第六話「リテイク」
沈黙が続く。答えはまてども返ってこない。ただ彼は、困ったように立ち尽くすだけだった。
「なんとか言えよ」
「……あ、えっと」
エイドリアンは手指を遊ばせながら床へ視線を逸らす。また数秒おいてから顔を上げると言った。
「レス、それは……貴族の間ではどういった意味の冗談なんだ?」
冗談と投げ打つのが愚かなほど真っ直ぐな瞳だった。動揺すら感じられる。
当てが外れたのだろうか?
「……お前は、最近……あー……」
言葉に詰まる。これ以上の詮索に意味があるのか、ないのかもわからないまま闇雲に言葉を探した。
「なんか、生意気だ」
苦し紛れに出した言葉は自分で思っていたよりもどこか情けなく響いた。自分の意思じゃどうにもならず思い通りに行かない全てに対して、不安が隠せなくなっていく。
エイドリアンの顔を直視できず、膝の上で震える手を見ていた。
「なんていうか……お前は! 俺に、逆らっちゃだめなんだ」
「そう……ですね? そうだと思います」
こちらの本意に気づいているのかいないのか、躊躇なく床に膝をつくと、俺の手を取って言った。
「怖がらせちゃったかな、ごめんね。君を陥れるつもりはないんだ」
そういう割に先ほどから一変して今度はひどく冷たい目をした。何を考えているのかわからない男に対して、初めて自分から肩でも蹴ってやろうかと思ってしまった。長い時間レスターと文字通り寝食を共にした結果か、暴力に正当性を見出しそうになる。
日に日に自分とレスターの境目が無くなっていくのがわかる。あるいは元々私たちに境なんてなくて、一つの魂が分裂してしまっただけだったのだろうか。
衝動は抑えられず、波のない水面のように微笑むエイドリアンを思い切り突き放した。わざとらしく床に尻餅をつく彼の腹に、理不尽とも八つ当たりとも言える蹴りを入れた。直後も口角を上げこちらを見上げるエイドリアンにうろたえ、ああ、もう。情けないったらありゃしない。
「馬鹿にするなよ……薄汚い野良犬のくせに」
声が震える。足に力は入っていなかった。
「大丈夫だよ、君のことは俺が守る。……だから」
「だから、もう……泣かなくても大丈夫」
そう言われて、頬を伝う雫の正体を理解した。必死に拭おうとすればするほど、目元は赤く惨めになっていく。弱さそのものを隠しきれなくなって、震える足に従って床に崩れ落ちた。
「レス」
エイドリアンに抱き留められ、ヒリヒリと痛む頬を拭い続ける腕を優しく奪われた。
彼の従順で慈愛に満ちた言葉は、レスターのこれまでの努力を全て否定しながら私の傷を焼き塞いだ。
「や……もう、やだ……」
舞台上のレスターを見放して、役から降りてもいいのだろうか。私だけが救われることがあってもいいのだろうか。
だって、私は……真にレスターを破滅へと追い込む悪役そのものだというのに。
エイドリアンの背に腕を回して、縋り付くように抱きしめた。噛み付く勢いの抱擁を、彼は一層暖かく受け入れた。
「もうやめたい……! したくない、こんなこと! したく」
瞬間、暗転する。次に視界が澄んだと思えば、私の身体はエイドリアンに全てを預けるように脱力していた。顎を伝う液体を袖で拭うと、上品なレースが赤く染まっていた。なんだろう、これ。……血? 血だ。あー、血を吐いたのか。
すぐ近くにあるエイドリアンの顔を、ぼんやりと見上げる。顔面蒼白で額に汗を浮かべたその表情は、レスターが拳を振り上げたときの物によく似ていた。
やっぱり、絆されていたんだな。
再びぼやけていく視界の中、神経が途切れてしまいそうな腕をエイドリアンの背中に回した。初めてしっかりと触れ合った気がする。私を抱きしめる腕は弱く震え、それでもしっかりと支えられていた。
案外整った頭の中で、絶たれた退路のことを考えていた。ネタバレ厳禁の制約は、転生モノではよく見かける設定だ。これも多分そういうことなのだろう。わかったよ、すみません。今度はちゃんとやるから……お願いします。
私、死にたくない……。
ひどい寝汗で、寝間着が肌に張り付く。あんなにも脳を侵した不安と混乱は、すでに意識の外だった。額を滑り落ちるのは、真っ赤な血液……ではなく、大粒の汗。
一体、あの場でなにがおきたっていうんだ?
ざわめいた心を振りほどくように、ベッドから足をおろした。めまいはなく、代わりに小さな違和感が一つ。
「あ……」
ベッドから床までの距離が遠い。歩幅も狭く、何度か転けかけた。この感覺には覚えがある。焦燥に背を押され、廊下へ続く扉を勢いよく開き、そのまま飛び出した。
「レスター様、どうされましたか?」
記憶よりも若々しいメイドが、慌てて私の身体を支える。現実感のない状況に浮遊感が襲って、足場を失ったかのような錯覚を受けた。
外ではまだ上りきっていない太陽が私を嘲笑うように燦々と輝いていた。
「はは、は……はははっ!」
思わず笑い声をあげて床へ倒れ込む。メイドはそんな私の身体を抱き上げ、冷たく抑揚のない言葉を口に出した。
「次は間違えないようにしてくださいね」
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