第2部 第5章 残響の彼方 ―最後の祈り―
夜が明けきる前、風が変わった。
山を越えて吹く冷たい風が、どこかざわめくような音を立てている。
リオナはその気配に目を覚ました。
空の端で、黒い靄が渦を巻いていた。
「……この気配、まさか……」
彼女は立ち上がり、胸の聖印に手を当てる。
微かに震える。
世界の“祈り”が、また一つの方向へ引かれている。
そこへ、レオンとカイが駆け寄ってきた。
「先生、空が……!」
「見ている。あれは――“残響の暴走”だ」
サフィールが歩み寄ってきた。
すでにかつての黒衣は脱ぎ捨て、白い布で髪を結っている。
だが、その表情には深い後悔が刻まれていた。
「……私の実験が残した残響エネルギー。
祈りを数値化して封印した“虚ろの祈壇”が暴走している。
世界中の祈りが、あそこに吸い寄せられてる……」
「それが暴走すれば?」
レオンが問う。
「祈りが空に還る。
――神の再構築が起こるわ」
沈黙。
誰もが理解していた。
それは、かつて滅びをもたらした女神の再誕。
人類が再び“奇跡に支配される時代”の始まりだった。
リオナは顔を上げた。
「止めなきゃ。
でも……今度は私の力じゃ足りない」
その時、カイが一歩前に出た。
風の中で、少年の瞳が蒼く光る。
「先生、僕にやらせてください」
「カイ……?」
「僕の中の“記憶”は、祈りを形にする力。
でも同時に、祈りを終わらせることもできる。
もし、誰かが神を終わらせるなら――
それは、人である僕の役目だと思うんです」
リオナは息をのむ。
レオンが肩に手を置いた。
「……行かせてやれ。
あいつは、もう子どもじゃない」
リオナは震える唇を噛みしめ、頷いた。
「……行って。
でも、絶対に帰ってきて。
“祈り”は終わっても、“あなた”は終わらせないで」
――そして、虚ろの祈壇。
巨大な石造の円環が宙に浮かび、黒と白の光が交差している。
祈りの声が無数に響き、空が割れていく。
その中心に、カイが立っていた。
「……神よ。
あなたの願いは、もう果たされました。
世界は、あなたがいなくても祈れる」
少年の身体が光に包まれる。
女神の声が空に響いた。
「それでも、あなたは私を拒むのですか」
「拒むんじゃない。
受け継ぐんだ。
“祈り”を、人の手に!」
両手を広げる。
胸の紋章が輝き、世界中の祈りの糸が彼に集まる。
それは怒涛のような感情、願い、涙、笑顔――。
そしてカイは、全てを抱きしめるように微笑んだ。
「ありがとう。
あなたがいたから、みんな祈れた。
でももう、僕たちは歩ける。
だから――休んで」
光が爆ぜ、空が白く染まる。
轟音の中、女神の声が微かに囁いた。
「……人よ、どうか……生き続けて」
光が収束し、風が止んだ。
虚ろの祈壇は静かに崩れ落ち、カイの姿はそこに立っていた。
胸の紋章が淡く輝き、静かに消える。
数日後。
山を下りたリオナとレオン、そしてカイ。
村では人々が祈りを捧げていた――誰にではなく、互いのために。
リオナは微笑み、空を見上げた。
雲ひとつない青空。
もう女神の光はない。けれど、その代わりに無数の人の声があった。
「ねぇ先生。
神さまは……もういないのかな」
「ええ。でも、いいの。
だって、今は――私たちが神の役目をしているもの」
レオンが笑い、肩を組む。
「まったく、お前は相変わらず大きなことを言う」
「だって本当のことでしょう?」
カイはその二人を見て、小さく頷いた。
胸の奥にまだ残る“光”が、温かく脈を打つ。
(女神さま。
あなたがくれた祈りは、もう僕たちの中にあります。
だから――これが、最後の祈りです)
風が吹き抜け、花びらが舞う。
その風の中で、確かに誰かが微笑んだ気がした。
春。
アルステラの丘に、小さな花が咲いた。
あの日、カイが撒いた種だった。
その花は“神の象徴”ではなく、“人の希望”として人々に愛された。
子どもたちが花を摘み、リオナの学舎へ駆けていく。
「先生! 花、咲いたよ!」
リオナは微笑み、彼らを抱きしめた。
その隣で、レオンが穏やかな目をしている。
空の下で、カイが風を受けながら立っていた。
「……これが、祈りの果てに咲いた花か」
彼の掌の中、淡い光がまだ残っていた。
それはもう奇跡ではなく――ただの“人の温もり”だった。




