白い結婚の聖女は、祝福を返品する
「聖女セリア・ルムナ。貴様は祝福の横流しを企てた罪により、今この場で断罪される」
寝室の扉が蹴り開けられたのは、私が花嫁衣装の裾をたたんだ、その瞬間だった。
王都の夜は寒い。けれど、それ以上に冷たいのは神官たちの視線だ。ろうそくの火が揺れ、金の刺繍をまとった高司祭ヴォルグ・セラスが、まるで獲物を品定めするみたいに私を見下ろしている。
「……本日は、私の婚礼の夜です。罪の話なら、明日に――」
「黙れ。おまえの口は、祈りのためにある」
言葉を切り裂くように、鎖の音が鳴った。神官が手にしているのは、分厚い紙束。そこに押された黒曜の封蝋を見た瞬間、私の心臓が一度、止まる。
その封蝋は、公爵家の印。
「夫君も了承済みだ。婚礼の儀は終わった。これからは徴税の時間だ、聖女」
徴税。祝福の徴税。癒やしの奇跡の代わりに、神殿が貴族から金を取る仕組み。そこに、私は今日から道具として組み込まれる。
「――セリア」
低い声が、神官たちの背後から落ちた。
黒い外套。月のない夜の色をそのまま切り取ったような男。私の夫、アデルヴァン・ノクティス。黒曜公と呼ばれる公爵。
彼は私と目を合わせない。笑わない。怒りもしない。
ただ、手にした鎖付きの誓約書を机の上に置き、淡々と告げた。
「白い結婚だ。君には触れない」
私は、胸の奥がひゅっと縮むのを感じた。そういう噂は聞いていた。黒曜公は冷徹で、妻を娶るのは政治の駒のためだけだと。
「そして――」
彼は誓約書の白紙部分に指を置く。指先は手袋越しでも冷たい。
「君は聖女として祈れ。……それが、君が生きる最短だ」
生きる。
その言葉だけが、私の耳に残った。
次の瞬間、世界が裏返った。
『まただ。使い潰される。また、私の役目を他人が決める』
誰の声だろう。自分の声なのに、どこか遠い。
目の奥が熱くなり、記憶が洪水みたいに押し寄せた。
白い蛍光灯。スマホの明かり。終電。資料。上司の笑顔。
そして、過労で倒れた夜。「お疲れさま」の一言もなく、私は使い捨てられた。
……転生。
ここは、前世で読んだような西洋風の王国。聖女が祈りで国を支え、神殿がそれを管理し、貴族が金を回す。
そして私は聖女見習いとして囲われ、家にも神殿にも売られ、今夜、白い結婚を命じられた。
逃げ場はない。
けれど、前世の私が、ここで黙って潰れると思う?
誓約書の白紙が、ふっと光った。
それは優しい光ではない。冬の朝に、凍った水面が割れるときの、冷たく澄んだ光。
紙の上に、細い文字が浮かび上がる。
《嘘を言う者は、祝福に触れるな》
「……?」
高司祭が眉をひそめる。
アデルヴァンの瞳が、初めて私に向いた。無表情の奥に、わずかな緊張が走る。
「セリア、誓約書に触れるな」
止められたのに、私は笑ってしまった。笑うしかなかった。だって、私の中で何かが戻ったから。
私はゆっくりと誓約書に指先を置いた。
冷たい。けれど、嫌じゃない。
これは檻じゃない。鍵だ。
「高司祭さま。徴税の件、承知しました」
高司祭が勝ち誇ったように頷く。
「ならば今すぐ祈れ。おまえの奇跡で、今夜の祝福を生み出せ」
「はい。……ただし」
私は誓約書を指でなぞり、白紙に向かって言った。
「持ち主に返すだけです」
***
翌日から、私の生活は砂を噛むようだった。
公爵邸は豪奢で、絵画も銀器も、私の故郷の男爵家とは比べものにならない。なのに、私の部屋は外れ。窓は小さく、鍵は外からかけられる。
「聖女夫人。朝の祈りの時間です」
侍女長ミレイア・グリゼだけが、毎朝、少しだけ声を柔らかくしてくれた。
「……はい」
神殿へ連れていかれ、祈り、癒やし、祝福を流す。
倒れそうになっても、高司祭は言う。
「聖女ならできる。できぬなら価値がない」
私の身体は、奇跡を使うほど冷える。指先から血の温度が抜け、心臓の鼓動まで鈍くなる。
それでも、治したい人がいた。
泣いている子ども。苦しむ兵士。熱にうなされる老人。
私は祈って、触れて、光を流した。
そのたびに、妙なことが起きる。
癒やされた人の額に浮かんでいた、金色の聖紋が、すっと消えるのだ。
代わりに、遠くの礼拝堂で、リリアナ・ヴェルシェ聖女の冠が少しだけ曇るのを、私は見た。
リリアナは微笑む。慈悲深い、完璧な聖女の顔で。
「セリア。あなたも立派になりましたね。……私の代わりに、祈ってくれてありがとう」
その言葉が、喉に刺さる。
私の奇跡は、私のものなのに。私の祈りは、私の手から出たのに。
功績は彼女のもの。拍手も贈り物も、すべて彼女へ。
そして夜。
神殿の神官が公爵邸へやってきては、祝福の取り立てをする。
「この量では足りぬ。もっと祈れ」
高司祭は私の肩を掴み、耳元で囁いた。
「おまえの家族も救ってやっているのだぞ。ルムナ男爵家が首の皮一枚で残っているのは、神殿のおかげだ」
父の顔が浮かぶ。ルムナ男爵フェルム。私の涙を「女の武器」と笑った人。
婚礼前夜、彼は私にこう言った。
『セリア。家のために、良い嫁になれ。神殿に逆らうな。……おまえは、リリアナの邪魔をするな』
妹じゃない。リリアナは他家の娘だ。
それでも、父は私を売った。金と名誉のために。
私は、膝が笑うのを必死で止めた。
震えるのは、寒さのせいだと思うことにした。
***
「君は、祈らなくていい」
ある夜、神官を追い返した後、アデルヴァンが言った。
書斎の灯りは低く、彼の顔は影に沈む。私が机の上の誓約書を見つめていると、彼はゆっくりと手袋を外した。
その手の甲には、薄い傷が走っていた。
戦場の傷。公爵が監察として動くときについたもの。
「あなたの手、また……」
私が言いかけると、彼は一瞬だけ視線を逸らした。
「……触れない。だが、見過ごせもしない」
不器用な言葉。けれど、そこに嘘はない。
私は、胸の奥が痛いほど温かくなるのを感じた。
「なぜ、白い結婚にしたのですか」
聞くつもりはなかった。けれど、口が勝手に動いた。
アデルヴァンは沈黙し、やがて短く答えた。
「君を、神殿から引き離すためだ」
「引き離す……?」
「夫婦の寝室に神官が出入りするのは異常だ。だが、神殿は今、国の半分を握っている。正面からは切れない」
彼は私の方に向き直り、硬い声で言った。
「だから、契約にした。触れないと宣言し、君を消耗品として扱う連中から、最も分かりやすい口実を奪う」
触れない。白い結婚。
それは冷酷な拒絶ではなく、盾だった。
「……私を守るために?」
言葉にすると、少しだけ涙が滲んだ。恥ずかしくて、目を伏せる。
アデルヴァンは、手袋を握りしめた。
「誤解するな。私は、君を――」
言いかけて、止まる。言葉が見つからない人の沈黙。
その沈黙の中で、私は確信した。
この人は、私を道具と言わない。
たとえ顔が冷たくても、手が傷だらけでも、嘘を言わない。
「……なら、私も契約を使います」
私は誓約書を取り出した。鎖がちいさく鳴る。
「私の奇跡は、癒やしではありません」
アデルヴァンの眉が動く。ほんの少し。
「祝福は、誰かから奪って作るものじゃない。……私が癒やした分だけ、誰かの虚飾が剥がれるのは、そのせいです」
私は息を吸った。冷たい空気が肺に刺さる。
「私の奇跡は、奪われた祝福を持ち主へ返す。……返品です」
アデルヴァンは、初めて小さく笑ったように見えた。影のせいかもしれない。でも、私はその瞬間、胸がきゅっとなった。
「なら、返せ」
その言葉が、命令ではなく、願いに聞こえた。
「私と、君で」
***
大祭の日。
王都の中央広場は花で飾られ、礼拝堂の鐘が鳴り響く。民衆は聖女の奇跡を待ち、貴族は神殿の威光を誇る。
私は白い衣を着せられ、壇上へ引き立てられた。
「見よ、穢れた偽聖女を!」
高司祭の声が広場に響く。
「神殿騎士ロア・ハルバートと密通し、聖女の清廉を穢した! さらに祝福を横流しし、神殿の財を盗んだ!」
視線が突き刺さる。石を投げる手が上がる。
ロア騎士は遠くで拘束され、目だけで「違う」と訴えている。
違う。触れていない。密通なんて、ない。
けれど、誰も聞かない。
「セリア・ルムナ。貴様は処刑に値する」
壇の端に、処刑台の柱が立っているのが見えた。
身体の芯が凍る。前世の私なら、ここで折れていた。
でも、今の私は、誓約書を持っている。
「そして、ここで白い結婚の虚偽も正す!」
高司祭が声を張り上げる。
「黒曜公! 今この場で妻を抱け! 聖女の清廉を証明し、処刑の正当性を示せ!」
民衆がどよめく。
それは辱めの命令だ。抱かれたくない。抱かれることで神殿のものになる。
私の奇跡は、今夜、完全に奪われる。
アデルヴァンが壇上に上がる。
黒い外套が風に揺れ、彼の足音だけが静かに響いた。
「命令だ、公爵!」
高司祭が笑う。
アデルヴァンは私の前に立ち、処刑台から私を隠すように肩を広げた。
そして、低く言った。
「断る」
その一言で、空気が割れた。
高司祭の顔が歪む。
リリアナ聖女が、背後で微笑みを保ったまま、指先を震わせる。
「公爵、貴様――!」
「私は王国監察官だ。神殿の命令に盲従するためにいるわけではない」
アデルヴァンは、私ではなく、民衆を見た。
そして、初めて声を荒げた。
「この女は、私の妻だ。……触れないと誓ったのは、私だ。だが、守ると誓ったのも、私だ」
胸が痛いほど熱い。
私は、泣きそうになるのを堪えた。泣いたら負ける。ここで折れたら、また奪われる。
私はアデルヴァンの背中越しに、誓約書を掲げた。
鎖が鳴る。紙が風を吸う。
白紙が、眩しいほど光った。
「私の奇跡は癒やしじゃない」
声が、意外なくらい通った。
「奪われた祝福を、持ち主へ返す。……だから、嘘つきは祝福に触れないで」
高司祭が鼻で笑う。
「戯言を。聖女の奇跡は神殿のものだ。おまえが勝手に――」
「なら、書き換えましょう」
私は自分の指先を噛んだ。
赤い血が滲む。冷たいはずなのに、熱い。
誓約書の白紙に、血で文字を書く。
《触れない。だが、嘘にも触れさせない》
《祝福は、奪った者から取り上げ、持ち主へ返す》
書き終えた瞬間。
火花が散った。
誓約書から白い炎が立ち上がり、壇上の空気を焼く。熱いのに、焦げる匂いはしない。
それは祝福が怒っている匂いだ。
「なっ……!」
高司祭が後ずさる。彼の指輪の宝石が、ぱきりと割れた。
リリアナの冠が、音もなく崩れ落ちる。
「やめて! 私の、私の奇跡が――!」
リリアナが叫んだ。
叫んだ瞬間、彼女の周りにまとわりついていた金色の光が、まるで砂のように散った。
その光は、空へ消えない。
私の指先から流れ、広場の民衆へ、癒やされた人々へ、そして壇の片隅で震えるロア騎士へ戻っていく。
奪われていた祝福が、持ち主へ帰る。
「嘘だ……!」
高司祭が声を張り上げるほど、炎は強くなる。
誓約書に浮かぶ文字が、さらに増えた。
誰も書いていないのに、光の筆記体が勝手に走る。
《祝福横領の記録》
《金貨三千枚》
《病者の祈りを換金》
《聖女の名を騙る》
「……っ!」
高司祭の顔が真っ青になった。
民衆がどよめき、貴族の中から怒号が飛ぶ。
「高司祭、それは本当か!」
「我が子の治療代を……!」
そして、その時。
壇上の階段を、ひとりの男が静かに上がってきた。
白と金の衣。王弟フィオル・レイヴァン。
「騒がしいな」
たったそれだけで、広場が凍りついたように静かになる。
王弟は誓約書の文字を一瞥し、淡々と告げた。
「王国監察官アデルヴァン・ノクティスの要請により、神殿の会計はすでに押さえてある。……記録は一致した」
高司祭が崩れ落ちる。
「違う! これは、偽造だ! 聖女が――!」
「聖女は、君か?」
王弟の視線がリリアナに向く。
リリアナは口を開けたまま、声が出ない。
王弟は続けた。
「聖女の奇跡は、国のためにある。だが、国の道具ではない。ましてや君たちの財布でもない」
彼は私を見た。冷たい目ではない。裁く目だ。
けれど、その裁きは、私の首ではなく、嘘へ向けられている。
「セリア・ルムナ。君の契約は、白い結婚の保護権として認める」
息が詰まる。やっと、言葉が公になった。
「高司祭ヴォルグ・セラス。横領と人身売買の罪で拘束」
「リリアナ・ヴェルシェ。聖女の肩書きは剥奪する」
「ルムナ男爵フェルム。聖女売買の証拠により爵位停止」
父の名が呼ばれた瞬間、胸の奥で何かがすっと冷えた。
悲しみではない。諦めでもない。
決別だ。
***
夜。
公爵邸の廊下は静かで、遠くで風が窓を叩く。
私は自室に戻され、鍵は外からかけられなかった。
ミレイアがそっと言った。
「今日からここは、奥さまの部屋です。……本当に、お疲れさまでした」
涙が出そうになって、私は笑った。
前世でも、誰かに「お疲れさま」と言われたら、救われただろうに。
「ありがとう」
ミレイアが去った後、扉がノックされる。
「入ってもいいか」
アデルヴァンの声。
私は頷き、扉が開く。
彼は相変わらず黒い外套のまま、部屋の入口で立ち止まった。
踏み込まない。触れない。誓いを守っている。
けれど、彼の手には新しい誓約書があった。
鎖はない。封蝋は黒曜ではなく、白い蝋。
「……更新だ」
彼は差し出し、言葉を探すように一呼吸置いた。
「白い結婚は続ける。だが、檻じゃない。君が望むまで、誰にも触れさせない。私も」
私の喉が震える。
望むまで。その言葉が、契約ではなく、私への尊重だった。
「私が望んだら……?」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
自分で言っておいて、怖い。拒まれたらどうする。
アデルヴァンは、珍しく目を逸らさなかった。
「その時は」
彼は一歩だけ近づいた。まだ触れない距離。
でも、私の心臓はその一歩で十分に跳ねた。
「君の許可をもらってから、触れる」
胸が、ふわっと軽くなる。
こんな当たり前が、こんなに甘いなんて。
私は誓約書を受け取り、白紙に目を落とした。
そこには、すでに彼の文字があった。
《セリアを、セリアとして守る》
《聖女の名で縛らない》
「……あなた、不器用ですね」
思わず笑うと、アデルヴァンは眉を寄せた。
「悪いか」
「いいえ。……嬉しいです」
私は誓約書を胸に抱き、言った。
「私も、返金ばかりは嫌です。……これからは、贈りたい」
「何を」
「祝福を。あなたに」
言った瞬間、私の指先が少しだけ温かくなった。
奇跡が、奪い返すためではなく、誰かに渡すために動く。
アデルヴァンの喉が小さく動く。
「君は、聖女ではなく――」
「セリアです」
私が先に答えると、彼の口元がわずかに緩んだ。
それは笑顔と呼ぶには不器用で、でも確かに私だけに向けられたものだった。
彼は、許可を求めるように手を伸ばした。
私は頷き、自分から手を差し出す。
指先が触れる。
手袋ではなく、素手の温度。
熱い。
こんなに熱いのに、怖くない。
アデルヴァンは、私の手をそっと包み込んでから、甲に唇を落とした。
キスは短く、誓約のように丁寧だった。
「……これで、契約は成立だ」
「はい」
私は笑って、彼の手を握り返す。
***
翌朝。
庭の片隅に、枯れた花が一輪、残っていた。
昨日の大祭の飾りの残骸。捨てられるはずのもの。
私はしゃがみこみ、その花に指先を添える。
返すのではない。
奪い返すのではない。
「……おはよう」
そう言って、祈った。
淡い光が、花びらの芯に落ちる。
枯れたはずの色が、ゆっくりと戻り、茎が少しだけ持ち上がった。
背後で足音。
アデルヴァンが、外套も着ずに立っていた。
朝の光の中では、彼の黒は少し柔らかい。
「芽吹いたな」
「はい。……初めて、贈れました」
私が言うと、彼は私の手を取って、今度は躊躇なく口づけた。
「なら、これからは増える」
「何がですか」
「君が贈るものも。……君が笑う回数も」
胸がいっぱいになる。
私は花を見つめたまま、でも確かに頷いた。
白い結婚は、白紙の契約だった。
触れないという線引きは、私を守る境界だった。
そして今。
その白紙に、私の名前が書かれていく。
聖女ではなく、セリアとして。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。セリアとアデルヴァンの一歩を見届けてもらえて嬉しいです。
「奪われた祝福は返品し、名前は自分の手で取り戻す。」そんな物語でした。
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