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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第23章「腐らない金属」

王女セレネが解放された日から、ふた月。


ライン・カラの漁港に、長く待たれていた人物が、ひとり、戻ってきた。


ミラ。


漁師ギルドの受付嬢。


帝国に拉致されてから、ちょうど6か月ぶりの帰郷だった。


ミラを連れ戻したのは、ボルクが手がかりを掴んでいた、北街道の裏稼業の男たちだった。


ボルクは海戦のあと、ライン・カラの漁師ギルドの引退準備を進めながら、片手で北街道の伝手(つて)をたどり続けていた。男の伝手は、若い頃に商船に乗っていた時代に作ったものが多かった。50年生きてきた老漁師の人脈は、海の上だけでなく、陸の裏側にも、深く張り巡らされていた。


男たちは闇市の元締めとも繋がりがあり、ある程度の銭で動かすことができた。ボルクは、ライン・カラの古老7人に頼み込み、漁港の蓄えから、銀貨数百枚を集めた。それを北街道に流した結果、ミラの居場所が、帝国の小さな辺境街道沿いの宿屋であることが、半月前に判明した。


救出は、深夜、ひっそりと行われた。


銀貨が、見張りの目をひとつずつ閉じさせた。


ミラは、寝間着のまま、宿屋の裏口から、馬車に乗せられた。


──そして6か月ぶりに、海の匂いを、嗅いだ。


馬車が国境を越えて、塩の匂いが車内に流れ込んだ瞬間、ミラは、両手を、自分の口に当てた。声を出さないように、必死に、口を押さえた。


馬車の中で、ミラは、ひと言も口を利かなかった。


6か月のあいだ、何があったかを、誰も訊かなかった。


訊かないのが、漁師の流儀だった。


ライン・カラの漁港で、ミラは、ボルクと、ジルと、それからリョウに、迎えられた。


ミラは、漁港の桟橋で、海を見て、しばらく立ち尽くした。


海の色は、6か月前と、まったく同じ色だった。


海鳥の声も、潮の匂いも、6か月前と、まったく同じだった。


──変わったのは、ミラ自身だった。


けれど、変わった自分を、海は、何も言わずに、受け入れた。


ミラは、ようやく、リョウに、頭を下げた。


「リョウさん」


「ミラ」


「お久しぶりです」


「ああ」


「私、戻ってこれました」


「ああ」


ミラは、それ以上、何も言わなかった。


リョウも、それ以上、何も訊かなかった。


桟橋の板は、海風で湿っていた。波の音が、桟橋の下で、低く繰り返されていた。誰も急がせなかった。漁港の時間は、いつも、人間の事情に合わせて、ゆっくり流れた。


ボルクは、ミラの肩に、片手を置いた。


ジルは、ミラに、新しいギルドの制服を、差し出した。


古い制服は、たぶんもう、着られないだろう、と、漁師たちは判断していた。


新しい制服は、紺色の、簡素な、けれど丁寧に縫われた一着だった。


ミラは、それを、両手で、受け取った。


制服の生地に、ミラの指が、軽く食い込んだ。


6か月のあいだに、男の手で何度も握られた、その指だった。けれど、いま、その指が、自分の意志で、自分の制服を握っていた。


それは、小さな違いに見えて、ミラにとっては、世界が変わるくらいの違いだった。


王宮では、王太子マルコスが、リョウに、爵位の授与を打診していた。


「リョウ・キジマを、男爵に叙する」


王太子の声には、すでに決まった話を伝えるだけの、簡潔な響きがあった。


マルコスは、玉座の脇で、リョウに告げた。


「貴殿の功績は、王国を救った。それに見合う身分を、王家として、与える」


リョウは、深く頭を下げた。


「殿下、ご厚情、痛み入ります。けれど、辞退させていただきたく」


「辞退?」


「俺は、漁師です。漁師は、爵位を持たない方が、仕事がやりやすい」


マルコスは、しばらく考えた。


やがて、王太子は、深く頷いた。


「分かった。爵位は、辞退を受け入れる。代わりに、別の役職を提案したい」


「は」


「『漁師ギルド技術改革総監』。王国全土の漁師ギルドの技術改革を、貴殿が指揮する。王国海軍の艤装(ぎそう)、結界の維持、犠牲陽極の交換、そして地方の漁師町の振興。すべてを、貴殿の判断で、進めてよい」


「殿下」


「貴殿の好む流儀で、王国を、変えてよい」


リョウは、長く考えた。


やがて、頷いた。


「お引き受けします」


「条件はあるか」


「ひとつだけ」


「言え」


「ライン・カラに、本拠を置かせてください。王宮には、必要に応じて、上京します」


リョウの声は、淡々としていた。


王宮の格式に染まる気は、最初から、なかった。


マルコスは、深く頷いた。


「許す。ライン・カラと王都を、自由に行き来してよい」


「ありがとうございます」


半年後、王女セレネが、王太子マルコスを伴って、ライン・カラを訪れた。


王女は、王女の身分のまま、けれど、簡素な平服に身を包んでいた。


馬車を降りた王女は、漁港の桟橋に立って、しばらく、海を見ていた。


王女の靴は、王宮では履かない、平民の女性向けの簡素な革靴だった。海風で乱れる前髪を、王女は、20歳になって初めて、自分で押さえた。


「リョウ殿」


「王女様」


「これが、ライン・カラの海ですね」


「はい」


「思っていたより、もっと、青いです」


王女は、白い指で、海面を指した。


「あれは、何ですか」


「海鳥です」


「あれは」


「漁師の小舟です」


「あれは」


「ヘラ・ロッタ二世号、ボルクの船です」


王女は、ひとつひとつ、ライン・カラの景色を、リョウから教わった。


王太子マルコスは、その後ろで、無言で、海を見ていた。


やがて、王太子は、低く呟いた。


「セレネ、王宮の窓から見える海と、ここの海は、別の海だな」


「ええ、お兄様」


「まるで、別の国にいるようだ」


「ええ」


兄妹は、しばらく、無言で、海を見た。


漁師ギルドの作業場では、ジルが、新しい責任者として、若手漁師たちに、二重蛙股結びを教えていた。


ジルは、リョウから受け取った網針を、ベルトに差していた。


教える姿勢は、半年前のリョウと、よく似ていた。


ジルは、若手漁師たちに、声を荒げない教え方を、自然に身につけていた。半年前まで「電気腐食ぅ?」と他人を嘲笑する若手だった男が、いまは、嘲笑されない作業場の空気を、自分の手で作っていた。


教えるとは、自分が変わったことを、若い世代に伝えることだ、と、ジルは最近、ボルクに言っていた。


ボルクは、漁師ギルドを、引退していた。


老漁師は、いまは、孫の世話をしながら、たまに、若手漁師の質問に、低く答えるだけだった。


──「教えるのは、若い奴の役目だ」、と男は言った。


──「俺はもう、海に出る回数より、家に居る回数の方が多くていい」


漁師たちは、それを、当然のこととして、受け入れた。


50年海に出てきた老漁師が、引退を選ぶのは、ライン・カラでは、自然な流れだった。


王宮では、神官長アーシェが、新しい契約陣の維持責任者として、地下の塊の状態を、毎日、確認していた。


神官長は、500年で初めて、王女の代わりに、金属を見守る役目に就いていた。


神官は、もう、人間を犠牲にしなかった。


神官は、これからも、人間を犠牲にしないだろう、と、アーシェは誓った。


神官長は、毎朝、地下の塊の前に、白い祭服のまま、座って、祈りを捧げた。祈りの言葉は、もう500年前の古語ではなかった。アーシェ自身が、新しい言葉で、ゆっくり、組み立て始めた、新しい祈りだった。


そして、ヴァルナハト帝国からは、ひとりの男が、亡命してきた。


亡命と言っても大げさな話ではなく、男はただ、ひとりで、国境を歩いて越えてきただけだった。


元・北方艦隊副官、ハインツ。


男は、提督鬼塚毅の死後、辞表を提出し、ロイクスフェルンを去り、3か月かけて、徒歩で、アルデロワ王国の国境を越えてきた。


男は、リョウの前に、深く頭を下げた。


3か月の徒歩の旅で、男の靴は底がほとんど抜け、外套には道中の泥が幾重にも染みていた。けれど目は、半年前に北方艦隊で命令を伝令に伝えていた頃と比べて、ずっと澄んでいた。


「リョウ殿」


「ハインツさん」


「私は、提督に仕えました。けれど、提督は、もう、いません」


「ああ」


「私は、これから、別の流儀で、生きたい」


「俺の下で、働くつもりですか」


「もし、お受けいただけるなら」


リョウは、ハインツの顔を、長く見た。


男の頬には、もう、震えはなかった。


けれど、震えていた頃の自分を、男はまだ、覚えているようだった。


「分かりました。漁師ギルドの、王国海軍との調整役を、お任せします」


「ありがとうございます」


「条件は、ひとつだけ」


「は」


「震えていた頃の自分を、忘れないでください」


ハインツは、深く頭を下げた。


「忘れません」


ライン・カラの作業場の屋根の下で、リョウは、片腕で、新しい亜鉛塊を削っていた。


王宮の地下に据えた巨大な塊は、これから30〜40年、ゆっくりと腐食していく。


けれど、ライン・カラの漁師の船底に取り付ける小さな塊は、いまも毎月、新しく削られている。


大きい仕事も、小さい仕事も、本質は、同じだった。


──ライン・カラの船底の小さな塊と、王宮の地下の巨大な塊は、規模だけが違う、同じ流儀の塊だった。


健気な金属を、誰かの代わりに、先に腐らせる。


漁師の流儀は、規模を変えても、変わらなかった。


削っているリョウの隣に、王女セレネが、しゃがんで、塊を覗き込んでいた。


王女は、ライン・カラに来てから、毎日、漁師たちの作業場を訪ねていた。


王宮の北の塔に閉じこもっていた20年を、王女は、ライン・カラで、ゆっくりと、取り戻そうとしていた。


「リョウ殿」


「王女様」


「私、思ったのですけれど」


「は」


「健気な金属というのは、本当に、健気なのでしょうか」


リョウは、削る手を、止めた。


「と、おっしゃいますと」


「健気な金属は、誰かの代わりに、腐ります。けれど、腐るとき、たぶん、自分が健気だとは、思っていない気がします」


「ああ」


「ただ、自分の役目を、淡々と、果たしているだけです」


「そうですね」


「それを、人間が、勝手に、健気と呼んでいる」


リョウは、わずかに、笑った。


「王女様、それは、漁師の答えと、同じです」


「と申しますと」


「漁師は、自分が健気だとは、思っていません。ただ、毎日、海に出て、網を引いて、魚を獲って、戻ってくる。それだけです」


王女は、深く頷いた。


「では、リョウ殿」


「は」


「健気でない人間が、健気でない金属を、健気でないまま、使っていくのが、これからの王国の流儀ですね」


「そうです、王女様」


王女は、初めて、20歳の女性らしい笑顔で、笑った。


笑顔は、王宮の北の塔では、絶対に見ることのできなかった種類の笑顔だった。3歳の頃、契約陣に置かれる前のセレネの笑顔が、たぶん、こういう感じだったのだろう、と、リョウは想像した。


海風が、王女の前髪を、わずかに揺らした。


リョウは、削っていた小さな亜鉛塊を、両手で、軽く包んだ。


健気な金属は、これからも、誰かの代わりに、淡々と腐っていく。


そして、その金属を作る人間も、それを使う人間も、淡々と、それぞれの役目を、果たしていく。


──俺は、もう、誰かの犠牲陽極ではない。


──第八海鵬丸の甲板で消費されていた頃の自分は、もう、戻らない。


──けれど、誰かの隣で、地味に、腐っていく仕事は、これからも、続く。


──それが、漁師の流儀だ。


リョウは、親指の付け根を、軽く擦った。


そして、片腕で、削る作業を、再開した。


片腕でも、削れるだけの仕事は、まだ十分にあった。


海の上では、漁師たちの小舟が、ゆっくりと、沖に向かって、出ていく。


海鳥が、低く、舞う。


潮の匂いが、強く、流れる。


ライン・カラの一日が、また、淡々と、始まる。


そして、ライン・カラの一日が、また、淡々と、終わる。


そして、その淡々とした日々の積み重ねが、いつか、王国の歴史の、一番下の層に、健気でない金属の塊として、静かに、残り続けるのだろう。


名前は、たぶん、誰の記憶にも残らない。


けれど、塊は、地下で、残る。


漁師の流儀は、それで、十分だった。

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