランド語も話さねえよ」
「人間の話をしてる」
「俺は魚屋だ」
客は苦笑した。
「答えになってない」
「答えなきゃ魚が腐るのか」
ラーシュは箱の蓋を閉めた。
その手は、まだ少し震えていた。
*
マッティの父は、食卓で新聞を畳んだ。
額に巻かれた白い布を見て、何度目かのため息をついた。
「本当に頭は痛くないのか」
「大丈夫だって」
「気持ちは悪くないか」
「悪くない」
「目は回らないか」
「回らない」
「少しでも変だったら言うんだぞ」
「母さんにも百回言われた」
「百回は言ってない」
母親が濡らした布を絞りながら言った。
マッティはパンをちぎった。
「学校、明日行っていい?」
「休みなさい」
「もう大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかは、あなたが決めることじゃありません」
「僕の頭なのに?」
父親は笑いかけて、すぐに真顔へ戻った。
窓の外には、港の旗が小さく見えた。
「遠くで決まることほど、近くに落ちてくる」
父親は独り言のように言った。
母親は手を止める。
「国なんて、あの子が大きくなってから選べばいいのよ」
「選べるのならな」
「選べるようにするのが、大人の仕事でしょう」
父親は答えなかった。
マッティは二人の顔を交互に見た。
「何を選ぶの?」
「今はパンを食べなさい」
母親が言った。
マッティは肩をすくめ、口いっぱいにパンを入れた。
*
エリンは、誰もいなくなった教室で黒板を消していた。
子どもたちが休み時間に書いた文字が残っている。
フィンランド人。
スウェーデン人。
その間に、一本の線が引かれていた。
誰かが陣地分けのつもりで書いたのだろう。
エリンは黒板消しを強く押し当てた。
白い粉が舞った。
文字は薄くなった。
もう一度消す。
フィンランド人の「フィ」が消え、スウェーデン人の「人」だけが残った。
さらに手を動かす。
最後には、何も読めなくなった。
けれど斜めから見ると、文字の跡がうっすら浮かんでいた。
エリンは黒板消しを置いた。
教室の奥にあるマッティの席を見る。
机の横には、置き忘れた消しゴムが落ちていた。
拾い上げ、机の上に置く。
そのあと職員室へ戻り、学校日誌を開いた。
日付を書く。
天候を書く。
出席人数を書く。
授業内容を書く。
いつもと同じ欄だった。
本日、児童マッティが港付近にて転倒。
そこまで書いて、ペンを止めた。
大人同士の口論に巻き込まれたものと思われる。
事実だけを書くなら、それで十分だった。
傷は軽い。
医師の診察を受けた。
明日は休む予定。
エリンは、その下に何かを書こうとした。
港で何が起きたのか。
子どもたちが何を見たのか。
マッティが、なぜ泣いたのか。
どれも学校日誌に書くことではない気がした。
一度、ペンを置いた。
窓の外は暗くなり始めていた。
朝、校庭で聞いた声を思い出す。
お前はフィンランド人だから鬼だ。
違うよ。僕はスウェーデン人だ。
子どもたちは笑っていた。
エリンは再びペンを取った。
日誌の最後に、一行だけ書き加えた。
子どもたちは、自分で選んだわけではない言葉を覚え始めている。
しばらくその一文を見つめた。
消さずに、日誌を閉じた。
*
会議が終わると、代表者たちは資料を集め、互いに短い挨拶を交わした。
「続きは明日にしましょう」
「追加の統計資料を用意します」
「現地報告の確認も必要です」
椅子が引かれ、靴音が遠ざかっていく。
ヨハンは席に残り、速記帳を見返した。
今日だけで何度も書いた言葉が並んでいる。
島民。
民族意識。
自治。
安定。
秩序。
どれも発言どおりだった。
書き間違いはない。
どの言葉にも意味がある。
どの言葉も、議論には必要だった。
ヨハンは一つずつ確認し、必要な箇所に印をつけた。
島民。
その文字の下に、また島民。
別の頁にも、島民。
同じ言葉が、少しずつ違う文章の中に置かれている。
ヨハンのペンが、「島民」という文字の横で止まった。
何も書き足さなかった。
速記帳を閉じた。
*
事務局の机には、各地から届いた資料が積まれていた。
行政報告。
住民の請願書。
新聞記事の翻訳。
学校や教会から寄せられた記録。
その中に、島の学校日誌を含む薄い報告書があった。
まだ封を切られていない。
係員は書類の束を運び、新渡戸の机の端へ置いた。
「現地からの追加資料です」
「ありがとうございます」
新渡戸は顔を上げたが、すぐには手を伸ばさなかった。
窓の外では、ジュネーブの夕暮れが建物の壁を淡く染めていた。
廊下から、会議を終えた者たちの声が聞こえる。
「明日も、島民の意向について議論を続けましょう」




