グッドバイ、重力
「うわっ、ひどいなこれ。おい、息はあるか!?」
「いや、ダメだ……即死だろう。運転席がダッシュボードごと完全にひしゃげてる。脈も取れない」
雨の降る深夜の国道。けたたましいサイレンの音と、赤色灯の毒々しい光の明滅が、濡れたアスファルトを舐めるように照らし出している。
黄色い雨合羽を着たレスキュー隊員たちが、大型トラックの下敷きになった青いコンパクトカーを囲み、怒鳴るように声を掛け合っていた。油圧カッターがひしゃげた金属を切り裂く甲高い音が、夜の静寂を容赦なく切り裂き、周囲に火花を散らしている。
遠巻きには、傘をさした数人の野次馬がスマホを掲げ、不謹慎にもこの凄惨な現場を撮影していた。
俺はそんな大惨事の光景を、地上から約五メートルほど「浮いた」場所から、ひどく冷静な気持ちで見下ろしていた。
「あーあ、先月納車されたばっかりだったのにな、あの車」
残価設定型クレジットで無理して買った、念願の新車だった。ローンはあと四年と十一ヶ月も残っているはずだ。それにしても、あんなアルミホイルのゴミみたいにペシャンコになるなんて。
レスキュー隊員がバールでこじ開けたドアの隙間から、血まみれになってぐったりとエアバッグとハンドルに挟まれている男の横顔が見えた。三十四歳、万年平社員。安いスーツを着て、数日風呂に入っていないせいで髪は脂ぎり、目の下には消えない濃いクマを作った男。
まぎれもない、俺自身だった。
記憶ははっきりしている。
連日続く深夜残業、というより三日連続の徹夜明け。ブラック企業という言葉すら生ぬるい、狂ったようなノルマとパワハラが横行する職場からようやく解放され、這うようにして車に乗り込んだのが午前二時。
ブラックコーヒーとエナジードリンクを胃に流し込み、無理やり目を見開いてハンドルを握っていた。だが、睡魔というよりは肉体の限界だったのだろう。一瞬だけ意識が途切れた。
ハッと目を開けた瞬間、対向車線をはみ出してきた居眠り運転の大型トラックの、巨大なフロントグリルと暴力的なまでのヘッドライトの光が目の前に迫っていた。
ブレーキを踏む暇すらなかった。
凄まじい轟音。全身の骨が粉々になるような衝撃。
だが、痛みを感じたのはほんの一瞬、コンマ数秒のことだった気がする。いや、痛みというよりも「強烈な圧迫感」という程度だったかもしれない。
視界がぐらりと反転し、全身が水の中に放り込まれたような無重力感に包まれたかと思うと、気づけば俺は宙に浮き、自分の無惨な死体を見下ろしていたのだ。
「……そっか。死んだのか、俺」
俺は空中に漂ったまま、自分の手のひらを目の前にかざしてみた。
街灯と赤色灯の光が、半透明になった俺の手をなんの抵抗もなくすり抜け、下のアスファルトを照らしている。血管も、指紋も見えない。ただぼんやりとした輪郭だけがある。
試しに左手で右腕を掴もうとしてみた。しかし、指先はスッと空気を掴むように右腕を通り抜けてしまった。まるでプロジェクターで映し出されたホログラムに触れようとしているみたいだ。
呼吸をしていない。胸に手を当ててみても、心臓の鼓動は全く感じない。
そもそも「息苦しい」という感覚が完全に消失している。
雨は相変わらず土砂降りで、俺の体を絶え間なく通り抜けていくが、冷たさも、服が濡れる不快感も一切ない。真冬の深夜だというのに、凍えるような寒さも感じない。
味覚も嗅覚もない。ガソリンの漏れる臭いも、血の臭いもしない。
それなのに、意識だけは異常なほどクリアだった。生きていたどんな時よりも、頭の中の霧が晴れ渡り、澄み切っている。
下では相変わらず、俺の「抜け殻」を引っ張り出そうと懸命な救助活動が続いている。誰かがブルーシートを持ってきて、野次馬の視線を遮ろうとしていた。
普通ならどうだろうか。三十代半ばという働き盛りでの突然の死。無念に涙を流し、理不尽な運命を呪い、遺された家族や友人のことを想って悲嘆に暮れるのだろうか。
だが、独身で両親もすでに他界し、恋人も友人と呼べる人間もいない俺の心を満たし始めていたのは、そんなお行儀のいい感傷とは全く別の、真っ黒で、しかし圧倒的なまでに純粋な感情だった。
――明日、朝イチの無意味な定例会議、出なくていいんだ。
――鬼みたいな部長の、唾を飛ばしながらの怒鳴り声も、もう聞かなくていい。
――たまりにたまった百件以上の未読メールも、もう返信しなくていいんだ。
――顧客からの理不尽なクレームも、終わりの見えないタスクも、全部。全部、チャラだ。
「……ふっ」
思わず、声にならない笑いが漏れた。
それは「ふふっ」「はははっ」と次第に大きな笑いへと変わり、やがて俺は宙に浮いたまま、お腹を抱えて笑い転げた。
「あははははは! 最高だ! 最高じゃないか……!!」
大爆笑だった。笑いすぎて涙が出そうだった(幽霊に涙腺があるのかは謎だが)。
社会の歯車としての義務、終わらないローン、理不尽な税金、人間関係の軋轢、慢性的な疲労、胃の痛み、万年睡眠不足。三十四年間、俺の肩にのしかかり、息の根を止めようとしていた泥のようなプレッシャーが、文字通り「消滅」したのだ。
俺を縛り付けていたすべての鎖が、トラックとの衝突によって木っ端微塵に粉砕された。
これほどの解放感があるだろうか。
俺の死体を引きずり出そうとしているレスキュー隊員には申し訳ないが、今の俺は、宝くじで十億円当てた人間よりも幸福感に満ち溢れていた。
ひとしきり笑い転げた後、俺はふと顔を上げた。
雨雲の切れ間から、ぼんやりと霞んだ月が顔を出している。
「さて、明日から仕事がないわけだけど……どうしようか」
ふと、学生時代の記憶が蘇った。
大学生の頃、バックパッカーの真似事をして世界中を旅してみたいと思っていた時期があった。旅行代理店でパンフレットを山のように集め、ウユニ塩湖の鏡のような水面や、グランドキャニオンの雄大な地層、オーロラが揺らめく極寒の空の写真を見ては、ため息をついていた。
「いつかお金が貯まったら」「いつか長期の休みが取れたら」。
そう言って先延ばしにし、就職氷河期の中でなんとか潜り込んだブラック企業で馬車馬のように働き続けた結果が、あのひしゃげた鉄の塊の中にある「結末」だ。
生きていた頃の俺には、時間も、金も、気力もなかった。
だが、今はどうだ。
「……行けばいいんだ。今から、どこへでも」
そうだ。幽霊になった俺には、お金はいらない。
飛行機のチケットも、煩わしい入国審査も、重たいバックパックも、パスポートもビザも必要ない。
どんなに歩いても疲労することはないし、お腹も減らないから食費もかからない。眠る必要がないから、ホテルや宿を取る必要もない。強盗に遭う心配もなければ、病気にかかるリスクもないのだ。言葉の壁すら、誰とも話さない(話せない)のだから関係ない。
究極の、完全無料の、無限の旅。
ただ、行きたい場所へ向かえばいい。この限りなく自由で、重力すら無視できる身軽な体で。
地球という巨大なテーマパークの、VIPフリーパスを手に入れたようなものだ。
試しに、俺は「もっと上へ行く」と頭の中で強く念じてみた。
すると、まるで水中を蹴って浮かび上がるように、体がふわりと上昇を始めた。
地上十メートル、三十メートル、五十メートル。
エレベーターのようなG(重力加速度)すら一切感じない。内臓が浮き上がるようなあの不快感もない。ただ、視界だけがぐんぐんと広がっていく。
下を見下ろすと、事故現場の赤色灯がすでに小さな点になっていた。
サイレンの音は完全に遠ざかり、やがてジオラマのように小さくなった街の灯りだけが眼下に広がっていく。深夜の街は、まるで光の粒を散りばめた基盤のようだ。
「すげえ……本当に飛べるんだ」
さらに意識を集中して、「速く飛ぶ」ことをイメージしてみる。
すると、飛ぶスピードは思いのままに加速した。まるで自分が一陣の風、いや、弾丸になったかのような凄まじい速度だ。
時速何百キロ、いや、マッハに達しているかもしれない。それでも、顔に風圧を感じることはなく、空気の摩擦熱も、風を裂く轟音も聞こえない。完全な無風、完全な無音の中を、俺の意識だけが猛スピードで空間を移動していく。
高層ビル群の天辺をあっという間に飛び越え、上空の分厚い雨雲の中へと突入する。
視界が真っ白な霧に包まれ、時折、雲の中で走る雷光が周囲を紫色に染め上げた。普通の人間なら雷に打たれる恐怖で縮み上がるところだが、俺には関係ない。電気すら俺の体をすり抜けていくだけだ。
そのまま数秒間、厚い雲の層を垂直に上昇し続けると――次の瞬間、視界がパッと開けた。
「うわぁ……」
思わず感嘆の声が漏れる。
分厚い雨雲を突き抜けた先、そこは完全に別世界だった。
眼下には、どこまでも続く真っ白な雲の海が広がっている。そして見上げれば、地上からは決して見ることのできない、澄み切った漆黒の宇宙と、こぼれ落ちそうなほどの満天の星々が瞬いていた。
大気の汚れや街の光害に邪魔されない、純粋な星の光。まるでプラネタリウムの中に放り込まれたかのようだ。
そして、東の空の果て。
そこが、ほんのりと赤紫からオレンジ色へとグラデーションを描いて染まり始めていた。
夜明けだ。
太陽の縁が雲海の向こうから姿を現すと、強烈な光の帯が世界を一直線に貫いた。
眼下の雲海が、一瞬にして純白から黄金色へと塗り替えられていく。光が波打ち、世界が目覚める瞬間。
網膜もないはずの目に飛び込んでくるその光景は、涙が出そうなほど、いや、心が震えるほど美しかった。
生きていた頃、毎朝死んだような顔をして乗り込んでいた満員電車の窓から見ていた、あのビル群に切り取られたくすんだ朝焼けとはまるで違う。
これが、本当の地球の姿なんだ。
「最高だ……本当に最高だよ」
俺は黄金色に輝く雲の海の上に、大の字になって寝転がるように浮かんだ。
ふかふかのベッドよりも、どんな高級ホテルのシーツよりも心地いい、究極の自由空間。
時間は、永遠にある。
疲れることのないこの体で、世界中のありとあらゆる絶景を、この目に焼き付けてやろう。
ハワイの透き通った海に潜って、ウミガメの背中に乗って(物理的には乗れないけれど)一緒に泳ぐのもいい。
深海一万メートルのマリアナ海溝の底まで沈んでいって、チョウチンアンコウを観察するのもいいだろう。水圧で潰れる心配もないのだから。
ヨーロッパの古城を、分厚い石壁をすり抜けながら探検するのもいい。
サハラ砂漠の上空を風に乗って漂い、エベレストの頂上に腰掛けて、誰にも邪魔されずに世界一の日の出を見るのもいい。
ピラミッドの内部構造を隅から隅まで覗き見するのも悪くない。
誰にも見られない。誰にも干渉されない。
お金も時間も、物理法則すらも関係ない。
「さて、まずはどこへ行こうか」
俺は雲の上でゆっくりと身を起こし、東の空で輝きを増す太陽に向かって大きく伸びをした。
三十代で死んでしまったのは、世間一般から見れば悲劇かもしれない。だが、俺にとっては、これが本当の「人生(生きてはいないが)」の始まりだ。
幽霊としての、初めての朝。
重力とタイムカードから卒業した俺の、地球全土をめぐる終わりのない「究極のタダ旅」が、今、最高の解放感とともに幕を開けた。




